コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「グイード・ダ・スポレート (イタリア王)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
McYata (会話) による ID:89551465 の版を取り消し
タグ: 取り消し
Cewbot (会話 | 投稿記録)
42行目: 42行目:
[[882年]]、皇帝[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]に反逆のかどで所領を奪われたが、翌年再占領し、[[カメリーノ辺境伯|カメリーノ侯]]となった。[[885年]]には[[ガリリャーノ川]]でサラセン人を撃退した。
[[882年]]、皇帝[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]に反逆のかどで所領を奪われたが、翌年再占領し、[[カメリーノ辺境伯|カメリーノ侯]]となった。[[885年]]には[[ガリリャーノ川]]でサラセン人を撃退した。


[[888年]]の皇帝が死去の後、フランス王の選出の際では企てに失敗([[ウード (西フランク王)|ウード]]が選ばれた)するが、[[ベレンガーリオ1世|ベレンガーリオ]]とのイタリア王位をかけた紛争では、889年の[[トレッビア川]]での戦いで彼を破り[[パヴィーア]]で戴冠した。
[[888年]]の皇帝が死去の後、フランス王の選出の際では企てに失敗([[ウード (西フランク王)|ウード]]が選ばれた)するが、[[ベレンガーリオ1世 (イタリア王)|ベレンガーリオ]]とのイタリア王位をかけた紛争では、889年の[[トレッビア川]]での戦いで彼を破り[[パヴィーア]]で戴冠した。


891年2月21日には[[教皇]][[ステファヌス5世 (ローマ教皇)|ステファヌス5世]]から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇[[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]]とは対立関係となり、教皇は[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]をイタリアに呼び寄せた。
891年2月21日には[[教皇]][[ステファヌス5世 (ローマ教皇)|ステファヌス5世]]から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇[[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]]とは対立関係となり、教皇は[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]をイタリアに呼び寄せた。
64行目: 64行目:


{{先代次代|[[スポレート公国|スポレート公]]|883年 - 894年|グイード2世|[[ランベルト・ダ・スポレート|ランベルト2世]]}}
{{先代次代|[[スポレート公国|スポレート公]]|883年 - 894年|グイード2世|[[ランベルト・ダ・スポレート|ランベルト2世]]}}
{{先代次代|[[イタリア王]]|889年 - 894年<br />対立王:[[ベレンガーリオ1世]]|[[ベレンガーリオ1世]]|[[ランベルト・ダ・スポレート]]<br />/ [[ベレンガーリオ1世]]<br />(対立王)}}
{{先代次代|[[イタリア王]]|889年 - 894年<br />対立王:[[ベレンガーリオ1世 (イタリア王)|ベレンガーリオ1世]]|[[ベレンガーリオ1世 (イタリア王)|ベレンガーリオ1世]]|[[ランベルト・ダ・スポレート]]<br />/ [[ベレンガーリオ1世 (イタリア王)|ベレンガーリオ1世]]<br />(対立王)}}
{{神聖ローマ皇帝||891年 - 894年}}
{{神聖ローマ皇帝||891年 - 894年}}
{{中世イタリア王||889年 - 894年}}
{{中世イタリア王||889年 - 894年}}

2022年5月28日 (土) 12:19時点における版

グイード・ディ・スポレート
グイード・スポレテンシス
Guido da Spoleto
イタリア王
ローマ皇帝
グイードのシール
在位 イタリア王:889年 - 894年
ローマ皇帝:891年 - 894年
別号 スポレート公

出生 855年
イタリア王国スポレート
死去 894年12月12日
イタリア王国、ターロ川
埋葬 イタリア王国パルマ大聖堂
配偶者 アジェルトゥルデ・ディ・ベネヴェント
子女 ランベルト
ロチルデ
家名 ヴィドー家
父親 グイード1世・ディ・スポレート
母親 イッタ・ディ・ベネヴェント
宗教 カトリック教会
テンプレートを表示

グイード・ダ・スポレートGuido da Spoleto) あるいはグイード・ディ・スポレート (Guido di Spoleto, ?- 894年12月12日) は中世のイタリア889年 - 894年)でローマ教会の皇帝グイード・スポレテンシスラテン語: Guido Spoletensis)(神聖ローマ皇帝, 在位:891年 - 894年)。もとはヴィドー家出身のグイード2世で、スポレート公(在位:883年 - 894年)としてグイード3世ともいわれる。

生涯

フランクの家柄で、846年にローマがサラセン人の攻撃を受けたときに戦ったグイード1世・ディ・スポレートの息子である。ヴィドー家では二人目のグイードのためグイード2世と呼ばれる。女系を通してカロリング家と血縁関係があった(祖母がカール大帝の息子イタリア王ピピンの娘)。スポレート公を継いでいた兄ランベルト1世が880年に死去、兄の息子グイード3世(スポレート公としては2世)も883年に死去し、その子が年少のため同年公位を継承した。ベネヴェント公アデルキの娘アジェルトゥルデと結婚し、息子ランベルト2世を授かった。また、娘ロチルデはトスカーナ辺境伯アダルベルト1世と結婚した。

882年、皇帝カール3世に反逆のかどで所領を奪われたが、翌年再占領し、カメリーノ侯となった。885年にはガリリャーノ川でサラセン人を撃退した。

888年の皇帝が死去の後、フランス王の選出の際では企てに失敗(ウードが選ばれた)するが、ベレンガーリオとのイタリア王位をかけた紛争では、889年のトレッビア川での戦いで彼を破りパヴィーアで戴冠した。

891年2月21日には教皇ステファヌス5世から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇フォルモススとは対立関係となり、教皇はアルヌルフをイタリアに呼び寄せた。

894年にアルヌルフがイタリアに侵攻、ベルガモミラノパヴィーアを征服し、そこでグイードに対するイタリア王と公認されてベレンガーリオの領土の寄贈を受け、ゲルマニアに戻った。しかし、グイードから助けを求められたイヴレーア侯アンスカーリオ1世は、ブルグント王ルドルフ1世が派遣した援軍によりイヴレーアにてアルヌルフの進軍を阻止しようとした。アルヌルフは封鎖を越え、戦闘を回避するために山中にいるルドルフを攻撃した。

同年(894年)、グイードは死去し、息子のランベルトに対立王位を残した。

脚注

参考文献

  • René Poupardin, I regni carolingi (840-918), in Storia del mondo medievale, vol. II, 1999, pp. 583-635
  • Tommaso di Carpegna Falconieri, Guido di Spoleto, in Dizionario biografico degli italiani, 61, Roma, Istituto della Enciclopedia Italiana, 2003, pp. 354-361

関連項目

先代
グイード2世
スポレート公
883年 - 894年
次代
ランベルト2世
先代
ベレンガーリオ1世
イタリア王
889年 - 894年
対立王:ベレンガーリオ1世
次代
ランベルト・ダ・スポレート
/ ベレンガーリオ1世
(対立王)