「筑摩型防護巡洋艦」の版間の差分
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2021年9月18日 (土) 07:20時点における版
筑摩型防護巡洋艦 | |
---|---|
平戸 | |
基本情報 | |
種別 | 防護巡洋艦 |
命名基準 | 河川名 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
前級 | 利根 |
次級 | 天龍型軽巡洋艦 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 4,400英トン[1] |
常備排水量 | 4,950英トン[1][2] |
全長 | 475 ft 0 in (144.780 m)[1] |
水線長 | 461 ft 0 in (140.513 m)[1] |
垂線間長 | 440 ft 0 in (134.112 m)[1][2] |
最大幅 | 46 ft 6 in (14.173 m)[2][5][注釈 1] |
深さ | 28 ft 6 in (8.687 m)[1] |
吃水 | 16 ft 7 in (5.055 m)[1][2] |
ボイラー | イ号艦本式缶 混焼式大型12基、同小型4基[1] |
主機 |
ブラウン・カーチス式直結タービン 2基 矢矧:パーソンズ式並結タービン 2組 |
推進器 |
2軸[3] x 340rpm[4] 矢矧:4軸[3] x 470rpm[4] |
出力 | 22,500hp[2][3] |
速力 | 26ノット[3][2] |
航続距離 | 平戸:2,650カイリ / 12ノット[3] |
燃料 |
石炭:1,000英トン[3][5] 重油:300英トン[3][5] |
乗員 | 竣工時定員:403名[6] |
兵装 |
45口径四一式15cm砲 8門[2][3] 40口径四一式8cm砲 4門[2][3] 麻式(マキシム[1])6.5mm機砲 2挺[2] 45cm水上発射管 単装3基[3] 四四式魚雷 6本[1] シーメンス式90cm探照灯 6基[1][4] |
装甲 |
甲板(水平部):22.2mmニッケル鋼[1] 同(傾斜部):22.2mm+35mmニッケル鋼(傾斜35度)[1] 発射管室舷側:3インチ(89mm)クルップ鋼[1] 司令塔:4インチ(102mm)クルップ鋼[1] |
搭載艇 | 8隻[2] |
筑摩型防護巡洋艦(ちくまがたぼうごじゅんようかん)は日本海軍の防護巡洋艦[7](二等巡洋艦[8])。 同型艦3隻。
概要
明治40年(1907年)度からの補充艦艇費により建造された二等巡洋艦[8]。 日本海軍最後の防護巡洋艦になる[7]。 基本計画番号C18[7]。 設計は有田延造船官による[7]。
利根の計画を基に拡大した艦型となり[9]、 防護巡洋艦ではあるが、 魚雷発射管室舷側に89mmの装甲板を装備した[1]。 また日本海軍巡洋艦で初めてタービン機関を採用した[10]。 これにより利根(レシプロ機関)より速力が3ノット増加し、26ノットを得た[2][10]。
3隻が建造され[8]、 筑摩は佐世保海軍工廠で[11]、 矢矧は三菱合資会社三菱造船所[12]、 平戸は川崎造船所[13] とそれぞれ民間造船所で建造、後者2隻は民間造船所で建造された初めての巡洋艦となった[9]。 3隻は第一次世界大戦に従軍、大正末期から主に海外警備に当たり、筑摩は1931年(昭和6年)除籍[7]。 残る2隻は1940年(昭和15年)に除籍され、太平洋戦争中は停泊練習艦として使用された[7]。
艦型
船体
船体は利根より大型化されて排水量が500英トンほど増加したが、幅と吃水はほぼ同じ、長さは利根よりだいたい88フィート(約27m)ほど長い[9]。 船体のL/B(長さと幅の比)が9.8と[7] 当時としては非常に細長い船体となった[10]。 艦首は利根と同じクリッパー型艦首を備えるが利根ほどシャープで無い[9]。 艦尾はクルーザースタンとした[9]。 また船殻材にHT鋼(高力鋼)を使用した(利根は軟鋼)[9]。
マストと煙突は共に直立し、利根と異なった外観となった[7]。
機関
主機に日本海軍巡洋艦で初めてタービン機関を採用した[10]。 筑摩と平戸にはカーチス式衝動型直結タービン2基で2軸となった[14]。 このタービンは河内と同じタービンで、直径を3インチ小さい9インチに変更等をしたものだった[15]。 矢矧のみはパーソンズ式で異なり、反動型の高圧タービン1基と低圧タービン1基を並列配置で1組として2組4軸推進と異なる構成とした[14]。 これにより艦尾水線下の形状が他艦と違う[16]。 この時期のタービン機関の発達は急速で、次の天龍型ではギヤード・タービンが採用され、日本の巡洋艦で直結タービンを採用したのは本型のみとなった[14]。
機関出力は22,500馬力、速力26ノットを計画した[3]。 公試では筑摩で26.83ノット、平戸で26.87ノット、矢矧で27.14ノットと何れも計画を上回った[17]。
ボイラーは国産のイ号艦本式缶で燃料は石炭と重油を使用する大型混焼缶12基と小型混焼缶4基である[14][5]。 第1缶室のみ容積の関係で小型ボイラー4基を搭載し、その他の缶室は大型ボイラーを4基ずつ設置した[5]。 本型の第2の特徴は筑摩において大型缶12基に初めて過熱器が付けられたことである[14][18]。 蒸気圧力は275平方ポンド[18]、 温度は筑摩で過熱度55°F[18]の過熱蒸気、平戸は飽和蒸気を使用した[14]。 これにより筑摩では速力21.5ノット以上で缶水の節約が出来、最大8%ほどの節約となった[19]。
煙突はボイラー4基の排煙を1本にまとめ[10]、 日本海軍で(戦利艦を除き)初めての4本煙突艦となった[17]。 当時の外国巡洋艦もタービン機関を採用した艦は4本煙突であった[10]。 タービンの出力が増加したため、必要なボイラーの数が増してボイラー区画が長くなり、結果として煙突の数が増えたと思われる[10]。
兵装
主砲は45口径四一式15cm(6インチ)砲8門を搭載した[2][3]。 砲はシールド付きで最大仰角18度、最大射程14,800m[21]、 艦首甲板と艦尾甲板の中心線上に1門ずつ、前後マスト両舷の上甲板にスポンソンを設けて1門ずつ、二番煙突付近の上甲板に片舷1門ずつ装備した[4]。 これにより艦首尾上には3門[4]、 舷側方向は5門の砲力を有した[22]。 中間砲は廃止された[7]。 副砲は40口径8cm(3インチ)砲単装4基[2][3] で4番煙突の舷側部に装備した[23]。 機銃は竣工時には麻式6.5mm機砲(マキシム機銃[1]) 2挺[2]、 後に(6.5mm)三年式機銃2挺に変更された[1]。 竣工後の1919年(大正8年)に40口径三年式8cm高角砲を3番・4番煙突の間に単装砲架で片舷1基ずつ計2門を搭載した[1]。
魚雷発射管は45cm水上発射管を3基[3]、 後部マスト付近の中甲板に片舷1基ずつ、また艦尾に1基を装備した[24]。 日露戦争当時の魚雷は冷走魚雷のみだったが、建造時期には熱走魚雷となる(45cm)四四式魚雷が実用化され[24]、 本型では6本を搭載した[1]。
探照灯は90cmを艦橋の左右舷に1基ずつ、後部艦橋上に2基、前後マスト上に1基ずつ、合計6基を装備した[1][4]
装甲
水平装甲は防護甲板を水平部で22.2mmニッケル鋼で構成し、傾斜部(傾斜35°)では22.2mmニッケル鋼の上に9フィート(約2.74m)幅の35mmニッケル鋼を重ねた[1]。 魚雷発射管室の舷側は、船体舷側の12.7mmHT鋼の上に3.5インチ(89mm)クルップ鋼を重ねた[1]。 その他司令塔の装甲は4インチ(102mm)クルップ鋼だった[1]。
艦歴
第一次世界大戦には3隻とも参戦しドイツ帝国領ドイツ領ニューギニア攻略作戦等に参加した。 開戦時に筑摩・矢矧の2隻は第4戦隊所属であったが、ドイツ東洋艦隊による通商破壊を防ぐために1916年(大正5年)より第三特務艦隊としてオーストラリアシドニーに派遣されたが、わずか半年後に護衛任務を解かれ、第一特務艦隊となりインド洋の通商保護作戦に従事した。 平戸は南シナ海警備にあたり、1916年3月から12月にかけてシンガポール基地から南太平洋方面の作戦に従事した。
第一次世界大戦後は1921年(大正10年)から筑摩が中国大陸へ進出し警備に当たった[11]。 残る2隻も大正末から中国方面へ進出、 1932年(昭和7年)から平戸が上海事変時に華北警備、1933年(昭和8年)に満州事変時に熱河作戦の支援として旅順港で任務に就いた[13]。 矢矧も昭和10年代(1930年代後半)まで同地で警備に従事した。
筑摩は1931年(昭和6年)に除籍され、1935年(昭和10年)頃に実験艦として撃沈処分された[7]。 残る2隻は1940年(昭和15年)に除籍、太平洋戦争中は練習艦として使用され、戦後に解体された[7]。
同型艦
脚注
注釈
- ^ #JapaneseCruisers(1997)p.788では最大幅46ft8in(14.224m)としているが、同書p.10の中央断面では片舷23ft3in(両舷で46ft6in)としている。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x #JapaneseCruisers(1997)p.788
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 阿部安雄「日本海軍巡洋艦要目表」#日本巡洋艦物語(1992)pp.350-351
- ^ a b c d e f #JapaneseCruisers(1997)p.9
- ^ a b c d e #JapaneseCruisers(1997)p.10
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.508-509、明治45年3月9日内令第48号「二等巡洋艦定員表其二」将校同相当官26人、兵曹長同相当官、准士官9人、下士81人、卒287人。
- ^ a b c d e f g h i j k #日本巡洋艦史(2011)p.76
- ^ a b c #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.224-225
- ^ a b c d e f #JapaneseCruisers(1997)p.7
- ^ a b c d e f g #世界巡洋艦物語(1994)p.320
- ^ a b 中名生正己「日本巡洋艦の履歴」#日本巡洋艦史(1991)p.188、筑摩
- ^ 中名生正己「日本巡洋艦の履歴」#日本巡洋艦史(1991)p.189、矢矧
- ^ a b 中名生正己「日本巡洋艦の履歴」#日本巡洋艦史(1991)p.189、平戸
- ^ a b c d e f 阿部安雄「技術面から見た日本巡洋艦の発達 2.機関」#日本巡洋艦史(1991)pp.172-173
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.461
- ^ #世界巡洋艦物語(1994)p.321
- ^ a b c d #日本巡洋艦史(1991)p.60
- ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.462-463
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.464
- ^ #日本巡洋艦物語(1992)グラビアp.1上
- ^ #JapaneseCruisers(1997)pp.8-9
- ^ #日本巡洋艦史(2011)p.77
- ^ #日本巡洋艦史(2011)p.76図
- ^ a b 高須廣一「技術面から見た日本巡洋艦の発達 3.兵装」#日本巡洋艦史(1991)p.182
参考文献
- Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 『日本巡洋艦史』 世界の艦船 1991年9月号増刊 第441集(増刊第32集)、海人社、1991年9月。
- 『日本巡洋艦史』 世界の艦船 2012年1月号増刊 第754集(増刊第101集)、海人社、2011年12月。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『日本巡洋艦物語』 福井静夫著作集第4巻、光人社、1992年10月。ISBN 4-7698-0610-8。
- 福井静夫『世界巡洋艦物語』 福井静夫著作集第8巻、光人社、1994年。ISBN 4-7698-0656-6。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 雑誌「丸」編集部/編『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』光人社、1989年 ISBN 4-7698-0455-5
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、筑摩型防護巡洋艦に関するカテゴリがあります。