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「ミス仙台」の版間の差分

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歌い出しの「[[森の都]]の花乙女」により、仙台の雅称「[[杜の都]]」を世に広めた。
歌い出しの「[[森の都]]の花乙女」により、仙台の雅称「[[杜の都]]」を世に広めた。


仙台において[[二葉あき子]](当時21歳)の歌唱でヒットし、戦中・戦後は[[青春]]の歌として会合や酒宴で出席者が一緒に歌う愛唱歌となった。[[高度経済成長]]期には[[支店経済都市]]となった仙台に異動してきた[[転勤族]]らにも[[コロムビア・ローズ#二代目コロムビア・ローズ|(二代目)コロムビア・ローズ]](当時18歳)の歌唱で親しまれた。[[安定成長期]]に入ると[[島倉千代子]](当時36歳)の歌唱で「[[七夕おどり]]」と共に[[盆踊り]]曲としても浸透した。誕生から約80年が経ち、[[#歌詞に描かれた仙台|歌詞に描かれた仙台]]と現在の仙台との間にズレが生じているが、[[仙台七夕]]の[[バックグラウンドミュージック|BGM]]の定番として今も親しまれている。
仙台において[[二葉あき子]](当時21歳)の歌唱でヒットし、戦中・戦後は[[青春]]の歌として会合や酒宴で出席者が一緒に歌う愛唱歌となった。[[高度経済成長]]期には[[支店経済都市]]となった仙台に異動してきた[[転勤族]]らにも[[コロムビア・ローズ#二代目コロムビア・ローズ|(二代目)コロムビア・ローズ]](当時18歳)の歌唱で親しまれた。[[安定成長期]]に入ると[[島倉千代子]](当時36歳)の歌唱で「[[七夕おどり]]」と共に[[盆踊り]]曲としても浸透した。誕生から約80年が経ち、[[#歌詞に描かれた仙台|歌詞に描かれた仙台]]と現在の仙台との間にズレが生じているが、[[仙台七夕]]の[[背景音楽|BGM]]の定番として今も親しまれている。


== 概要 ==
== 概要 ==
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同1962年(昭和37年)、[[仙台七夕]]祭り協賛会、[[河北新報社]](仙台市)、[[東北放送]](仙台市)が協賛した「七夕おどり」が[[島倉千代子]]の歌唱で発売された。同シングルの歌詞カードにはA面用の振付のほか、B面用に[[フォーク・ダンス]]振付が載っていた。同曲は仙台七夕に因むご当地ソングとして急速に地元で普及するが、その一方で[[盆踊り]]の曲としても地元で広く使用された。[[1974年]](昭和49年)、島倉が歌う『ミス仙台』(B面:七夕おどり)が発売されるが、歌詞カードには『ミス仙台』の振付が写真入りで説明されていた。このような歌と踊りをセットにした[[宣伝|プロモーション]]によって、島倉が歌う『ミス仙台』は「七夕おどり」とともに、[[昭和40年代]]から急速に拡大した[[郊外]]住宅地([[ベッドタウン]])<ref>[http://www.city.sendai.jp/kukakuseiri/1194977_2479.html 土地区画整理事業地区の一覧表(区別・換地処分順)](仙台市)</ref>などで新住民同士の交流のため盛んに行われた、地域の夏祭りにおける盆踊り用の曲として改めて浸透していった<ref>[https://kacco.kahoku.co.jp/blog/mingei/18333 「ミス仙台」を大合唱、復興へ気勢](2011年4月25日)</ref>。以上のような[[町内会]]や[[小学校]][[学区]]ごとに網羅的に行われた夏の体験により、市民・県民は『ミス仙台』を島倉の曲だと認識するように変化した。
同1962年(昭和37年)、[[仙台七夕]]祭り協賛会、[[河北新報社]](仙台市)、[[東北放送]](仙台市)が協賛した「七夕おどり」が[[島倉千代子]]の歌唱で発売された。同シングルの歌詞カードにはA面用の振付のほか、B面用に[[フォーク・ダンス]]振付が載っていた。同曲は仙台七夕に因むご当地ソングとして急速に地元で普及するが、その一方で[[盆踊り]]の曲としても地元で広く使用された。[[1974年]](昭和49年)、島倉が歌う『ミス仙台』(B面:七夕おどり)が発売されるが、歌詞カードには『ミス仙台』の振付が写真入りで説明されていた。このような歌と踊りをセットにした[[宣伝|プロモーション]]によって、島倉が歌う『ミス仙台』は「七夕おどり」とともに、[[昭和40年代]]から急速に拡大した[[郊外]]住宅地([[ベッドタウン]])<ref>[http://www.city.sendai.jp/kukakuseiri/1194977_2479.html 土地区画整理事業地区の一覧表(区別・換地処分順)](仙台市)</ref>などで新住民同士の交流のため盛んに行われた、地域の夏祭りにおける盆踊り用の曲として改めて浸透していった<ref>[https://kacco.kahoku.co.jp/blog/mingei/18333 「ミス仙台」を大合唱、復興へ気勢](2011年4月25日)</ref>。以上のような[[町内会]]や[[小学校]][[学区]]ごとに網羅的に行われた夏の体験により、市民・県民は『ミス仙台』を島倉の曲だと認識するように変化した。


[[1978年]](昭和53年)[[5月5日]]に[[さとう宗幸]]が歌う「[[青葉城恋唄]]」が発売されるが、[[6月12日]]に[[宮城県沖地震 (1978年)|宮城県沖地震]]が発生すると、被災地に住むさとうの同曲は注目を集め、全国的な[[ミリオンセラー|ミリオンヒット]]となった。これ以降、仙台のご当地ソングの地位は、『ミス仙台』(新民謡/演歌)から「青葉城恋唄」([[フォークソング]])に取って代わられてしまった。また、協賛会や地元有力マスメディアが推す「七夕おどり」が、仙台七夕を象徴する曲として定着した。さらに、歌詞の内容が現代の仙台とズレがあって分かり辛いこと、会合や酒宴で出席者が一緒にご当地ソングを歌う習慣の衰退、[[少子化]]に伴う地域の夏祭りの衰退なども重なり、地元でも『ミス仙台』を知らない人が多くなった。それでも島倉のシングルのB面「七夕おどり」とともに、仙台七夕のイメージが付いたため、現在でも仙台七夕まつりにおける[[バックグラウンドミュージック|BGM]]の定番ソングの1つとして、期間中は街のあちこちで(主に島倉の)『ミス仙台』を耳にすることが出来る。
[[1978年]](昭和53年)[[5月5日]]に[[さとう宗幸]]が歌う「[[青葉城恋唄]]」が発売されるが、[[6月12日]]に[[宮城県沖地震 (1978年)|宮城県沖地震]]が発生すると、被災地に住むさとうの同曲は注目を集め、全国的な[[ミリオンセラー|ミリオンヒット]]となった。これ以降、仙台のご当地ソングの地位は、『ミス仙台』(新民謡/演歌)から「青葉城恋唄」([[フォークソング]])に取って代わられてしまった。また、協賛会や地元有力マスメディアが推す「七夕おどり」が、仙台七夕を象徴する曲として定着した。さらに、歌詞の内容が現代の仙台とズレがあって分かり辛いこと、会合や酒宴で出席者が一緒にご当地ソングを歌う習慣の衰退、[[少子化]]に伴う地域の夏祭りの衰退なども重なり、地元でも『ミス仙台』を知らない人が多くなった。それでも島倉のシングルのB面「七夕おどり」とともに、仙台七夕のイメージが付いたため、現在でも仙台七夕まつりにおける[[背景音楽|BGM]]の定番ソングの1つとして、期間中は街のあちこちで(主に島倉の)『ミス仙台』を耳にすることが出来る。


== 年表 ==
== 年表 ==

2021年11月23日 (火) 10:10時点における版

「ミス仙台[※ 1]
二葉あき子シングル
B面 躍進宮城[※ 2]
(歌:櫻井健二
リリース
規格 レコード(10インチ≒25cm
(78回転SPレコード
録音 1936年昭和11年)6月6日
ジャンル 新民謡流行歌
時間
レーベル コロムビア
作詞・作曲 作詞:西條八十
作曲:古關裕而
編曲:奥山貞吉
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「ミス仙台」
二葉あき子シングル
B面 宮城音頭[※ 4]
(歌:赤坂小梅筑波一郎
リリース
録音 1936年(昭和11年)6月6日
時間
レーベル コロムビア
テンプレートを表示
「ミス仙台」
(二代目)コロムビア・ローズシングル
B面 宮城音頭[※ 6]
(歌:花村菊江中村渉
リリース
規格 レコード(7インチ≒17cm)
(45回転、ドーナツ盤
時間
レーベル コロムビア
テンプレートを表示
「ミス仙台」
島倉千代子シングル
B面 七夕おどり[※ 8]
(歌:島倉千代子)
リリース
規格 レコード(7インチ≒17cm)
(45回転、ドーナツ盤)
時間
レーベル コロムビア
作詞・作曲 編曲:山路進一[5]
テンプレートを表示
西條八十(作詞)
古関裕而(作曲)

ミス仙台(ミスせんだい)は、宮城県仙台市新民謡ご当地ソング)として、1936年昭和11年)に西條八十が作詞し、古関裕而が作曲した流行歌。通称「仙台小唄」。

歌い出しの「森の都の花乙女」により、仙台の雅称「杜の都」を世に広めた。

仙台において二葉あき子(当時21歳)の歌唱でヒットし、戦中・戦後は青春の歌として会合や酒宴で出席者が一緒に歌う愛唱歌となった。高度経済成長期には支店経済都市となった仙台に異動してきた転勤族らにも(二代目)コロムビア・ローズ(当時18歳)の歌唱で親しまれた。安定成長期に入ると島倉千代子(当時36歳)の歌唱で「七夕おどり」と共に盆踊り曲としても浸透した。誕生から約80年が経ち、歌詞に描かれた仙台と現在の仙台との間にズレが生じているが、仙台七夕BGMの定番として今も親しまれている。

概要

1930年代半ば当時の仙台四季の様子を織り交ぜながら、の思い出を表現した新民謡流行歌であり、歌詞は七五調(繰り返される「仙臺、仙臺、なつかしや」は八・五で字余り)、曲は4分の4拍子変ロ長調ヨナ抜き音階日本民謡長調でみられる五音音階)で作られている。

1936年昭和11年)、二葉あき子(当時21歳)の歌唱で初めて発売。当時のシングル電気録音シェラック製の78回転SPレコードデファクトスタンダードになっていたため、『ミス仙台』は10インチSPレコードの片面のほぼ最大録音時間である3分30秒[1]の演奏時間だった。伴奏では、1小節に8つの8分音符のうち、表打ちとなる4つの下拍(ダウンビート)には単音のベースライン、裏打ちとなる4つの上拍(アップビート)には和音が配され、軽快なリズムとなっている。また、間奏でのソロ助奏管楽器になっている。

二葉はデビューしてからヒット曲に恵まれないまま、17作目に『ミス仙台』を発売した。そんな無名歌手の曲ながら、『ミス仙台』は仙台市や宮城県でヒットした[※ 10]。そのため、『ミス仙台』の曲をそのままに、西條が新たに作詞した「乙女十九」が作られ、やや速いテンポで二葉が歌い(演奏時間:3分22秒[6])、『ミス仙台』の発売から半年後の1937年(昭和12年)1月に発売された。これが二葉にとって初の全国ヒットとなった[※ 11]。なお、『ミス仙台』の替え歌の「水府望郷歌」(水戸小唄)が、(旧制)水戸高等学校時代から茨城大学で歌い継がれている。

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が始まると、レコードの原料のシェラックが不足するようになり、『ミス仙台』は1943年(昭和18年)3月に廃盤となった。また、戒厳下の東京で制作され、検閲(参照)も受けて発売された『ミス仙台』だったが、敵性語が含まれていたため、戦時中から戦後占領期までは「仙台小唄」との通称でも呼ばれたとされる。しかし占領期も終わりに近付き、原盤を用いて1951年(昭和26年)1月に『ミス仙台』が再び発売されると、通称は廃れた。

高度経済成長期の1962年(昭和37年)11月には(二代目)コロムビア・ローズ(当時18歳)が、オイルショックによる狂乱物価最中の1974年(昭和49年)7月には島倉千代子(当時36歳)が『ミス仙台』をカバーして発売した。島倉のバージョンでは、二葉のオリジナルと比べてテンポが遅く、歌い方もこぶしを多用する演歌風になっている。また、伴奏では裏打ちとなる4つの上拍(アップビート)が強調されず、間奏でのソロや助奏も木琴に替わっている。なお、当時のシングルはビニール製の45回転ドーナツ盤(片面の最大録音時間は5分〜8分)がデファクトスタンダードになっていたため、演奏時間が3分46秒[5]の島倉のバージョンでも収録可能だった(2004年3月31日発売の島倉の全集CDにおける演奏時間は3分54秒[7])。

その後、1979年(昭和54年)にすがいかよ、2005年平成17年)に美波京子、2013年(平成25年)に綾華といった地元にゆかりがある歌手がカバーしている。

ご当地ソング

『ミス仙台』は流行歌の一分野である新民謡、すなわち現在で言うご当地ソングであるが、後に「さんさ時雨と並ぶご当地ソング」とも言われるほど広く受け入れられた。地元でのヒットの過程には、当時の最先端のマスメディアであり、宮城県では1928年(昭和3年)に放送が始まったラジオの影響はあまりなかったとされる。

市民や県民は『ミス仙台』を、手にしたレコードや楽器店から街に流れる音色を聴いて親しんだり、新聞広告[※ 12]に見られるように合唱で親しんだりしたようである。仙台市出身や宮城県出身ではない者が少なからずおり、数年しか仙台に住まないような芸者学生旧制二高東北帝国大学等)もみんな歌えた[8]とのことであり、酒宴で歌われることも多かったと見られる。

二葉あき子の1936年(昭和11年)の初版B面は「躍進宮城」という新民謡だったが、戦後の1951年(昭和26年)の再発盤B面は、多人数で歌うことを前提とした音頭という形式の歌「宮城音頭」となった。すなわち『ミス仙台』は、当初考えられた鑑賞や合唱から、会合や酒宴で出席者が一緒に歌う曲へと既に変化していると発売元も認識していたと考えられる。1962年(昭和37年)にも(二代目)コロムビア・ローズが歌う『ミス仙台』が発売されるが、B面は二葉の再発盤と同様に「宮城音頭」だった。レコードプレーヤーが一般家庭にも広まった高度経済成長期、支店経済都市となった仙台で勤務した転勤族らにより、仙台のご当地ソングとして『ミス仙台』は全国に広められた[9]

画像外部リンク
仙台市内の人口集中地区 (DID)
仙台市内のDIDの変化
(1960年から2000年まで5年毎)

1960年(昭和35年): 032.6 km2
2000年(平成12年): 133.3 km2
この間に約4倍に拡大。

同1962年(昭和37年)、仙台七夕祭り協賛会、河北新報社(仙台市)、東北放送(仙台市)が協賛した「七夕おどり」が島倉千代子の歌唱で発売された。同シングルの歌詞カードにはA面用の振付のほか、B面用にフォーク・ダンス振付が載っていた。同曲は仙台七夕に因むご当地ソングとして急速に地元で普及するが、その一方で盆踊りの曲としても地元で広く使用された。1974年(昭和49年)、島倉が歌う『ミス仙台』(B面:七夕おどり)が発売されるが、歌詞カードには『ミス仙台』の振付が写真入りで説明されていた。このような歌と踊りをセットにしたプロモーションによって、島倉が歌う『ミス仙台』は「七夕おどり」とともに、昭和40年代から急速に拡大した郊外住宅地(ベッドタウン[10]などで新住民同士の交流のため盛んに行われた、地域の夏祭りにおける盆踊り用の曲として改めて浸透していった[11]。以上のような町内会小学校学区ごとに網羅的に行われた夏の体験により、市民・県民は『ミス仙台』を島倉の曲だと認識するように変化した。

1978年(昭和53年)5月5日さとう宗幸が歌う「青葉城恋唄」が発売されるが、6月12日宮城県沖地震が発生すると、被災地に住むさとうの同曲は注目を集め、全国的なミリオンヒットとなった。これ以降、仙台のご当地ソングの地位は、『ミス仙台』(新民謡/演歌)から「青葉城恋唄」(フォークソング)に取って代わられてしまった。また、協賛会や地元有力マスメディアが推す「七夕おどり」が、仙台七夕を象徴する曲として定着した。さらに、歌詞の内容が現代の仙台とズレがあって分かり辛いこと、会合や酒宴で出席者が一緒にご当地ソングを歌う習慣の衰退、少子化に伴う地域の夏祭りの衰退なども重なり、地元でも『ミス仙台』を知らない人が多くなった。それでも島倉のシングルのB面「七夕おどり」とともに、仙台七夕のイメージが付いたため、現在でも仙台七夕まつりにおけるBGMの定番ソングの1つとして、期間中は街のあちこちで(主に島倉の)『ミス仙台』を耳にすることが出来る。

年表

二葉あき子(歌唱)
画像外部リンク
日本コロムビア
二代目 コロムビア・ローズ
島倉千代子(歌唱)

「ミス○○」

英語において、未婚女性の姓に冠する敬称 Miss(ミス)は、ミス・アメリカ1921年開始)のように地名・職業名・年号などに冠するとミスコンテスト(美人コンクール)の優勝者の意味にもなる。しかし、昭和初期の日本では、ミスコンテストとは関係なく、レーベル名にミスを冠した歌手や地名にミスを冠した新民謡(流行歌)があった。

1931年(昭和6年)、日本で録音された最初のラテン音楽南京豆売り」(ビクター)が発売されるが、同曲は覆面歌手の鉄仮面こと作間毅が歌った。1932年(昭和7年)になると、覆面歌手の金色仮面(ゴールデン・マスク)こと小林千代子が「ミス東京」(ビクター)を発売し、大和屋花一は「ミス南地」(コロムビア)を発売した。ビクターの覆面歌手が大いに注目され人気を博したことから、コロムビアも1933年(昭和8年)に覆面歌手のミス・コロムビアこと松原操を、タイヘイレコード1935年(昭和10年)に覆面歌手のミス・タイヘイこと奥田英子をデビューさせた。1936年(昭和11年)春にコロムビア専属となった二葉あき子は、同年『ミス仙台』、翌1937年(昭和12年)には「ミス東北」[※ 15]と「ミス秋田」(いずれもコロムビア)を発売している。

一方、仙台市の(特に仙台七夕まつりの)観光振興のための親善大使を、仙台商工会議所が公募してミスコンテストのような形式で選出してきた。戦後占領期が終わった1953年(昭和28年)から20年間は、「ミス織姫」「ミス七夕」「ミス観光」といった名称で未婚女性が選出された。オイルショックを機に中断されていたが、仙台市が政令指定都市移行に向けて動き出した1986年(昭和61年)に「ミス仙台」との名称で復活した。ジェンダーフリー等を意識して、2004年(平成16年)からは「せんだい・杜の都親善大使[21]」との名称になり、応募資格に婚姻歴制限や性別制限が無くなった。

歌詞に描かれた仙台

森の都 / 杜の都
2008年(平成20年)時点で見つかっている文献によれば、仙台を「の都」と初めて記したのが1909年(明治42年)[12]、「の都」と初めて記したのが1916年(大正5年)であり[12]、当初はどちらで表記しても良かった。
『ミス仙台』の歌詞カードでは、1936年(昭和11年)発売の二葉あき子のシングル、1962年(昭和37年)発売の(二代目)コロムビア・ローズのシングル、1974年(昭和49年)発売の島倉千代子のシングルにおいて「の都」の方を使用している[17][3][5]
の都」は、1970年(昭和45年)に仙台市が公文書において表記統一し、1978年(昭和53年)にさとう宗幸が歌ったヒット曲「青葉城恋唄」の歌詞カードで用いられたことで広く普及した。そのため現在では、『ミス仙台』の歌詞も「の都」と表記される場合がある。
人口上位都市[22](※:都道府県庁所在地
1935年(昭和10年)国勢調査人口 最新推計人口
全国 東北地方 全国 東北地方
1 東京市 5,875,667人 仙台市 219,547人 東京23区 9,883,800人 仙台市 1,096,079人
2 大阪市 2,989,874人 青森市 93,414人 横浜市 ※ 3,772,123人 いわき市 317,686人
3 名古屋市 1,082,816人 山形市 69,931人 大阪市 ※ 2,794,754人 郡山市 319,054人
4 京都市 1,080,593人 盛岡市 69,130人 名古屋市 ※ 2,332,248人 秋田市 ※ 296,102人
5 神戸市 912,179人 八戸市 62,210人 札幌市 ※ 1,956,119人 盛岡市 ※ 280,708人
6 横浜市 704,290人 秋田市 60,646人 福岡市 ※ 1,658,786人 福島市 ※ 271,977人
7 広島市 310,118人 郡山市 54,709人 神戸市 ※ 1,492,572人 青森市 ※ 260,301人
8 福岡市 291,158人 米沢市 50,448人 川崎市 1,552,074人 山形市 ※ 239,878人
9 呉市 231,333人 福島市 48,484人 京都市 ※ 1,437,845人 八戸市 212,828人
10 仙台市 219,547人 若松市 46,119人 さいたま市 1,351,775人 弘前市 159,436人
11 長崎市 211,702人 弘前市 46,014人 広島市 ※ 1,179,834人 石巻市 131,704人
12 八幡市 208,629人 鶴岡市 37,224人 仙台市 1,096,079人 大崎市 121,162人
13 函館市 207,480人 釜石町 36,230人 千葉市 985,077人 鶴岡市 115,051人
14 静岡市 200,737人 石巻市 33,530人 北九州市 907,858人 会津若松市 111,173人
15 札幌市 196,541人 酒田市 31,866人 堺市 806,630人 一関市 103,824人
16 熊本市 187,382人 内郷村 29,917人 新潟市 765,995人 奥州市 106,086人
17 横須賀市 182,871人 塩竈町 29,364人 浜松市 774,899人 酒田市 94,082人
18 鹿児島市 181,736人 能代港町 25,756人 熊本市 737,598人 花巻市 88,687人
19 和歌山市 179,732人 平町 25,741人 相模原市 723,564人 北上市 91,967人
20 佐世保市 173,283人 白河町 22,831人 岡山市 712,786人 横手市 78,818人
1927年(昭和2年)頃の仙臺市および近郊地図仙台市電の環状線、芭蕉の辻線、および、荒町まで敷いた長町線が実線で図示されている。その他の計画路線は点線で表されている。なお、建設中の仙山東線も実線で図示されている。
月に棹さす廣瀬川
穏やかな水面に映る月に、船頭が棹を差して小船(あるいは)を操る姿を表現している。
名取川水系の広瀬川では上流域で切り出した燃料用の木材を流して、仙台市中心部に近い中流域で陸揚げする流木を、江戸時代には仙台藩の管轄下で、明治維新後は民間企業が行っており、広瀬川上流域からの流木は大橋東詰付近(現・西公園[※ 16]で、名取川上流域からのそれは木流堀を経由して広瀬川の宮沢橋西詰付近[※ 17]で陸揚げしていたが、大正期より大口需要先である公的機関(第2師団・役所・学校など)がから石炭亜炭仙台亜炭)へとエネルギー革命を実施したため、『ミス仙台』が創作された昭和10年代に終焉を迎えている[23]。また渡し船も当時、名取川中下流域の鈎取中田閖上などでは見られたが、仙台市中心部周辺では架橋が進んだため既に廃れていた[24]
一方、牛越橋から広瀬橋までの両岸には当時、旧・仙台藩家臣の屋敷跡等を利用した料亭偕行社・公園・学校が多数あったため、その客らが舟遊びをした様子を表現した可能性がある。奥山無門の「第二師団遠望の図」(1917年(大正6年)頃)には、大橋付近にて、船頭が棹を差して進めている船(6人程度乗船)が2艘描かれている[23]
なお、新拾遺和歌集藤原隆信和歌「明けぬとや 釣する舟も 出ぬらん 月に棹さす しほがまのうら」がある。
夏の祭は七夕
江戸時代の仙台の七夕は、(旧暦)7月6日[※ 18]夕方に七夕を飾り、翌(旧暦)7月7日朝に広瀬川などでその飾りを流す(七夕流し)[※ 19]という形で定着していた[25]
明治改暦後も旧暦で行われたが、七夕流しの風習は廃れ、その一方で肴町(魚問屋の集積地)や遊廓[※ 20]で仕掛け物や豪華な七夕飾りが生まれた[25]1910年(明治43年)以降は、新暦月遅れ8月6日7日)で行われるようになった[25]
1926年(大正15年)8月6日、市中心部に位置する各商店街が協力して、不景気[※ 21]を払拭しようと「七夕祭連合大売出し」を開催したところ、道を埋め尽くすほどの人出が見られ大盛況となった[25]。これが「商店街七夕」の端緒であり、翌年も同様な形で開催された。そして1928年(昭和3年)、東北産業博覧会の関連行事として「第1回全市七夕飾りコンクール」が行われると七夕飾りはさらに豪華絢爛となった[25]。仙台を代表する祭は、江戸時代には仙台東照宮の祭礼「仙台祭」、明治・大正期には青葉神社の祭礼「青葉祭」や年末年始の「歳の市」等だったが、飾り付けの豪華さも人出も年々上昇していった「仙台七夕」が『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)頃までにはその地位に上り詰めていた[25]
しかし、1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件を発端として支那事変日中戦争)が進行すると、同年を最後に仙台七夕は行われなくなった[26]終戦翌年の1946年(昭和21年)8月6日・7日、小規模ながら仙台七夕は復活開催された[26]。翌1947年(昭和22年)、昭和天皇の東北巡幸に合わせて8月5日から3日間の日程で開催された。このとき市内には5000本の竹飾りが飾られ、戦前には見られなかった大きな薬玉も登場するなど、量と質で大きな変化を見せた[26]1954年(昭和29年)以降は現在のように8月6日・7日・8日の3日間の日程で開催され、全国から観光客が集まる「観光七夕」として発展している[26]
ネオン色めく一番町 三味の音いろも泣きぬれて
仙台市内のネオン・ライト
1933年(昭和8年)1月時点)[27]
業種 軒数 逓昇
変圧器
カフェー喫茶店 34 軒 111 台
製菓会社広告
ビール会社広告用
10 軒 021 台
楽器 05 軒 007 台
菓子店・パン店 05 軒 006 台
食堂・料理店 04 軒 007 台
呉服 03 軒 024 台
薬局 03 軒 007 台
洋品 03 軒 003 台
食料品店 02 軒 003 台
ラヂオ電気商 02 軒 003 台
金物 01 軒 002 台
活動常設館 01 軒 002 台
その他[※ 22]
江戸時代の仙台城下町の中心地は、仙台城(青葉城)大手門から城下町を通って塩竈松島石巻三陸海岸へと続く東西道(塩竈街道/石巻街道/金華山街道/気仙道)と、江戸(現・東京)から蝦夷地(現・北海道)までを結ぶ南北道(奥州街道)とが交差する芭蕉の辻である。芭蕉の辻を構成する町丁は、東と西が大町4丁目、北が国分町[※ 23]、南が南町である。
1887年(明治20年)、日本鉄道(現・JR東日本東北本線)が仙台区(現・仙台市)まで開通すると、芭蕉の辻と仙台駅との間にある大町5丁目(現・マーブルロードおおまち)、新伝馬町(現・クリスロード)、名掛丁(現・ハピナ名掛丁)が繁華街商店街)化していった(3町丁を合わせて現・中央通り[28]
1926年(大正15年)開業の仙台市電の1号車(保存車両)
奥州街道(国分町[※ 23]および南町)の東側を並走する東一番丁(現・一番町)は、明治期に侍町から商業地へと変化し始め、勧工場活動写真館劇場飲食店などの集積が進んで歓楽街(盛り場)となった[28]。しかし、大正末期に開業した仙台市電の電停が東一番丁付近に設置されたことや、東一番丁の南部に藤崎百貨店が1932年(昭和7年)に、北部に三越百貨店仙台支店がその翌年に開業したことにより、国分町[※ 23]および南町に取って代わって市内随一の繁華街(商店街)へと成長していった[28]。すなわち、『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)当時の東一番丁(現・一番町)は、歓楽街(盛り場)から繁華街(商店街)への転換期にあたる[28]。当時の東一番丁は、1930年代に一般商店等でも使われるようになったとは言え、元々カフェーの装飾用だったネオンサイン[27]に彩られ、西から接続する虎屋横丁には料亭や芸者置き場もあって[29]三味線の音色もありふれていた。
「月最深積雪」(仙台[30]
積雪量 観測日
1 41 cm 1936年2月9日
2 37 cm 1932年2月26日
3 35 cm 2014年2月9日
4 34 cm 1935年1月1日
1974年1月22日
1976年12月25日
5 33 cm 1936年1月26日
1977年1月1日
6 32 cm 1974年2月8日
7 30 cm 1980年12月14日
雪に埋もるる北の
仙台管区気象台における「月最深積雪」を見ると、1936年(昭和11年)1月26日に33cm2月9日に41cmを観測しており[30]、その年の6月に『ミス仙台』が創作されている。因みに、4年前の1932年(昭和7年)2月26日に37cm、前年の1935年(昭和10年)1月1日に34cmと、『ミス仙台』が創作される前の1930年代に上位がきている[30]
なお、現在の仙台管区気象台の「積雪の深さ最大」の平年値1981年2010年の30年平均値)は、10日分を積算したごとの値でも2月上旬の8cmが最大である[31]
榴岡公園八重紅枝垂
(2010年4月25日撮影)
枝垂櫻の春
『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)当時、宮城県内の名勝日本三景の「松島」、仙台市内で唯一指定された「榴ヶ岡の」、紅葉で有名な「鳴子峡」の計3つのみだった[32]
「榴ヶ岡の桜」は、仙台藩第4代藩主・伊達綱村が枝垂桜などを1000本余り植えた「桜の馬場」(現・榴岡公園)に由来する[33]が、1924年(大正13年)の名勝指定当時は彼岸桜と枝垂桜の両種により占められており[32]、特に遠藤庸治・初代仙台市長が明治期に広めた八重紅枝垂は現在も榴岡公園を彩っている。すなわち、染井吉野が現在ほど広まっていなかった当時は、榴ヶ岡の「枝垂桜」が仙台に春の訪れを告げていた。

画像

1930年頃の仙台の画像を以下に列挙する。

仙台小唄

「仙台小唄」には同名異曲が4曲知られている。『ミス仙台』にとって「仙台小唄」は通称であるが、同曲以外は「仙台小唄」が正式な曲名。

「仙台小唄」と呼ばれる曲
経緯 歌唱 レーベル 作詞 作曲
1931年(昭和6年)に発売された「仙台小唄」 和歌吉歌 タイヘイ 島川観水 大村能章
1935年(昭和10年)1月に発売された「仙台小唄」 松平晃 コロムビア 高橋掬太郎 貝塚晴美
1935年(昭和10年)5月12日河北新報ラヂオ欄掲載の「仙台小唄」 不明 不明 松国松翁 柏伊三郎
1936年(昭和11年)7月1日に発売された『ミス仙台』 二葉あき子 コロムビア 西條八十 古関裕而

その他

松竹映画「下田夜曲」(主演:八雲恵美子、主題歌:音丸)と日本コロムビアがタイアップして開催した歌謡コンクールで優勝し、二葉あき子が日本コロムビアから『ミス仙台』を発売したのと同年月の1936年(昭和11年)7月に、日本コロムビアの関連レーベルであるリーガルレコードからデビューした、仙台市出身の女性歌手。しばしば『ミス仙台』を歌っていたのは青葉である、と誤解されることがある。

脚注

注釈

  1. ^ 歌詞カードでの表記は『ミス・仙臺』
  2. ^ 作詩:西條八十、作曲:江口夜詩
  3. ^ レコード番号:28980
  4. ^ 作詩:高橋掬太郎、作曲:佐々紅華。この「宮城音頭」は、1934年(昭和9年)に発売された「仙台音頭」のもう片面に収録されていた曲で、両曲とも作詞者・作曲者が同じ。
  5. ^ レコード番号:A1039
  6. ^ 作詩:高橋掬太郎、作曲:佐々紅華。この「宮城音頭」は、二葉あき子が歌う『ミス仙台』の再発盤と歌手が違うが同じ曲。
  7. ^ レコード番号:SA-1015
  8. ^ 作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実、編曲:山路進一。この「七夕おどり」は、既に島倉千代子が歌って1962年(昭和37年)7月5日に発売している。
  9. ^ レコード番号:AA-58、および、AK-623
  10. ^ 1943年(昭和18年)の廃盤までの売上枚数は3067枚。
  11. ^ 1943年(昭和18年)の廃盤までの売上枚数は4万8048枚。
  12. ^ a b 広告に載っていたキャッチコピーは以下を縦書きしたもの。「合唱」には「コーラス」とのルビが入っていた。
    靑葉城下に
    やくメロ
    デイ
    、彈む歌
    いざ樂しき
    合唱を!
  13. ^ 歌詞カードには、金田安代が表現を担当してコロムビア民謡舞踊研究会宮城県支部が振り付けした踊り方が写真入りで説明されていた。委託製作盤。レコード番号がAA-58の価格は500円、AK-623の価格は600円(当時はオイルショックによって「狂乱物価」と呼ばれるインフレーションが発生していた)。
  14. ^ カップリング曲は、かつて二葉あき子が歌った「仙台音頭」。
  15. ^ もう片面は、音丸が歌う「東北小唄」。
  16. ^ 江戸時代は澱橋北詰付近の「角五郎御木場」で陸揚げしていた。
  17. ^ 江戸時代の呼称は「長町御木場」
  18. ^ 仙台藩第7代藩主・伊達重村の治世(在位:1756年 - 1790年)に、七夕を祝えない事情があったため、本来より1日繰上げて行われるようになったとされる。
  19. ^ さらに水浴や洗い物をしてをし(七日浴)、お盆7月15日)の準備をした、との説もある。
  20. ^ 戊辰戦争での敗戦を機に、江戸時代から続く仙台城下町での遊女屋の営業禁止が解かれ、国分町がその集積地となった。中心部に遊女屋が建ち並んでいるのは問題と指摘されるようになった中、西南戦争から帰還した仙台鎮台兵らが俸給を得て、国分町の遊女屋に大いにお金を落としたことから移転の原資が生まれ、1878年(明治11年)に国分町から20数軒の遊女屋が現・仙台市民会館の辺りに集団移転して「常盤町遊郭」が成立した。しかし、広瀬川を挟んで第二師団と向かい合う立地が問題となり、日清戦争開戦を機に1894年(明治27年)に小田原蜂屋敷に集団移転させられ「小田原遊郭」(新常盤町遊郭)が成立した。1945年(昭和20年)、進駐軍が仙台に入る直前にGI仕様に改装するも、GIはX橋(宮城野橋)周辺に新規に興隆した歓楽街に集まった。1957年(昭和32年)に進駐軍の撤収が完了し、1958年(昭和33年)に売春防止法が施行され、小田原遊郭の赤線が廃止となり、「旅籠町」に改称して旅館街として再出発するも、市中心部のホテル・旅館に集客力で及ばず、住宅地へと転換していった。なお、X橋周辺の歓楽街もGIが去ってからは下火になり、昭和40年代から興隆した国分町に市内一の歓楽街の地位を奪われた。現在、X橋周辺は再開発され、高層ビルが建ち並んでいる。
  21. ^ 1920年からは第一次世界大戦後の戦後恐慌、1922年には銀行恐慌、1923年には関東大震災の発生に伴う震災恐慌と続いた。そして、1927年には昭和金融恐慌がおこり、1929年の世界恐慌が日本に及んで昭和恐慌も発生した。
  22. ^ 果物店、靴店、酒店、銀行、牛肉店、糸店など各1軒。
  23. ^ a b c 戦災復興事業で建設された大通り(青葉通広瀬通東二番丁東五番丁など)に次々建ったビル、あるいは、国道4号仙台バイパス沿いにつくられた東部流通団地および東部工業団地などに、国分町などから企業が移転していったため、定禅寺通から広瀬通までの国分町は昭和40年代から歓楽街化した。

出典

  1. ^ a b 新民謡:ミス仙台(1936年8月)国立国会図書館デジタル化資料「歴史的音源(れきおん)」)
  2. ^ 新民謡:ミス仙台(1950年12月)(国立国会図書館デジタル化資料「歴史的音源(れきおん)」)
  3. ^ a b c (二代目)コロムビア・ローズ「ミス仙台」(レコード番号:SA-1015)の歌詞カードより。
  4. ^ 島倉千代子 - ミス仙台 (MEG-CD)Amazon.co.jp
  5. ^ a b c d e 島倉千代子「ミス仙台」(レコード番号:AA-58)の歌詞カードより。
  6. ^ 流行歌:乙女十九(国立国会図書館デジタル化資料)
  7. ^ 歌手生活30周年記念 島倉千代子全集 ~人生よ ありがとう~ 【CD】(島倉千代子 JANコード/ISBNコード 4988001904441)
  8. ^ 元気の秘訣は寮歌咆哮読売新聞内館牧子の仙台だより」 2014年6月11日)
  9. ^ ご当地ソング復活 60年代にヒット「ミス仙台」 登米の演歌歌手・綾華がシングル(河北新報 2013年6月18日)
  10. ^ 土地区画整理事業地区の一覧表(区別・換地処分順)(仙台市)
  11. ^ 「ミス仙台」を大合唱、復興へ気勢(2011年4月25日)
  12. ^ a b c d 『「杜の都・仙台」の原風景 -樹木を育てた城下町-』(大崎八幡宮 仙台・江戸学 実行委員会)
  13. ^ a b 隣接市町村の合併(仙台市)
  14. ^ 仙台市の土地区画整理事業のあゆみ(仙台市)
  15. ^ 『忘れかけの街・仙台 〜昭和40年頃、そして今〜』(河北新報出版センター、2005年4月25日) p.98-99「長者荘 戦前生まれの高級住宅街」 現・青葉区国見1丁目、子平町
  16. ^ 日本のSPレコード史 (PDF)大阪音楽大学
  17. ^ a b 二葉あき子「ミス仙台」(レコード番号:28980)の歌詞カードより。
  18. ^ a b c d SPレコードレーベルに見る 日蓄-日本コロムビアの歴史京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター)
  19. ^ 泉なつかし写真館―第9回 泉の団地(仙台市泉区)
  20. ^ 公害市民憲章(仙台市)
  21. ^ せんだい・杜の都親善大使(仙台商工会議所)
  22. ^ e-Stat総務省統計局
  23. ^ a b 「仙台市史 通史編7 近代2」(2009年7月31日、仙台市 発行) P.104〜P.105
  24. ^ 「仙台市史 資料編5 近代現代1 交通建設」(1999年3月31日、仙台市 発行) P.396〜P.415
  25. ^ a b c d e f 『仙台七夕 - 伝統と未来』(大崎八幡宮 仙台・江戸学 実行委員会 発行、2008年2月25日)
  26. ^ a b c d 「仙台市史 通史編8 現代1」(2011年5月31日、仙台市 発行) P.552〜P.555
  27. ^ a b 「仙台市史 資料編7 近代現代3 社会生活」(2004年3月31日、仙台市 発行) P.35〜P.36 1933年(昭和8年)1月28日の河北新報夕刊より
  28. ^ a b c d 「仙台市史 通史編7 近代2」(2009年7月31日、仙台市 発行) P.110〜P.117
  29. ^ 金英堂薬局と国分町 大内エイ(大正元年生まれ)(国分町親交会 会報第7号「国分町の今昔」)
  30. ^ a b c 観測史上1~10位の値(年間を通じての値) 仙台 (宮城県)気象庁
  31. ^ 平年値(旬ごとの値) 仙台(気象庁)
  32. ^ a b 指定史蹟名勝天然紀念物国宝 第11輯(宮城県史蹟名勝天然紀念物調査会 1937年)
  33. ^ 宮城県公文書館だより 第15号 (PDF) (宮城県公文書館)

参考文献

  • 流行歌「ミス・仙台」〜郷土・仙台の近現代史散歩〜(著者:石澤友隆、発行所:河北新報出版センター、発行日:2005年11月1日) ISBN 4-87341-196-3

関連項目

外部リンク