チャールズ・コーンウォリス
初代コーンウォリス侯爵 チャールズ・コーンウォリス Charles Cornwallis | |
---|---|
チャールズ・コーンウォリス将軍 トマス・ゲインズバラ画 | |
生誕 |
1738年12月31日 グレートブリテン王国 イングランド、ロンドン、グロブナー・スクェア |
死没 |
1805年10月5日(66歳没) ヴァーラーナシー藩王国、ガーズィープル |
所属組織 | イギリス陸軍 |
軍歴 | 1757年-1805年 |
最終階級 | 少将 |
戦闘 |
アイルランド反乱(1798年) |
除隊後 | インド総督、アイルランド総督 |
初代コーンウォリス侯爵チャールズ・コーンウォリス(英: Charles Cornwallis, 1st Marquess Cornwallis KG, PC、1738年12月31日 - 1805年10月5日)は、イギリス軍の将軍であり、世界各地植民地の総督を務めた。アメリカ合衆国とイギリスでは、アメリカ独立戦争の時にイギリス軍を指揮した将軍の一人として強く記憶されている。
1781年、ヨークタウンの戦いでアメリカ・フランス連合軍に、彼の指揮するイギリス軍が降伏したのが事実上の終戦と考えられることが多いが、実際にはその後も2年間は交戦状態が続いた[1]。このような敗北を経験したにも拘わらず、コーンウォリスはイギリス政府の信頼を繋ぎ止め、その活動的な経歴を続けた。インドでは総督を2度務め、永世統治法を定めたことでも知られる。アイルランド総督としてはカトリック解放を主張し、1798年のアイルランド反乱とフランスによるアイルランド侵略に対処した。また、イングランドとアイルランドの統合を進めた。
1753年から1762年まではブローム子爵、1762年から1792年まではコーンウォリス伯爵として知られ、その後に侯爵になった。
生い立ち
[編集]コーンウォリスは第5代コーンウォリス男爵チャールズ・コーンウォリス(後に初代コーンウォリス伯爵、1700年3月29日-1762年6月23日、ブリストルに近いハウェルズ在)の長男としてロンドンのグローヴナー・スクエアで生まれた。ただし家族の所領はケントにあった。
コーンウォリスは財産にも血縁関係にも恵まれていた。コーンウォリス家は14世紀にサフォークのアイの近くブロームホールに基盤を置き、以後300年間に一族を州の代議士として議会に送っている。1627年にフレデリック・コーンウォリスが準男爵となり、チャールズ1世のために戦い、追放されたチャールズ2世に従った。フレデリックはさらに1661年にサフォーク州アイのコーンウォリス男爵となり、その子孫は都合の良い婚姻によって一族の重要性を増していった。
コーンウォリスの母エリザベス(?-1785年12月)は第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドの娘であり、首相ロバート・ウォルポールの姪でもあった。タウンゼンド諸法の提唱者であった財務大臣チャールズ・タウンゼンドは母方の従兄に当たる。1753年に父がコーンウォリス伯爵・コーンウォリス子爵およびブローム子爵に叙され、コーンウォリスはブローム子爵の儀礼称号を帯びた。弟ウィリアムは海軍提督であり、叔父のフレデリックはカンタベリー大主教であり、もう一人の叔父エドワードはカナダ植民地の指導者だった。
軍隊での経歴
[編集]コーンウォリスはイートン校で学んだ。ここではホッケーをやっているときに、後にダーラム司教となったシュート・バーリントンから事故で殴られて目に傷を負った[2]。続いてケンブリッジのクレア・カレッジに進んだ。1757年12月8日、近衛歩兵第一連隊の少尉として最初の軍務に就いた。軍人としての教育がここから始まり、プロイセンの士官ログイン大尉とヨーロッパ大陸を旅行した後、トリノの陸軍士官学校で学んだ。1760年1月にはケントのワイを代表する国会議員にもなった。1762年には父の爵位を継いで第2代コーンウォリス伯爵となり、貴族院議員となった。
七年戦争
[編集]七年戦争の間、ドイツで様々なポストを4期務め、何度か帰国もした。1758年、イギリス軍がドイツに派遣されたと聞くや否や、母国からの命令を待たずに急行して軍に加わり、グランビー卿の参謀将校という任務を確保した。
一年後には、この戦争でも主要な戦闘であり、フランスによるハノーファー選帝侯領侵略を阻止したミンデンの戦いに参戦した。この戦闘後第85歩兵連隊で大尉の職を購入した。1761年、第12歩兵連隊に所属し、名誉中佐に昇進した。1761年6月15日から16日にかけてのフィリングハウゼンの戦いでこの連隊を率い、その勇猛さで注目された。1762年にはヴィルヘルムシュタールの戦いでその連隊が激戦に巻き込まれた。その数週間後、ルッターバーグの戦いでザクセン公国軍を打ち破り、カッセル包囲戦に参加することで、その年は終わった。
1763年にパリ条約が締結された後、コーンウォリスはイギリスに戻って、ホイッグ党の大物で後に首相にもなったロッキンガム卿の子分になった[3]。
1766年には第33歩兵連隊の大佐となった。この年、アメリカの植民地人に対する同情心から、他の5人の貴族と共に印紙法に反対する投票を行った[4]。アメリカ独立戦争に繋がる危機の間、アメリカの植民地人に対する支持を強く続けることになった。
アメリカ独立戦争
[編集]ボストン周辺でアメリカ独立戦争の開戦を告げる小競り合いが起こった後で、コーンウォリスは以前の植民地に対する同情は横に置いて、実戦での任務を求めた。この戦争での任務はヘンリー・クリントン将軍の副指揮官として始まった。コーンウォリスは他の数人の上級士官と共にアメリカへの出発直後に昇格を果たした[5]。クリントン軍は1776年5月にノースカロライナのケープフェアで北アメリカに到着した。この部隊はさらに南のサウスカロライナに向かい6月には最初のチャールストン包囲戦に参加した。このときはうまく突破を図れず結果的に撤退した。
ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦
[編集]クリントンとコーンウォリスはチャールストン包囲戦に失敗した後で北に向かい、ニューヨーク市に対する方面作戦を指揮するウィリアム・ハウ将軍の下に就いた。この作戦の間、まだクリントンの下での任務を続けていたコーンウォリスはロングアイランドの戦いで功績を挙げ、ホワイト・プレインズの戦いに加わり、ワシントン砦の占領では支援的な役割を担った。作戦の終わりには独立した部隊の指揮を任され、リー砦を占領して、ジョージ・ワシントンの軍隊を追い出した。ワシントン軍はデラウェア川を越えてペンシルベニアまで撤退し、コーンウォリスはニュージャージーのニューブランズウィックまで前進することを認められただけだった。
トレントンとプリンストン
[編集]イギリス軍によるニューヨーク方面作戦とその後のニュージャージー占領後、コーンウォリスは軍隊が冬季宿営に入るために、イングランドへ戻る準備をしていた。しかし12月に出航準備をしているときに、ワシントンがトレントンを急襲した。このために帰国を取り消し、ハウからワシントン軍に対処するよう命じられた。当時クリントンはイギリスに居たので、コーンウォリスはハウの下に直接就いた。
コーンウォリスはニュージャージー中に散らばっていた守備隊を集めて、トレントンに移動させた。1777年1月2日、アッサンピンク・クリーク近くに陣を取ったワシントン軍と対峙した。その日の午後遅くに起こった第二次トレントンの戦いでは、ワシントン軍陣地を攻撃したがうまく行かなかった。翌日もワシントン軍攻撃を続けるために軍隊に準備させた。しかしその夜、ワシントン軍は抜け出してプリンストンのイギリス軍陣地を攻撃した。大陸軍がコーンウォリス軍との会戦をうまく避けたことについて、ワシントンがキャンプの火を焚かせ動きがあるように音を出させ続けるという策略を用いたことが功を奏したとされる一方で、コーンウォリスが大陸軍の動きを探る偵察部隊を送っていなかったことも災いした。
プリンストンの戦い後、ワシントン軍は北のモリスタウンに向い、イギリス軍はニューブランズウィックとパースアンボイを中心に守る冬季宿営に入った。この冬の間、大陸軍が物資を得られないようにし、自軍の補給のために略奪戦争と言われる襲撃に参加した。早春4月13日、コーンウォリスはバウンドブルックでベンジャミン・リンカーンの守備隊を攻撃して成功した。しかし、この成功も長続きせず、ハウはフィラデルフィアに対する方面作戦のためにその軍隊をニューヨーク市に戻すことに決めた。
フィラデルフィア方面作戦
[編集]コーンウォリスはハウの下に就いている間に、1777年のフィラデルフィア方面作戦で野戦指揮官として参戦した。ハウは一撃で戦争を終わらせることを期待してフィラデルフィアに対する攻勢を始めるつもりだった。コーンウォリスは軍隊中の軽歩兵部隊の指揮を任された。9月11日のブランディワインの戦いでは側面攻撃を担当し、大陸軍をその陣地から後退させることになった。10月4日のジャーマンタウンの戦いと11月20日のマーサー砦占領でも重要な役割を果たした。その後フィラデルフィアで冬季宿営に入った間に、コーンウォリスは重要な情報を持って遅れていた帰国の旅に出た。
コーンウォリスはフィラデルフィアに戻り、ハウに代わって総司令官になっていたクリントンの下に副指揮官として就いた。サラトガの戦いでイギリス軍のジョン・バーゴインの軍隊が降伏し、フランスが参戦した後で、イギリス軍はフィラデルフィアを占領していることを他所で必要とされる貴重な軍隊と資源を浪費していると見なすようになった[6]。コーンウォリスはフィラデルフィアからニューヨークへ陸路撤退するイギリス軍の殿軍を務め、1778年6月28日のモンマスの戦いでは重要な役割を演じた。コーンウォリスはイギリス軍の後衛を急襲された後で、反撃を率い敵のそれ以上の前進を阻んだ。11月に再度イギリスに戻り、病気療養中の妻を見舞ったが、妻は1779年2月に死んだ。
南部戦線
[編集]コーンウォリスは1779年7月にアメリカに戻り、南部戦線でイギリス軍の中心的役割を担うことになった。この年の暮れ、クリントンとコーンウォリスはイギリス軍の大軍をアメリカ南部に送り、1780年春の第二次チャールストン包囲戦を始めた。これはベンジャミン・リンカーンが指揮する大陸軍の降伏に繋がった。この包囲戦に続いてワックスホーでエイブラハム・ビュフォードのバージニア連隊を潰した後、クリントンがニューヨークに戻ったので、コーンウォリスは南部の指揮官となった。
コーンウォリスは敵に対する徹底的な勝利を求める任務に直面しており、それはハウ将軍が北部で何度か勝利を上げながらも到達できなかったことだった[7]。これを成すために与えられた軍隊は、ニューヨークでクリントン配下の大部隊がワシントン軍をつけねらい続ける必要性のために限られたものになった。上官のクリントンからはアメリカ南部の植民地には数多くいると考えられたロイヤリストの支援を有効に使うように告げられた。コーンウォリス自身はクリントンやハウがやったよりも大胆で攻撃的な作戦を採ることを好んだ[7]。またロイヤリスト側を圧倒的に支持する黒人奴隷を、斥候、労働者および兵隊として徴募するという既に認められていたイギリスの政策を拡げてもみた。
1780年8月、コーンウォリス軍はホレイショ・ゲイツの指揮する敵の大部隊ではあるが実戦経験の無い軍と遭遇し、キャムデンの戦いで大きな損失を負わせた[8]。このことでサウスカロライナから敵軍を事実上一掃してしまい、敵の士気を大きく挫くことになった。この勝利はコーンウォリスの評判を高めたが、アメリカ反逆者軍の潰走はコーンウォリスの技術によるというよりもゲイツの失敗に多く拠っているものだった。コーンウォリスは抵抗勢力が無くなったと考え、北のノースカロライナへの進軍を始めた。ロイヤリストの支援を糾合しようと試みていたが、コーンウォリスとその軍隊から1日の行軍距離しか離れていない所で、ロイヤリストの大部隊がキングスマウンテンの戦いで敗北を喫し、また別の大きな分遣隊がカウペンスの戦いで大敗を喫したことで、重大な打撃を受けることになった。続いてナサニエル・グリーン将軍の下に再建された大陸軍とギルフォード郡庁舎の戦いで衝突した。コーンウォリスの軍隊はここで数的に勝る敵軍に銃剣突撃を掛けたことで、犠牲が多くて引き合わない勝利を得た。
コーンウォリスは補給のために海岸のウィルミントンにその軍隊を動かした。コーンウォリス自身、戦闘では概ね実績を挙げていたが、連続する移動と損失のために軍隊の勢力が弱まりまた疲れさせてもいた。グリーン軍はギルフォード郡庁舎の戦いで損失を受けた後も健在であり、ウィルミントンに向かうコーンウォリス軍を付け狙っていたが、その後サウスカロライナに入り、数ヶ月の間にその大半の支配を取り戻した。
コーンウォリスはウィルミントンで伝言を受け取り、ウィリアム・フィリップスとベネディクト・アーノルド各将軍の指揮で別のイギリス軍がバージニアに派遣されることを知ったので、この軍隊と合流しバージニアの大陸軍補給基地を攻撃する決断をした。
バージニア方面作戦
[編集]コーンウォリスはバージニアに到着するとフィリップス軍の指揮を引き継いだ。その部隊は直前までコーンウォリスの親友であるウィリアム・フィリップス少将が指揮していたが、フィリップスはコーンウォリスがピーターズバーグの陣地に到着する1週間前に死んでいた[9]。コーンウォリスはクリントンに自軍の動きを報せず行軍してきていたので(当時イギリス軍の2人の指揮官の通信は海上経由によっていたので極端に遅く、3週間を要することもあった[10])、北に移動したこととチェサピーク湾地域でアメリカ軍の補給基地を潰すことに携わるという伝言を送った。
1781年3月、アーノルドとフィリップスの軍による脅威に反応したワシントンはラファイエットに部隊を付けてバージニア防衛のために派遣した。この若いフランス人は指揮下に3,200名の部隊を持っていたが、バージニアにいるイギリス軍は総勢7,200名に上っていた[11]。ラファイエットは援軍を集めながらイギリス軍との会戦を避け、コーンウォリスとの小競り合いを続けた。この頃にクリントンからバージニア半島(当時の手紙ではウィリアムズバーグ・ネックと呼ばれていた)で陣地を選び、戦列艦を保護できるような要塞化した海軍基地を建設せよという命令を受けた[12]。コーンウォリスはこの命令を実行する間に罠に嵌ってしまう位置に自らを置いてしまった。ド・グラス伯爵が指揮するフランス艦隊とワシントンが指揮するフランス・アメリカ連合軍が到着するに及んで、コーンウォリスは自軍が遮断されたことを覚った。トマス・グレイブス提督が指揮するイギリス海軍がチェサピーク湾の海戦でフランス艦隊に敗れ、フランス軍攻城部隊がロードアイランドのニューポートから到着すると、コーンウォリス軍の状態は耐え難いものになった。1781年10月19日、コーンウォリスはワシントン将軍とフランス軍指揮官ロシャンボー伯爵に対して降伏した[13]。コーンウォリスはワシントンと顔を合わせたくなかったので、降伏の日には病気と言ってチャールズ・オハラ准将を送り、儀礼通り剣を収めさせた。ワシントンは副司令官のベンジャミン・リンカーンにコーンウォリスの剣を受け取らせた。
イギリスへの帰還
[編集]1782年、コーンウォリスは、ロンドンで囚われており同等の階級と考えられたヘンリー・ローレンスとの捕虜交換で釈放された[14]。コーンウォリスはベネディクト・アーノルドと共にイギリスに戻り、1月21日にイギリスに上陸したときに快哉を叫んだ[15]。アメリカの特に南部戦線で採用したコーンウォリスの戦術はロンドンの政敵達によって酷評された。しかしコーンウォリスは国王ジョージ3世とイギリス政府の信頼を保ち続けた。
コーンウォリス軍の降伏で戦争が終わったわけではなかったが、アメリカ大陸の戦場では最後の大きな戦闘となった。コーンウォリスは、戦争が継続していたにも拘わらず、即座に別の指揮に就くこともなく、独立戦争は1783年のパリ条約で終わりを告げた。
1785年8月、コーンウォリスはヨーク公フレデリックと共にプロイセンでの操軍に参加し、フリードリヒ大王やラファイエットと戦った[16]。
インド総督
[編集]1786年、コーンウォリスはガーター勲章のナイトとなった。同年、イギリス領インドの総督兼総指揮官に指名された。そこでは農地改革を実施し、イギリス軍とその管理機構を再編した。本国のウィリアム・ピット(小ピット)政権との結びつきを強めるようになり、国王ジョージ3世が病気から快復したことで安心したと本国に伝えて、そのことでチャールズ・ジェイムズ・フォックスに率いられる急進的な反対党が権力を握ることを妨げた[17]。
マイソールとの紛争
[編集]マイソール王国の強力な王であるティプー・スルターンと紛争が繰り返された後、コーンウォリスは最終的にシュリーランガパトナの戦いでマイソールの首都を奪うことで王国を破り、ティプーの命を奪い第四次アングロ・マイソール戦争を終わらせた。これによってイギリスによる南インド支配への道が固まった。
コーンウォリスは1792年に「コーンウォリス侯爵」となった[18]。翌年にはイギリスに戻り、後任はジョン・ショア卿となった。インドでの時代はヨークタウンで蒙った汚名を返上させるには大いに力になった。
アイルランド総督
[編集]コーンウォリスは1798年6月にアイルランド総督になった[19]が、それはアイルランド共和派とイギリス政府との間に反乱が起こったあとだった。その任官は、前任者のカムデン卿を好んでいたアイルランドの貴族達には暖かく迎えられなかった。彼等はコーンウォリスが圧倒的にカトリックの反乱者に対して寛容な同情を抱いていると疑っていた。しかし、コーンウォリスはアイルランド長官のカスルリー卿と良好な協働関係を作り上げた。
コーンウォリスは総督と総司令官双方の役割を組み合わせて、アイルランドの反乱者とハンベール将軍に率いられて1798年8月にコノートに上陸したフランス侵略軍の双方を打ち負かすことになった。フランス軍の上陸とカースルバーでのイギリス軍の敗北によって恐慌に陥ったイギリスは数千の援軍を派遣したので、アイルランドの軍隊は6万名にまで脹れ上がった[20]。フランス侵略軍はバリナマックの戦いで敗北し、降伏を強いられた。その年の秋、コーンウォリスは島全体の統制を取り戻し、アイルランド統一党の残党の動きを抑圧した。
コーンウォリスはダブリンの南にまで反乱者を潰走させるために、ウィックローでの軍事道路建設を命じた。これは抵抗勢力の最後の地域を掃討する長く続いた作戦の一部であり、コーンウォリスが1801年に離任するまで続いた。1800年にアイルランド議会がイングランドとアイルランドを統合しグレートブリテンおよびアイルランド連合王国を創ることになる合同法を成立させたとき、コーンウォリスはその提唱者でもあった。
アミアンの和約
[編集]1802年3月25日、コーンウォリスはナポレオンとアミアンの和約に調印した。コーンウォリスとチャールズ・オハラ将軍(チャールストンからヨークタウンまでコーンウォリスの副官だった)は、ワシントンとナポレオンの双方と交渉したという希少な人物になった。第二次対仏大同盟による戦争の終戦、財政的圧迫および1801年2月16日にウィリアム・ピットが辞任したことで休戦が可能になった。対フランス融和派のヘンリー・アディントンが後継首相となり、コーンウォリスを全権公使に任命した。パリでのイギリス側交渉団はリヴァプール伯ロバート・バンクス・ジェンキンソンが率いた。その努力にも拘わらず、休戦は直ぐに破れ、戦争が再開された。
死
[編集]コーンウォリスは1805年にインド総督に再任されたが、到着から間もない10月5日、当時ワーラーナシー王国のガーズィープルにあるゴースパーで熱病のために死んだ。遺骸はガンジス川を見下ろす場所に葬られ、ガーズィープル市内にある記念碑はインド政府によって維持され続けている。
遺産
[編集]今日、コーンウォリスはヨークタウンで降伏したイギリス軍指揮官として主に記憶されている。この包囲戦とその結果がアメリカ史に与えた影響が大きかったので、アメリカ合衆国でも良く知られており、大衆文化の中で言及されることも多い。ジョン・ペンドルトン・ケネディによる1835年の小説『ホースシュー・ロビンソン』では、アメリカ独立戦争の南部戦線を背景にした歴史小説という設定になっており、コーンウォリスが登場して小説の中の登場人物と交流する。コーンウォリスは礼儀正しい人物として描かれているが、自軍の中で能力不足とされた者や、敵の捕虜に対する残酷な処置について寛容であり、支持すらしている。2000年の映画『パトリオット』では、ヨークタウンに繋がる出来事を追っており、コーンウォリスの役はイギリス人俳優のトム・ウィルキンソンが演じた[21]。
アイルランドではバリナマックの戦い後に、バリナリーで反乱者の捕虜を処刑したために、今日まで続く悪評を得た。レンスター地方北部のロングフォード県にある村落では、処刑の場所がベリーズエーカーと呼ばれている。
インドではマイソール戦争中にナンディヒルズでティプー・スルターンを破ったことで知られており、また歳入と司法権法を発布したことでも知られている。さらにインドではその残酷さと狡猾さでも知られている。
1786年プリンス・オブ・ウェールズ島ジョージタウン(現在のマレーシア、ペナン州)に設立されたコーンウォリス砦は彼に因む命名である。
カンタベリーのケント大学の建物およびサフォークのロイヤル看護学校寮にはコーンウォリスの名前が付けられている。ロンドンのセント・ポール大聖堂にはコーンウォリスの大きな彫像がある。
脚注
[編集]- ^ Harvey p.526
- ^ Cornwallis, Charles, Viscount Brome in Venn, J. & J. A., Alumni Cantabrigienses, Cambridge University Press, 10 vols, 1922–1958.
- ^ Bicheno p.168
- ^ Weintraub p.34
- ^ Weintraub p.62
- ^ Harvey p.377
- ^ a b Harvey p.467
- ^ Harvey p.424-427
- ^ Wickwire, Cornwallis, The American Adventure, 1970
- ^ Cornwallis Papers, Public Record Office the dates of receipt throughout this period of the war are usually two to three weeks after the date of dispatch
- ^ Cornwallis, C, An Answer to the Narrative of Sir Henry Clinton, appended table.
- ^ Clinton to Cornwallis, 15 June 1781, Cornwallis Papers, Public Record Office
- ^ Unger pp.158-9
- ^ Bicheno p.265
- ^ Weintraub p.315
- ^ Duffy p.279-80
- ^ Hibbert p.302
- ^ "No. 13450". The London Gazette (英語). 14 August 1792. p. 635.
- ^ "No. 15029". The London Gazette (英語). 12 June 1798. p. 523.
- ^ Harvey. War of Wars. p.224-5
- ^ The Patriot
関連項目
[編集]伝記
[編集]一次史料
[編集]- Public Record Office, United Kingdom: Cornwallis Papers, Ref: 30/11/1-66
- The Correspondence of Charles, First Marquis Cornwallis, Vol. 1, 1859, ed. Ross.
二次史料
[編集]- Adams, R: "A View of Cornwallis's Surrender at Yorktown", American Historical Review, Vol. 37, No. 1 (October, 1931), pp. 25?49,
- Bicheno, H: Rebels and Redcoats: The American Revolutionary War, London, 2003
- Buchanan, J: The Road to Guilford Courthouse: The American Revolution and the Carolinas, New York, 1997
- Clement, R: "The World Turned Upside down At the Surrender of Yorktown", Journal of American Folklore, Vol. 92, No. 363 (January - March, 1979), pp. 66?67
- Duffy, Christopher. Frederick the Great: A Military Life. London, 1985.
- Ferling, J: The World Turned Upside Down: The American Victory in the War of Independence, London, 1988
- Harvey, R: A Few Bloody Noses: The American War of Independence, London, 2001
- Harvey, R: War of Wars: The Epic Struggle Between Britain and France 1789-1815, London, 2007
- Hibbert, C: Rebels and Redcoats: The American Revolution Through British Eyes, London, 2001
- Hibbert, C: King George III: A Personal History,
- Mackesy, P: The War for America, London, 1964
- Pakenham, H: The Year of Liberty: The Great Irish Rebellion of 1798, London 1969
- Peckham, H:The War for Independence, A Military History, Chicago, 1967
- Unger, H.G:Lafayette, New York, 2002
- Weintraub, S: Iron Tears, Rebellion in America 1775-1783, London, 2005
- Wickwire, F: Cornwallis, The American Adventure, Boston, 1970
外部リンク
[編集]- "チャールズ・コーンウォリスの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- チャールズ・コーンウォリス - Find a Grave
- letters of Cornwallis from the American Revolution
公職 | ||
---|---|---|
先代 ボリングブルック子爵 |
寝室侍従 1765年 |
次代 なし |
官職 | ||
先代 ジョン・マクファーソン |
ベンガル総督 1786年 - 1793年 |
次代 テインマス男爵 |
先代 リッチモンド公爵 |
兵站部総監 1795年 - 1801年 |
次代 チャタム伯爵 |
先代 カムデン伯爵 |
アイルランド総督 1798年 - 1801年 |
次代 ハードウィック伯爵 |
先代 ウェルズリー侯爵 |
インド総督 1805年 |
次代 サー・ジョージ・バーロウ準男爵 |
先代 モンソン男爵 |
巡回裁判官(南トレント) 1767年 - 1769年 |
次代 サー・フレッチャー・ノートン |
外交職 | ||
空位 最後の在位者 ゴア伯爵
|
在フランスイギリス大使 1801年 - 1802年 |
次代 ウィットワース男爵 |
軍職 | ||
先代 ロバート・スローパー卿 |
インド総司令官 1786年 - 1793年 |
次代 ロバート・アバークロンビー |
先代 ラルフ・アバークロンビー |
アイルランド総司令官 1798年 - 1801年 |
次代 ウィリアム・メドーズ |
先代 レイク男爵 |
インド総司令官 1805年 |
次代 レイク男爵 |
名誉職 | ||
先代 ストラットンのバークリー男爵 |
ロンドン塔長官 タワー・ハムレット統監 1771年 - 1784年 |
次代 ジョージ・レノックス卿 |
先代 ジョージ・レノックス卿 |
ロンドン塔長官 タワー・ハムレット統監 1784年 - 1805年 |
次代 モイラ伯爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | コーンウォリス侯爵 1792年 - 1805年 |
次代 チャールズ・コーンウォリス |
先代 チャールズ・コーンウォリス |
コーンウォリス伯爵 1762年 - 1805年 |