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2021年9月18日 (土) 07:21時点における版
摂津艦 | |
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兵学校練習船時の摂津(明治10年代前半)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | (アメリカ)[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 砲艦[3] |
艦歴 | |
就役 | 慶応4年6月(1868年)購入[2] |
除籍 | 1886年2月17日[4] |
その後 |
兵学校授業船[2] 1888年9月20日売却報告[5] |
改名 | 摂津丸(艦) → 一番貯蓄船 → 摂津艦 |
要目 | |
排水量 | 920英トン[3] |
トン数 | 358トン[6] |
長さ |
165 ft (50.29 m)[3] または 170 ft (51.82 m)[7] |
全長 | 170尺[6](51.52m) |
幅 |
28 ft (8.53 m)[3] または26 ft 3 in (8.00 m)[7] |
最大幅 | 26尺[6](7.88m) |
深さ | 12尺5[6](3.79m)[注釈 1] |
吃水 |
14 ft 4 in (4.37 m)[3] または前部:13 ft (3.96 m)、後部:14 ft (4.27 m)[7] |
機関 | 形式不明[7] |
出力 | 300名馬力[3][6][7] |
燃料 | 炭団:350,000斤[6] |
航続距離 | 燃料消費:36,000斤/日[6] |
乗員 |
准士官以上18名、下士官11名、水火夫90名[7] 明治元年:87人[6] 1883年5月定員:239名[8] |
兵装 |
16cm前装短クルップ砲 4門[7] 18斤前装銅砲 4門[7] |
その他 |
船材:木[7] 艦番号:21(1874年11月15日-)[9] |
摂津艦(せっつかん、旧仮名でせつつ)は日本海軍の軍艦[2](砲艦[3])。 艦名は摂津国から採られる[2]。 日本海軍での正式な艦名は摂津艦であるが[4]、 書籍などでは普通摂津と表記される[10]。 幕末(慶応4年)に購入[2]、 1874年(明治7年)以降は主に練習船として使用された[11]。
艦歴
本艦の元は汽船「コヤホッグ」で、三檣シップリッグ砲艦[4]。 アメリカで建造され[2]、 南北戦争の際には北軍で使用されていた[11]。 慶応4年6月(1868年7月から8月)に外国人から購入[2]、 同年(9月8日より明治に改元)12月(1869年1月から2月)に摂津丸と命名された[11][注釈 2]。
明治2年
明治2年9月5日(1869年10月19日)より広島藩に管理させた[2][12][13][注釈 3]。
明治3年
明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、春日丸と富士山、摂津の3隻は赤塚源六(富士山乗艦の予定)の指揮で兵庫港に派遣された[14][15][16]。 翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた[17]。
明治4年
明治4年2月(1871年3月から4月)に広島藩から艦の返上の申し出があり[18]、 返還予定は7月8日とされたが[19]、 延期とされた[20]。 『帝国海軍機関史』によると同年4月に広島藩から返納された[7]。 また『海軍省報告書』によると4月28日(1871年6月15日)に広島藩から返納された[21]。
- 一番貯蓄船
9月18日(1871年10月31日)に一番貯蓄船(いちばんちょちくせん)と改称[7][22][23]、 11月15日(1871年12月26日)に等級は五等(80馬力以上の蒸気船、乗組50人以上の軍艦[24])と定められた[25]。 12月24日(1872年2月2日)造船局附属とされた[7][26]。
明治5年
明治5年7月(1872年8月頃)に機関が撤去された[2]。
1873年
1873年(明治6年) 2月2日、第一貯蓄船は主船寮所轄から提督府所轄になったが[27]、 3月13日に主船寮所轄に戻された[28]。 9月7日、一番貯蓄船は提督府所轄となった[29]
1874年
1874年(明治7年)7月10日、修理完了後は浦賀に回航するよう令達された[7]。
- 摂津艦
7月22日に名称を摂津艦に戻した[7][30][注釈 4]。 または27日付の令達で、18日に遡って摂津艦と改称、練習艦に指定とされた[31][32]。 10月31日、等級は四等艦とされた[33]。 11月20日、修理の富士山に代わり、摂津艦を兵学寮の大砲練習艦とすることが認可された[34]、 5月30日より海軍省内堀に係留され練習艦として使用された[11]。
1875年
1875年(明治8年) 10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され[35]、 龍驤、東、鳳翔、雲揚、富士山、摂津、高雄丸、大坂丸は東部指揮官所轄となった[35]。
1876年
1876年(明治9年) 10月13日(または11月4日[11])、東海鎮守府所轄の摂津は横浜での貯蓄船に指定された[36]。
1877年
1877年(明治10年) 12月から品海に碇泊していた[37]。
1878年
1878年(明治11年) 1月15日、横須賀丸に曳航されて横浜港に回航した[37]。 6月17日、10馬力船に曳航されて横須賀港に回航、以後横須賀に碇泊した[37]。 11月8日横須賀丸に曳航され横浜に回航、12月10日同じく横須賀に回航した[37]。
- 兵学校練習船
1879年
1879年(明治12年) 8月23日横須賀から品川に回航された[39]。 12月13日品川から海軍省内堀に回航[39]。
1880年-1882年
- 繋泊練習艦
1880年(明治13年) 1月20日繋泊練習艦に定められた[39][40]。 以降海軍省の堀内に碇泊した[41]。
- 修理
8月19日から12月6日まで横須賀造船所で修理を行った[42]。 その後築地川崎造船所でも修理を行った[42]。 1881年(明治14年) 10月15日から[43]、 1882年(明治15年)7月3日まで築地海軍省内入堀で修理を行った[44]。
除籍
1886年(明治19年)2月17日に除籍、雑役船となり[4]、 10月13日、兵学校授業船に充当[11]、 引き続き兵学校で使用された[2]。 1888年(明治21年)に兵学校が東京築地から広島県江田島に移転となり、 同年9月20日、2,300円で売却の報告が横須賀鎮守府より出された[5][注釈 5]
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- (指揮役)兼坂熊四郎:明治元年9月[45] - 明治2年1月[46]
- (艦長代)磯辺包義:明治2年1月(1869年)[46] - 明治2年12月26日(1870.1.27)[47][注釈 6]
- 相浦紀道 大尉:明治4年7月27日(1871年9月11日)[48]、または1871年7月27日 - 9月15日[49]
- 生田頼之 少佐:1874年10月4日[50] - 1875年1月17日[51]
- 浅羽辛勝 少佐:1875年2月20日[52] -
- 原俊則 大尉:1878年6月3日[53] -
- 山崎景則 中佐:1882年10月16日 - 1883年12月15日[54]
- 吉島辰寧 少佐:1883年12月15日 - 1885年4月23日[55]
- 伊月一郎 少佐:1885年4月27日 - 6月22日
- 平山藤次郎 少佐:1885年6月22日 - 8月25日
- 伊月一郎 少佐:1885年8月25日 -
脚注
注釈
- ^ 『記録材料・海軍省報告書第一』からのだが、吃水に比べて明らかに小さく、数値には疑問がある。
- ^ 明治元年の公文類纂では、摂津丸、摂津艦のどちらも使われている。例えば#M1公文類纂拾遺/兵部省書類鈔録 摂津艦乗組人員調画像1-4、「九月廿六日摂津艦ヨリ差出ス左ノ如シ 覚 摂津丸指揮役 大砲方 兼坂熊四郎(中略)右之通乗組候事 九月 摂津艦」
- ^ #銘銘伝(2014)p.46では「一時、鹿児島藩に移管されたが、」とある。
- ^ 『海軍制度沿革』巻8、1940、p.354。国立国会図書館デジタルコレクション コマ197 では「◉第一貯蓄船ヲ攝津艦ト改稱ノ件 明治七年七月二十四日(記三套二九) 第一貯蓄船之儀自今原名ニ復シ攝津艦改稱候條爲心得此旨相達候事」となっているが、日付は22日の間違い。
- ^ #艦船名考(1928)p.6では「同二十二年九月船体ヲ売却セリ。」とあるが21年9月の間違い。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像10、明治二年己巳 軍務官 兵部省、10月によると、明治2年10月(1869年11月頃)まで。
出典
- ^ #日本海軍全艦艇史p.489、No.1230の写真解説
- ^ a b c d e f g h i j k #艦船名考(1928)pp.6-7、摂津 せつつ Settu.
- ^ a b c d e f g #日本近世造船史明治(1973)p170
- ^ a b c d #銘銘伝(2014)pp.45-46、摂津(せっつ)
- ^ a b #M21公文備考4/艦船売買譲与画像8-9、旧攝津艦及春風丸公売処分済御届。
- ^ a b c d e f g h #M1-M9海軍省報告書画像7、明治元年戊辰艦船総数表
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.450-451
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.158-159、明治16年5月26日(丙46)摂津艦乗員
- ^ #M7公文類纂13/名義並番号(2)画像3、「記三套第八十三号 摂津艦番号之義二一ト相定候條此旨相達候事 七年十一月十五日 海軍省 七年十一月廿三日達済」
- ^ #艦船名考(1928)pp.6-7、「摂津 せつつ Settu.」。#銘銘伝(2014)pp.45-46、「摂津(せっつ)」など。
- ^ a b c d e f g 『日本海軍史』第7艦p.461、摂津(初代)
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像10、明治二年己巳 軍務官 兵部省、9月。
- ^ #M2公文類纂/海軍日誌 9月 摂津艦広島藩へ御預け云々大阪出張所へ掛合画像1、「御軍艦摂津艦之義廣島藩ヘ御預ケ御達相成候末入江良之進ト申人為す受取右藩ヨリ差出候筈ニ付於其ノ御元○々御引渡相成候様致度此旨及御掛合候也 兵部省 九月二日 大小丞中 兵部省大阪出張御中」。#M2公文類纂/海軍日誌 9月 摂津艦広島藩へ御預け云々大阪出張所へ掛合の件広島藩へ達画像1、「廣島藩 御軍艦摂津丸其藩ヘ御預相成候事 但請取方之儀ハ大阪出張兵部省ヘ引合可致候事 巳巳九月五日 兵部省」
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治3年7月28日(太政官)。
- ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.290
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.33、明治4年3月7日(御沙汰)諸港守備ノ軍艦ヲ解クノ件「兵部省 諸港守衛トシテ出張之軍艦解備被仰付候間帰艦之儀其省ヨリ可相達候事」
- ^ #M4公文類纂26/摂津艦返上申出画像1-2。
- ^ #M4公文類纂26/摂津艦返上申出画像3。
- ^ #M4公文類纂26/富士外1艦請取日限の件海軍所問合画像5、「摂津艦一昨日御請取ニ相成候筈之処御延引ニ相成候由然ルニ今朝艦長入江良之進ヨリ請取日限伺出候間大小亟江被仰上日限之処早々摂津艦江御申遣シ有之度此段申進候也 辛未七月十日 省海軍掛 海軍所御中」
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像17、明治4年4月。
- ^ #M4公文類纂24/甲1号大日記 摂津艦1番貯蓄船と改称の達画像1、「第六十八号 摂津艦向後一番貯蓄船ト改称之事 辛未九月十八日 兵部省」
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像19-20、明治4年9月。
- ^ #海軍制度沿革8(1971)pp.48-49、明治4年10月28日(兵部省)海軍諸則
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.58、明治4年11月15日(兵部省146)諸艦等級ヲ定ムルノ件
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像21-22、明治4年12月。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像37-38、明治6年2月。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像38-39、明治6年3月。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像42-43、明治6年9月。
- ^ #M7公文類纂13/名義並番号(1)画像3、「記三套第二拾九号 第一貯蓄船之儀自今原名ニ復シ摂津艦ト改称候條為心得此旨相達候事 七年七月廿二日 海軍省 原因ハ記一套第十一号ナリ」
- ^ #M7公文類纂13/名義並番号(1)画像5、「記三套第三十一号 第一貯蓄船之儀過ル二十二日摂津艦ト改称候旨相達候処右ハ去ル十八日改称之上練習艦ニ相定候義ニ候條此旨更ニ相達候事 七月廿七日 海軍省」
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像54-55、明治7年7月。
- ^ #M7公文類纂13/管轄(3)画像31、「事七套大日記 第七十一号 摂津艦 艦位四等ニ被定候事 明治七年十月三十一日 海軍省 提督府ヘ達ス」
- ^ #M7公文類纂13/名義並番号(2)画像7-8、「事四套大日記 第三百四十八号 冨士山艦ノ義ハ修復ヲ始メ其外是教師差図ヲ受ケ来リ候処摂津艦ノ義モ大砲練習艦ト致度候間自今都テ冨士山艦同様教師ノ指揮相受申度御差支モ無之候ハゝ其筋ヘ御沙汰有之度此段申出候也 追テ練習艦エ教師乗セ付ケノ義先般申出置候得共此条御許容迄本文ノ次第申出候事ニ有之候也 七年十一月十九日 提督府 本省御中」「申出ノ通 但兵学寮ヘ相達置候事 七年十一月廿日 事十套第二百四十七号ヲ以兵学寮相達候事 月第八百十号」
- ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
- ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像7-11、明治9年10月
- ^ a b c d e #M11.7-M12.6海軍省報告書画像43、摂津艦航泊表
- ^ #日本海軍全艦艇史p.489、No.1231の写真解説
- ^ a b c #M12.7-M13.6海軍省報告書画像36(p.63)、航泊表摂津
- ^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像16-17、艦船所轄並在任附改称及等級
- ^ #M13.7-M14.6海軍省報告書画像35、艦船航泊表、摂津艦
- ^ a b #M13.7-M14.6海軍省報告書画像19-20、海軍艦船修復
- ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像21-23、部内艦船修復
- ^ #M15.7-12海軍省報告書画像17、部内艦船修復
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像4-6、明治元年戊辰(慶応4年9月8日改元)軍防事務局 軍務官。
- ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像8、明治二年己巳 軍務官 兵部省、正月。
- ^ 『日本海軍史』第9巻、665頁。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像18、明治4年7月。
- ^ 『日本海軍史』第9巻、86頁。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像57-58、明治7年10月。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像61、明治8年1月。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像62、明治8年2月。
- ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像34-37、明治11年6月沿革
- ^ 『日本海軍史』第10巻、536頁。
- ^ 『日本海軍史』第10巻、569頁。
参考文献
- 国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館)
- アジア歴史資料センター(公式)
- 国立公文書館
- 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。 明治元年から明治9年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書/第一 沿革』。Ref.A07062089300。 明治9年7月から明治10年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091300。 明治10年7月から明治11年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091500。 明治11年7月から明治12年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091700。 明治12年7月から明治13年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091900。 明治13年7月から明治14年6月。
- 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092100。 明治14年7月から明治15年6月。
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- 防衛省防衛研究所
- 『明治元年 公文類纂 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 摂津艦乗組人員調』。Ref.C09090004100。
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- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 『官報』
関連項目
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 摂津 - 2代目摂津