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「ラプソディ・イン・ブルー」の版間の差分

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*『[[植木等ショー]]』(1967年12月28日放送「われもし指揮者なりせば」)では[[植木等]]が指揮者となり[[東京交響楽団]]・[[ハナ肇とクレージーキャッツ]](ジャズバンド)による演奏が行われた。曲中には音楽ギャグが挿入され(途中で[[ペレス・プラード]]の「[[チェリー・ピンク・チャチャ|セレソローサ]]」や[[加山雄三]]の「[[君といつまでも]]」に演奏が切り替えられたことも)、最後はクレージーキャッツによるグランドピアノの解体・爆破([[リベラーチェ]]のパフォーマンスを元に[[鴨下信一]]・中原弓彦([[小林信彦]])が提案)で締めくくられた。
*『[[植木等ショー]]』(1967年12月28日放送「われもし指揮者なりせば」)では[[植木等]]が指揮者となり[[東京交響楽団]]・[[ハナ肇とクレージーキャッツ]](ジャズバンド)による演奏が行われた。曲中には音楽ギャグが挿入され(途中で[[ペレス・プラード]]の「[[チェリー・ピンク・チャチャ|セレソローサ]]」や[[加山雄三]]の「[[君といつまでも]]」に演奏が切り替えられたことも)、最後はクレージーキャッツによるグランドピアノの解体・爆破([[リベラーチェ]]のパフォーマンスを元に[[鴨下信一]]・中原弓彦([[小林信彦]])が提案)で締めくくられた。
*百歳体操『[[ふるさと愉快亭 小朝が参りました]]』で使われた体操の楽曲。メロディの一部に本曲がモチーフの部分がみられる。
*百歳体操『[[ふるさと愉快亭 小朝が参りました]]』で使われた体操の楽曲。メロディの一部に本曲がモチーフの部分がみられる。
*『[[科捜研の女]]』(テレビ朝日系)- 第1シリーズ(1999年10月放送)中の各所にて[[バックグラウンドミュージック|BGM]]として使用されていた。
*『[[科捜研の女]]』(テレビ朝日系)- 第1シリーズ(1999年10月放送)中の各所にて[[背景音楽|BGM]]として使用されていた。
*[[花澤香菜]]『マニアエキラキラ』(2010年)- メロディの一部に引用。
*[[花澤香菜]]『マニアエキラキラ』(2010年)- メロディの一部に引用。
==== CM曲 ====
==== CM曲 ====

2021年11月23日 (火) 08:46時点における版

音楽・音声外部リンク
全曲を試聴する
Gershwin:Rhapsody in Blue - Aryo WicaksonoのP独奏、Julie Debordes指揮Queer Urban Orchestraによる演奏。Queer Urban Orchestra公式YouTube。

ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)は、アメリカ作曲家ジョージ・ガーシュウィンが作曲、ファーディ・グローフェ編曲したピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品である。

『ラプソディ・イン・ブルー』というタイトルは「ジャズの語法によるラプソディ」といった程度の意味がある。ラプソディ(狂詩曲)には、「民族音楽風で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放なファンタジー風の楽曲」という意味があるので、このタイトルから、ガーシュウィンはジャズをアメリカにおけるある種の「民族音楽」と捉えていたことが窺える。実際この曲は、アメリカ的な芸術音楽の代表格とみなされている。

「この曲は青い」という言葉が題名の由来。元は『アメリカン・ラプソディ』という題名だったが、兄のアイラ・ガーシュウィンが現在の題名を提案して変更した。

アメリカ合衆国の著作権法では1978年以前の出版物の著作権は発表から95年と定められており、『ラプソディー・イン・ブルー』は2020年にパブリック・ドメインに入った[1]

作曲の経緯・初演

ポール・ホワイトマンの提案を受け、1924年ニューヨークエオリアンホールで開かれた「新しい音楽の試み」と題されたコンサートに向けて作曲し、そこで初演された(同年2月12日)。

この曲が作られることになった発端は、1924年1月3日、他の仕事で多忙だったガーシュウィンが兄のアイラビリヤード場に息抜きに行った際、新聞で「ホワイトマンがガーシュウィンに曲を発注した」という記事を見つけたことだった。翌日、抗議のためガーシュウィンはホワイトマンに電話をかけるも、実はこの記事はホワイトマンがガーシュウィンを呼びつけるために作った偽記事だったらしく、「新聞記事になってしまったから作ってくれ」とホワイトマンに押し切られた。

カデンツァの部分は、仕事でボストンに向かう際に乗った列車の走行音から着想を得たとされる。

ガーシュウィンは、この曲を約2週間で一気に書き上げた。ただ、当時のガーシュウィンはまだオーケストレーションに精通しているとはいえなかった上に、作曲の期間が限定されているという事情も加わり、代わってファーディ・グローフェがオーケストレーションを行なった。グローフェは当時、ホワイトマン楽団のピアニストであるとともに専属の編曲者を務めていた。ガーシュウィンが2台のピアノを想定しながら作曲し、それを即座にグローフェがオーケストラ用に編曲していき、結局はガーシュウィン自身が弾くピアノと小編成のジャズバンド向けの版が完成された。その後もいくつかの版が作られたが、1926年にグローフェが再編曲したオーケストラ版と、ガーシュウィンの死後の1942年にフランク・キャンベル=ワトソンがグローフェ編曲版に加筆修正を加えた版がよく知られている。その後は主に1942年版が演奏されている。

ピアノ独奏が入るため、一種のピアノ協奏曲風な雰囲気もある。ヨーロッパのクラシック音楽とアメリカのジャズを融合させたシンフォニックジャズとして高く評価された。

初演が行なわれた「新しい音楽の試み(現代音楽の実験)」には、ヤッシャ・ハイフェッツフリッツ・クライスラーセルゲイ・ラフマニノフレオポルド・ストコフスキーゴドフスキーイーゴリ・ストラヴィンスキーらが立ち会ったという[2]

日本人による演奏

日本においては、1955年9月11日に日比谷公会堂にて、近衛秀麿の指揮、アメリカ人ピアニストのセイモア・バーンスタインにより初演された。その後、小曽根真などジャズピアニストがニューヨーク・フィルハーモニックなどのオーケストラと、アジアを中心に各地で公演したことでさらに広く知られる。

曲の構成

最初はクラリネットの、低音からのグリッサンドで始まる。当初はグリッサンドでなく、17音の上昇音階で記されていたが、ホワイトマン・バンドのクラリネット奏者がふざけてグリッサンドで演奏したところ、ガーシュウィンが気に入り書き改められたと伝えられる。曲風はジャズの要素を多く含んでいる。

各稿とその編成[3]

1924年オリジナル・ジャズ・バンド稿

前述の通り、ガーシュウィンが2台のピアノ用に作曲したものを、グローフェがジャズ・バンド用にオーケストレーションしている。この版はグローフェがホワイトマン楽団での演奏専用に編曲したものであるため、木管楽器に頻繁な持ち替えが規定されるなど、特異なアレンジがなされている。そのため公式の出版はなされず、グローフェの手書きの楽譜のみが残されている。

この稿は1976年に、マイケル・ティルソン・トーマスがガーシュウィンの遺したピアノロール(後述)からオーケストラ・パートを削除しソロ・パート部分のみにしたものをソロに用い、コロンビア・ジャズ・バンドを指揮してレコーディングを行い、その後世界的に知られるようになった。

[疑問点]

1924年2台ピアノ稿

オリジナル・ジャズ・バンド稿の初演の成功の後、ガーシュウィン自身が2台のピアノのために完成させた稿。なお、ガーシュウィンはピアノロールを用いてソロパートとオーケストラパートを2重記録(1台のピアノを連弾)したものを遺している。

1926年オーケストラ稿

この曲の成功を受けて、グローフェがオーケストラ用に再編曲した稿。

1927年ピアノ・ソロ稿

1924年の2台ピアノ版に続き、ガーシュウィン自身が完成させた稿。

1937年7月にガーシュウィンは死去しているため、この稿が作曲者の関与した最後のものである。

1938年オーケストラ稿

グローフェの再々編曲。ピアノ・ソロ部分までもオーケストレーションし、ピアノがなくても演奏可能としたところに特徴がある。

なお、グローフェは同様にピアノなしで演奏可能にした吹奏楽のための編曲も残している(1937年)。

1942年オーケストラ稿

1926年のグローフェ稿を基本としつつ、フランク・キャンベル=ワトソン(ガーシュウィン作品の出版社の編集者)が改訂した稿。現在、オーケストラでの演奏にあたってはこの稿が使用されることが多い。

  • 木管楽器:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、サクソフォーン3(アルト2、テナー1)
  • 金管楽器:ホルン3、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1
  • 打楽器・その他:ティンパニ、ベル、銅鑼、小太鼓、シンバル、トライアングル、独奏ピアノ
  • 弦楽器:第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、バンジョー

使用例

日本における例

CM曲

脚注

外部リンク