「グイード・ダ・スポレート (イタリア王)」の版間の差分
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891年2月21日には[[教皇]][[ステファヌス5世 (ローマ教皇)|ステファヌス5世]]から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇[[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]]とは対立関係となり、教皇は[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]をイタリアに呼び寄せた。 |
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2022年5月28日 (土) 12:19時点における版
グイード・ディ・スポレート グイード・スポレテンシス Guido da Spoleto | |
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イタリア王 ローマ皇帝 | |
グイードのシール | |
在位 |
イタリア王:889年 - 894年 ローマ皇帝:891年 - 894年 |
別号 | スポレート公 |
出生 |
855年 イタリア王国、スポレート |
死去 |
894年12月12日 イタリア王国、ターロ川 |
埋葬 | イタリア王国、パルマ大聖堂 |
配偶者 | アジェルトゥルデ・ディ・ベネヴェント |
子女 |
ランベルト ロチルデ |
家名 | ヴィドー家 |
父親 | グイード1世・ディ・スポレート |
母親 | イッタ・ディ・ベネヴェント |
宗教 | カトリック教会 |
グイード・ダ・スポレート (Guido da Spoleto) あるいはグイード・ディ・スポレート (Guido di Spoleto, ?- 894年12月12日) は中世のイタリア王(889年 - 894年)でローマ教会の皇帝グイード・スポレテンシス(ラテン語: Guido Spoletensis)(神聖ローマ皇帝, 在位:891年 - 894年)。もとはヴィドー家出身のグイード2世で、スポレート公(在位:883年 - 894年)としてグイード3世ともいわれる。
生涯
フランクの家柄で、846年にローマがサラセン人の攻撃を受けたときに戦ったグイード1世・ディ・スポレートの息子である。ヴィドー家では二人目のグイードのためグイード2世と呼ばれる。女系を通してカロリング家と血縁関係があった(祖母がカール大帝の息子イタリア王ピピンの娘)。スポレート公を継いでいた兄ランベルト1世が880年に死去、兄の息子グイード3世(スポレート公としては2世)も883年に死去し、その子が年少のため同年公位を継承した。ベネヴェント公アデルキの娘アジェルトゥルデと結婚し、息子ランベルト2世を授かった。また、娘ロチルデはトスカーナ辺境伯アダルベルト1世と結婚した。
882年、皇帝カール3世に反逆のかどで所領を奪われたが、翌年再占領し、カメリーノ侯となった。885年にはガリリャーノ川でサラセン人を撃退した。
888年の皇帝が死去の後、フランス王の選出の際では企てに失敗(ウードが選ばれた)するが、ベレンガーリオとのイタリア王位をかけた紛争では、889年のトレッビア川での戦いで彼を破りパヴィーアで戴冠した。
891年2月21日には教皇ステファヌス5世から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇フォルモススとは対立関係となり、教皇はアルヌルフをイタリアに呼び寄せた。
894年にアルヌルフがイタリアに侵攻、ベルガモ、ミラノ、パヴィーアを征服し、そこでグイードに対するイタリア王と公認されてベレンガーリオの領土の寄贈を受け、ゲルマニアに戻った。しかし、グイードから助けを求められたイヴレーア侯アンスカーリオ1世は、ブルグント王ルドルフ1世が派遣した援軍によりイヴレーアにてアルヌルフの進軍を阻止しようとした。アルヌルフは封鎖を越え、戦闘を回避するために山中にいるルドルフを攻撃した。
同年(894年)、グイードは死去し、息子のランベルトに対立王位を残した。
脚注
参考文献
- René Poupardin, I regni carolingi (840-918), in Storia del mondo medievale, vol. II, 1999, pp. 583-635
- Tommaso di Carpegna Falconieri, Guido di Spoleto, in Dizionario biografico degli italiani, 61, Roma, Istituto della Enciclopedia Italiana, 2003, pp. 354-361
関連項目
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