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2023年1月27日 (金) 05:14時点における版
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阪神タイガース ヘッドコーチ #78 | |
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一番手前が平田 (2013年9月28日、阪神鳴尾浜球場) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 長崎県松浦市 |
生年月日 | 1959年7月31日(65歳) |
身長 体重 |
177 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト2位 |
初出場 | 1982年4月7日 |
最終出場 | 1994年10月1日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
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平田 勝男(ひらた かつお、1959年7月31日 - )は、長崎県松浦市出身[1]の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、コーチ。
2019年から2022年までに阪神タイガースの二軍監督を務めた[2]。野球解説者時代の2012年から芦屋大学の客員教授を務めた[3]。
経歴
プロ入りまで
松浦市今福町出身[1]。長崎市の海星高校に進学した[2]。2年生で遊撃手のレギュラーとなり、1年先輩の好投手酒井圭一を擁して1976年夏の甲子園大会に出場した。準決勝に進むが、PL学園に延長11回の熱戦の末に敗れた。翌1977年にも主将として春の選抜に出場し、くじを引き当てて開会式の選手宣誓を行っている。2回戦(初戦)で、中村高の山沖之彦投手に抑えられ敗退した。
卒業後は明治大学に進み[2]、当時の野球部監督・島岡吉郎の指導を受けた。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝し、全日本大学野球選手権大会で3回、明治神宮野球大会でも1979年に優勝した。リーグ通算83試合で307打数96安打、打率.313、2本塁打、39打点。ベストナイン4回。大学時代から犠牲バントの技術があり、1980年から2年連続出場した日米大学野球では、解説者に「平田のバントは百発百中」と紹介されていた。大学同期にはエースの森岡真一(日産自動車)らがいる。なお、4年時の大学選手権優勝以来同校はこの大会でのタイトルから遠ざかっていたが2019年に優勝すると当時1年生であった善波達也監督がインタビューで平田を含む当時のメンバー9人の名前を挙げた。
プロ入り後
1981年のドラフト2位で横浜大洋ホエールズと阪神タイガースの重複指名の結果、クジを引き当てた阪神に入団した[4]。
当時の平田は非力な打撃から、明大の島岡監督は「プロに入っても成功しない」と考えていた。平田も島岡の考えに従い社会人野球へ進むことを決めており、入団交渉の際も別室で控え島岡に交渉を任せていた。島岡は阪神側に「平田はプロには行かせない」と断りを入れる。しかし阪神の安藤統男新監督(慶大OB)が「六大学時代は島岡さんによくやられました」などとしきりに持ち上げたことに機嫌を良くした島岡は、別室に控えさせていた平田を呼び、「お前、阪神に行け」とその場で命令したと平田本人が後に語っている(島岡は特に早慶へ強い対抗心を抱いていた)[5]。
当時、阪神の遊撃レギュラーは真弓明信だったが、1983年5月に故障したことで、後継として遊撃手に定着する。復帰後の真弓は岡田彰布の故障で空いた二塁手に回った。同年は83試合に先発出場。
1984年には規定打席(29位、打率.268)に達し、同年から1987年までダイヤモンドグラブ賞・ゴールデングラブ賞を獲得し、守備の名手として活躍した[6]。阪神が21年ぶりのセ・リーグ制覇、そして初の日本一に輝いた1985年には打撃も好調を維持し、7番打者ながら50打点以上を記録した[7]。また、同年10月10日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)でプロ初・野球人生初の満塁本塁打を放っている。同年の西武との日本シリーズでは、第1戦に3安打、通算22打数7安打1打点とチーム日本一に貢献した。
1988年に村山実監督が就任し、遊撃手のレギュラーは和田豊となり、主に控えとなった。以降は出場試合数が100試合を切ったが、守備力とバントの技術で貴重な控えとして貢献した。1990年は8試合の先発出場にとどまるが、打撃は好調で、主に代打として打率.347の好成績を残している。
1994年に現役引退。10月1日の対広島東洋カープ戦(甲子園)が引退試合となり、二番・遊撃で先発出場。現役最終打席は中村勝広監督から「振って来い」と送り出されるも、平田自身の判断による送りバントであった[8]。現役時代は、中西清起・平田・木戸克彦の3人で「NHKトリオ」と呼ばれていた。
引退後
引退後は毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家(1995年 - 1996年)を経て、1997年に一軍内野守備コーチとして阪神に復帰。1999年から2000年は一軍守備コーチ、2001年には一軍守備・走塁コーチを務めた。コーチ時代も常に大声のムードメーカーで、指導は「厳しく楽しく」がモットーであった[9]。
2002年、大学の先輩である星野仙一監督就任を機に、監督専属広報及び専属運転手に就任した。その際、送迎車のナンバープレートの数字を「1001」(仙一)などいろいろ考えた末に「731」にして、星野監督に「何で731なんだ?」と聞かれ、「僕の誕生日です」と答えて星野監督に怒られかけた[10]。
星野が監督を勇退した2004年からは、岡田彰布の下で一軍ヘッドコーチとして現場復帰した。2005年9月7日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では、9回裏本塁のクロスプレーでの微妙な判定に対し、球審の橘高淳を突き飛ばして退場処分を受けた。
2007年からは二軍監督を務め、2010年には4年ぶりのウエスタン・リーグ優勝を果たしたが、シーズン終了後退団した。
2011年シーズンより毎日放送解説者[注 1]、スポーツニッポン評論家に復帰した。復帰後の初仕事は、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した星野へのインタビューだった[11]。
2012年には、野球解説・評論活動と並行しながら、「芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクト」のメンバーに招聘され、同年4月からは、同学園が運営する芦屋大学の客員教授に就任した。
2013年からは二軍監督として、2年ぶりに現場に復帰[12]。2014年も同職を務め、2015年は一軍ヘッドコーチ[13]、2016年からは一軍チーフ兼守備走塁コーチを[14]、2019年からは二軍監督を務めた[15]。
2019年6月14日、13日のオリックス・バファローズ戦で、選手交代の通告を怠ったとして、斉藤惇コミッショナーから厳重注意が下された[16]。
2021年、自身の指揮する二軍が7月30日の対オリックス戦(阪神鳴尾浜球場)から9月15日の対ソフトバンク戦(甲子園)にかけて引き分けを挟んだ18連勝を達成し、1999年に読売ジャイアンツ二軍が達成した15連勝を上回るファーム日本新記録を樹立した[17][18]。その後福岡ソフトバンクホークスと激しい首位争いを繰り広げたが、9月24日の対オリックス戦(甲子園)に勝利したことでチームを3年ぶりのリーグ優勝へと導いた[19]。チーム最終成績は106試合で65勝34敗7分け、勝率は.657であった[20]。その後、10月9日に行われたファーム日本選手権(ひなたサンマリンスタジアム宮崎)でイースタン・リーグ優勝チームの千葉ロッテマリーンズを下し、ファーム日本一を達成した[21]。
一軍監督に岡田が復帰した2023年からは、再び一軍ヘッドコーチを務める[22]。
選手としての特徴
非力ではあるものの、犠打などの小技と勝負強さを兼ね備えた打撃と堅実な守備が武器。1987年まで遊撃のレギュラーとして4年連続でゴールデングラブ賞を受賞し、その後は貴重な控え選手としてチームを支えた。深い守備位置から矢のような送球で打者走者を刺す強肩の持ち主で、1985年の日本シリーズでも随所で好守備を連発した[8]。
人物
学生時代は、試験勉強やレポートの提出はおろそかにしていたが、当時、明大教授であった栗本慎一郎が後に「レポートの文章に、一字一句参考書を楷書で書き写してきたのは平田だけだ。本来はこういう参考書をそのまま書き写したり模写しただけの学生には単位はやらないが、平田の几帳面さに免じて単位を出した」と語るほど繊細な一面もある。この話は試験期間が近づくと毎年のように栗本が講義で話していた。
ミッキーマウスに似ていることと、明るく外交的な性格からミッキーの愛称を取り、常に阪神ベンチのムードメーカーだった。
2005年のセ・リーグ優勝時のビールかけの時には、金本知憲の誘いに乗り、壇上に挨拶に上がった岡田監督(東京六大学の先輩)に対し、「よっ! 岡田!」と威勢良く呼び捨てにするということもあった。このビールかけの際には「日本一になったら俺を胴上げしてくれ!」と高らかに叫んだが、その後の日本シリーズで千葉ロッテマリーンズに敗退したため、叶うことはなかった。MBSラジオの野球解説者に復帰した後も、同局のプロ野球中継で阪神戦の解説を務める場合には、「帰って来たお祭り男」(2012年以降は「トラのお祭り男」)というキャッチフレーズが付けられている。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | 阪神 | 23 | 22 | 17 | 3 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 2 | 0 | .235 | .350 | .235 | .585 |
1983 | 100 | 340 | 292 | 33 | 73 | 12 | 1 | 2 | 93 | 28 | 1 | 2 | 22 | 1 | 20 | 1 | 5 | 25 | 8 | .250 | .308 | .318 | .627 | |
1984 | 128 | 493 | 437 | 42 | 117 | 24 | 1 | 6 | 161 | 41 | 2 | 0 | 24 | 2 | 28 | 0 | 2 | 26 | 9 | .268 | .313 | .368 | .682 | |
1985 | 125 | 455 | 402 | 47 | 105 | 15 | 2 | 7 | 145 | 53 | 6 | 2 | 25 | 1 | 23 | 0 | 4 | 35 | 12 | .261 | .307 | .361 | .668 | |
1986 | 124 | 448 | 405 | 47 | 108 | 15 | 1 | 5 | 140 | 33 | 1 | 2 | 22 | 0 | 16 | 0 | 5 | 41 | 7 | .267 | .303 | .346 | .648 | |
1987 | 126 | 454 | 418 | 30 | 109 | 15 | 0 | 3 | 133 | 21 | 3 | 2 | 13 | 0 | 21 | 0 | 2 | 42 | 16 | .261 | .299 | .318 | .618 | |
1988 | 90 | 200 | 180 | 12 | 51 | 9 | 1 | 0 | 62 | 16 | 0 | 3 | 7 | 1 | 10 | 1 | 2 | 24 | 3 | .283 | .326 | .344 | .671 | |
1989 | 89 | 119 | 102 | 7 | 14 | 3 | 1 | 0 | 19 | 6 | 1 | 0 | 9 | 1 | 6 | 2 | 1 | 9 | 3 | .137 | .191 | .186 | .377 | |
1990 | 60 | 84 | 72 | 6 | 25 | 3 | 0 | 0 | 28 | 10 | 0 | 2 | 6 | 1 | 5 | 0 | 0 | 6 | 4 | .347 | .385 | .389 | .774 | |
1991 | 44 | 54 | 49 | 5 | 13 | 1 | 0 | 0 | 14 | 2 | 0 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 8 | 1 | .265 | .308 | .286 | .593 | |
1992 | 40 | 55 | 48 | 2 | 8 | 2 | 0 | 0 | 10 | 6 | 3 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 2 | .167 | .200 | .208 | .408 | |
1993 | 29 | 29 | 28 | 1 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .214 | .207 | .250 | .457 | |
1994 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
通算:13年 | 979 | 2754 | 2450 | 235 | 633 | 100 | 7 | 23 | 816 | 220 | 19 | 14 | 138 | 8 | 133 | 4 | 25 | 229 | 65 | .258 | .302 | .333 | .635 |
表彰
記録
- 初記録
- 初出場:1982年4月7日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤ球場)、6回表に宇田東植の代打として出場
- 初安打:1982年7月31日、対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に新浦壽夫から単打
- 初打点:1982年9月2日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(横浜スタジアム)、7回表に平松政次から適時打
- 初先発出場:1983年5月7日、対ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、2番・遊撃手として先発出場
- 初本塁打:1983年5月28日、対読売ジャイアンツ8回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に新浦壽夫からソロ
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回(1985年)
背番号
- 30(1982年 - 1994年)
- 71(1997年 - 2001年)
- 78(2004年 - 2010年、2015年[24] - )
- 72(2013年 - 2014年)
関連情報
出演番組
テレビ
- 侍プロ野球(MBSテレビ、2011年・2012年)
- 猛虎ファイル→withタイガース'12(MBSテレビ、2011年・2012年、阪神の選手や戦い振りを評価する「平田勝男の勝つ!」→「平田勝男の勝躍男」を担当)
- せやねん!(MBSテレビ、阪神二軍監督時代から「せやねん!スポーツ」へ不定期でゲスト出演、解説者として2011年7月2日から2012年10月13日まで同コーナーレギュラー)
- ちちんぷいぷい(MBSテレビ、阪神を中心とするプロ野球の話題を扱う場合に不定期で出演)
ラジオ
- MBSタイガースライブ(MBSラジオ、2011年・2012年)
- MBSとらぐみタイガースライブ!木曜日(MBSラジオ、2011年度のナイターオフ番組)
- 堀江政生のほり×ナビ(ABCラジオ、2016年10月19日放送分「吉田義男のあの人は今 元・プロ野球選手名鑑」にスタジオ出演)
脚注
注釈
- ^ 2010年12月27日にMBSラジオで放送された『星野仙一の熱血・仙一夜』で、星野への激励コメントを収録した際に、解説者に復帰することを自ら明かした。
出典
- ^ a b “市報まつうら 2008・11”. 松浦市. 2022年6月17日閲覧。
- ^ a b c “監督・コーチプロフィール”. 阪神タイガース公式サイト. 2022年6月29日閲覧。
- ^ “元阪神2軍監督・平田勝男氏 芦屋大客員教授に就任”. スポニチ. 2022年6月29日閲覧。
- ^ “平田勝男(阪神タイガース)”. NPB.jp 日本野球機構. 2022年6月29日閲覧。
- ^ 平田勝男2軍監督が“NHKトリオ”と呼ばれていた頃…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<30> : スポーツ報知
- ^ “『僕、守る人』平田勝男 自らを「自衛隊」と…:1985 阪神日本一 写真特集”. 時事ドットコム. 2021年9月19日閲覧。
- ^ “所沢の山賊超え!? 水爆にダイナマイト! 西武打線とプロ野球の歴代最強打線を比較してみた・前編(週刊野球太郎)”. goo ニュース (2018年5月31日). 2019年12月21日閲覧。
- ^ a b “平田勝男 猛虎打線で異彩を放ったバントの構え/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2019年4月5日). 2021年4月16日閲覧。
- ^ “阪神タイガース2001陣容”. 大阪日刊スポーツ・なにわWEB. 2001年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月19日閲覧。
- ^ 2009年1月24日に開かれた江崎グリコ主催の「平田勝男トークショー」での発言。
- ^ “楽天 星野監督「2年目からでいいやと思うと強くならない」”. Sponichi Annex. (2010年11月10日). オリジナルの2010年11月11日時点におけるアーカイブ。 2016年7月23日閲覧。
- ^ “平田勝男氏のファーム監督就任について”. 阪神タイガース公式サイト (2012年10月12日). 2021年9月19日閲覧。
- ^ “2015年度 監督・コーチについて”. 阪神タイガース公式サイト (2014年11月6日). 2014年11月6日閲覧。
- ^ “阪神・金本新監督「最強のコーチ陣」 来季スタッフ発表”. スポーツニッポン. (2015年10月27日) 2023年1月17日閲覧。
- ^ “阪神が新コーチングスタッフ発表 1軍清水ヘッドコーチ、2軍平田新監督”. Full-Count (2018年10月22日). 2023年1月17日閲覧。
- ^ “阪神・平田2軍監督に厳重注意”. SANSPO.COM (2019年6月14日). 2019年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月25日閲覧。
- ^ “阪神2軍、ファーム日本新記録16連勝 村上5回0封、継投で1点守りきる”. 日刊スポーツ (2021年9月5日). 2021年9月19日閲覧。
- ^ “阪神2軍の連勝は「18」でストップ”. スポニチ Sponichi Annex (2021年9月15日). 2021年9月18日閲覧。
- ^ “阪神2軍 3年ぶりのウエスタン・リーグ優勝!”. スポニチ Sponichi Annex (2021年9月24日). 2021年9月25日閲覧。
- ^ “阪神2軍が最終戦を白星締め 65勝34敗7分けで今季終える”. nikkansports.com. 2021年9月26日閲覧。
- ^ “阪神2軍ファーム日本一、2点ビハインドの9回に逆転 最優秀選手に遠藤成”. nikkansports.com. 2021年10月12日閲覧。
- ^ “阪神・平田ヘッドコーチ 岡田野球が目指す二遊間へ、85年日本一コンビがゲッツー増で再び黄金期”. スポーツニッポン. (2022年11月5日) 2023年1月17日閲覧。
- ^ “2台目ベンツゲット!虎・福留「来年優勝」してEクラス頂く(5)ヤナセ・阪神タイガースMVP賞歴代受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2015年12月12日). オリジナルの2015年12月16日時点におけるアーカイブ。 2018年3月1日閲覧。
- ^ “虎平田ヘッド決意の鬼背番号、島野流継承”. 日刊スポーツ (2014年11月18日). 2021年10月6日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 平田勝男 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)