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2022年10月6日 (木) 20:48時点における版
福岡県立修猷館高等学校 | |
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北緯33度35分02秒 東経130度21分24秒 / 北緯33.58389度 東経130.35667度座標: 北緯33度35分02秒 東経130度21分24秒 / 北緯33.58389度 東経130.35667度 | |
過去の名称 |
東学問所修猷館 福岡県立英語専修修猷館 福岡県立尋常中学修猷館 福岡県中学修猷館 福岡県立中学修猷館 福岡県立高等学校修猷館 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 福岡県 |
学区 | 福岡県第6学区[1](旧第7学区) |
設立年月日 |
(藩校) 1784年 (福岡県立英語専修修猷館) 1885年 |
創立記念日 | 5月30日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | D140213000164 |
高校コード | 40142A |
所在地 | 〒814-8510 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう、英: Fukuoka Prefectural Shuyukan High School)は、福岡県福岡市早良区西新六丁目にある公立高等学校。略称「修猷館(しゅうゆうかん)」「修猷(しゅうゆう)」。
1784年開館の福岡藩藩校・甘棠館(西学問稽古所)、同修猷館(東学問稽古所)に起源を持つ伝統校。
概観
組織
かつては定時制と通信制も存在したが、現在は全日制普通科のみ。募集定員は11クラス440名。教室設備の都合上、3年に一度は定員を10クラス400名とし、全校で32クラス約1280人の生徒が通う。
2年次から文系・理系のクラスに分かれる。文系・理系普通クラスのほかに、文系英数クラス・理系英数クラス(通称英数)・理系医学部進学クラス(通称医進)が設置されている。
かつての補習科(福岡県立高校におかれた既卒生のためのクラス)を前身とする予備校、修猷学館が存在した(他校卒も入学可、跡地は西南学院大学により現在の図書館の敷地の一部として買収された)。学校の裏手、西南学院大学に隣接し、教員や模試も高校と共通であったため、「修猷は四年制高校」とも揶揄された。九大をはじめ国立大医学部へ卒業生を多数輩出したが、1995年に閉校となった。
校名
修猷館の名は尚書(書経)「微子之命」の章句[2]、「踐脩厥猷」(湯王(天乙)の道を踏み修む)から取られた。藩校設立から230年あまり一貫して校名に"修猷館"を掲げている。
自由な校風で知られ、生徒に学校運営を大きく委ねる自治を認めている。生徒を「館生」、校長を「館長」、校歌を「館歌」、校旗を「館旗」と称する。
学校の定めた校訓などはないものの、「不羈独立」「質朴剛健」「自由闊達」の言葉が先輩から後輩へと受け継がれている。修猷館をもじって「Sure, you can!」という言葉もよく使われる。
徽章
六光星と呼ばれている。1894年(明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって、日清戦争直後の興隆する国運を背景に制定された。由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであり、日月と輝きを同じくする星の光に将来を荷う若き青年の希望を託したものである。なお、この星の形は北極星をかたどったものであり、永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている[3]。
上図のように、上下逆転させた2つの正三角形を重ねたシルエット(各頂点の内角は60°)が正式な形である[4]。なお、一部の古い旗や制帽では星型の各頂点の角度が60°より小さく、鋭くなっているものがある。このようなデザインは校内のデザインやステッカー、刊行物にも見られ、第二のスタンダードとなっている。
館旗
紫紺の地の中央に2本の罫線と六光星が白く抜かれたもの。スクールカラーは紫、もしくは紺。南棟塔屋上部の掲揚台には国旗と県旗、そしてこの館旗がはためく。
館歌
- 館歌-修猷讃歌カンタータ
- 1923年(大正12年)制定
- 作詞:藤沢雄一郎(中学修猷館教諭)
- 校閲:八波則吉
- 再閲:武島羽衣
- 作曲:横田三郎(中学修猷館教諭)
応援歌など
長い歴史の中で数々の応援歌やエールなどのバンカラ文化が受け継がれている。應援團が生徒に指導を行ったり、行事で指揮を取ったりしてその保全に努めている。代表的なものに、“彼の群小”、“玄南の海”、“輿望は重し”、“夫れ北筑”など。
修猷と福高
福岡県立福岡高等学校とは、その前身である旧制福岡中学が1917年に修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校したことや、1927年の火災で福岡中学校舎が全焼した際、福中復興支援を全校で行ったこともあり特別に関係が深い。
また武士の町・福岡の代表としての修猷館高校と、対する商人の町・博多の代表としての福岡高校という良きライバル関係を互いに受け継いでいる。ラグビー部では毎年天皇誕生日に福高定期戦を行っている他、バスケット部、バレーボール部、剣道部も福岡高校と現役選手およびOBを交えた定期戦を行っている。
さらに東京修猷会の周年行事、ラグビー部・野球部などの長い伝統を持つ部の周年行事には良きライバル校として福岡高校の関係者も招待することが慣行である[5]。福岡高校100周年の春には、春日公園にて記念試合を行い、両校とも雨の中全校で応援に向かった。
沿革
藩校時代
- 1783年(天明3年)6月24日(旧暦) - 福岡藩第9代藩主黒田斉隆(江戸幕府第11代将軍徳川家斉の実弟)が藩儒竹田定良、儒医亀井南冥に藩校創建を命じる
- 1784年(天明4年)2月1日(旧暦) - 福岡藩の藩校として甘棠館(西学問稽古所)開館[6] 初代館長は亀井南冥
- 1784年(天明4年)2月6日(旧暦) - 同じく福岡藩の藩校として修猷館(東学問稽古所)開館。初代館長は竹田定良
- 1798年(寛政10年)1月29日(旧暦) - 唐人町より発した大火により甘棠館焼失。生徒は皆修猷館に編入し以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなる。
断絶期
- 1871年(明治4年)10月25日 -廃藩置県により、福岡県が成立。後の1874年 福岡県はこの地に診療所を設置、これが九州大学の起源となる
- 1879年(明治12年)1月5日 - 向陽社(後の玄洋社)により向陽義塾設立
- 1881年(明治14年)1月7日 - 向陽義塾閉塾
- 1881年(明治14年)1月7日 - 向陽義塾を引き継ぎ、旧福岡藩主黒田家により藤雲館設立
- 1885年(明治18年)侯爵黒田長溥、金子堅太郎と福岡の旧藩士の尽力により、廃止から十四年振りに修猷館を再興することが決定[7][8][9]。
再興
- 1885年(明治18年)5月30日 - 福岡県令より、英語専修学校である福岡県立修猷館[10] の設置が告示される(同日を創立記念日としている)
- 1885年(明治18年)9月10日 - 福岡県立修猷館を開館[11] 開館式を行う 黒田家の寄付により藤雲館の校舎・什器一切を引き継ぐ
- 1887年(明治20年)3月26日 - 原因不明の出火により全焼。一時的に旧警固小学校跡に移転
- 1889年(明治22年)3月13日 - 福岡県立尋常中学修猷館と改称
- 1889年(明治22年)3月15日 - 隈本有尚館長、金子堅太郎、栗野慎一郎らの尽力により旧藩校修猷館跡である大名町堀端(現・中央区赤坂1丁目)に再建・移転
- 1891年(明治24年)3月24日 - 投石事件[12]
- 1894年(明治27年)12月 - 六光星の徽章を制定
- 1899年(明治32年)4月1日 - 中学校令改正に伴い、新年度より福岡県中学修猷館と改称
- 1900年(明治33年)7月17日 - 大名町から西新町(現在の場所)へ移転
- 1901年(明治34年)5月4日 - 福岡県立中学修猷館と改称
- 1917年(大正6年)4月1日 - 寄宿舎の一部を仮校舎として福岡県立福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)が開校
- 1923年(大正12年)3月5日 - 館歌制定
- 1925年(大正14年)4月1日 - 福岡県中学修猷館と改称
- 1926年(大正15年)菁莪堂建設[13]
- 1927年(昭和2年)6月22日 - 福岡中学校舎火災に伴い修猷館の一部を仮校舎として貸す
- 1945年(昭和20年)6月19日 - 福岡大空襲により大きな被害を受ける
戦後
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革に伴い、新年度より福岡県立高等学校修猷館と改称[14]
- 1949年(昭和24年)
- 1985年(昭和60年) - 創立200周年記念事業開始( - 1987年) 同年3月26日、新菁莪堂(正しくは菁莪記念館[15])竣工
- 1998年(平成10年)3月 - 新校舎建設事業開始 (卒業式を待ち、まず最初に講堂が解体)
- 2000年(平成12年) - 第一期工事(教室棟)完成
- 2002年(平成14年)
- 4月 - 文科省よりスーパーサイエンスハイスクール(第一期)の指定を受ける(2006年度を以て終了)
- - 第二期工事(管理棟)完成。校舎建て替え・福岡県立博多青松高等学校の開校により定時制課程を閉課
- 2003年(平成15年) - 第三期工事(新体育館)完成
- 2005年(平成17年) - 第四期工事(プール、弓道場、ヨット部艇庫)完成
- 2008年(平成20年) - 第五期工事(新講堂、新正門)完成 これにより10年に亘る新校舎建設事業完了
- 2013年(平成25年)3月18日 - 旧正門が福岡市登録文化財に登録される
- 2019年(平成31年/令和元年)
- 2020年(令和2年)8月 - グラウンドの全面芝生化完成
校内
- 正門・旧正門(市登録文化財)- 正門のそばにある旧正門は1900年の西新移転当初からあり、福岡市から文化財として登録されているが、現在は使用されていない。同時期の構造であったレンガ塀や門柱が耐震基準に適合していなかったため、2018年冬から2019年秋にかけて新しい鉄筋コンクリート塀が建設された。
- 黒松門(自動車用)・北門(閉鎖)- 黒松門・桜門の名は、江戸時代からの防砂林の名残であるクロマツの保存樹や、かつて国道沿いに咲き誇った桜並木に由来している。
- 南門(元正門)・桜門(運搬車両用)- 昭和を通じて正門であった現南門には西鉄バス修猷館前停留所が位置し、印象的なソテツのロータリーや図書館の正面入口、修猷タワーと呼ばれる教室棟の塔屋に面するなど、今も修猷の顔としての機能を担っている。
- 修猷資料館 - 南門そばの雑木林の中にはレンガ造りの修猷資料館があり、修猷200年来の資料を数多く収蔵している。同窓会長江浦重成の寄贈により1976年に竣工した。
- 図書館棟(修猷館二百年菁莪記念館)- 創立200年を祝して建てられた菁莪記念館には、講演堂「菁莪堂」、図書館、視聴覚室があり、授業や行事のほか、吹奏楽部や放送部の活動にも使われている。7万冊の蔵書を抱える図書館は読書だけでなく自習にも供されている。白血病に倒れた生徒の遺族がミロのヴィーナスの石膏像を寄贈し、いまも図書館に展示されている。
- 管理棟・特別教室棟 - ロの字の校舎が日本風の築庭を取り囲み、その中を竹やぶが突き抜けるように植わっている。事務室や校長室といった校務のための施設のほか、職員室、国語・数学・英語科の教官室、自習スペース、相談室や進路資料・指導室がある。これ以外にも3つの化学・物理・生物それぞれの実験室、社会科講義室、書道教室、和作法室、部室などが所在している。
- 教室棟(南棟・中棟・北棟)- コの字の校舎の2階から4階がそれぞれ3学年から1学年のフロアで、南北それぞれにホールと呼ばれる自習スペースが設けられている。南北棟はHR教室で、中棟は大講義室や階段講義室、パソコン教室となっている。5階には美術室、音楽室、被服室、調理室、家庭科講義室、そして英語科ランゲージラボ(L.L.)教室がある。コの字型の校舎に囲まれた芝生の広場では全校集会や中庭ミニステージが行われる。
- 学生食堂・購買 Delight - 「オニカラ」はわかめおにぎり1個と唐揚げ2個。200円。
- 文化部棟-1階南棟は食堂と購買店で、昼も放課後も賑わっている。1階北棟は文化部棟と呼ばれており、11の団体が活動している。
- プール棟・運動部棟 - グラウンド北側のプール棟は、1階プールが1学年の体育や水泳部の活動で使われるほか、1階が運動部棟となっている。写真部室もここにある。
- 弓道場・艇庫棟 - ヨット部の艇庫・部室と、應援団室・山岳部室・弓道部室が一体になっているのが艇庫棟である。プール・運動部棟、艇庫棟、弓道場、講堂は敷地の北側にあって隣接しており、辺りを多くの部活動生が行き交っている。
- 講堂 - 収納式階段状座席を備えた多目的講堂。式典や集会、公講演の際はホールとして、体育の授業や部活動の際はアリーナとして使用している。
- 体育館 - 講堂とは別のスポーツ専用の体育館で、ゴールポストやトレーニングスペースを設けたアリーナ、体育科教官室や柔道場・剣道場、多目的ホール(卓球場)、そして各部室からなる。
- グラウンド・テニスコート・陸上走路 - 西側がラグビーコート、校舎側が野球コートになっていて、プール棟の横にテニスコートがある。2020年春に大規模な人工芝化の工事が終了し、全面人工芝になる。
- 生徒会倉庫(運営プレハブ・走路横プレハブ) - 体育館脇と陸上走路横に建つ2階建てのプレハブで、大運動会生徒運営委員会の倉庫や作業場として供されている。芝生化に伴い陸上走路横のものは取り壊される。
- 駐輪場・駐車場
このほか校内にはアイザック・ニュートンのリンゴの木の子孫や太宰府天満宮の飛梅が植えられていたり、ユーカリやクスの大木があったりと、街中ながら緑豊かな学校である。なお、ザクロやレモン、ワイルドベリーにサクランボなど、果樹も多く植わっている。
闘魂碑、創立記念碑、卒業紀念碑などの石碑や、「母子像」「想い」「みち」「RYU」などのアートが敷地内に点在しているのも修猷の魅力の一つである。
学校生活
ルール
自主自立の精神と反骨的な校風が受け継がれていることから特に校訓・校則を定めず、生徒による大幅な自治が認められてはいる。生徒心得という明文化されたルールはあるものの校則とは呼ばれず、風紀検査も行われない。生徒手帳が配布されない代わりにカードサイズの生徒証明書が発行されている。
校内での携帯電話の所持・使用は各自の裁量に任せるなど規則は緩やかであるが、私服登校やオートバイ通学は原則認められていない[16]。
制服
男子の冬服は一般的な黒色の学生服に学生ズボン。襟に校章をつける。学生服を脱いで中間服にする場合はカッターシャツ着用。セーターやカーディガンは学生服の下にしか着用しない。
男子の夏服は半袖のカッターシャツに学生ズボン。シャツのポケットに校章をつける。ベルトの色や形、インナーなどは自由。
女子の冬服は紺色のセーラー服に紺色のジャンパースカート。襟に白い3本線の縁取りがあり、左右の角には六光星の白い刺繍が入っている。襟かポケットに校章をつける。
タイ(スカーフ)は冬服・夏服のどちらも紺色。
女子の夏服は白のセーラー服に紺色の吊りスカート。襟に3本線の縁取りがあり、二隅に六光星が青で刺繍されている。襟かポケットに校章をつける。
男女とも靴、カバン、靴下は指定なし。また、体操服の指定もない(名字は記入する)。
時制
- 1限目 - 8:10-9:00
- 朝読書 - 9:10-9-20
- SHR - 9:20-9:30
- 2限目 - 9:30-10:20
- 3限目 - 10:30-11:20
- 第I昼休み - 11:20-12:00
- 4限目 - 12:00-12:50
- 5限目 - 13:00-13:50
- 第II昼休み - 13:50-14:10
- 6限目 - 14:10-15:00 (水のみ)
- (HR)
- 7限目 - 15:10-16:00 (月火木金)
- (HR)
2022年度から時制が変更されている
掃除は時制に組み込まれていないが、各クラスに割り振られた場所を放課後に掃除することになっている。
2つの昼休みを通称I昼・II昼と呼ぶ。生徒総会などがあるときにはその準備などのためにI昼とII昼の時間が入れ替わる。
多くの生徒が普段は40分間の1昼で昼食を済ませるが、I昼・II昼入れ替え時制の日には20分間で昼飯を済ませなければならなくなる。そのため売店では第I昼休みと第II昼休みが入れ替わる日のみテイクアウトの弁当を販売していた。2019年現在ではランチボックスと称して通年販売中である。
3年生になると選択科目に準じて放課後補修が実施される。なお、自習スペースとして放課後の教室、2階大講義室、南北棟タワーホール、教科センター前などが供されている。
修猷二大行事
外部に広く公開される大規模な学校行事は年に2回開催される。いずれも企画立案段階から各行事における生徒運営委員会が設置され、生徒主体の運営が行われる。またこれらの行事の直前期には、授業時制が大幅に短縮されて50分授業×6限から40分授業×4限になり、午後は作業・練習の時間となる。内部での行事ではあるが、十里踏破遠足や予餞会を加えて三大行事とすることもある。
修猷大文化祭
毎年6月上旬頃の土曜・日曜の連日に開催されていたが、2学期制への移行に伴って平成20年度からは3月中旬ごろの土曜・日曜に移行された。また、3年生は参加しない。例年、一般公開されている。
内容を大別すると、各クラスが一体となって展示や劇を行うクラス企画、文化部が部活動の内容や成果を紹介したり部活動に関連した内容の展示や劇を行ったりする文化部企画、展示・バンド・歌・ダンスなど有志が中心となって行う文化祭有志、という3形態がある。
秀逸だったクラス企画には「館長賞」「六光賞」「稽田賞」などが与えられる[17]。
2008年度から、6月に文化部を中心とした文化祭「春のフェスト」(クラス展示なし)という行事が開催されることになったが、2009年度から『春のフェスト』は廃止され、代わりに「文化部発表会」となった。
修猷大運動会
毎年9月上旬の日曜日に単日開催。例年、一般公開されている。全校生徒が赤・青・白・黄の4ブロックに分かれて競う。各競技毎と全体での優勝が発表される。なお、運営委員の生徒は緑色を着る。
1964年東京オリンピックにおいて国立競技場の織田ポールに翻っていた五輪旗は、その見事な大会運営に感動したアベリー・ブランデージIOC会長から同校出身の組織委員会会長の安川第五郎に寄贈され、その後安川から母校である修猷館高校に寄贈された。この五輪旗は長らくこの運動会の入場行進に使用されていたが、現在は劣化したためレプリカを使用し、実物は額に入れられ同校の資料館に展示されている。
年間行事
上記の二大行事や学年行事、研修旅行を除いてほぼ全ての行事運営を執行部が担っている。
4月
- 部活動オリエンテーション - 1年生の入学直後、6限・7限で行われる。2週間ほどの体験入部期間の初日となる。
- 一学年創志研修 - 以前は近郊での宿泊研修だったが、自然災害の影響で平成29年度からは日帰りの自然レクリエーション、校内でのクラス討議などに変更されている。
- 二・三年学年遠足 - 4月末に行われる学年遠足。2年生は志賀島方面、3年生は能古島へフェリーで遠足に行く。クラスや学年での団結を強める行事である。
5月
- 創立記念行事 - 5月30日の創立記念日に合わせて様々な文化行事が1日かけて催される。午前中は政財界の要人や科学者、文人などを一人招いて講演会を行う。午後は各方面で活躍する卒業生が出前授業をする卒業生キャリアセミナーが行われる。
6月
- 二年芸術鑑賞 - 6月中旬、2年生のみ実施する。集団で地下鉄に乗り観劇に向かう。平成30年度は博多座での歌舞伎観劇だった。
- 小学生ふれあい教室 - 6月中旬、近隣の小学生と保護者を招いて学校案内を行う。
7月
- 海外研修 - 7月中旬の一週間で開催。校内から選抜された派遣団が米国西海岸・東海岸の諸都市を隔年で訪問する。同窓会組織からの手厚い補助が不可欠の行事である。
- クラスマッチ - いわゆる球技大会である。夏休み直前に2日間行われる。大運動会に向けてクラスの団結を高めるプレ大会といった側面をもち、6つの競技部門とクラス総合の両方で成績が発表される。
8月
- 二年東京研修 - 夏季休業中の8月上旬開催。東京近辺への進学を考える2年生が参加する。大学や企業を訪問する。
9月
- 大運動会
- 東北研修 - 9月末から10月初旬の秋季休業中に開催。2011年度の修学旅行で最初に東北地方を訪れたことから、2018年度まで7年続いた研修旅行。東北の復興に鑑みてここで停止となる。
10月
- 修猷フェスト - 10月下旬から11月上旬頃に開催。中学生に向けた学校説明会で、部活動の紹介や体験授業などを行う。土曜の午後に開催。午前は卒業生による出前授業。
- 二年研修旅行 - 10月末から11月初旬にかけて開催。いわゆる修学旅行。学年全体で国内の同じ地方を訪れるが、その中でいくつかのコースに別れて研修をする。長野県、沖縄県、関西地方と近年では行き先が3年毎に変遷している。
11月
- 菁莪祭 - 校内での図書館祭で、11月中旬の読書週間に行われる。期間中は一人あたりの貸出冊数が増えたり、教員による講演会や他校との交流もある。
12月
- 十里踏破遠足 - 十里行軍とも呼ばれた。糸島半島十里(約40km)を歩き抜く行事(強歩大会)である。毎年2月上旬ごろに開催されていたが、2008年度から12月中旬に引き上げられた。3年生が参加しない行事の一つ。
1月
- 予餞会 - 毎年1月31日に開催。下級生と上級生が対面形式で学校生活や生徒個人の理想、信念を語り合う場となっている。
3月
- 大文化祭
部活動・生徒会
部活動への加入率が高く掛けもちをする生徒もいるほか、全校生徒からなる生徒会が大幅な自治と学校運営を任されており、どの団体も行事や大会に向けて日頃からさかんに活動している。
生徒会
生徒会選挙で選出されるのは下記の三役員のみで、業務のほとんどは執行部が行う。
- 生徒会総務 - 前期・後期各1名。生徒会の代表者であり、名目上は執行部の長。
- 生徒会議長 - 前期・後期各1名。議長団を統括し生徒総会や談話会を主催する。
- 監査委員長 - 前期・後期各1名。各クラスの監査委員を集め生徒会三役選挙を行う。
事業部
生徒の学校生活や広報に関わる部で、学校運営の一端を担う。
- 執行部 校内雑務・行事運営を担う。選挙ではなく届け出による入部。
- 新聞部 修猷新聞・NEO、EXTRAを発行。全国大会出場、全国高文祭優良賞受賞。
- 応援団 学校行事や試合にて活動。
- 議長団 生徒会の議事録などを作成。
運動部
スポーツ推薦による入学もあり、ラグビー部や陸上部をはじめ多くの運動部が高体連全国大会を目指して盛んに活動している。
- 野球部 2009年県大会ベスト4
- ラグビー部 第4回国体優勝, 2014年福岡県大会優勝(前年全国制覇の東福岡高等学校を下しての優勝)。
- 陸上部 2009年インターハイ出場。
- 山岳部 2011年、2019年インターハイ出場。
- 卓球部
- 水泳部
- バスケットボール部
- バレーボール部
- ヨット部
- サッカー部
- 硬式テニス部
- 軟式テニス部
- 柔道部 金鷲旗9回優勝
- 剣道部 玉竜旗6回優勝
- 弓道部
- バドミントン部
文化部
文化部活動の成績による推薦入学もあり、多くの文化部で兼部が可能である。特色ある部ばかりで、全国総文祭に出場することもしばしばある。
- ディベート部 ディベート甲子園で2001年に優勝。現在、初出場から18年連続出場中。
- JRC部 Junior Red Crossの略、ボランティア活動を行う。
- 吹奏楽部
- 生物研究部
- 化学部
- 物理部
- 数学研究部
- 茶道部
- 華道部 2017年度全国大会出場。
- 演劇部
- 美術部
- 文芸部 平成30年度県大会部誌部門優秀賞
- 書道部
- パソコン部
- コーラス部 2008年度全国大会出場。
- 映画制作部
- 写真部
- 放送部 2017年度全国大会出場。
- ESS部
愛好団体
諸事情あってまだ同好会や部活動として認可されていないが、有志生徒が集まって顧問をつけ、大会などに出場したり、学校行事に参加したりしている団体。
- 競技かるた愛好会
- クイズ研究会 2021年度AQLジュニア全国大会進出
この他に競技人口の少ない分野でも生徒が活躍するための文体総合部があり、囲碁などで全国大会に出場している。
アクセス
最寄りの鉄道駅
最寄りのバス停
- 西鉄バス
- 修猷館前バス停
- 脇山口バス停
- 西南学院大学前バス停
最寄りの道路
- 明治通り
- サザエさん通り
高校関係者一覧
脚注
注釈
出典
- ^ “福岡県立高等学校の通学区域に関する規則等(令和2年10月13日改正)”. 福岡県. 2021年2月23日閲覧。
- ^ 修猷館二百年史編集委員会『修猷館二百年史』修猷館二百年史編集委員会、1985年5月25日、20頁。
- ^ 六光星の由来 修猷館高等学校ホームページ
- ^ 制定者の隈本有尚は、昭和9年に当時の館長古賀毅への書簡において六光星の由来を記しており、その中でデザインの選定理由を「技術上(下絵製作上)にも等辺三角形を重ねるのであれば職人に於て手落あるまじく」と述べている。『修猷館二百年史』修猷館200年記念事業委員会、1985年、111-112頁。
- ^ 2007年の月刊現代9月号より新連載の名門高校ライバル物語の第一回に、修猷館高校&福岡高校として紹介された。
- ^ 藩校修猷館が上級武士を対象に幕藩体制を支える理論重視の朱子学を講じたのに対し、藩校甘棠館は下級武士や町人らを対象に朱子学に批判的な実践重視の徂徠学を講じており、前者の系譜は東学、後者の系譜は西学と呼ばれた。1790年(寛政2年)、江戸幕府老中松平定信が寛政の改革で行った学問の統制(寛政異学の禁)による、朱子学以外の学問に対する厳しい圧迫が地方にも及び、藩の上層部は1792年(寛政4年)に亀井南冥を甘棠館館長から罷免し、長男の亀井昭陽が家督を継ぐも、1798年(寛政10年)、唐人町の商家から発した大火の中に甘棠館校舎が焼失し、遂には甘棠館の再興もならず閉校が決定された。その後、西学は亀井昭陽が開いた私塾「亀井塾」としてその命脈を保ち、日田の広瀬淡窓や秋月の原古処、そして博多の興志塾を開いた高場乱などを輩出した。興志塾は後に玄洋社を興す頭山満、箱田六輔などを輩出している。
- ^ 『福岡県教育史』福岡県教育委員会、1957年、237頁。
- ^ 『修猷館二百年史』修猷館200年記念事業委員会、1985年、75頁。
- ^ 近藤典二『教師の誕生: 草創期の福岡県教育史』1995年8月、90頁。ISBN 978-4874151242。
- ^ 再興に際し、文部大臣から、「旧藩校時代の校名は不適切」との理由で校名の変更を迫られたが、旧福岡藩主黒田長溥が、「学校経費はすべて黒田家で出すから館名を残せ」とまで決意し反対したことにより館名は守られた。実際に館の財政は1893年まで黒田家が全額負担しており、黒田家の援助から離れ完全に県費負担となるのは1900年のことである(青木秀『修猷山脈』西日本新聞社、1971年、4,29,30頁より引用)。
- ^ 再興された修猷館の初代館長である隈本有尚は、夏目漱石の小説「坊つちやん」に出てくる数学教師・山嵐(堀田)のモデルとされており、1897年(明治30年)には、当時旧制第五高等学校教授であった漱石が英語授業の視察で修猷館を訪れ隈本館長に面会している。
- ^ 修猷館の校庭から何者かによって投げられた瓦の破片が、通りを進んでいた歩兵第24連隊の隊列の兵士の小銃に当たったことに端を発し、ついには陸軍省と文部省の対立にまで発展した事件。当時の尾崎臻館長が辞任、佐藤正連隊長が更迭されるに至った。佐藤連隊長は、後に陸軍少将まで昇進し、退役後は広島市長や修道中学校総理(理事長)などを務めている。
- ^ “修猷館同窓会 » 沿革”. 2019年2月11日閲覧。
- ^ GHQから「修猷館」という名が封建的であるとして改名を示唆されたが、修猷館OBの粘り強い努力によって館名は守られた。修猷館の正門および南門(以前の正門)の門柱にある「福岡縣立修猷館髙等學校」の文字は、緒方竹虎の揮毫によるものである。
- ^ 菁莪記念館3階を菁莪堂と呼ぶが、菁莪堂はあまり使用されないため区別は曖昧である。
- ^ 1985年ごろまではオートバイの通学は許可されていたが、PTAによるオートバイの三ない運動の影響によって廃止
- ^ 館長自らが全クラス企画を周り選ぶ「館長賞」、来場者からの投票で選ばれる「六光賞」のほか、平成30年度の第七十三回修猷大文化祭では各クラスの文化祭委員の投票で選ばれる「稽田賞」が設けられた。
参考文献
- 大塚覚『修猷館物語』(修猷通信、1962年(昭和37年))
- 青木秀『修猷山脈』(西日本新聞社、1971年(昭和46年))
- 修猷館二百年史編集委員会『修猷館二百年史』(修猷館200年記念事業委員会、1985年(昭和60年))
関連項目
- 福岡県高等学校一覧
- 旧制中学校
- 旧制中等教育学校の一覧 (福岡県)
- 福岡藩
- 玄洋社
- 福岡県立福岡高等学校
- 福岡県立育徳館中学校・高等学校 - 小倉藩の藩校「育徳館」の流れをくむ。
- 福岡県立明善高等学校 - 久留米藩の藩校「明善堂」の流れをくむ。
- 福岡県立伝習館高等学校 - 柳川藩の藩校「伝習館」の流れをくむ。
- 御三家
- 尚書
- 西南学院