コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「オットー2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Cewbot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反
7行目: 7行目:
| 画像説明 =
| 画像説明 =
| 在位 = [[ローマ王|王]]:[[961年]] - [[983年]]
| 在位 = [[ローマ王|王]]:[[961年]] - [[983年]]
| 戴冠日 = [[961年]][[3月26日]](王)</br>[[967年]][[12月25日]](皇帝)</br>[[980年]][[10月]](イタリア王)
| 戴冠日 = [[961年]][[3月26日]](王)<br />[[967年]][[12月25日]](皇帝)<br />[[980年]][[10月]](イタリア王)
| 別号 =
| 別号 =
| 全名 =
| 全名 =
18行目: 18行目:
| 配偶者1 = [[テオファヌ]]
| 配偶者1 = [[テオファヌ]]
| 配偶者2 =
| 配偶者2 =
| 子女 = アーデルハイト<br>ゾフィー<br>[[マティルデ・フォン・ザクセン (979-1025)|マティルデ]]<br>[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]] 他
| 子女 = アーデルハイト<br />ゾフィー<br />[[マティルデ・フォン・ザクセン (979-1025)|マティルデ]]<br />[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]] 他
| 王家 = [[リウドルフィング家]]
| 王家 = [[リウドルフィング家]]
| 王朝 = [[ザクセン朝]]
| 王朝 = [[ザクセン朝]]

2022年6月29日 (水) 00:02時点における版

オットー2世
Otto II.
ローマ皇帝
在位 961年 - 983年
戴冠式 961年3月26日(王)
967年12月25日(皇帝)
980年10月(イタリア王)

出生 955年
ドイツ王国ザクセン
死去 983年12月7日
教皇領ローマ
埋葬 教皇領、旧サン・ピエトロ大聖堂
配偶者 テオファヌ
子女 アーデルハイト
ゾフィー
マティルデ
オットー3世
家名 リウドルフィング家
王朝 ザクセン朝
父親 オットー1世
母親 アーデルハイト・フォン・ブルグント
テンプレートを表示

オットー2世Otto II., 955年 - 983年12月7日)はザクセン朝第3代国王(ドイツ王、在位:961年 - 983年[注釈 1]及びオットー朝第2代イタリア王オットーネ2世(在位:980年 - 983年)、ローマ教会の皇帝神聖ローマ皇帝、 戴冠:967年12月25日[注釈 2]。初代皇帝オットー1世大帝とその2番目の妻アーデルハイト・フォン・ブルグントの息子。973年までは父の後継者としての共立王、共同皇帝。偉大なる父の偉業を受け継いで単独の皇帝となってからも版図の拡大・皇帝権の強化を図ったが帝国各地の反乱に苦しみ、28歳でマラリアのために急逝した。

生涯

957年に異母兄のシュヴァーベン大公リウドルフイタリア遠征の中途で熱病にかかって病没したため[1]、父の後継者となった。

961年ヴォルムスにおいて父オットー1世に共同統治を行う王に選ばれ、同年アーヘンで戴冠した[2]。これには母アーデルハイトの強い意向があったと考えられる。967年にはローマ教皇ヨハネス13世により共同皇帝としても戴冠した。ローマ教皇の戴冠による皇帝帝国の正統性については古代ローマから連続した帝国を称するギリシャから強い反対があり、両帝国は968年から971年にかけて、イタリアプッリャ(ドイツ語ではアプリーエン)で戦争を行った。その間、ギリシャではニケフォロス2世フォカス暗殺され、皇位を簒奪したヨハネス1世ツィミスケスは講和を選ぶという思いがけなく有利な展開となった。オットー2世はツィミスケスの姪テオファヌ972年結婚した[3]。ローマでの結婚後ただちにテオファヌは教皇から4月14日に皇后として戴冠された。

973年、父帝の死によって王権と帝権を継承したオットー2世は、間もなく各地の反乱鎮圧に奔走することになった。帝国南部では、従弟でオットー1世の弟ハインリヒ1世の子バイエルン公ハインリヒ2世が、かねてから王権を無視する姿勢をみせていた。それゆえ973年末、ハインリヒ2世の権力削減を図ったが、これが武力反乱を招き[4]、鎮圧には978年まで時を要した[5]。帝国西部では、下ロートリンゲン大公の任命問題から西フランク王国と対立、やはり武力衝突へと至る[6]。この東西フランク王国の対立は980年に和解[7]、ようやくアルプス以北を平定する。

980年末よりイタリア遠征を行い、北イタリア各地を巡行したのちにローマに入った[5]。当時、対立教皇ボニファティウス7世と争っていた教皇ベネディクトゥス7世の地位を安定させ[8]981年感謝祭をローマで祝う。その後、イタリア全土に皇帝の支配を及ぼそうと、当時東ローマ帝国の影響下にあったイタリア南部に遠征する[8]。一時は戦いを優勢に進めたが、当時の地中海世界ではイスラム教徒が強勢を誇っており、シチリア島から北上したイスラム軍にコロンナ岬の戦いで完敗した[8]

その後もイタリアに留まったが、間もなく帝国の東北部で西スラヴ族の反乱が勃発する。この際にブランデンブルクなどが襲撃を受けて破壊され、帝国の版図は縮小する[9]。その対応に乗り出そうという最中の983年12月7日、その命を不幸にもマラリアが奪った[9]。28歳であった。旧サン・ピエトロ大聖堂に葬られた[10]

家系

テオファヌとの間に4人の子を儲けた。

脚注

注釈

  1. ^ 現代から見れば実質ドイツ王だが称号は「東フランク王」「フランク王」単にあるいは「王」と不安定で、また当時国家・地域・民族としてのドイツは存在しない。
  2. ^ 当時はまだ神聖ローマ帝国という国号はなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の最高位聖職者、すなわち教皇により戴冠していた。また神聖ローマ皇帝やドイツ王は歴史学的用語で実際の称号ではない。

出典

  1. ^ Schutz, p. 51
  2. ^ 瀬原、p. 87
  3. ^ 瀬原、p. 92
  4. ^ 瀬原、p. 95。973年、ハインリヒ2世の妹婿シュヴァーベン公ブルヒャルト3世が死去した後、オットー2世は異母兄リウドルフの子で自らの甥オットーをシュヴァーベン公位につけた。ハインリヒ2世はこの人事に不満を持った。
  5. ^ a b 瀬原、p. 99
  6. ^ 瀬原、p. 97-98
  7. ^ 瀬原、p. 98
  8. ^ a b c 瀬原、p. 100
  9. ^ a b 瀬原、p. 101
  10. ^ 瀬原、p. 101-102

参考文献

  • 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 三佐川亮宏 『紀元千年の皇帝―オットー三世とその時代』刀水書房、2018年
  • Herbert Schutz, The Medieval Empire in Central Europe: Dynastic Continuity in the Post-Carolingian Frankish Realm, 900-1300, Cambridge University Scholars, 2010.

関連項目