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「ストラスブールの誓い」の版間の差分

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'''ストラスブールの誓い'''({{lang-fr|'''les serments de Strasbourg'''}}、{{lang-de|'''die Straßburger Eide'''}})は、[[842年]]に[[西フランク王国]]国王[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世“禿頭王”]]と[[東フランク王国]]国王[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世“ドイツ人王”]]によって結ばれた同盟である。
'''ストラスブールの誓い'''({{lang-fr|'''les serments de Strasbourg'''}}、{{lang-de|'''die Straßburger Eide'''}})は、[[842年]]に[[西フランク王国]]国王[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世“禿頭王”]]と[[東フランク王国]]国王[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世“ドイツ人王”]]によって結ばれた同盟である。


シャルルとルートヴィヒが協力して長兄[[ロタール1世]]に対抗することを誓約した。
シャルルとルートヴィヒが協力して長兄[[ロタール1世 (フランク王)|ロタール1世]]に対抗することを誓約した。
==概要==
==概要==
フランク族の歴史家[[ニタール]]([[:en:Nithard|Nithard]])が残した『ルイ敬虔王の息子たちの歴史』(''"Histoire des fils de Louis le Pieux"'' )によると、両王は[[ラテン語]]でも自国の言語でもなく、お互いに相手国の言語を用いて兵の前で宣言し、両国の兵はそれぞれ自国の言語で誓いを行った。これは、この頃までに[[カロリング朝]][[フランク王国]]が東西に分裂した証拠と考えられてきた。
フランク族の歴史家[[ニタール]]([[:en:Nithard|Nithard]])が残した『ルイ敬虔王の息子たちの歴史』(''"Histoire des fils de Louis le Pieux"'' )によると、両王は[[ラテン語]]でも自国の言語でもなく、お互いに相手国の言語を用いて兵の前で宣言し、両国の兵はそれぞれ自国の言語で誓いを行った。これは、この頃までに[[カロリング朝]][[フランク王国]]が東西に分裂した証拠と考えられてきた。

2022年5月28日 (土) 12:07時点における版

ストラスブールの誓約書

ストラスブールの誓いフランス語: les serments de Strasbourgドイツ語: die Straßburger Eide)は、842年西フランク王国国王シャルル2世“禿頭王”東フランク王国国王ルートヴィヒ2世“ドイツ人王”によって結ばれた同盟である。

シャルルとルートヴィヒが協力して長兄ロタール1世に対抗することを誓約した。

概要

フランク族の歴史家ニタールNithard)が残した『ルイ敬虔王の息子たちの歴史』("Histoire des fils de Louis le Pieux" )によると、両王はラテン語でも自国の言語でもなく、お互いに相手国の言語を用いて兵の前で宣言し、両国の兵はそれぞれ自国の言語で誓いを行った。これは、この頃までにカロリング朝フランク王国が東西に分裂した証拠と考えられてきた。

本文は古高ドイツ語で記されたものと、古フランス語の祖となるロマンス語で記されたものがある。前文はそれらの2言語のほか、ラテン語でも残っている。ロマンス語で記されたものは、ラテン語とは明確に異なるそれの最古の文書であり、最古のフランス語文書と言われることもある。

関連項目