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ジャパンタウン (サンフランシスコ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
San Francisco Japantown
地図
所在地アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ
座標北緯37度47分06秒 西経122度25分47秒 / 北緯37.7851度 西経122.4298度 / 37.7851; -122.4298

ジャパンタウン: Japantown, J town)は、サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。ジャパウンタウン内で、1968年に開業した商業施設「ジャパンセンター英語版(正式名称:日本文化貿易センター(Japanese Cultural and Trade Center))」とについても述べる。

経緯

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カリフォルニア州北部最大で、第二次世界大戦前からある日本町である。日本人のサンフランシスコ移住は、19世紀末に始まり、1884年には約200人[1]、1886年には領事館調べで約500人、実際には1000人近くがいた[2]

1941年の太平洋戦争開戦で、アメリカ政府日系アメリカ人強制収容所に収容し(日系人の強制収容)、サンフランシスコの日本町は荒廃した。戦後一部の日本人は戻り地域の再復興を行った、1960年代から1980年代の大規模な再開発の時期に、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地、西部 Filmore District、東部 Tenderloin、南部 Hunters Point に移動した。同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、日本政府、企業による投資が行われた。

「日本文化貿易センター(ジャパンセンター)」の構想は、サンフランシスコ市の旧日本町再開発計画としてスタートした。大阪市姉妹都市であるサンフランシスコ市は、アメリカでも指折りの親日的な都市として知られていた。サンフランシスコ市は、日本人街であったウエスタン・アディション地区を再開発するために、日本の産業や文化を紹介する「日本文化貿易センター」を計画した[3]。市は、受け皿として設立された「ナショナルブレマー(National-Braemar)社」に、必要な土地を払い下げた。同社の日系人社長は、日本企業に進出を促し、近鉄日本ドリーム観光が応じた。日本ドリーム観光は、レストラン劇場を開設したが、すぐに撤退したので、近鉄だけが残った。

1961年10月に、現地法人「アメリカ近鉄興業(Kintetsu Enterprises Company of America)」が設立された。同社の社長は、設立当初は近鉄社長の佐伯勇が兼務した。1965年3月に起工し、1968年2月12日に開業した。

開業後には、建物の壁にひびが入る、雨漏りはするなどの欠陥が相次ぎ、ナショナルブレマー社、アメリカ近鉄、建設会社の三者が、責任の所在をめぐり揉めた。日本町周辺の再開発は、連邦政府の助成金削減などで進まず、センター周辺の治安も問題になった。それでも、アメリカ近鉄は、ボウリング場、京都インなどを相次いで建設した。アメリカ近鉄は、当初は赤字続きだったが、1978年から黒字に転じた。好転した大きな要因は、不動産業としてインフレ利益にあずかれたことが大きかった。1979年の売り上げ814万ドルのうち517万ドルが、都ホテルサンフランシスコの収入だった。

1980年ごろには、ジャパンセンターの敷地2万2千平方メートルの所有者は、アメリカ近鉄9千平方メートル、ナショナルブレマー社7千平方メートル、市有地6千平方メートルだった[4]。都ホテルサンフランシスコは、地下3階、地上14階建て、客室172室で、運営はアメリカのホテル会社であるウエスタンインターナショナル(現:ウェスティンホテルズ)に委託した。総領事館ビルは地下1階、地上3階建てで、2階には在サンフランシスコ日本国総領事館が入居し(現在は別の場所に移転)、集会室、会議室、ホテル別館などが設けられた。近鉄ショッピングセンタービルは地下1階、地上1階建てで、日本貿易振興会国際観光振興会が入居したほか、電機や自動車のメーカーをはじめとした日本の一流企業による展示場[5]や日本の特産品の展示販売場、日本料理のレストランなどに利用された[3]。京都イン(のちに「都インサンフランシスコ」に改称、1975年開業)は、日本人旅行者の増加を受けて、都ホテルサンフランシスコの北側に、地下1階、地上8階建てで建設された[6]

アメリカ近鉄は、経営資源の効率化のため、サンフランシスコ、ロサンゼルスの2地域に分散していた経営資源を、日本企業の進出が盛んなロサンゼルスに集中されることになった[7]。2006年5月12日には、ジャパンセンターでアメリカ近鉄が所有していた、都ホテルサンフランシスコ、都インサンフランシスコ、近鉄モール、都モールの4施設が、3Dインベストメント社に売却された[8]。都ホテルサンフランシスコは、「ホテルカブキ(Hotel Kabuki)」に改称された。

ギャラリー

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 桑港在留の邦人『新聞集成明治編年史. 第五卷』 (林泉社, 1940)
  2. ^ 桑港の日本人『新聞集成明治編年史. 第六卷』 (林泉社, 1940)
  3. ^ a b 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ 1910~2010』2010年、p333
  4. ^ 朝日新聞大阪本社社会部:編『関西の私鉄』1981年、清文堂、p181~186
  5. ^ 1980年時点では、三菱電機日立製作所日産自動車などの展示場があった。(『近畿日本鉄道 最近20年のあゆみ』1980年、p38)
  6. ^ 前掲『近畿日本鉄道100年のあゆみ 1910~2010』p408
  7. ^ 前掲『近畿日本鉄道100年のあゆみ 1910~2010』p555
  8. ^ アメリカ近鉄興業「米国における新規ホテルの建設および一部資産の譲渡について」平成18年4月28日