「チャールズ・マナーズ (第6代ラトランド公爵)」の版間の差分
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2022年2月14日 (月) 00:22時点における版
第6代ラトランド公爵 チャールズ・マナーズ Charles Manners 6th Duke of Rutland | |
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| |
生年月日 | 1815年5月16日 |
出生地 | イギリス イングランド・ロンドン |
没年月日 | 1888年3月3日(72歳没) |
死没地 | イギリス イングランド・レスターシャー・ビーバー城 |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
所属政党 | トーリー党(保守党) |
称号 | 第6代ラトランド公爵、ガーター勲章士(KG) |
親族 |
第5代ラトランド公ジョン(父) 第7代ラトランド公ジョン(弟) |
庶民院議員 | |
選挙区 |
スタンフォード選挙区 ノース・レスターシャー選挙区[1] |
在任期間 |
1837年7月24日 - 1852年7月7日 1852年7月7日 - 1857年1月20日[1] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1857年1月20日 - 1888年3月3日[1] |
第6代ラトランド公爵チャールズ・セシル・ジョン・マナーズ(英: Charles Cecil John Manners, 6th Duke of Rutland, KG、1815年5月16日 - 1888年3月3日)は、イギリスの政治家、貴族。
爵位を継承する1857年までグランビー侯爵(Marquess of Granby)の儀礼称号を使用した[2]。
経歴
1815年5月16日に第5代ラトランド公爵ジョン・マナーズの三男としてロンドン・アーリントン通り(Arlington Street)に生まれた[2][3]。母はその夫人で第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードの娘エリザベス。兄二人は早世している。また弟に後にラトランド公爵位を継承するジョンがいる[4]。
イートン校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学[2]。
1837年から1852年にかけてスタンフォード選挙区、ついで1852年から襲爵して貴族院へ移籍する1857年までノース・レスターシャー選挙区から選出されて庶民院議員を務める[1]。
1843年から1846年にかけては王配アルバートの寝室侍従長となる[2]。
1847年に保守党が保護貿易派と自由貿易のピール派に分裂した際には、保護貿易派の指導者となった[2]。
ジョージ・ベンティンク卿が保守党庶民院院内総務を辞職した後の1848年2月10日、保守党首スタンリー卿の指名によりその地位を継承した。しかしグランビー卿はすぐにも自らがその器ではないと自覚するようになり、同年3月4日をもって辞職した。以降、保守党庶民院院内総務の座はしばらく空席となった[5]。
1849年1月になってグランビー卿はベンジャミン・ディズレーリとジョン・チャールズ・ハリスとともに三人の委員会を創設して保守党庶民院を指導するようになった。しかし庶民院保守党の実質的な指導者はすでにディズレーリとなっていた。そのためピール派のアバディーン伯爵は庶民院保守党の三人委員会を「シエイエス、ロジャー・デュコ、ナポレオン」(フランスの総裁政府)に例えている[6]。グランビー卿は1851年にその職位から辞職した。これを機に委員会は解散することになり、ディズレーリが名実ともに保守党庶民院院内総務に就任した[6]。
1857年1月20日に父から第6代ラトランド公爵位を継承する[2]。1852年から1857年にかけてはリンカンシャー州総督、ついで1857年から1888年までレスターシャー州総督を務めた[2]。
1888年3月4日、ラトランド公爵家の居城であるレスターシャー・ビーバー城で死去[2]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d UK Parliament. “Marquess of Granby” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年1月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i "Granby, Charles Cecil John, Marquess of. (GRNY832CC)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ Lundy, Darryl. “Charles Cecil John Manners, 6th Duke of Rutland” (英語). thepeerage.com. 2014年1月7日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “John Henry Manners, 5th Duke of Rutland” (英語). thepeerage.com. 2014年7月31日閲覧。
- ^ ブレイク(1993) p.303
- ^ a b ブレイク(1993) p.310
参考文献
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Charles Manners, 6th Duke of Rutland
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 トーマス・チャップリン ジョージ・フィンチ |
スタンフォード選挙区選出庶民院議員 1837年 – 1852年 同一選挙区当選者 トーマス・チャップリン(1837年-1838年) サー・ジョージ・クリーク准男爵(1838年-1847年) ジョン・チャールズ・ハリス(1847年-1852年) |
次代 ジョン・チャールズ・ハリス サー・フレデリック・セシジャー |
先代 チャールズ・マナーズ卿 エドワード・ファーナム |
ノース・レスターシャー選挙区選出庶民院議員 1852年 – 1857年 同一選挙区当選者 エドワード・ファーナム(1852年–1857年) |
次代 エドワード・ファーナム ジョン・マナーズ卿 |
名誉職 | ||
先代 初代ブラウンロー伯爵 |
リンカンシャー州総督 1852年 – 1857年 |
次代 第2代ヤーボロー伯爵 |
先代 第5代ラトランド公爵 |
レスターシャー州総督 1857年 – 1888年 |
次代 第3代ハウ伯爵 |
党職 | ||
先代 ジョージ・ベンティンク卿 |
保守党庶民院院内総務 1848年 |
次代 空席 |
先代 空席 |
保守党庶民院院内総務 ディズレーリ及びJ.C.ハリスとともに 1849年 – 1851年 |
次代 ベンジャミン・ディズレーリ |
イングランドの爵位 | ||
先代 ジョン・マナーズ |
第6代ラトランド公爵 1857年 – 1888年 |
次代 ジョン・マナーズ |