「日系アメリカ人市民同盟」の版間の差分
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1941年初頭には、[[マイク正岡|マイク・マサオカ(正岡優)]]JACL山間地区評議会議長によって作成された、『日系アメリカ人の信条』が発表された。 |
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{{Quotation|私は、[[日系アメリカ人]]である事を、名誉に思っている。それは、私の経歴こそが、この国の素晴らしい利点を、私へ十分に認識させてくれるからである。この国の制度・理想・伝統を信じている。[[アメリカ合衆国の世界遺産|母国の遺産]]を誇りとしている。[[アメリカ合衆国の歴史|母国の歴史]]を自慢に思う。母国の未来に希望を持っている。母国は、今日の世界において、他国では享受できない様な自由と機会を、私に与えてくれた。母国は、私に大立者となるにふさわしい教育を与えてくれた。母国は、[[参政権]]の責任を私に委ねてくれた。母国は、私を他の自国民と同じ、自由な一市民として、家を建て、生計を立て、礼拝し、考え、話し、思い通りに行動する事を許してくれた。<br/>一部の人々は、私を差別するかもしれない。しかし、私は決して、その事で相手を苦々しく思いもしなければ、母国に不信を抱いたりもしない。何故なら、そういった人々は、アメリカ国民の多数を代表する人間では無い事を、私は知っているからである。確かに、そうした慣行を思い止まらせるべく、私は全力を尽くすつもりである。しかし、法廷の場を通して、自身が平等な扱いと尊敬を受けるに値する人間である事を、教育に基づいて、公明正大に証明するという、アメリカ流の方法を以てして、それを行うつもりである。アメリカにおける、[[スポーツマンシップ]]とフェアプレーの精神は、身体的特徴によってではなく、行動と成果に基づく公民権と愛国心によって、判断されるものであると、私は固く信じている。< |
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と綴られ、今日では「二世による、愛国主義的市民ナショナリズムの集大成」と評されている同声明文は、発表と同時に、日系コミュニティおいて、大きな反響を呼ぶ事となった。それに止まらず、[[モルモン宣教師]]としての滞日経験がある[[知日派]]として知られ、マサオカの盟友でもあった、民主党の{{仮リンク|エルバート・D・トーマス|en|Elbert D. Thomas}}上院議員によって、同年[[5月9日]]付の上院議会記録にも、記載される事となった<ref name="creed">[https://encyclopedia.densho.org/Japanese_American_Creed Japanese American Creed | Densho Encyclopedia]</ref>。 |
と綴られ、今日では「二世による、愛国主義的市民ナショナリズムの集大成」と評されている同声明文は、発表と同時に、日系コミュニティおいて、大きな反響を呼ぶ事となった。それに止まらず、[[モルモン宣教師]]としての滞日経験がある[[知日派]]として知られ、マサオカの盟友でもあった、民主党の{{仮リンク|エルバート・D・トーマス|en|Elbert D. Thomas}}上院議員によって、同年[[5月9日]]付の上院議会記録にも、記載される事となった<ref name="creed">[https://encyclopedia.densho.org/Japanese_American_Creed Japanese American Creed | Densho Encyclopedia]</ref>。 |
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2022年9月11日 (日) 01:11時点における版
Japanese American Citizens League | |
略称 | JACL |
---|---|
設立 | 1929年 |
設立者 |
荒井クラレンス威弥 谷田部トーマス保 坂本ジェームズ好徳 城戸三郎 他 |
種類 | 501(c)(3)団体たる慈善団体 |
目的 |
アジア系アメリカ人の権利擁護 同性婚支持 |
本部 | アメリカ合衆国・カリフォルニア州・サンフランシスコ・ジャパンタウン |
公用語 | 英語 |
提携 | アジア・太平洋諸島系アメリカ人擁護会 |
ウェブサイト |
jacl |
日系アメリカ人市民同盟[注釈 1](にっけいアメリカじんしみんどうめい、英語: Japanese American Citizens League、略称: JACL) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本部を置く、アジア系アメリカ人の権利擁護と、同性結婚への支持を目的とした公民権団体[7][8]。アメリカ国内では、最古かつ最大のアジア系アメリカ人による人権団体である[7]。
組織
戦前は、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・シカゴに支部、首都ワシントンD.C.にロビー機関が、各々置かれていた。
現在では、全国組織は100以上の支部で構成されている。国内の主要都市と大都市圏に置かれている支部は、
- カリフォルニア中央地区
- 東部地区
- 山間地区
- 中西部地区
- 北カリフォルニア・西ネバダ・太平洋地区
- 太平洋北部地区
- 太平洋南西部地区
といった7地区にもうけられた評議会の、何れかに属す形となっている[8]。
戦前(1929年~1936年)
設立
クラレンス・アライ(荒井威弥)[注釈 2]やジェームズ・サカモト(坂本好徳)[注釈 3]を中心として、1921年に発足した「シアトル革新市民連盟」のほか、何れもサンフランシスコを拠点とする、トーマス・ヤタベ(谷田部保)[注釈 4]を代表とする1922年発足の「アメリカ忠誠協会」、城戸三郎を代表とする1928年発足の「新アメリカ市民協会」など、既存の日系二世組織が統合する形で、1929年に発足した[14]。初代会長には、アライが就任する事となった[13]。
発足当初は、二世を各分野における専門家や中小企業の経営者に育成すべく、自由な起業・自助努力・アメリカ合衆国への忠誠を促す事に、主眼を置いた[14]。
ロビー活動の展開
その後は、サカモトをはじめとするシアトルの活動家達による積極的な支援もあり、1930年8月29日には、シアトルで初となる全国大会が、開催される事となった[15]。それに伴い、1924年に施行された「排日移民法」において、「帰化不能外国人」と見なされた日系人とアジア系移民の市民権を、拡大する為のロビー活動を開始した[14][16]。
まずは、1922年9月に連邦議会を通過した、帰化不能外国人である男性と結婚した女性は、アメリカ市民権を剥奪される事を定めた「ケーブル法」を、撤廃させる事を目標とした。結果として、1931年に連邦議会は、帰化不能外国人と結婚しても、市民権を保持し続ける事が可能となる様に法改正し、1936年には撤廃される事となった[6][17]。
次いで、別所南洋[注釈 5]に代表される、第一次世界大戦に従軍した838名の日系一世を含めた、アジア系移民の退役軍人に対して、市民権を付与させる為のキャンペーンを開始した。この取り組みも、別所と同じ一世の退役軍人であるトクタロウ・スローカム(西村徳太郎)[注釈 6]によるロビー活動が功を奏し、1935年6月24日にフランクリン・ルーズベルト大統領は、アジア系退役軍人へ市民権を与える「ナイ・リー法」に署名する事となった[17][20][21]。
第二次世界大戦期(1937年~1945年)
日米関係の悪化と日系コミュニティの危機
上述した1924年の「排日移民法」制定をきっかけに、昭和の初め頃から悪化の一途を辿っていた日米関係は、1937年の日中戦争勃発と、それに伴う10月25日のルーズベルト大統領による隔離演説、12月12日のパナイ号事件、翌1938年11月の援蔣ルート完成などにより、修復が不可能なものと、なりつつあった。加えて、1938年7月26日にアメリカが、日米通商航海条約の廃棄を通告、翌1939年1月26日に失効した。これにより、両国は1855年2月21日の日米和親条約発効以来、初めての「無条約時代」に突入する事となった。
それに伴う形で、アメリカ社会の日系人に対する視線も厳しいものとなり、特に反日団体は、二世による二重国籍問題を、攻撃の標的とする様になった。こうした動きを察知したJACLは、1939年6月7日付の『羅府新報』に、ウォルター・ツカモト(塚本武雄)会長による、
「合衆国に対する偽りなき忠誠という原則について、妥協は有り得ない。そして、如何なる犠牲を伴おうとも、我々が最初から最後まで、常にアメリカ人である事を、忘れてはならない」
といった声明を掲載し、二世の地位を守る為の具体的な行動を要請すべく、二重国籍を廃絶する運動を呼び掛けた。
その後、日本では第2次近衛内閣によって、1940年7月26日に『基本国策要綱』が閣議決定され、「大東亜共栄圏」の建設が政策となった事に続き、同年9月27日には日独伊三国同盟が締結され、いよいよ日米開戦は不可避な情勢となった。その事から、JACLは翌1941年1月26日付の『羅府新報』に、ロサンゼルス支部長のフレッド・タヤマ(田山勝)による、
「私達が、両親の国に向かって武器を取らなければならない日が来ない事を、私達はいつも願っております。しかし、万が一その日が来る様な事があれば、二世は覚悟が出来ております。私達は、唯一つの旗“合衆国星条旗”に対して、忠誠を負うのであります」
といった声明を掲載し、二世は今や大日本帝国を敵と見なし、銃を向ける覚悟もある事を、アメリカ社会へ向けて明言した[22]。
1941年初頭には、マイク・マサオカ(正岡優)JACL山間地区評議会議長によって作成された、『日系アメリカ人の信条』が発表された。
私は、日系アメリカ人である事を、名誉に思っている。それは、私の経歴こそが、この国の素晴らしい利点を、私へ十分に認識させてくれるからである。この国の制度・理想・伝統を信じている。母国の遺産を誇りとしている。母国の歴史を自慢に思う。母国の未来に希望を持っている。母国は、今日の世界において、他国では享受できない様な自由と機会を、私に与えてくれた。母国は、私に大立者となるにふさわしい教育を与えてくれた。母国は、参政権の責任を私に委ねてくれた。母国は、私を他の自国民と同じ、自由な一市民として、家を建て、生計を立て、礼拝し、考え、話し、思い通りに行動する事を許してくれた。
一部の人々は、私を差別するかもしれない。しかし、私は決して、その事で相手を苦々しく思いもしなければ、母国に不信を抱いたりもしない。何故なら、そういった人々は、アメリカ国民の多数を代表する人間では無い事を、私は知っているからである。確かに、そうした慣行を思い止まらせるべく、私は全力を尽くすつもりである。しかし、法廷の場を通して、自身が平等な扱いと尊敬を受けるに値する人間である事を、教育に基づいて、公明正大に証明するという、アメリカ流の方法を以てして、それを行うつもりである。アメリカにおける、スポーツマンシップとフェアプレーの精神は、身体的特徴によってではなく、行動と成果に基づく公民権と愛国心によって、判断されるものであると、私は固く信じている。
私はアメリカを信じており、母国も私を信じてくれていると、確信している。母国から数多の恩恵を受けた事を鑑みて、その体制を支え、国内法を遵守し、星条旗に敬意を表し、国内外における全ての敵から母国を守り、市民としての責務と義務を、積極的に引き受けるべく、より偉大なるアメリカで、より良きアメリカ人になる事を願いつつ、何時如何なる場所でも、母国に謹んで敬意を払う事を、私は誓う。
と綴られ、今日では「二世による、愛国主義的市民ナショナリズムの集大成」と評されている同声明文は、発表と同時に、日系コミュニティおいて、大きな反響を呼ぶ事となった。それに止まらず、モルモン宣教師としての滞日経験がある知日派として知られ、マサオカの盟友でもあった、民主党のエルバート・D・トーマス上院議員によって、同年5月9日付の上院議会記録にも、記載される事となった[23]。
太平洋戦争の勃発と強制収容の実施
1941年12月7日に真珠湾攻撃が起きた数時間後より、FBIは主に一世の日本語学校校長・日本人会及び都道府県人会の会長・僧侶・武術師範・個人事業主といった、日系コミュニティの指導者と見なした人物の逮捕を開始した[24][25]。これに伴い、城戸三郎JACL会長は、日本への宣戦布告を期に、日系人へ着せられた第五列としての汚名をそそぐ事を、急務と捉えた。その事から、ルーズベルト大統領に対して、
「この非常時に、我々は大統領閣下と母国に対して、最大限の協力を惜しまない事を約束します。日本が我が国への攻撃を開始した今、我々は同胞と共に、この侵略を撃退すべく、あらゆる努力を払う準備ができています」
と綴った電報を送るとともに、日系コミュニティを含めたアメリカ社会へ向けては、
「我々は、アメリカ市民としての義務を、あくまでも果たすものである。今こそ、我らの誠心を尽くすべき時が来た。日米開戦は、最も不幸な出来事であるが、戦場に送られると言えども、我らの忠誠は不変である。我等の父母は、法律の下にアメリカ市民たる事を許されないが、しかしアメリカ市民の父母として、善良なる居住民として、あくまでも我等と共に進む事を信じて疑わないものである」
以降のJACLは、政府の公聴会等において「率直に日本と縁を切る」事を声明したほか、忠実で愛国的なアメリカ人としての、二世の実像を喧伝した。また、マサオカ書記長をはじめとする多くのメンバーが「日系コミュニティの政治的安全を守る為には、アメリカ市民権を持たない高齢の一世が、ある程度の犠牲を被る事は止むを得ない」と主張した事もあり、FBIと海軍情報局が「危険人物」とおぼしき一世を、特定する事への捜査協力なども行った[28][29]。
1942年2月19日にルーズベルト大統領が「大統領令9066号」に署名した事に伴い、日系人を強制収容所へ送致する事が決定した。その際、JACLの指導部は、反発する姿勢を示さなかった。寧ろ、積極的に政府の方針に従った方が、日系人の母国への忠誠を証明し、延いては、日系人を敵視するアメリカの誤りを正す事にも繋がる、と考えた。その事からJACLは、約12万人の日系人に対し、冷静に立ち退きを行い、命令に反発する者からは、距離を置く様に呼び掛けた[30]。他にも、JACLのメンバーは、立ち退きの執行にあたって、戦争省との交渉をはじめとして、英語能力の低い一世の為に、必要書類の整理や各種代筆、執行当日に自宅から集合場所への送迎を受け持つなど、多くの重要な役割を果たした[31]。
立ち退き問題が解決した後のJACLは、日系人家庭が収容所から解放された後、工場や農場における極度の労働力不足が、深刻な問題となっていた中西部への再定住を、快適なものにするべく、住宅ローンサービスを提供したほか、シカゴに新たな事務所を設置するなどした[14]。
そうした中で、当時JACLの拠点が設置されていなかったハワイ準州[注釈 7]においては、大学勝利奉仕団による活躍をはじめとして、多くの日系人達があらゆる銃後の仕事をやり遂げ、1942年6月12日には第100歩兵大隊が創設された[33]。その事からJACLは、本土の日系人にも、アメリカ軍へ従軍する権利がある事を主張した。これに呼応する形で、1943年1月28日に、日系人による連隊規模の部隊が編制される事が発表され、収容所内などにおいて、志願兵の募集が始められた。最終的には、ハワイからは大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,686人、本土の収容所からは1,500人の志願兵が入隊し、第442連隊戦闘団が創設される事となった[34]。
それに伴いJACLは、一世達に志願兵となった我が子に関する投書を、収容所内で発行されている新聞や、収容所から解放された後に定住した地域における各地方紙へ向けて、積極的に行う事を促したりもした[14]。しかし一方で、メンバー達が収容所内において、徴兵拒否者達を厳しく糾弾した事から、大部分の日系人達から非難を浴びる事となった。こうした確執は、JACLと日系コミュニティの間に、戦後も長らく後腐れを残す結果を招いてしまった[30][注釈 8]。
また、公民権弁護士として知られるウェイン・M・コリンズ[注釈 9]も、戦後のインタビューにおいて、
「JACLは、日系人の代弁者を自称していましたが、同胞の為に立ち上がろうとする様子は窺えませんでした…。彼等は、まるで煩わしい鳩の群れでも扱うかの如く、日系人を強制収容所へ導きました」
と語り、戦時中のJACLによる一連の姿勢を非難した[38]。
戦後(1946年~1988年)
日系コミュニティと日米関係の再建
戦後のJACLは、活動の主眼を、日系人の市民権の向上に戻す方針を固めた。
戦後初の全国大会は、1946年2月28日から3月4日にかけて、コロラド州[注釈 10]デンバーで開催された。同大会においては、上述した『日系アメリカ人の信条』を、団体の公式理念として採用する事が、発表された事に加え、
- 日本国籍しか保持しない一世に対する、国外追放の阻止と帰化の推進
- 戦時中における強制収容に対する、謝罪と補償の請求
- 強制収容そのものの合憲性の再検証
- 立ち退きに応じる事が困難な者にも、措置の執行を猶予しなかった事への非難
- 少数民族による全国会議の召集と、問題解決の為の連邦政府内での省庁の設置
- 居住や雇用における差別の撤廃
- 各州における外国人土地法の撤廃[注釈 11]
- 強制収容に関する、第三者による調査機関の設置
- 二世の退役軍人への支援
- 日系アメリカ人のアメリカ化
など、14項目から成る日系コミュニティの再建案も、採択される事となった[23][41]。
以降は、異人種間結婚や人種隔離、人種に基づく移民や帰化を制限する法律を、撤廃若しくは改正するべく、訴訟運動や連邦議会におけるロビー活動を展開した。
その成功例として、ヨーロッパ戦線から復員した後に、反差別委員会委員長となったマイク・マサオカの尽力により、1952年6月27日に「移民国籍法」が成立。これに伴い、一世に帰化市民権が与えられると同時に、日本からの移民が再度認められる事となった[14]。
これをきっかけにJACLは、一世達にアメリカ市民権を取得する事を奨励し、一世からも市民権取得を要望する声が、多く挙がる様になった。その為、通訳を動員して日本語で授業を行う、米国市民権テストの講習会が、JACLの働き掛けによって、全米各地で開催される事となった[42]。その後、1954年に1,600人の一世による帰化宣誓式が、執り行われた事を皮切りに、1965年までに4万人以上の一世が、アメリカ市民権を取得した[43]。
一方で、「排日移民法」から引き継がれた国別割当制度によって、日本からの新規移民送出は、年間185人にまで制限される事となった[44][注釈 12]。その為、割当外となっていた「戦争花嫁」以外の新規移民を見込む事は困難だと、当初は思われていた。しかし、1953年8月7日に「難民救済法」が成立した事に伴い、10歳以下の孤児の養子縁組移民を、最大4,000人まで受け入れる事が、可能となった。また、1955年に同法の規定が変更されると、台風をはじめとする自然災害の被災者を「難民」として送り出せる事に、マサオカや日本の政治家らが、着目する様になった。この様に、日本からの新規移民送出における消極的局面が、大きく変化した結果として、1956年に「難民救済法」が失効するまで、所謂「GIベビー」として生まれた戦災混血児2,500名と、和歌山県・広島県・鹿児島県からの農業移民1,005名が、アメリカへ渡る事となった[46][47]。
補償請求に際しての困難
1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する連邦政府による補償策としては、最初のものとなる「日系人退去補償請求法」が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産・私有財産に限られ、精神的苦痛や教育・職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と定められた。
1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に止まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%または限度額より少ない額とする事とされた。更に1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、連邦請求裁判所において裁決が行われる事とされた。
同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、補償総額は請求総額の約25%、日系人の損害総額の10%未満に過ぎなかった[48]。
リドレス運動の展開
そうした中で、1950年代半ば頃から黒人による公民権運動が展開され、結果として1964年に「公民権法」、翌1965年には「投票権法」が、相次いで制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達によって、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求める「リドレス運動」が、1970年代から展開される様になった[49]。
当初は、運動の方針や賠償金を得られた場合の使途を巡って、指導部の間で対立が起きた[50]。しかし、1970年7月に開かれた全国大会において「サンフランシスコ連邦準備銀行が見積もった、4億ドルの推定損失額を超える補償総額を以て、個々人に対して、抑留された日数に応じた補償を行う事。全ての弁済は、免税である事を定めた適切な法を、連邦議会が制定する事」を求める、エディソン・ウノ[注釈 13]による案が、採択される事となった[14][53]。これに伴い、太平洋戦争中における日系人の強制収容に対する、謝罪と補償を要求する為の「全米補償請求委員会」(NCR)が設立され、運動の嚆矢となった[41]。
1976年2月19日[注釈 14]にジェラルド・R・フォード大統領は、「大統領令9066号」の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」に署名。
「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」
1979年春にNCRは、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党のダニエル・イノウエ上院議員とジム・ライト下院議員によって、
- 「大統領令9066号」に関する事実と、その影響に関する調査
- 軍による指令の検証
- 適切な救済策の提示
を目的とした、「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会」(CWRIC)の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された[4][57]。
その後、1981年7月から12月にかけて、ワシントンD.C.を皮切りに、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジ・ウナラスカ・シカゴ・ワシントンD.C.(第2回)・ニューヨーク・ボストンの順で公聴会が開かれ、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[58][59]。
1982年12月にCWRICは、『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出した。同報告書の内容は、翌1983年2月24日に公表され、「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた[60]。また、1983年6月22日にCWRICは、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[4][54][56][61]。
1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明した。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5千万ドルの教育基金が設立される事も、同時に発表された[4][57][58][62]。
また、三世以降にあたる戦後生まれのJACL指導部は、戦時中に強制収容へ抗った者達への名誉回復に努める様になり、2002年には徴兵を拒否した二世を批判した事を、公式に謝罪した[14]。
現在(1994年以降)
LGBT問題への取り組み
1994年には、全国大会において同性カップルによる結婚の権利を含めた、結婚の自由を全ての人に認めるべきだとするスタンスを、確認する決議を採択した。この事からJACLは、アメリカ国内における公民権団体としては初めて、非LGBT組織としては、アメリカ自由人権協会に次いで、同性結婚への支持を明確化した組織となった[63][64]。
他の民族集団との関係
2000年以降、人口動態と政治の変化は、日系人コミュニティの様相にも変革をもたらし、JACLは他のアジア・太平洋諸島系アメリカ人をはじめとする、あらゆる民族集団による権利の保護、特に若い混血の会員による「ハパ・アイデンティティ」の重要性に関する問題へ焦点を当てる事にも、その使命を拡大する事となった[65]。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロをきっかけに、同国内においてアラブ系住民に対するヘイトクライムが急増した。この事態を受けてJACLは、自身達が嘗て見舞われた経験を鑑みて、テロ発生の数日後に開いた記者会見において、一連のヘイトクライムを非難する声明を発表した[66]。
また、ノーマン・ミネタ運輸長官は、アラブ系やムスリムであるという理由で、空港において乗機を拒否される事例が確認された事を受け、国内の各航空会社へ、
- 航空会社が、人種・肌の色・国籍・民族・宗教・氏名・衣服の特徴をもとに、特定の乗客を差別の対象としない様、警告する。
- 様々な我が国の法令が、人種・肌の色・国籍・宗教・性別・祖先をもとに、航空会社が航空輸送の際に、特定の乗客を差別する事を、禁じている。
といった旨の通達を発出した。
上述した措置を取った事により、ミネタは各方面から非難を浴びる様になった。しかし、そうした最中に出演したCBSの『60 Minutes』では、
「アラブ系住民ないしムスリムは、全ての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられます。外見や肌の色で判断される事について、私は実体験として知っています」
と述べた。同時に、レイシャル・プロファイリングが安全の基礎とならない事は、自身の経験から明らかである、とも主張した。これ以降、人種や信仰に基づいた当局による捜査は、回避される事となった[67][68]。
これを期に、日系をはじめとするアジア系コミュニティとムスリムを含めたアラブ系コミュニティによる、双方の相互理解を促進するべく、高校生を中心とする若者を対象とした“Bridging Communities Program”が、立ち上げられる事となった。参加者は、民族性・共同体・組織化・文化・エンパワーメントに関するワークショップを受講する事となる。また、トゥーリーレイク戦争移住センターやマンザナー強制収容所、ミニドカ国立歴史地区への訪問も実施している。同プログラムの運営にあたっては、国立公園局から助成金を受けており、「アメリカ・イスラム関係評議会」「トゥーリーレイク巡礼委員会」「全米日系人歴史協会」「公民権と戦時補償のための日系人組織」などとも提携している[69]。
著名なメンバー
脚注
注釈
- ^ 「連盟(れんめい)」[1][2][3]や「協会(きょうかい)」[4][5][6]と訳す事例も見受けられる。
- ^ 1920年に、初となる日系人によるボーイスカウト隊を創設した。1924年には、日系人で初めてワシントン大学ロー・スクールを卒業し、弁護士となった[9]。1934年8月7日には、ワシントン州下院議員選挙に、キング郡第37区から共和党候補として出馬した。しかし、同年9月11日に実施された予選投票において、選挙区内の共和党候補者5名中、最下位で落選している[10]。因みに父・達弥は、日本では自由民権運動に携わっており、ジョージ山岡の父・音高とも、親しい間柄だった[11]。
- ^ アメリカでは初となる、日系人向けの完全英字新聞である“Japanese American Courier”の創刊者[12]。1937年に第5代JACL会長となった[13]。
- ^ フレズノ在住の歯科医師であり、1935年に第4代JACL会長となった[13]。
- ^ 1872年に日本で生まれる。渡米後の1898年7月9日に海軍に入隊。米西戦争と第一次世界大戦に従軍しただけでなく、マッキンリー・ルーズベルト・タフトといった、3人の歴代大統領の下で、個人給仕係を務めた。1921年に退役した[18]。
- ^ 1895年に日本で生まれる。10歳で渡米した後、父親がカナダへ渡った事を期に、ノースダコタ州マイノットに居住するスローカム家と養子縁組する。ミネソタ大学ツインシティー校を経てコロンビア・ロー・スクールへ進学するものの、第一次世界大戦へ出征する為に中退。陸軍の第82空挺師団第328歩兵連隊の一員として、ムーズ・アルゴンヌ攻勢やサン・ミッシェルの戦いに従軍。上級曹長の階級で退役した[19]。
- ^ 同地においても、1980年に初めて支部が設立された[32]。
- ^ JACLと日系コミュニティの間の確執は、442連隊への志願問題だけに、起因するものではなかった。上述の通り、JACLは政府による強制収容の執行に反対しなかった事に加え、「最も危険な任務の先頭に立ち、何処へでも出撃する」事を旨とした、日系人特攻部隊を創設するだけでなく、同部隊の忠誠心を疑う人々を安心させるべく、隊員の家族や友人を、政府の「人質」とする事を提案するなどした。そうした姿勢が仇となり、JACLは収容初期の時点で、日本で教育を受けた一世や帰米二世の多くから、反感を抱かれていた[35][36]。実際に、重鎮メンバーの中でも、タヤマは1942年12月5日に、城戸も1942年9月と1943年1月の2度に亘って、各々が収容所内で暴行を受ける事態に見舞われている[27][37]。余談ではあるが、TBS系で2010年11月に放送されたドラマ『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』の第3夜「強制収容所」では、マンザナー強制収容所で発生したタヤマへの暴行事件を、元にしたシーンが描かれている。
- ^ 1944年のコレマツ対アメリカ合衆国事件では、原告側弁護人を務めた。
- ^ 第二次世界大戦中のアメリカにおいて、一貫して日系人の強制収容に反対していた数少ない政治家だったラルフ・ローレンス・カーが州知事を務めていた事もあり、多くの日系人が保護を求めて、同州へ流入したという背景がある[39]。
- ^ カリフォルニア州では、1952年4月に州最高裁判所が、外国人土地法は合衆国憲法修正第14条に反する、不当な人種差別に当たると判示し、1956年に撤廃された。国内において、最後まで施行されていたワシントン州におけるものも、1966年に撤廃された[40]。
- ^ 1965年に「移民及び国籍法」が成立した事に伴い、国別割当制度は撤廃される事となった[45]。
- ^ カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校在学中の1950年に、当時としてはJACLの創設以来、最年少で支部長に就任する。後に、サンフランシスコ州立大学(SFSU)講師として、国内初となるエスニック研究プログラムの創設に携わる。1976年12月24日に、47歳の若さで急逝するも、SFSUは生前の功績を称え、彼の名を冠した賞と研究所をもうけている[51][52]。
- ^ 現在のアメリカ合衆国において、同日は「追憶の日」と称され、日系人の強制収容に関連するイベントが、各地で催されている[54]。
出典
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- ^ 宇山総領事のJACL北加西ネバダ太平洋地区主催ガラへの参加 - 在サンフランシスコ日本国総領事館
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- ^ <一般質問>町制施行50周年でノーマン・ミネタ氏の記念講演を
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- ^ “About the Bridging Communities Program”
参考文献
- ハルミ・ベフ 編『日系アメリカ人の歩みと現在』人文書院、2002年。ISBN 4-409-23036-0。
関連項目
- パシフィック・シチズン - 同団体の機関紙
- 日系アメリカ人
- 日米関係
- アメリカ合衆国における反日感情
- 在サンフランシスコ日本国総領事館
- 日米民主委員会
- 米日カウンシル
- 全米日系人博物館
- 全米日系アメリカ人図書館
- 伝承 (日系アメリカ人)