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アルジェリア代表監督時のハリルホジッチ(2014年) | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | Coach Vahid(ヴァイッド先生)、ワハ | |||||
ラテン文字 | Vahid Halilhodžić | |||||
セルビア語 | Вахид Халилхоџић | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
ボスニア・ヘルツェゴビナ フランス | |||||
生年月日 | 1952年5月15日(72歳) | |||||
出身地 |
ユーゴスラビア ボスニア・ヘルツェゴビナ ヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県ヤブラニツァ | |||||
身長 | 182cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1968-1971 | ヴェレジュ・モスタル | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1971-1981 | ヴェレジュ・モスタル | 207 | (103) | |||
1971-1972 | → ネレトヴァ (loan) | 18 | (8) | |||
1981-1986 | ナント | 163 | (92) | |||
1986-1987 | パリ・サンジェルマン | 18 | (8) | |||
通算 | 406 | (211) | ||||
代表歴 | ||||||
1975-1978 | ユーゴスラビア U-21 | 12 | (12) | |||
1976-1985 | ユーゴスラビア | 15 | (8) | |||
監督歴 | ||||||
1993-1994 | ボーヴェ | |||||
1997-1998 | ラジャ・カサブランカ | |||||
1998-2002 | リール | |||||
2002-2003 | レンヌ | |||||
2003-2005 | パリ・サンジェルマン | |||||
2005-2006 | トラブゾンスポル | |||||
2006 | アル・イテハド | |||||
2008-2010 | コートジボワール | |||||
2010-2011 | ディナモ・ザグレブ | |||||
2011-2014 | アルジェリア | |||||
2014 | トラブゾンスポル | |||||
2015-2018 | 日本 | |||||
2018-2019 | ナント | |||||
2019- | モロッコ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ヴァヒド・ハリルホジッチ[2](セルビア語: Vahid Halilhodžić, セルビア語キリル・アルファベット: Вахид Халилхоџић, 1952年5月15日[3] - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。元ユーゴスラビア代表(現在はボスニア・ヘルツェゴヴィナ国籍以外にフランス国籍も取得)。ディヴィジオン・アン(現リーグ・アン)、1982-83, 1984–85シーズン得点王2回。1976年欧州選手権、1982年ワールドカップに出場した。2015年3月から2018年4月7日まで日本代表監督を務めた(詳細は後述)。現在はモロッコ代表の監督を務めている。
生い立ち
6人兄弟の第4子として生まれ、名字の由来は「親友(ハリル)」「指導者の子孫(ホジッチ)」[4]。近所にあったサッカースタジアムが少年時代のヴァイッドの遊びの場となる。14歳時、将来エンジニアとしての電気工学修学目的でモスタルへと移住、両親の近くで生計を立てようかと考えていたが8歳年上だった実兄のサレムがプロとして成功し弟ヴァイッドをフットボールに誘い、地元フットボールクラブ「ジュニオール・ヴェレジュ・モスタル」に加入。18歳時、進路の決定を迫られFKヴェレジュ・モスタルの契約選手として報酬を得る道を選択。
選手として
選手時代のポジションはフォワード。FKヴェレジュ・モスタル、FCナント、パリ・サンジェルマンFCなどに在籍、ヴェレジュ・モスタル時代は11年間に渡りプレーを続け、通算207試合出場、103ゴールを挙げ、ナント時代には2度のディヴィジオン・アン得点王に輝いた。PSG時代、実母の死没と時を同じくしてプロ選手活動を終え、帰郷。
1978年、この年から開始したUEFA U-21欧州選手権に旧ユーゴスラビア代表として出場(ハリルホジッチは26歳だったが当時は2名までのオーバーエイジ選手が認められていた)し、決勝戦では旧東ドイツ代表を相手に2試合合計で4得点を挙げる活躍を見せた。この大会では6得点を記録し得点王となり、チームを同大会の初代優勝へと導いた。また、初代最優秀選手賞を受賞した[5]。
ユーゴスラビア代表には1976年から1985年まで招集され、15試合に出場して8ゴール[6]を挙げた。1976年欧州選手権、1982年ワールドカップに出場した。
横浜F・マリノスの前監督、エリク・モンバエルツとは、パリ・サンジェルマン時代での選手・指導者という間柄で、現在も交流があるという。
監督として
選手時代の蓄えを元手に母国にて飲食店、衣料品店などの事業に出資するも、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にて資産が消滅。その後、古巣のヴェレジュ・モスタルで初めて監督となる。しかし、紛争が激化した影響でサッカーどころではなくなり、フランスへ移住。自宅の前で起きた銃撃戦に巻き込まれ重傷を負った事もあったという[4]。1995年にフランス国籍を取得している。
ラジャ・カサブランカ監督時代
1997年から1998年まで監督を務めたモロッコのラジャ・カサブランカでは、国内リーグを2連覇、1997年のCAFチャンピオンズカップを制しアフリカチャンピオンに導いた。
LOSCリール・メトロポール監督時代
1998年から2002年まで監督を務めたフランスのリールでは、1999-00シーズンに2部リーグ優勝、2000-01シーズンはリーグ・アン昇格1年目ながら3位に食い込み、その手腕が評価され同年の年間最優秀監督に選ばれた。
レンヌ監督時代
フランス1部レンヌ監督に就任するも編成方針をめぐってクラブ幹部と対立し、1シーズンでチームを去った。[7]
パリ・サンジェルマン監督時代
1年目にはフランスカップ優勝とリーグ2位という成績を残すも、2年目に入ると選手たちやクラブとの関係は悪化し2005年2月に解任。開幕スタートダッシュに失敗したそのシーズン、主力選手の内紛もあって思うような成績を残せず、選手からの求心力をすっかり失っていた。しかもチーム復調の障害となったのは、他ならぬハリルホジッチの厳しい指導スタイルだった[8]。
アル・イテハド監督時代
2006年6月、サウジアラビア1部アルイテハドではクラブ幹部の介入や生活環境が気に入らず、半年も持たずに辞任[7]。
コートジボワール代表監督
2008年5月、ウリ・シュティーリケの後任として就任。同年5月24日、キリンカップサッカー2008で日本代表(監督・岡田武史)と対戦[9]。当時、日本でリハビリ中だったサッカー日本代表前任監督イビチャ・オシムが試合観戦に訪れ会話を交わす。2009年10月にはアフリカ最終予選で2010 FIFAワールドカップの出場権を獲得した。2010年2月27日、アフリカネイションズカップ2010準々決勝敗退の責任をとる形で代表監督解任[10]。
ディナモ・ザグレブ監督時代
2010年8月から指揮したクロアチアリーグ1部ディナモ・ザグレブでリーグ優勝するも、ここでもクラブとの間に亀裂が生じて退任[7]。
アルジェリア代表監督
2011年6月、アルジェリア代表監督に就任。アフリカで重要視されているアフリカネイションズカップ(アフリカ代表王者を決める大陸選手権)では、2012年大会予選D組4チーム中3位で予選敗退で本大会出場できず、2013年大会は予選は突破したものの本大会グループリーグD組で最下位で敗退と同大会で立て続けに結果を残せず、解任危機に陥った[11]。同時期に並行して行われていた2014年ブラジルW杯アフリカ2次予選H組は首位で快進撃を続けていたので辛うじて解任されなかった。
2013年11月19日、2014年ブラジルW杯アフリカ最終予選最終戦で予選突破を決め、2014年ブラジルW杯出場を決めた。ブラジルW杯本大会メンバーは、アフリカ最終予選最終戦メンバーから当時19歳のMFナビル・ベンタレブ、イングランド2部リーグのレスター所属の当時無名の攻撃的MFリヤド・マフレズなど5名を抜擢し、入れ替えた[11]。約1年半前の2013年アフリカネーションズカップメンバーからでは、約半数の12名の選手が入れ替わっていた[11]。ブラジルW杯グループリーグH組では、初戦でベルギーに1-2で逆転負けしたものの、第2戦は韓国に4-2で勝利し、第3戦のロシアと1-1で引き分けてグループリーグを2位で突破し、アルジェリア史上初のベスト16入りを果たした。続く決勝トーナメント1回戦では優勝候補で実際にこの大会で優勝したドイツと対戦し、堅守と縦への鋭い攻撃で、ドイツを苦しめた。正規の90分では0-0で決着がつかず、延長戦に突入した。延長戦では2失点し、最後まで諦めることなく1点を返したものの、1-2で敗れた[11]。ハリルホジッチは、この時点でも高く評価されていたが、ドイツが優勝した後は、そのドイツを最も苦しめたのが、アルジェリア代表であったことから、世界的にさらに高い評価を受けるようになった[11]。
帰国したアルジェリア代表をアルジェリアの首相が出迎え、同国首都アルジェで凱旋パレードが行われた[12]。同代表監督継続を示されたが、固辞した。以降、アルジェリア国民は、ハリルホジッチを英雄視し、アルジェリア代表が苦境に陥る度に、ハリル待望論が出るようになった{実際に、サポーターが代表戦中にハリルホジッチの名前を称えながら連呼したり[13]、同監督の日本代表監督解任後にオファーを出したりしている(日本代表監督解任後の項で後述)}。
トラブゾンスポル監督時代
ブラジルW杯後、トルコ1部のトラブゾンスポルの監督に就任したが、わずか3か月で契約解除[14]。
日本代表監督就任
2015年3月12日、日本サッカー協会の要請を受諾して日本代表監督に年俸200万ドル(約2億7000万円)で就任[15][16][17]。代表監督への就任は3ヵ国目、公用語がフランス語ではない国は初めてとなった。2017年8月にはアジア最終予選を1位で通過、2018 FIFAワールドカップの出場権を獲得した。
2018年4月9日に解任が発表される。日本サッカー協会の田嶋幸三会長が述べた解任理由は、「選手たちとのコミュニケーションや信頼関係が薄れていた」こと。
2018年6月19日に行われたW杯初戦のコロンビア戦を2-1で勝利し、下馬評を覆すサプライズを披露しそれについてハリルホジッチはコメントを求められると「私が何かをコメントすることは意味がないよ。私は試合を見ていない」と述べ、日本の試合を見ていないとし、具体的な言及を避けた[18]。
2018年7月21日放送の週刊フジテレビ批評に出演した田嶋幸三会長が「EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017(12月16日の韓国戦で1-4で大敗)で監督交代の議論が出たが、修正を期待していた。ところが、2018年3月のベルギー遠征でも(内容も良くなく、結果も出ず)修正できなかった。以前も言ったようにW杯で1%でも勝つ確率を上げるため、監督交代に踏み切った。西野(当時JFA技術委員長)をはじめ多くの人と相談したが、最終的に自分自身で(ハリルホジッチ解任を)決断した」と番組内で解任理由を述べた[19]。
こうして自身の監督経歴では4年率いたリールに続いて2番目の長期政権を終えた[20]。
日本代表監督解任後
2018年7月8日、アルジェリア代表監督への復帰で合意したと報じられた[21]が、同年7月20日にアルジェリアサッカー連盟会長が同監督との契約交渉が破談したことを認めた[22]。名誉毀損と謝罪広告を求める訴訟の弁論準備手続きが9月25日、東京地裁で行われた[23]。下記FCナントのシーズン中に担当弁護士に連絡し「言うべきことは主張した。争いはもうやめたい」としてこの訴訟を取り下げた[24][25][26]。
FCナント監督時代
2018年10月2日、現役時代プレーヤーとして所属経験もあったリーグ・アン所属のFCナントの監督に就任する事が発表された。契約期間は2020年6月まで。またこれと同時にこれまでチームを率いていたミゲル・カルドソとは双方合意のもと契約が解除された[27]。リーグアンでの指揮は13年ぶりとなった。
モロッコ監督時代
2019年8月15日、サッカーモロッコ代表の監督に就任した。2021年9月5日にギニアでクーデターが発生した際には、同国で翌6日に開催される予定だった2022 FIFAワールドカップ・アフリカ2次予選の対ギニア戦のため現地入りしており、一時ホテルから身動きが取れなくなったが代表チームや試合関係者は特別に出国が許可されたため、5日深夜にギニアを離れた(試合は延期)[28]。
指導スタイル
- 2008年から率いたコートジボワール代表では史上稀に見る攻撃的なチームを作り上げたが、大本命とされたアフリカネイションズカップ2010で準々決勝敗退となり、解任された。アルジェリア代表では、北アフリカのチームらしく綺麗にパスをつなぐスタイルだったチームにタイトな守備と鋭い速攻を植え付け、W杯ベスト16となった。対戦相手に応じてシステムを変えながら、機能させる手腕をもつ。同胞の大先輩である元日本代表監督イビチャ・オシムとも親交が深く[29]、オシムとの関係については「親友」と述べている[30]。
- 2014 FIFAワールドカップでアルジェリア代表では「4-2-3-1」、「4-3-3」、「5-4-1」などを使い分けた。
- 「ルール、規律、練習」をモットーとし、ロナウジーニョやディディエ・ドログバといったスター選手だろうと妥協を許さぬスタイルとされる[31][32]。自分のやりたいサッカーを選手に対してミーティングを通じてはっきり示して指導するタイプ[33]であり、結果的にビデオも交えたミーティングの回数は多く長くなりがちになるため、選手を代表した長谷部誠から時間短縮を求められたことがある[34]。
- 日本代表で主将を務めた長谷部誠からは「ひと言で言うと、すべて正直に、すべてをストレートに話しますね」「個人面談だけではなく、『記者会見が長い』と言われますけど、ミーティングの回数も多く、時間も長い。プロになって20人、30人ぐらいの監督と一緒に仕事をしてきましたけど、一番長いくらいです」と語られている[35]。
- 日本代表監督就任から3ヶ月程度は帰国なしで国内組視察を行う[36]。本田圭佑[37]や香川真司[38]はハリルホジッチについて「覚えてない。印象も全然ない」「イメージがない」などと述べているが、岡崎慎司は「印象に残っていたチームを率いていた監督が日本に来る。すごい偶然」と好印象を語った[39]。
- チームの全責任は監督にあるという信念を持ち、日本滞在時は日本サッカー協会に常駐する[40]、記者会見などではより多くの質問に答えようとする[41]など、積極的にスタッフやメディアとの交流を持とうとしている。一方、合宿中の選手取材に対しては従来よりも厳しい規制をかけた[42]。
- 己の意見を貫き、協調することはなく、ピッチ内だけではなくピッチ外でも厳しいルールを設ける厳格さを貫いている[43]。
- 選手やクラブに対し厳しさを求めるため、リールで年間最優秀監督賞を受賞して以降はアルジェリア代表を除き、全てのチームから契約解除もしくは解任の憂き目に遭っている。
エピソード
- 2015年8月24日、東京都千代田区内にて乗用車を運転中にタクシーと接触事故を起こした。双方の運転手に怪我はなく、互いの車体も擦れた程度で大きな損壊はなかった[44]。2017年6月15日にも東京都文京区内にて乗用車を運転中に接触事故を起こした。双方の車に傷やへこみができたが、運転手に怪我はなかった[45]。
- 2016年5月5日、熊本地震の被災地を訪問した際に、現地の状況をボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の「銃を向けられた」「自宅が破壊された」等の経験を踏まえて語っている[46]。
監督成績
- 2019年8月15日現在
チーム名 | 就任 | 退任 | 記録 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 % | |||||||
ラジャ・カサブランカ | 1997年6月 | 1998年10月 | 45 | 28 | 14 | 3 | 62.22 | ||||
リール | 1998年10月 | 2002年6月 | 159 | 79 | 44 | 36 | 49.69 | ||||
レンヌ | 2002年11月 | 2003年7月 | 43 | 15 | 10 | 18 | 34.88 | ||||
パリ・サンジェルマン | 2003年7月 | 2005年2月 | 63 | 28 | 21 | 14 | 44.44 | ||||
トラブゾンスポル | 2005年10月 | 2006年6月 | 26 | 12 | 5 | 9 | 46.15 | ||||
アル・イテハド | 2006年6月 | 2006年8月 | 10 | 7 | 1 | 2 | 70.00 | ||||
コートジボワール代表 | 2008年5月 | 2010年1月 | 22 | 12 | 9 | 1 | 54.55 | ||||
ディナモ・ザグレブ | 2010年8月 | 2011年5月 | 32 | 24 | 4 | 4 | 75.00 | ||||
アルジェリア代表 | 2011年6月 | 2014年7月 | 31 | 19 | 5 | 7 | 61.29 | ||||
トラブゾンスポル | 2014年7月 | 2014年11月 | 14 | 4 | 8 | 2 | 28.57 | ||||
日本代表 | 2015年2月 | 2018年4月 | 38 | 21 | 9 | 8 | 55.26 | ||||
ナント | 2018年10月1日 | 2019年8月2日 | 36 | 16 | 6 | 14 | 44.44 | ||||
モロッコ代表 | 2019年8月15日 | 0 | 0 | 0 | 0 | — | |||||
合計 | 518 | 263 | 138 | 117 | 50.77 |
タイトル
- 選手
- UEFA U-21欧州選手権:1978(ユーゴスラビア代表)※オーバーエイジ枠での出場
- ユーゴスラビアカップ:1981(ヴェレジュ・モスタル)
- クープ・ドゥ・フランス:1983(ナント)
- フランスリーグ得点王:1982-83、1984-85(ナント)[47]
- 最優秀外国人選手:1984、1985(ナント)[48]
- 指導者
- CAFチャンピオンズリーグ:1997(ラジャ・カサブランカ)
- ボトラ(モロッコリーグ):1997、1998(ラジャ・カサブランカ)
- クープ・ドゥ・フランス:2004(パリ・サンジェルマン)
- リーグ・ドゥ(2部)年間最優秀監督:1999(リール)[48]
- リーグ・アン年間最優秀監督:2001(リール)[48]
栄典
- リール市民栄誉賞【フランス、2002年】[49]
- レジオンドヌール勲章 騎士(シュヴァリエ)【フランス、2004年】[49]
- モスタル市民栄誉賞【ボスニア・ヘルツェゴビナ、2011年】[49]
- ヤブラニツァ市民栄誉賞【ボスニア・ヘルツェゴビナ、2011年】[49]
主な出演
CM
関連書籍
- 『ハリルホジッチ思考 成功をもたらす指揮官の流儀』東邦出版、2015年4月。ISBN 978-4809413209 。
- 『ハリルホジッチと日本サッカーの未来 その指針と論点』ベースボールマガジン社、2015年5月。ISBN 978-4583108629。
- ローラン・ジャウィ、リオネル・ロッソ 著、楜澤美香 訳『ハリルホジッチ 勝利のスパイラル』日本文芸社、2015年7月。ISBN 978-4537261226 。
- 五百蔵容『ハリルホジッチ・プラン サッカー後進国日本 逆転の戦術論』星海社、2018年4月。ISBN 978-4065116357。
脚注
- ^ 日本サッカー協会による表記はこれで統一されている。
- ^ ForvoでのVahid Halilhodžićの発音例
- ^ “PROFILE”. ヴァイッド・ハリルホジッチ 公式ウェブサイト. 2017年5月15日閲覧。
- ^ 知ってた?ハリルホジッチ監督、「あの大会」の初代MVPだった qoly 2015年6月18日
- ^ ハリルホジッチ日本代表新監督の人物像――頭脳明晰な激情家サッカーダイジェストWeb 2015年3月12日
- ^ a b c 「大丈夫?激情家ハリル氏の途中退団癖」『東スポWeb - 東京スポーツ新聞社』。2018年7月30日閲覧。
- ^ “諸刃の剣!? ハリルホジッチ監督の3つの不安材料|サッカー代表|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva” (日本語). 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva 2018年7月30日閲覧。
- ^ なお、この時に「日本にもコートジボワール人選手がいた」という理由で、当時は柏レイソルからJリーグ2部の徳島ヴォルティスにレンタル移籍中だったドゥンビア・セイドゥを緊急追加招集し、日本戦に起用した。当時20歳のドゥンビアは代表初招集で、当時は日本向けのファンサービスという見方もあったが、同年6月にスイスリーグのBSCヤングボーイズに移籍したドゥンビアは同リーグで2年連続得点王になり、代表でもW杯南アフリカ大会出場やアフリカネイションズカップ2015優勝などを果たすなどの成長を見せた。詳しくは同選手の項目を参照。
- ^ 【ハリル新監督独占激白3】独裁者のイメージ、私じゃないからねスポニチ 2015年3月13日
- ^ a b c d e W杯までの半年が勝負。前回大会のアルジェリアに見る、ハリル流強化プランとは?LEGENDS STADIUM、2018年1月30日
- ^ W杯ベスト16のアルジェリア代表が凱旋パレードafpbbニュース、2014年7月3日
- ^ アルジェリア国民が“ハリル待望論” 親善試合に敗戦し大合唱「最も偉大である!」Football ZONE WEB、2018年6月3日
- ^ 「大丈夫?激情家ハリル氏の途中退団癖」『東スポWeb - 東京スポーツ新聞社』。2018年7月30日閲覧。
- ^ ハリルホジッチ氏の日本代表監督就任が正式決定、コーチ2人も内定ゲキサカ 2015年3月12日
- ^ SAMURAI BLUE(日本代表) 新監督にヴァイッド・ハリルホジッチ氏を招聘日本サッカー協会発表、2015年3月12日付
- ^ ハリルホジッチ体制誕生で改めて振り返る日本代表監督の待遇サッカーダイジェストWeb、2015年3月24日
- ^ “前日本代表指揮官ハリル氏、“金星”のコロンビア戦「見ていない」/W杯” (日本語). SANSPO.COM 2018年10月16日閲覧。
- ^ サッカー協会・田嶋幸三会長、ハリル監督解任は「最終的には自分自身で決めた。批判は覚悟の上だった」スポーツ報知、 2018年7月21日
- ^ 恭行, 長束. “ハリルホジッチがいつも「短命政権」に終わる理由――クロアチア人記者が語る | 文春オンライン” (日本語). 文春オンライン 2018年10月24日閲覧。
- ^ “ハリル氏 アルジェリア代表監督復帰!数日中に正式契約へ”. スポーツニッポン. 2018年7月9日閲覧。
- ^ ハリル氏、アルジェリア復帰は消滅。連盟会長が交渉破談を認めるフットボールチャンネル、 2018年7月21日
- ^ 株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部「ハリル氏訴訟、田嶋会長への反論書面提出 次回は11月20日 - スポニチ Sponichi Annex サッカー」『スポニチ Sponichi Annex』。2018年10月24日閲覧。
- ^ “ハリル氏が提訴取り下げ…田嶋会長「大きな貢献をしていただいた」|最新海外サッカーニュース|スカパー!サッカー放送”. soccer.skyperfectv.co.jp. 2019年4月18日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年4月10日). “ハリルホジッチ元監督、1円訴訟取り下げ サッカー日本代表”. 産経ニュース. 2019年4月18日閲覧。
- ^ “ハリルホジッチ氏 慰謝料1円&謝罪広告の訴え取り下げ – 東京スポーツ新聞社”. 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社. 2019年4月18日閲覧。
- ^ 元日本代表監督のハリル氏がナント指揮官に就任! 現役以来32年ぶりの古巣復帰 サッカーキング (2018年10月2日)
- ^ “モロッコ代表ハリル監督、ギニアのクーデター直面に恐怖 「一日中銃声が聞こえてた」”. Football ZONE Web. (2021年9月6日) 2021年9月7日閲覧。
- ^ 【識者の眼】代表監督に推したい気鋭の名将ハリルホジッチ。多彩な戦術を持つ情熱家。W杯の実績も十分フットボールチャンネル 2015年2月8日
- ^ オシム氏は「親友」…ハリルホジッチ監督「日本に来て試合を見てほしい」 サッカーキング 2015年3月14日
- ^ 最後の救世主となるか?/名将ハリルホジッチ、ディナモ新監督に就任sportsnavi 2010年8月19日
- ^ 【ハリル新監督独占激白1】本田も特別扱いなし「ベンチ置くの恐れない」スポニチ 2015年3月13日
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- ^ “日本代表ハリルホジッチ監督がCM初出演 華麗なリフティングを披露”. ORICON STYLE. (2016年4月28日) 2016年4月28日閲覧。
外部リンク
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - National-Football-Teams.com
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - Soccerway.com
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - Soccerbase.comによる監督データ
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - FootballDatabase.eu
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - WorldFootball.net
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - Transfermarkt.comによる選手データ
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - FIFA主催大会成績
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - UEFA
- ヴァイッド・ハリルホジッチ - トルコサッカー連盟 (manager)
- オフィシャルウェブサイト(日本語)