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「Wikipedia‐ノート:検証可能性」の版間の差分

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:{{返信|[[利用者:いりいよしき]]さん}} ここは[[Wikipedia:検証可能性]]に係わる議論の場です(先に書いた文章は、もしかして[[ノート:親鸞]]でしょうか)。[[WP:NOTADVERTISING|ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありません]]もご覧ください。ご納得のほどお願いします。第三者の皆様へ、暫く経ちましたらば、このコメント含めて節ごと削除でよいです。--[[利用者:小石川人晃|小石川人晃]]([[利用者‐会話:小石川人晃|会話]]) 2023年1月18日 (水) 11:18 (UTC)
:{{返信|[[利用者:いりいよしき]]さん}} ここは[[Wikipedia:検証可能性]]に係わる議論の場です(先に書いた文章は、もしかして[[ノート:親鸞]]でしょうか)。[[WP:NOTADVERTISING|ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありません]]もご覧ください。ご納得のほどお願いします。第三者の皆様へ、暫く経ちましたらば、このコメント含めて節ごと削除でよいです。--[[利用者:小石川人晃|小石川人晃]]([[利用者‐会話:小石川人晃|会話]]) 2023年1月18日 (水) 11:18 (UTC)

== 本文または要旨に現状の英語版の説明を加えられませんか。 ==

本文か要旨に現状の英語版の趣旨を加てほしい思うのですがいかがでしょうか。--[[特別:投稿記録/121.115.128.139|121.115.128.139]] 2023年4月6日 (木) 06:55 (UTC)

2023年4月6日 (木) 06:55時点における版

このページには削除された版があります。削除に関する議論は「Wikipedia:削除依頼/Wikipedia‐ノート:検証可能性 20120211」をご覧ください。


共産主義の定義に関わって

共産主義の定義の中の「すべての人間の自由で全面的な成長・発達を目的とする思想、運動、社会体制」の文言のもとになっている文献は以下です。

マルクスの『共産党宣言』の中での、未来社会についての次の文言 「階級および階級対立をもつ古いブルジョア的社会の代わりに、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件である結合社会が現われる」 および『資本論』のなかでも、未来社会について語るとき、「自由な人々の連合体」(第一部第一篇「第1章 商品」)、「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」(第一部第七篇「第22章 剰余価値の資本への転化」)などの記述があり、これらをもとにした表記です。 240F:3C:6018:1:1089:A384:82B6:60B3 2022年1月7日 (金) 05:15 (UTC)[返信]

コメント このノートページは、Wikipedia日本語版の方針文書について議論する場です。個別記事の議論については、当該項目のノートページ(ノート:共産主義)のほうでお願いします。ご注意ください。--小石川人晃会話2022年1月7日 (金) 11:24 (UTC)[返信]

「自主公表された情報源:公式サイト」の文章の一部修正の提案

自主公表された情報源:公式サイトについて、現在以下のような記述があります。

例えばウィキペディアに、ある政治団体の記事があったとします。この記事について、その政治団体が開設しているウェブサイトは、その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、また第三者によって公表された信頼できる情報源が存在する場合はその情報と矛盾していない限り、ウィキペディアのその政治団体についての記事において、その政治団体自身に関する情報源として使用できます。 — 2021年9月26日 (日) 08:08の版より

この文の主部は「その政治団体が開設しているウェブサイト」で、述部は「(その政治団体自身に関する情報源として)使用できます」ですが、あまりに修飾が多く文意を捉えにくくなっていると感じます。この部分について、以下の修正を提案します。

例えばウィキペディアに、とある政治団体を主題とした記事があったとします。この記事において、その政治団体が開設しているウェブサイトは情報源として使用することができます。ただし、これは一次資料をどう扱うべきかを良く理解して、その情報が記事を執筆するために重要であると十分に判断できる場合に限定されるべきです。過度に自己を美化するものではないことはもちろん、もし第三者によって公表された信頼できる情報源があればその情報と矛盾していないかを良く確認してください。 — 修正案1

意味的には大きな変更はないと考えます。大きな変更点として、WP:PSTSへのリンクを加えていますがこれはリンク先と自主公表された情報源:公式サイトに強い関連があり、リンク先を参照することで理解が深まると考えたためです。以上が私の提案です。ご意見いただけれだと思います。--しんぎんぐきゃっと会話2022年2月1日 (火) 14:47 (UTC)[返信]

報告 修正案を反映しました。--しんぎんぐきゃっと会話2022年3月13日 (日) 10:21 (UTC)[返信]

編集者がウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果は、読者に検証可能か?

ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論中に、あるウェブページAとそのウェブアーカイブBについて単に参照するだけでなく、AとBを比較して分かることも検証可能性を満たす旨の意見が出ました。いわく「比較は人間精神の自然な反応であり、検証可能性から排除されていないと考えるのが妥当」ということです。以上について、現在のWikipedia:検証可能性という方針に反するかどうかご意見願います。--2019jul07会話2022年4月5日 (火) 10:16 (UTC)[返信]

コメント 話が抽象化され過ぎてしまっているので私からも説明させて頂きます。あるウェブページの過去の版に掲載されていた指揮者のコメントが現在のウェブページには掲載されていないので、ウェブページAと、コメントが掲載されているウェブアーカイブBの両者を出典として示した上で「文章は削除されている」と書くのは検証可能性を満たすと私は考えますが、2019jul07さんは検証可能性を満たさない、と主張しています。--Gruppetto会話2022年4月5日 (火) 14:55 (UTC)[返信]

  • 検証可能性というよりはWP:SYNの話でしょうか? --Kto2038会話2022年4月5日 (火) 11:31 (UTC)[返信]
  • コメント 私は「情報の合成」に該当すると考えます。AとBの両者を出典として示したところで、AとBの内容をウィキペディアの投稿者が比較し「文章は削除されている」と書くのであれば、解釈を加えたことになると考えます。「文章は削除されている」を記載するならその比較を直接行った信頼できる情報源を示すことが必要だと思いますし、そうすれば情報の合成には当たらないと考えます。逆に、そのような情報源がなく、AとBを比較して記載するような方法をとったところで、その内容の重要性(WP:IINFOに合致しないこと)を主張できないと思います。ウィキペディア的に本当に重要なことであれば、直接的な比較を行った信頼できる第三者言及があって然るべきだと思います。--郊外生活会話2022年4月5日 (火) 16:32 (UTC)[返信]
  • 同じような問題について、以前にノート:吉野敬介で過去の著書と後年の著書の比較の記述について議論になったことがありますね。ただ、ウェブアーカイブは、その時点でのそのページの内容が本当に正しく保存されているのかどうか保証できませんし、極端に言えば一度ページをデタラメな内容に書き換えてそれをアーカイブに保存するといったことも可能なわけで、過去の記述に関する保証が書籍や新聞に比べると弱いのではないかと思います。書籍の比較内容を記述することは許容されても、ウェブアーカイブとの比較内容を記述することは許容すべきではないかもしれません。なお「人間精神の自然な反応だから検証可能性から排除されていない」というのはさすがに無茶な主張というものです。例として「何かを実際に見てその見たままの内容を書く」のも「人間精神の自然な反応」と思いますが、検証可能性の上では許容されていませんので。--Muyo会話2022年4月6日 (水) 02:09 (UTC)[返信]
WP:SYN(情報の合成)について。件の議論中に出た意見は、ページAとアーカイブBを編集者が比較した結果は検証可能つまり発表済みの情報に当たるというものです。WP:SYN(情報の合成)はそれに解釈を加えることを禁じるものであり、発表済みの情報とは何かを定めるものではありません。今一度、検証可能かどうかという点についてご意見願います。--2019jul07会話2022年4月6日 (水) 08:03 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございました。ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果は検証可能なものではないとWikipedia:検証可能性で定めることを 提案 します。--2019jul07会話2022年5月13日 (金) 04:03 (UTC)[返信]

 追記 具体案を以下に示します。現在、

分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。

となっている部分を、

分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。例えば、ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果をウィキペディアに載せてはいけません。

とします。--2019jul07会話2022年5月25日 (水) 04:41 (UTC)[返信]

提案無効 二点、問題があります。まず一点目ですが、そもそもの方針の解釈が明らかに間違っています。「編集者が独自に検証できる」ということの例は、「あなたは、ある著名な物理学者の「X理論」についてウィキペディアの記事を書いているとします。X理論は査読審査を経て学術誌に掲載されており、したがってウィキペディアの記事として適しています。ところが、執筆中にあなたがその学者に連絡をとったところ「実を言うと、今ではX理論は完全に誤りだと考えています。」と言われてしまいます。あなたが原著者本人からこれを聴いたとしても、彼がそう言ったという事実をウィキペディアに書いてはいけません。 」で端的に示されている通りです。つまり、ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を比較してその差異に言及することは、「編集者が独自に検証できる」範疇には全く当てはまりません。同様の手段で「誰でも検証できる」からです。その差異(比較した結果)の重要性の評価および編集者の解釈を挟むことの問題については郊外生活さんも指摘されている通りですが、いずれにしろ検証可能性の範疇からは外れます。この点はノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論においても、既に紅い目の女の子さんから「そこは認めなければ話が進まない」という旨の指摘がなされています。そして二点目の問題ですが、前述の通り論ずるべきは「情報の合成」ないし「情報の重要性」についてであるということで各編集者の見解は概ね一致を見ており、2019jul07さんただひとりが「検証可能性」についての議論に拘泥されているのが現状です。これは先行するノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論のみならず、同じ趣旨で行われているノート:にじさんじにおける議論でも同様の傾向が認められ、そのために議論をこじれさせてしまっています。斯様な状況でこうした提案をされるというのは、率直に言って横車を押すに等しい振る舞いであると評すほかありません。--どろりあん会話2022年5月27日 (金) 07:45 (UTC)[返信]
一点目。ウェブサイトとそのウェブアーカイブの差異が「誰でも検証できる」という事実はありません。Wikipedia:検証可能性が定める「検証できる」内容とは、信頼できる情報源が公表・出版している内容のことであり、編集者が比較した結果はそれに当たりません。二点目。ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容の差異が「誰でも検証できる」のであれば、WP:SYNには当たりません。であれば、WP:SYNが論ずるべきであることはないはずです。ノート:交響曲第1番_(佐村河内守)#出典不明の記述についてで論じているのがWikipedia:検証可能性についてであることは、このノートで私とGruppettoさんが述べた通り共通の見解です。 提案 は5月13日にしたもので、5月25日に行った編集以降のノート:にじさんじ#チェ・アラ氏の扱いでの私の発言は無関係です。--2019jul07会話2022年5月27日 (金) 10:11 (UTC)[返信]
一点目については先の議論同様に水掛け論の様相を呈しているため、これ以上のやりとりは不毛でしょう。二点目については一点目とも関連しますが、「差異が存在するという事実」と、「その差異をどう解釈するか」はそれぞれ別の議論である、というのがその要諦です。今一度議論の流れをご確認ください。なお議論の時系列については当方の事実誤認でした。申し訳ありません。お詫び申し上げるとともに、当該部を訂正させていただきます。--どろりあん会話2022年5月27日 (金) 10:41 (UTC)[返信]
どろりあん さん 水掛け論になっているので「定めることを 提案 」しました。また、WP:SYNではなく検証可能性について議論をする理由は4月6日 (水) 08:03に述べましたのでご確認ください。--2019jul07会話2022年9月10日 (土) 14:01 (UTC)[返信]
反対 提案のように1つ1つの事例に対して指示を増やし続けることが良い方向だとは思わないので提案自体には賛成できません。
それはそれとして、最初の質問である「ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果が検証可能かどうか?」についての回答は「その議論と結論に意味はない」と言えます。というのも、検証可能であろうとなかろうと、その結果に関してウィキペディアで意味のある記述とすることはほとんど不可能だからです。事例のように(具体的な議論や文面は見ずにあくまで一例として一般論として取り上げますが)、「ウェブページから、とある記述が削除された」という事実がありそれが仮に検証可能だと結論付けたとしても、その記述を単独で使うことは極めて困難でしょう。そのような結果を用いる時、実用上は、その比較結果Xの前に、何か前段の記述Yがあった上で、XはYに対する証拠やYの主張する観点の推進のために用いる以外に、使い道はありえないのではないですか?例示の「記述が削除された」を使えば、例えば、「A社の製品Bの効用について疑問の声が上がった(○×新聞)。A社は製品Bの公式サイトから効用についての記述を削除した(現在とウェブアーカイブとの比較結果)」と書いた場合、前文がYで後文がXになるわけですが、これはあたかもA社が製品Bの効用がないことについて公式に認めて撤回したように読めます。しかし、これはまさにWP:SYNの言う「特定の観点(A社が公式に効用がないことを認めた)を推進するような、発表済みの情報の合成(両記述間の繋がりが不明であるのに並べることで1つの事象のように扱った)」に該当しますよね。一方、もしそのような前段記述Yがない場合、「比較した結果」はあくまで「結果」だけですから、物事を「説明」する百科事典の記述にはならず、ただの事実データベース・まとめサイトにしかならないので、ウィキペディアにはふさわしくない記述でしょう。やはり何かしらの意味や考察Yがないと、その事実Xが単独でとても重要でそれだけで何か意味が成立するような極めて特殊な状況でもない限り、「ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果」を使えるところはないと思いますが・・・、それで使うと先に書いた通りWP:SYNになります。という意味では「使って良い」と例示することにもまた反対で、何も明記せず、可・不可は事例毎によって議論し見極める(超特殊な事例でないかを確認する)しかないと思います。--青子守歌会話/履歴 2022年9月10日 (土) 14:54 (UTC)[返信]
10日 (土) 14:54のコメントを読む限り、ウィキペディアで扱うためには「検証可能である」と「特殊事例である」の両方の条件が必要だということになるので、「検証可能かどうか?」の結論に意味がないとは考えません。しかし、個別の事例について追加し続けることが不適だということには同意するため、 提案 の内容を「ウェブページとそのウェブアーカイブを独自に比較した結果が検証可能なものではないことは、現在のWikipedia:検証可能性で既に定められていると追認する」ということに変更します。--2019jul07会話2022年9月11日 (日) 06:32 (UTC)[返信]
大前提を書いておくと、ウィキペディアで扱うためにに必要なのは、検証可能性と特殊事例であるという議論以外に、独自研究でないことや中立的な観点であること、そして百科事典の説明として間違っていないことなども必要不可欠です。つまり、「検証可能であるかどうか」を単独で考えても「ウィキペディアに載せてよいか」の結論は出ません。特に、検証可能性は独自研究と密接に関連しており、「検証可能ではないなら、独自研究である」がほぼすべての場合において成立します。「独自研究を排するために検証可能でなければならない」と言い換えても良いでしょう。ゆえに、今回の「ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果」のように、まともな百科事典の記述(単なる無差別な事実の列挙ではなく記事としてふさわしい説明)にするためには独自研究するしかない(WP:SYNにひっかかる)ような記述は、「検証可能であるか」以前に、そもそも独自研究である時点でウィキペディアに記載できません。私たちウィキペディアンは、決して多くない私たちの資源(時間や労力)を、百科事典としてのウィキペディアの発展に集中させるべきで、「検証可能である/ない」が決定されたところそもそもウィキペディアの記述として使えないような、ウィキペディアの発展に寄与しない議論や方針整備をすべきではありません。--青子守歌会話/履歴 2022年9月11日 (日) 09:29 (UTC)[返信]
ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論に還元できなければ意味がないので、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかの保証を得るために、「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」がウィキペディアにふさわしい内容かどうかの議論をWikipedia‐ノート:ウィキペディアは何ではないかで告知か話題追加することを 提案 します。--2019jul07会話2022年9月11日 (日) 10:48 (UTC)[返信]
2019jul07さん、「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」について検証可能性に追加する必要はないと思慮します。上で複数の方が情報の合成と判断されています。方針で相互に補完しあっているので現状でも「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」は記載することはできないはずですよね?記事に対しての影響が変わらないのであれば蛇足ではないでしょうか?逆に、仮にですが何らかの方針転換で情報の合成に変更する必要が出た場合に検証可能性に対しても議論する必要が出てしまい、手間が増えてしまいます。ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)も三大方針検証可能性ではなく独自研究は載せないで足りる話しのはずです。--ぷにを会話2022年9月12日 (月) 00:44 (UTC)[返信]
繰り返しになりますが、ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)では「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」は「検証可能性から排除されていない」という意見が出ています。この意見と、Wikipedia:独自研究は載せないにより記載できないという意見は両立しません。よって、本件が独自研究に当たると考える者が記載に反対すると同様に、独自研究に当たらないと考える者は除去に反対するため、結局のところWikipedia:独自研究は載せないを示すことは有効ではありません。--2019jul07会話2022年9月12日 (月) 09:14 (UTC)[返信]
『ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」は「検証可能性から排除されていない」という意見が出ています。この意見と、Wikipedia:独自研究は載せないにより記載できないという意見は両立しません。』この部分について私の理解が足りないのか申し訳ありませんが分かりません。三大方針はそれぞれ補完しあうものですから、検証可能性中立的な観点を満たしたとしても独自研究は載せないに該当すれば記載するべきものではないはずですよね?この節の上でもWP:SYNだと判断する方が複数いたはずです。独自研究に当たらないと考える方により丁寧に説明し納得いただくか同様の問題が続く場合に独自研究は載せないで提案するのならまだ分かるのですが、検証可能性に記載する内容ではないと考えています。そもそもWP:SYNでは「AでありBである、ゆえにCである」という三段論法は信頼できる情報源で発表されている場合にのみ掲載できることになっています。「ウェブサイトには記載があるウェブアーカイブには記載がない、ゆえに記載は削除されている」はまさに典型例ではないでしょうか?--ぷにを会話2022年9月13日 (火) 00:58 (UTC)[返信]
私は本件を「Wikipedia:検証可能性を満たしたとしてもWikipedia:独自研究は載せないを満たさない」という事例だと考えていません。書くかどうか議論されているのは「ウェブサイトには記載があるウェブアーカイブには記載がない、ゆえに記載は削除されている」ではなく、「記載は削除されている」だけです。WP:SYNはそのような記述を「また」で接続することを制限していません。--2019jul07会話2022年9月13日 (火) 01:56 (UTC)[返信]
「記載は削除されている」とするには前提として記載されていた事実がなければいけません。ウェブサイトだけ見ても元々載っていなかったのか、ページ改訂で載らなくなったのか(削除とは若干違う)、削除されたのかは分かりません。ウェブアーカイブと比較検証したからこそ言えることではないでしょうか。ゆえに書かれていなくても「ウェブサイトには記載があるウェブアーカイブには記載がない」から「記載は削除されている」であると考えます。そして仮に『「記載は削除されている」だけです。WP:SYNはそのような記述を「また」で接続することを制限していません。』であれば、やはり手を付けるのはWP:SYNであって検証可能性ではないように思います。--ぷにを会話2022年9月13日 (火) 03:02 (UTC)[返信]
本ノートでの 提案 取り下げて、Wikipedia:独自研究は載せないについて検討することにします。皆さんありがとうございました。--2019jul07会話2022年9月13日 (火) 03:19 (UTC)[返信]
報告 Wikipedia‐ノート:独自研究は載せない#編集者がウェブページとそのウェブアーカイブを比較したとき、その結果は独自研究か?で検討を始めました。--2019jul07会話2022年9月13日 (火) 05:10 (UTC)[返信]
よくわかりました。--153.190.129.1 2023年1月3日 (火) 07:24 (UTC)[返信]
--153.190.129.1 2023年1月3日 (火) 07:25 (UTC)[返信]

先に書いた文章がどこに表記したか分からなくなったので、新たに書きます。議論下さい。

 親鸞が信じたアミダ仏とは、法蔵菩薩(アミダ仏の修行時代の名前)の時に『仏説無量寿経』(『大経』)に、「人生は苦なり」とすべての人が苦しみ悩んでいる姿を観察して、この人たちすべてを自分と同じアミダ仏となって、同じ幸せと喜びを味わって戴きたいと願われました。

 その願いが48願となり、第18番目の願いを「本願」と呼ばれました。「十方の衆生が心から信じ、我国に生まれたいと願って念仏を称えたが、もし極楽浄土に生まれなかったら、私はアミダ仏の命を捨てます。」と誓われます。

 その救いの方法は「なむ(も)あみだぶつ」と聞こえる声を出して念仏することです。アミダ仏は自分がアミダ仏になるに必要な全ての善根功徳を、名前に備わるようにと願って修行を積まれたのです。その名前を称えると、聞こえた人にアミダ仏になるに必要な、功徳が届けられ他力による「利他行」を実行したことになります。大乗仏教では利他行をすれば、必ず「苦しみの根源の無明が破られ、一切の志願が満たされる」と教えます。 

 その本願を信じて念仏を称えたら、信心が「即」に浄土に往生し、即にアミダ仏同等の「大信心」となります。そして、わが身に還ってきて、アミダ仏同等の利他行を実行しなさいと勅命されます。このブッダの心となった深信を、「横超の信心」と呼ばれました。この「横超」で一宗開闢の必須条件の「教相判釈」を建て、全仏教中最も早く最も易くブッダとなる、優れた教えだと論証されました。ここが親鸞孤高の教えです。

 ところで利他行を実行させようという勅命を、「わが身」は「嫌だ」と抵抗し反逆します。その時に、初めて自然に「私は悪人でございました」と信心が気付くのです。これ以前の罪悪感は偽物です。なぜなら、煩悩を持った凡夫が「私は悪人です」とは決して気付くことはできなく、「私が善人です」としか考えないのです。だから、親鸞の罪悪感は釈尊の悟りに当たる、「証」から生まれた深信の自覚なのです。「大信心」者は「如來にひとし」と、『華厳経』で解かれたと親鸞は論証されます。

 さて、「わが身」の煩悩が、信心が如来となった真実信心の「如実修行相応」(アミダ仏同等の実働)の邪魔をしても、真実信心を「日光」に譬えわが身の煩悩を「雲霧」に譬え、「下に闇なきがごとし」と説かれます。必ず利他行は貧窮者のために、僅かでも尽くす教えなのです。もし、全く尽くさないなら「信不具足」と一刀両断となる教えだったのです。--いりいよしき会話2023年1月18日 (水) 09:17 (UTC)[返信]

返信 (利用者:いりいよしきさん宛) ここはWikipedia:検証可能性に係わる議論の場です(先に書いた文章は、もしかしてノート:親鸞でしょうか)。ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありませんもご覧ください。ご納得のほどお願いします。第三者の皆様へ、暫く経ちましたらば、このコメント含めて節ごと削除でよいです。--小石川人晃会話2023年1月18日 (水) 11:18 (UTC)[返信]

本文または要旨に現状の英語版の説明を加えられませんか。

本文か要旨に現状の英語版の趣旨を加てほしい思うのですがいかがでしょうか。--121.115.128.139 2023年4月6日 (木) 06:55 (UTC)[返信]