工藤孝一
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名前 | ||||||
カタカナ | クドウ コウイチ | |||||
ラテン文字 | KUDO Koichi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 |
1909年2月4日 大日本帝国、岩手県岩手郡 | |||||
没年月日 |
1971年9月21日(62歳没)[1] 日本、東京都杉並区 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK、FW | |||||
ユース | ||||||
年 | チーム | |||||
1927-1930 | 第一早稲田高等学院 | |||||
1930-1933 | 早稲田大学 | |||||
監督歴 | ||||||
年 | チーム | |||||
1933-1943 | 早稲田大学 | |||||
1942 | 日本 | |||||
1957-1966 | 早稲田大学 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 1971年9月21日)は、岩手県岩手郡川口村(現:岩手町)出身[2]のサッカー選手、サッカー指導者。ベルリンオリンピックのサッカー日本代表コーチを務めた。
略歴
[編集]旧制・岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)から1927年に第一早稲田高等学院へ進学。ゴールキーパーとして全国高等学校ア式蹴球大会に出場、1929年の第6回大会の優勝に貢献した。1930年に早稲田大学商学部に入学[2]し、ア式蹴球部に入部。一時はフォワードに転向して競技を続けたが、体格に劣ることから選手生活に見切りを付け、マネージャーとして活動するようになった。
1933年に大学を卒業後、一時大同生命保険に就職したが、後に同盟通信社に転職。これと並行して早稲田大学の監督に就任した。
1936年のベルリンオリンピックでは堀江忠男、川本泰三など早稲田大学出身者がサッカー日本代表に多く選出され、工藤もヘッドコーチに就任した[2]。監督の鈴木重義、選手兼任コーチの竹腰重丸とともに、当時ヨーロッパの先端であった3バック+システムを急遽導入するなど苦心の末、ベルリンの奇跡を成し遂げた。1942年には日本代表監督に就き、「満州国」建国十周年慶祝東亜競技大会など4試合を指揮した[3]。
1943年に同盟通信社を退職して岩手県へ帰郷。酪農業を営み、農協の専務も務めた[2]。1944年に太平洋戦争により召集され、1945年に復員した。岩手在住中は盛岡中学のコーチに就任し、八重樫茂生などを指導した[2]。岩手県サッカー協会の設立に関与し、1950年には初代会長に就任した。
1952年に再び上京して早稲田大学の指導を行い、1957年より早稲田大学の監督に就任。早稲田大学で工藤の指導を受けた選手は八重樫、川淵三郎、釜本邦茂、松本育夫、宮本征勝、森孝慈などである。
1966年に監督職を引退。1971年9月21日、東京都杉並区の荻窪病院で心不全により死去した[1]。葬儀は東伏見の早稲田大学グラウンドで、ア式蹴球部葬として行われた。
参考文献
[編集]- 旧制全国高等学校ア式蹴球大会誌編集委員会『若き血潮は燃える:インターハイ・サッカー:旧制全国高等学校蹴球大会誌』1985年。 NCID BN02512279。