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2021年9月18日 (土) 07:12時点における版
扶桑 | |
---|---|
第一次改装後の扶桑(1933年) | |
基本情報 | |
建造所 | 呉海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 戦艦[2] |
級名 | 扶桑型[3] |
母港 | 最終時:呉[4] |
艦歴 | |
計画 |
第三期拡張計画(予算のみ)[5] 新充実計画(1911-1916年度)[6] |
発注 | 1911年8月26日訓令[7] |
起工 | 1912年3月11日[1] |
進水 | 1914年3月28日[1] |
竣工 | 1915年11月8日[1] |
最期 | 1944年10月25日 |
除籍 | 1945年8月31日[4] |
要目(新造時計画) | |
基準排水量 |
29,326英トン[8] または 29,330英トン[9] |
常備排水量 |
計画:30,600英トン[8]、または31,090英トン[10] 竣工時:30,998英トン[9][10] |
全長 | 673 ft 0 in (205.13 m)[11] |
水線長 | 665 ft 0 in (202.69 m)[11] |
垂線間長 | 630 ft 0 in (192.02 m)[8][12][11] |
最大幅 | 水線幅と同じ |
水線幅 |
94 ft 0 in (28.65 m)[12][11] または28.68m[8] |
深さ | 43 ft 2 in (13.16 m)[11] |
吃水 |
計画常備平均:28 ft 6 in (8.69 m)[8][12][11] 完成常備平均:8.623m[10] 新造時公試平均:28 ft 8+1⁄8 in (8.74 m)[13] |
ボイラー | 宮原式混焼缶 24基[11](両面8基、単面16基[14]) |
主機 | ブラウン・カーチス式(高中低圧[11])直結タービン2軸併結[15] 2基[11] |
推進 | 4軸 x 280rpm[11] |
出力 | 40,000馬力[11] |
速力 |
計画:22.5ノット[8][注釈 1] 新造公試:22.93ノット[16] |
燃料 |
石炭5,022トン、重油1,026トン[11][10] または石炭4,000英トン、重油1,000英トン[15] |
航続距離 | 8,000カイリ / 14ノット[11] |
乗員 |
1,193名[11][15] 竣工時定員:1,276名[17] |
兵装 |
45口径四一式36cm連装砲6基12門[11][15] 四一式15cm単装砲16門[11][15] 三年式8cm高角砲4門[11][15] 朱式6.5mm機砲3門[15] 四一式短8cm砲外膅12門[15] 53cm水中発射管6門[11] |
装甲 |
舷側:12in(304.8mm)-4in(101.6mm)[18] 甲板:3in(76.2mm)-1.2in(30.5mm)[18] 砲塔:12in(304.8mm)-8in(203.2mm)[18] 砲郭:6in(152.4mm)[18] 司令塔:12in(304.8mm)[18] 主砲天蓋152mm[要出典] |
搭載艇 | 13隻[1][15] |
扶桑(ふそう/ふさう)は、日本海軍の戦艦[19][20][21]。 扶桑型戦艦の1番艦[22]。日本独自の設計による初の超弩級戦艦である。扶桑の名の由来は日本国の古い異名の一つであり[23]、同名を頂く艦としては二代目となる[24](初代扶桑は1878年竣工の装甲フリゲート[25])。 艦内神社は男山八幡宮(石清水八幡宮)および伊勢神宮[26]。
概要
建造経緯
日露戦争後の1906年(明治39年)、イギリスが弩級戦艦ドレッドノートを就役させると、列強各国の間で建艦競争が勃発した。弩級戦艦はすぐに超弩級戦艦へ進化し、日本海軍も金剛型巡洋戦艦1番艦金剛をイギリスに発注し、ヴィッカース社の指導・支援の下その同型艦を国産で建造することでイギリスより新たな技術を学ぶ事に成功した。扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦である。
艦歴
扶桑は第三号戦艦として1912年(明治45年)3月11日に呉海軍工廠で起工された[1]。1914年(大正3年)3月28日に第三号戦艦は扶桑と命名[19]。伏見宮博恭王立会いのもと進水[27][1]。同日附で戦艦に類別される[2]。1915年(大正4年)11月8日に竣工した[28][1]。3万t級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった[29]。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、扶桑の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている[30]。
竣工後
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生[31]。9月3日、扶桑は東京出身の海軍兵学校生徒41名をのせて東京へ向かった[31][32]。 1924年(大正13年)7月、高松宮宣仁親王や源田実など海軍兵学校52期生235名が卒業するに際し[33]、摂政宮(大正天皇皇太子、即位前の昭和天皇。高松宮兄宮)が海軍兵学校卒業式に行啓する予定が組まれた[34]。摂政宮の御召艦は扶桑(艦長米内光政大佐)に指定された[34]。7月22日横須賀出発、24日江田島着(卒業式出席)、25日佐伯湾にて戦艦長門と陸奥による廃艦実弾射撃(薩摩、安芸)視察、27日横須賀帰投の予定であった[34][35]。だが行啓直前に扶桑で腸チフス患者が発生、摂政宮行啓は中止になった[34]。薩摩と安芸の処分は、9月上旬に摂政宮臨席のもと東京湾で行われた[35]。
第一次近代化改装
扶桑はワシントン軍縮条約後に主砲天蓋の強化や主砲指揮所の新設などの改装を受けた[36]。1930年(昭和5年)4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年(昭和8年)5月12日にその工事は完了した。問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られた[37]。機関部は艦本式タービンや重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画が居住区や燃料タンクにされ航続距離が16ノットで11,800浬になった[38]。この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し、同型艦の山城と共に日本戦艦中最高となった。全長11m級の巨大な精密模型も製作され、海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された[39]。
高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが山城との区別点となっている。なお建造から第一次改装までは扶桑の三番砲塔も砲口が艦尾方向を向いていた[40]。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、実速は21.5ktに留まり[要出典]、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門、陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある[41]。
なお、ワシントン軍縮条約の前後に扶桑型を41cm砲搭載艦にする改装案があったが、条約で主砲や舷側装甲の変更が禁止されたため実現しなかった[42]。
1933年(昭和8年)11月15日附で、高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)が扶桑分隊長(主砲後部砲台長)[43]として配属される[44][45]。荒木艦長以下が特別待遇をするので、親王が呆れる事もあった[46]。謎の自殺者が出た際には『いやはや不景気な艦である』と評している[47] 1934年(昭和9年)2月4日、連合艦隊司令長官末次信正中将が巡視に訪れて激励した[48]。4月1日、戦艦の魚雷装備廃止にともない、有田雄三(扶桑水雷長)は重巡摩耶に転任した[49]。6月29日、演習中に駆逐艦深雪と電の衝突事故が発生、深雪は扶桑の目の前で沈没した[50]。 9月11日、扶桑以下第一艦隊は舞鶴を出発[51]。連合艦隊演習にともない、北海道、朝鮮半島各地、大連(旅順港)等を航海する[44]。26日より第一戦隊旗艦は扶桑から日向に変更となった[52]。艦隊は青島市を経由して、10月5日佐世保に戻った[53]。11月、高松宮は海軍大学(甲種学生第34期)入学のため、扶桑を退艦した[44][54]。
第二次近代化改装
第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の1934年(昭和9年)10月下旬から実施され、1935年(昭和10年)2月19日まで、同じく呉で行われた[55]。この時にバルジを増設、艦尾を約5メートル程延長し、全長も212.75mとなった。水平防御の強化された他、艦橋上の測距儀も8mのものに換装され射撃指揮装置も一新された。対空火器の増設や水上偵察機の搭載を行った。後年のレイテ沖海戦には電探も搭載された。機関も改修され出力が5000馬力増加し、改装後の公試では24.7ktを発揮した。外観上の特徴としては、煙突が1本になった[56]。 捷一号作戦の頃は扶桑型が示した速力は改装前と変わらない18kt〜21.5kt程度に止まり[57]、日本戦艦中最も遅い戦艦となったとされる。一方で、戦闘運転で26ノットを出したという証言もある[58]。主砲一斉射撃時の爆風についても鶴岡信道(第33代扶桑艦長。当時大佐)は特に問題なかったとするが、遠距離射撃時の散布界が広くなる傾向は否めなかったとしている[58]。また水平防御(対250kg爆弾)については不安を抱えており、『結果的には、扶桑、山城という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね。』と回想している[59]。
太平洋戦争序盤から中盤まで
太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する第一戦隊(長門、陸奥)他第一艦隊各艦と共に出撃した。北緯30度、東経160度の「K点」まで進出する予定だったが、12月11日に反転、12月13日に日本・柱島泊地に戻った[60]。扶桑乗組員への功績評価は「功労甲」であった。
1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦では5月29日に日本を出撃[61]、6月4日に第一戦隊(大和、長門、陸奥)以下主隊と分離しアリューシャン諸島へ向かった[62]。だがアメリカ軍と交戦することはなく、6月17日に日本へ戻った。それ以降の4隻(扶桑、山城、伊勢、日向)は出撃機会もなく、いわゆる『柱島艦隊』として、実弾射撃訓練に従事したり、海軍兵学校の練習艦として使用された[63]。
このミッドウェー海戦で日本軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失する[64]。空母不足に陥った日本軍は、金剛型戦艦、扶桑型戦艦、伊勢型戦艦、青葉型重巡洋艦、利根型重巡洋艦を航空母艦へ改造することを検討する[65]。工事が長引く全通飛行甲板型の空母への改造案は破棄され、航空戦艦への改造計画がまとまる[66]。検討の結果、日向の五番砲塔爆発事故の関係から伊勢型戦艦のみを航空戦艦に改造した[67]。
1943年(昭和18年)6月1日、扶桑艦長は古村啓蔵大佐から鶴岡信道大佐に交代[68](古村大佐は、6月9日附で大和型戦艦2番艦武蔵艦長[69])。 6月8日、瀬戸内海柱島泊地に停泊していた扶桑および長門、大淀、龍田や第十一水雷戦隊等は戦艦陸奥の爆沈に遭遇した[70][71]。陸奥艦長三好輝彦大佐は、扶桑艦長室にて鶴岡(扶桑)艦長(6月1日発令[68]。6月7日扶桑に到着。三好大佐とは海軍兵学校の同期)と歓談したあと陸奥に戻り、爆発にまきこまれて戦死した[72]。扶桑や長門以下各艦は共同で陸奥生存者の救助をおこなった[72][73]。
7月には、長門と共に航空隊の演習目標艦となった[74]。なお、同型艦の山城が練習艦として日本本土にとどまっていたのに対し[75]、扶桑はトラック泊地に進出することになった[76]。 8月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母大鷹[77]、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)として呉を出撃し、23日トラックへ到着[78][79]。以降はトラック泊地で待機した[80][81]。 10月下旬、山城や航空戦艦に改造されたばかりの伊勢が、扶桑用36cm主砲弾や大和型戦艦用の46cm砲弾を運搬している[82]。姉妹艦達が輸送任務を終えて日本に戻っても扶桑はトラック泊地にとどまり[83]、1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲直前にリンガ泊地へ移動している[76]。
昭和19年の行動
1944年5月中旬、長門とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入[84]。5月14日にタウイタウイへ進出[85]。
1944年(昭和19年)6月初旬の渾作戦に、渾部隊指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官指揮のもと、扶桑は第十六戦隊(青葉、鬼怒)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第十駆逐隊(風雲、朝雲)、第十九駆逐隊(浦波、敷波)、第二十七駆逐隊(春雨、五月雨、白露、時雨)と共に出撃する[86]。渾作戦部隊は、ビアク島に上陸したアメリカ軍を撃退すべく同方面に進出した[87][88]。間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、アメリカ艦隊を誘い出すための陽動部隊(囮)であった[89]。重巡洋艦羽黒から扶桑を目撃した福田幸弘主計科士官は、『大正六年竣工のこの旧式戦艦が、その特色のある前のめりの前檣楼を高々と聳えさせて、南海の前線に参加している孤影には何か哀感があった』と回想している[90]。
6月3日、アメリカ軍哨戒機に発見された事、アメリカ軍機動部隊出現の報告(誤認)など受けて退避、間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)および各隊はミンダナオ島のダバオへ戻った[88]。扶桑の士官によれば、扶桑と重巡青葉がいち早く退避したことで司令官は叱責されたという[91]。扶桑はマリアナ沖海戦には参加せず、そのままダバオで待機を続けた[92][93]。 7月1日、第四駆逐隊(山雲、野分、満潮)に護衛され、扶桑はダバオを出港する[94][95]。野分士官は「この戦艦の乗員にすれば鶴首久しく、まことに心強い味方の来訪であったろう」と回想している[96]。 7月上旬、タウィタウィ島からボルネオ島バリクパパンにむかう機動部隊補給部隊(タンカー船団)はセレベス海で単独航行中の扶桑と遭遇する[97]。海防艦三宅の乗組員は、羽黒主計科士官と同様の感想を扶桑に抱いたという[97]。 扶桑隊はタラカン島タラカンに寄港して燃料を満載しつつ(2日〜8日)[95]、日本本土へ向かった[98]。 14日、敵潜水艦と思しき存在に対し照射射撃を行う[99][100]。第四駆逐隊とは宿毛湾で分離した[101][100]。扶桑は呉工廠にて修理と機銃の増設工事を行った。
扶桑がダバオで待機中の6月27日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将は次期作戦において『長門ハ速力、戦力ノ関係上 大和、武蔵ト別個ノ行動ヲトラシメ、山城、扶桑ト共ニ第二戦隊ヲ編成 遊撃部隊ニ編入スルヲ可ト認ム 戦隊編成困難ナルトキハ機動部隊附属ニテ可ナリ』と意見具申した[102]。これに対し軍令部は、第二戦隊(長門、扶桑、山城)を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)(指揮官 第五艦隊司令長官志摩清英中将)の直率にする意向を示した[103]。協議の結果、軍令部は小沢中将の主張を容れる[103]。 9月4日、軍令部総長は昭和天皇に戦時編制の改定について上奏、この中で戦艦長門を第二戦隊に編入予定であると述べた[104]。 9月10日附で第二戦隊(司令官西村祥治少将:山城、扶桑)が編制される[105]。長門は第二戦隊(山城、扶桑)のシンガポール進出をもって第一戦隊(大和、武蔵、長門)から外されて第二戦隊に増強され[106]、第二戦隊および第一遊撃部隊第三部隊旗艦の予定となる[103]。ところが9月16日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門第二戦隊編入計画に対し『此の切迫せる時機は全く不適當にして長門の戦力を發揮せしむる所以に非ず』と反発する[107]。第二艦隊(司令長官栗田健男中将、参謀長小柳冨次少将)も17日に「長門の第二戦隊編入は戦局が一段落した後にするよう」意見具申した[106]。結局、長門が西村艦隊旗艦としてスリガオ海峡に突入する事はなかった[103]。
9月22日、第二戦隊(山城、扶桑)は第十七駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)に護衛されて内地を出撃、ブルネイを経由してリンガ泊地にむかう[108]。航海中の24日、第二戦隊は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)に編入された(連合艦隊電令作第431号)[106]。10月上旬、第二戦隊はリンガ泊地に到着した[106]。
スリガオ海峡夜戦での最期
1944年(昭和19年)10月25日未明、扶桑は第一遊撃部隊(第二艦隊)第三部隊(通称西村艦隊)指揮官西村祥治第二戦隊司令官の指揮のもと、全7隻(戦艦〈山城、扶桑〉、重巡洋艦最上、駆逐艦4隻〈満潮、朝雲、山雲、時雨〉)という戦力でレイテ湾へ突入中、スリガオ海峡でアメリカ艦隊の集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅した[110]。扶桑も雷撃され沈没した。経過は以下の通り。
10月22日朝、栗田艦隊(第一遊撃部隊 第一部隊・第二部隊)はブルネイ泊地を出撃、西村艦隊(第三部隊)は午後3時に同泊地から出撃した[111]。対空機銃を増設した関係で、扶桑には定員より多い約1300名が乗艦していたとされる[112]。劣速で[113]航続力の少ない第三部隊は当初より第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)とは分離し、敵哨戒機により発見される可能性が高い代わりにレイテ湾への最短航路を経由する事が決定されていた為[114]、同24日、第一遊撃隊とは別コースのスリガオ海峡を通り抜けてレイテ湾を目指した。栗田艦隊(とくに戦艦武蔵)がアメリカ軍機動部隊の攻撃を一身に受けていたために、西村艦隊はミンダナオ海で急降下爆撃機約20(空母エンタープライズ、フランクリン所属機)による空襲を受けたのみであった[111]。
扶桑ではカタパルト附近に爆弾1発が命中、航空用ガソリンに引火して約1時間燃え続けた[111]。最上は『扶桑後部ニ爆弾一命中観測機一機炎上 後部ニ破口ヲ生ジタル外大ナル被害ナシ』と報告し[116]、西村司令官は栗田長官にあてた電報で「戦闘力発揮支障ナシ」と報告した[117]。
『雑誌丸エキストラ 5月号別冊』によれば、至近弾で後部甲板に装着していた爆雷が爆発し、搭載していた九四式水偵2機に引火。水偵に搭載していた小型爆弾が爆発した事で後部甲板は火の海となり、舵取機室以外の司令官室とその周辺の用具庫などを吹き飛ばされただけでなく、前艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受ける事となった。また、空襲の際に投下された250kg爆弾は副砲の一番砲廊を貫き、中毒者収容室と被服庫の辺りを貫通し、前部水圧機室で爆発した。この爆発によって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、扶桑中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけでなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。更に、前部水圧機室が破壊された事で扶桑の第一、第二砲塔の操作に支障が起き、被弾の衝撃で浸水が発生し右舷に2度傾斜した。応急処置がほどこされたものの、傾斜は復元されず、そのままの状態で進む事となった[118]。
同日夜、アメリカ海軍の魚雷艇部隊がスリガオ海峡の入り口に待ち構えていたため、西村艦隊は重巡洋艦最上と駆逐艦3隻(朝雲、満潮、山雲)を先行させ[119]、直率3隻(山城、扶桑、時雨)の探照灯で魚雷艇を攻撃しつつ航行した[120][121][122]。
明けて10月25日、ジェシー・B・オルデンドルフ少将が率いるアメリカ軍の第7艦隊第77任務部隊第2群は、丁字陣形で西村艦隊を待ち構えていた。西村艦隊は満潮→朝雲→山城《旗艦》→扶桑→最上、旗艦(山城)の右1.5kmに山雲、左に時雨という単縦陣で海峡に侵入した[123][122]。さらに完全な単縦陣に移行しつつ砲撃を開始、魚雷艇部隊や駆逐艦隊に向けて砲弾を放った。午前3時、アメリカ軍の駆逐艦隊は魚雷多数(27本)を発射、うち1本が扶桑右舷に命中した[124]。最上戦闘詳報では午前3時以降の攻撃で扶桑右舷中央部に魚雷が命中して落伍、最上が山城の後ろに続行したと記録している[125]。一連の雷撃により、駆逐艦3隻(満潮、山雲、朝雲)は沈没するか戦闘不能となった[126]。なお、西村中将は扶桑が落伍したことを知らなかったとみられる。 一方、時雨は落伍した艦を山城、健在艦を扶桑と誤認していた[127][128]。その後午前3時10分(アメリカ軍記録0338)、扶桑第三・第四砲塔の弾火薬庫が誘爆した事で大爆発が発生して扶桑の船体は真っ二つに割れたというが、駆逐艦ハッチンスの戦闘報告によると横転して艦体は二つに折れたが爆発はしていないという。[129]。
一方、時雨は扶桑(実際は山城)に対し『我貴隊に続行す』を発信[130]、西村司令官(山城座乗)は扶桑に対し『出し得る最大速力知らせ』を発信した[131]。古村啓蔵少将(元扶桑艦長、第二水雷戦隊司令官)は先に山城が沈没し、阪匡身少将(扶桑艦長)が西村艦隊の指揮を継承したのち3隻(扶桑、最上、時雨)を率いて突進した…と記述している[132]。同様の記述(山城が魚雷命中により午前3時すぎに爆沈、扶桑艦長が健在の最上と時雨を指揮して突入)は一部の書籍でも散見される[110]。午前4時以降、アメリカ戦艦部隊・巡洋艦部隊・駆逐艦部隊の砲雷撃集中により西村司令官は戦死(山城沈没)、最上、時雨共に損傷してスリガオ海峡より反転・撤退した[133]。 同時刻、レイテ湾の状況をつかめないまま航行していた第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官:重巡洋艦〈那智、足柄〉、第一水雷戦隊〈阿武隈〔一水戦司令官木村昌福少将〕、霞、不知火、潮、曙〉)は、前方に閃光や砲声を認めつつ戦場に到着した[134]。彼等は海峡中央で火達磨となった艦影二つ(霞戦闘詳報によれば三つ[135])を確認した[136]。一つは炎上中の最上であった[137]。志摩艦隊の将兵は残る二つの艦船を扶桑と山城と判断したが、実際には分断された扶桑であった[136]。第二遊撃部隊は扶桑残骸の西側を通過しようとしたが、那智は低速退避中の最上と衝突した[138]。その後、志摩艦隊は避退に成功した。
アメリカ軍によれば、扶桑艦首前半部分は午前4時20-30分頃に沈没し、転覆して浮いていた艦尾後半部分は午前5時20分頃に重巡洋艦ルイスビル(USS Louisville, CA-28)が砲撃して沈めた[139]。退避中の朝雲も追撃してきたアメリカ艦隊の砲撃で沈没している[140][141]。最上も25日午前中に空襲を受け、駆逐艦曙により雷撃処分された[142]。最後まで山城と扶桑を誤認していた駆逐艦時雨は[143]、損傷しつつも離脱に成功した[144]。沈没位置は日本側の記録では、レイテ湾 北緯10度24分 東経125度21分 / 北緯10.400度 東経125.350度、アメリカ軍の記録では北緯10度25分 東経125度20分 / 北緯10.417度 東経125.333度となっている。[要出典]
多くの資料で扶桑艦長の阪匡身少将を含む幹部以下全員が戦死したとあるが[145][105]、記録では扶桑所属乗組員7名がマニラ地区の地上兵力に編入された[146]。異説としては扶桑にも山城と同様10名の生存者がいて戦後帰還しているとする江崎寿人大尉(山城主計長)の証言がある[147]。また、戦後レイテ沖海戦時扶桑二分隊主砲二番砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹(当時)が沈没時の様子を描いた手記を残している[148]。
1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[4]。
海底での扶桑
特徴的な艦橋は船体から分離して45mほど離れた場所で横倒しになって沈んでいる。船体は転覆した状態で沈んでいる。船体は分離こそしていないが、艦首部分は大きく右側に曲がっており右舷の舷側には2つの巨大な裂目が出来ている。
艦歴(年表)
- 1912年3月11日 呉海軍工廠で起工
- 1914年3月28日 命名[19]、進水。
- 1915年11月8日 竣工
- 1923年9月6日〜22日 関東大震災救援行動
- 1925年5月1日[149]昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王(海軍少尉)が扶桑着任(長門乗組みからの転任)[150]。
- 1928年
- 実働戦力低下のため一時的に戦列復帰(榛名と入れ替わりに改装に復帰)
- 9月〜10月中旬 第一艦隊第一戦隊として朝鮮半島・旅順・青島市等を訪問。
- 10月下旬 呉海軍工廠で第二次近代化改装(艦尾延長・第三主砲塔係留位置変更・カタパルト設置)
- 11月1日 宣仁親王、海軍大学校甲種学生となり退艦(発令1日、退艦2日)[152]。
- 6月8日 「陸奥」爆沈に遭遇、救助活動に従事。
- 秋以降、トラック泊地に進出。
- 2月25日 第一艦隊解散により連合艦隊付属に編入(1月ごろリンガ泊地へ進出)。
- 5月中旬 「長門」とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入。タウイタウイへ進出。
- 5月27日 アメリカ軍のビアク上陸を受け、渾作戦間接援護隊旗艦として出撃、6月5日ダバオへ入港。
- 7月1日 第四駆逐隊(満潮、野分、山雲)に護衛されダバオ出発。タラカンを経由して内地帰投。
- 7月15日 呉工廠に入渠し、機銃・電探の増備工事開始(8月14日出渠)。
- 9月5日 第二遊撃部隊(通称「志摩艦隊」)として、第五艦隊各艦と共に内海西部で訓練を実施[153]。
- 9月10日 新編された第二戦隊に編入され、第二艦隊編入[154]。
- 9月22日 輸送任務を兼ね、第十七駆逐隊に護衛されて内地を出撃[155]。
- 9月24日 第二戦隊は第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に編入[106]。
- 10月4日 栗田艦隊にリンガ泊地で合流、8日ブルネイへ進出、22日15:30出撃。(スル海・スリガオ海峡経由レイテ突入航路)
- 10月25日 スリガオ海峡夜戦にてアメリカ艦隊の雷撃で魚雷が命中して横転、大爆発を起こして沈没した(-180m / 600 fsw)。
主要目一覧
要目 | 新造時 (1915年) |
艦尾延長時 (1935年) |
レイテ沖海戦時 (1944年) |
---|---|---|---|
排水量 | 基準:29,330t 常備:30,998t |
基準:34,700t 公試:39,154t |
|
全長 | 205.13m | 212.75m | ← |
全幅 | 28.65m | 33.08m | ← |
吃水 | 8.69m | 9.69m | |
主缶 | 宮原式混焼缶両面8基 同片面16基 |
ロ号艦本式4基 同ハ号缶2基 |
← |
主機 | ブラウンカーチス式タービン | 艦本式タービン4基4軸 | ← |
軸馬力 | 40,000shp | 75,000shp※※ | ← |
速力 | 22.5ノット(計画) | 24.5ノット(計画)※※ | |
航続距離 | 8,000海里/14ノット | 11,800海里/16ノット※※ | |
燃料 | 石炭:4,000t 重油:1,000t |
重油:5,100t | |
乗員 | 1,193名 | 1,396名 | 1,637名 |
主砲 | 四一式35.6cm連装砲6基 | ← | ← |
副砲 | 四一式15.2cm単装砲16門 | ← | 同14門 |
高角砲 | なし | 12.7cm連装砲4基 | ← |
機銃 | 13mm4連装4基 25mm連装8基 |
25mm3連装8基 25mm連装16基 同単装39挺 13mm単装10挺 | |
魚雷 | 53cm水中発射管6門 | なし | ← |
その他兵装 | 21号電探1基 22号2基 13号2基 | ||
装甲 | 水線305mm 甲板64mm 主砲天蓋152mm |
水線305mm 甲板100mm 主砲天蓋152mm 縦壁75mm |
|
搭載機 | なし | 水偵3機 カタパルト1基 |
← |
※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年は推定を含む。
※※ 艦尾延長前の数値。
公試成績
実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 実施場所 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1915年8月29日 | 217.85rpm | 46,263馬力 | 23.004ノット | [156] | ||||
新造公試 全力 | 30,662トン | 287.85rpm | 46,335 SHP | 22.93ノット | [16] | |||
高速航続力試験 全力 | 34,440トン | 279.70rpm | 43,891 SHP | 21.923ノット | 2時間続航 | [16] | ||
高速航続力試験 8/10 | 34,760トンから30,910トン | 262.72rpm | 36,024 SHP | 19.675ノット | 9時間続航 | [16] | ||
高速航続力試験 6/10 | 34,760トンから30,910トン | 241.19rpm | 27,111 SHP | 19.097ノット | 160時間続航 | [16] | ||
1933年5月10日 | 大改装後 | 24.68ノット | 宿毛沖 | [157] |
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』18-21頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 兼呉海軍工廠艤装員(1915年2月26日[158] - 1915年11月8日)
- 向井弥一 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 山岡豊一 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 竹内重利 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
- (兼)生野太郎八 大佐:1918年12月1日 - 1919年4月1日
- 島内桓太 大佐:1919年4月1日 - 1919年11月20日
- 大谷幸四郎 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月20日
- 大石正吉 大佐:1920年11月20日 - 1921年12月1日
- 漢那憲和 大佐:1921年12月1日 - 1922年12月1日
- 加々良乙比古 大佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- 白石信成 大佐:1923年12月1日 - 1924年7月18日
- 米内光政 大佐:1924年7月18日 - 1924年11月10日
- 高橋三吉 大佐:1924年11月10日 - 1925年12月1日
- 濱野英次郎 大佐:1925年12月1日 - 1926年11月1日
- 杉浦正雄 大佐:1926年11月1日 - 1927年8月20日
- 市村久雄 大佐:1927年8月20日 - 1928年12月10日
- 池田武義 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
- 蔵田直 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
- 杉坂悌二郎 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
- 町田進一郎 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
- 荒木貞亮 大佐:1932年12月1日 - 1934年11月15日
- 岩村清一 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
- 草鹿任一 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
- 吉田庸光 大佐:1936年12月1日 - 1937年1月26日
- 高崎武雄 大佐:1937年1月26日 - 1937年12月1日
- 阿部弘毅 大佐:1937年12月1日 - 1938年4月1日
- (兼)青柳宗重 大佐:1938年4月1日 - 1938年4月25日
- 藤田類太郎 大佐:1938年4月25日 - 1938年11月5日
- 岸福治 大佐:1938年11月5日 - 1939年11月1日
- (兼)山口儀三朗 大佐:1939年11月1日 - 1939年11月15日
- 佐藤勉 大佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日
- 河野千万城 大佐:1940年10月15日 - 1941年9月15日
- 木下三雄 大佐:1941年9月15日 - 1942年12月5日
- 古村啓蔵 大佐:1942年12月5日 - 1943年6月1日
- 鶴岡信道 大佐:1943年6月1日[68] - 1944年2月23日
- 阪匡身 少将:1944年2月23日[159] - 1944年10月25日戦死
その他
同型艦
画像集
-
1914年3月28日呉で進水する扶桑。
-
1915年8月24日全力公試験中の扶桑。
-
1928年、香港ビクトリア・ハーバーでの連合艦隊。右側に扶桑を確認できる。
-
1928年、三田尻沖に停泊する扶桑。1924年の改装で前部マストを檣楼化しているのが判る。第三砲塔も艦尾側を向いている。
-
1933年4月28日第一次近代化改装を終えて試験準備中の扶桑。
-
1933年5月10日改装後の全力公試中の扶桑。第三砲塔艦首側に向くよう変更されている。
-
同じく1933年5月10日に撮影された扶桑。
-
同じく1933年5月10日に撮影された扶桑。扶桑独特の艦橋構造物のくびれが分かる。
-
1935年春4月ないし5月演習中の扶桑、山城。
-
1938年ごろの山城(手前)扶桑(中央)榛名(奥)、扶桑は1935年末に二度目の近代化改装を実施し艦尾を延長している。
-
日米間の緊張が高まる1941年4月20日浮力復元テストを実施中の扶桑。
-
呉市上長迫町旧海軍墓地、第八十二号海防艦戦没者慰霊碑上方
-
扶桑近代化改装後ポストカード。
脚注
注釈
- ^ #軍艦基本計画資料sheet1、#昭和造船史1pp.778-779、附表第2 艦艇要目表 2.主力艦改装前後要目比較表では23ノットとしている。
出典
- ^ a b c d e f g h #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日) p.2〔 扶桑|戰艦|長(米)192.02|幅(米)28.68|喫水(米)8.69|排水量(噸)(基準)29,330|速力(節)22.5|短艇數13|建造所 呉工廠|起工年月日 明治45-3-11|進水年月日 大正3-3-28|竣工年月日 大正4-11-8|主要兵装 大砲36c/m…12 15c/m…16 12.7c/m高角8|發射管2|探照燈8|機械 種類「タルビン」 數4|罐 種類艦本式 數6|推進器數4|馬力40,000 〕
- ^ a b #達大正3年4月p.3『達第五十八號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「摂津」ノ次ニ「扶桑」ヲ加フ 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』
- ^ #海軍制度沿革8(1971)pp.88-92、大正15年11月29日(内令238)。
- ^ a b c d 「昭和20年9月3日(月)海軍公報 第5175号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070509300 〔 内令第七五〇號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 山城 軍艦 武藏 軍艦 翔鶴 軍艦 信濃|呉鎮守府在籍 軍艦 扶桑 軍艦 大和 軍艦 瑞鶴|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 大鳳|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年八月三十一日 海軍大臣 〕
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-230
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.226-227,232
- ^ #T4公文備考41/軍艦扶桑製造の件(1)画像4-5、官房機密第415号「明治四十四年八月二十六日 海軍大臣 呉鎮司令長官 第三号戦艦製造ノ件 軍備補充費ヲ以テ製造スヘキ第三号戦艦別紙要領書及図面八葉ニ基キ所属海軍工廠ヲシテ製造セシムヘシ 製造費豫算及船体部機関部製造方法書並ニ機関部図面ハ海軍艦政本部長ヨリ送付セシム 右訓令ス(別紙要領書及図面八葉添フ)(終) 」
- ^ a b c d e f 「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」p.3。
- ^ a b #昭和造船史1pp.778-779、附表第2 艦艇要目表 2.主力艦改装前後要目比較表
- ^ a b c d #軍艦基本計画資料sheet1
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表
- ^ a b c 「軍艦長門、扶桑要目」p.4
- ^ #T9公文備考55/戦闘運転成績表(1)画像12、大正九年軍艦扶桑戦闘運転成績表(其ノ一)
- ^ #帝国海軍機関史(1975)p.471(四〇三頁)
- ^ a b c d e f g h i #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b c d e #T5公文備考26/試験(1)画像22-23、高速航続力試験成績表
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.522-523、大正3年3月28日内令35、将校同相当官52人、兵曹長同相当官、准士官26人、下士268人、卒930人
- ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.222
- ^ a b c #達大正3年4月p.3『達第五十七號 呉海軍工廠ニ於テ建造ノ第三號戰艦ヲ扶桑ト命名セラル 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』
- ^ #日本軍艦集2600年版 p.17〔 -戰艦- 扶桑(ふさう) 基準排水量29,330噸、長さ192.03米、幅28.68米、平均吃水8.69米、速力22.5節、備砲36糎砲12門、15糎砲16門、12.7糎高角砲8門、魚雷發射管2門、起工明治45年3月11日、進水大正3年3月28日、竣工大正4年11月8日、建造所呉海軍工廠-姉妹艦に山城がある。〕
- ^ #ポケット海軍年鑑(1935) p.14〔 戰艦"扶桑 ふさう" 全要目{排水量29,330噸 速力22.5節 備砲36糎砲12門 15糎砲16門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管2門 起工明治45年3月 竣工大正4年11月 建造所 呉工廠} 同型艦"山城 やましろ" 昭和8年に約3ヶ年を要して大改装を完成したこの扶桑ほど、づばぬけた近代化を示して世人をあつと云はせたものは世界中どこをたづねてもあるまい。改装直にその年の特別大演習に参加し、引續き昭和9年度昭和10年度と聯合艦隊の主軸をなしてゐるのに見て、この近代化は異彩を放つてゐる。竣工して初めて軍艦旗を翻へしたのは上に示す如く大正4年であるが、この偉容から云はしむれば寧ろ昭和8年竣工とでも云ふべきであらうか。戰艦山城はこの扶桑と同型の姉妹艦本年これも改装を完成して共に聯合艦隊の主力として活躍中である。 〕
- ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日) p.1〔 艦艇類別等級表|軍艦|戰艦|扶桑型|扶桑、山城 〕
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.25『艦名考:東海中に在りと云ふ大なる神木、転じて東方日出づる處にある神仙国、即ち我が大日本国の異称とす。』
- ^ 「官房第714号 10.2.20 軍航扶桑由来の件」p.3
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.110
- ^ #高松宮日記2巻 170-171頁〔 十一月二十四日雨(中略)今日は午前、扶桑神社(昨年大神宮を合祀す もともとは男山八幡だつた)のおまつりあり。後武技試合ありしも喪中だから参列せず。午後、配置教育、総合兵器額、第四回弾火薬庫装置 〕
- ^ 「軍艦扶桑進水式に関する件(3)」p.59
- ^ 「軍艦扶桑製造の件(2)」p.4
- ^ #歴群30扶桑型p.122
- ^ #歴群30扶桑型p.123
- ^ a b 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 205.
- ^ #高松宮日記1巻 176頁〔 九月三日 月曜 東京出身ノ生徒ハ「扶桑」デ急行シタ。途中寄港スルノデ東京着ハ余リ早クナイ(以下略) 〕
- ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 726〈付〉高松宮宣仁親王ご年譜
- ^ a b c d 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 215.
- ^ a b 高松宮宣仁親王伝記 1991, pp. 225–226.
- ^ 「丸 2013年8月号」p76
- ^ #歴群30扶桑型p.125
- ^ #歴群30扶桑型p.126
- ^ 「写真週報117号」p.11、#歴群30扶桑型p.110
- ^ 「軍艦扶桑製造の件(2)」p.59。扶桑の設計図より。
- ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 12–16水平防御に弱点
- ^ 「丸 2013年8月号」p89
- ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 292.
- ^ a b c 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 732〈付〉高松宮宣仁親王ご年譜
- ^ #高松宮日記2巻165頁
- ^ #高松宮日記2巻 199頁〔 一月十日 八時半、艦へ。今日は艦へとまるつもりだつたら、艦長がきて浴室便所の繼が悪いから艦へとまるなとのことだつたから、浴室はどうせ入らぬからいらぬ、便所も使はないからと云つたら、大便をするだろうと(以下略) 〕
- ^ #高松宮日記2巻 205頁〔 一月二十三日(略)今朝、四塔の換装室から弾庫へおりるあのせまい通路で首つりをやつた三水あり。原因不明。志願兵で中学も出た、よい明い兵だつたさうだが、四塔員、オハラヒをしたりする。いやはや不景気な艦である。病死したものも最近あつたが。〕
- ^ #高松宮日記2巻 212頁〔 二月四日 〕
- ^ #高松宮日記2巻 236頁〔 四月一日 水雷長が摩耶へ転任(戦艦の雷装廃止によつて)〕
- ^ #高松宮日記2巻 274頁〔 六月二十九日 〕
- ^ #高松宮日記2巻 299頁〔 九月十一日 〕
- ^ #高松宮日記2巻 306頁〔 九月二十六日 十時半、第一戦隊旗艦変更、「日向」へ(以下略) 〕
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- ^ #S1806二水戦日誌(2) p.4〔 (三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着 〕
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- ^ #S1804十一水戦日誌(5) pp.3-4〔 9月26日連合艦隊機密第242131番電ニ依リ第11水雷戦隊(龍田)、第32駆逐隊(早波涼波藤波)、山城、伊勢ヲ以テ丁三號輸送部隊ヲ編成セラル(略)本職10月11日山城ニ将旗ヲ移揚シ15日1000豊後水道西掃海水道出撃20日1300「トラック」ニ進出本職将旗ヲ龍田ニ復帰ス 〕、同部隊戦時日誌 pp.19-20
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- ^ a b #あ号作戦日誌(2) pp.20-21〔 (ハ)第十駆逐隊(1)風雲 渾部隊トシテ第五戰隊扶桑ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ヨリ「ダバオ」回航中ノ所一日同地着、二日渾作戦間接護衛隊トシテ第五戦隊扶桑ト共ニ「ダバオ」出撃「ビアク」ニ向ケ航行中ノ所渾作戰中止反転ス 四日敵哨戒機数機ト交戰戰果被害ナク五日「ダバオ」ニ入港ス、七日渾作戰再興即日「ダバオ」出撃「バチヤン」ニ向ケ警戒航行中ノ處八日0320「セントオーガスチン」岬ノ二四〇度二〇浬ニ於テ敵浮上潜水艦ヲ発見之ガ攻撃ニ向ヒツヽアル中雷撃ヲ受ケ沈没セリ 〕
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- ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要 p.19〔 山城ハ略中央ニ魚雷命中ノ水柱ヲ認メ恰モ船体前後ニ兩断セシ如ク見エタリト云フモノアリ(但シ艦長ハ其ノ時之ヲ承知セズ約三〇分後承知セリ 〕
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- ^ #霞詳報 p.2〔 前方(約二五粁附近)ニ彼我交戦中ナルヲ認ム 〕、#阿武隈詳報 p.4〔 第三部隊交戦中ラシキ砲声ヲ聞キ時々照明弾ヲ認ム 〕
- ^ #霞詳報 p.3〔 〇四一八 視界内炎上中ノ艦船三 〕
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- ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要 p.13〔 ○夜明頃火災強マリ、総員退去、内火艇ニ移乗ス|○夜明後、籠「マスト」ヲ認ム、次テ20〜30隻艦隊南下シ来リ、朝雲ニ対シ集中射撃ヲ実施シ、遂ニ沈没ス 〕
- ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要 p.8〔 最上及曙 (イ)最上ハ爆撃被害ニ依リ火災再燃、艦危殆ニ瀕スルニ至レルヲ以テ乗員ヲ警戒dニ移乗 (ロ)艦救助ノ途ナシト判断クカハ之ガ處分ヲ(長官)2Fニ申請セシモ回答ナク我又指揮下ニナカリシ處之ガ下命ヲ決シカネツツアリシガ艦ノ状況益々悪化シ最早處分ノ外ナシト認メラルルニ至リdハ之ヲ雷撃處分ス (ハ)曙ハ最上乗員ヲ収容「コロン」ニ向ヒシヲ(長官)2YBヨリ「マニラ」直航ヲ命ジタリ 〕
- ^ #時雨詳報 p.52〔 (對勢) 〕
- ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要 p.19〔 時雨ハ其ノ儘約26ktニ増速電探回避運動ヲ行ヒツツ進撃シタルモ間モナク後續艦ヲ全部見失ヒタルヲ以テ山城ノ状況確認ノ爲反轉間モナク扶桑、最上ヲミトメタルモ山城ハ之ヲ確認スルニ至ラザルヲ以テ更ニ反轉北上扶桑ノ前程ニ就クベク北進中0310/25頃扶桑ハ敵弾ニ依リ全艦火災航行不能トナル(艦首方向東)此ノ際最上ヲ見タルニSSW約一二〇〇〇米附近ニ火災ヲ發シ爾ニ向首シ航行不能トナリタル如ク認ム(兩艦ニ敵弾ノ命中ハ閃光破壊物四散ノ状況恰モ繪ヲ見ル如キ凄惨ナル状況ヲ望見セリ)其ノ他艦影ヲ認メズ又敵弾雨ノ如ク飛來スルモ敵ノ所在全然見當附カズ0312/25頃一應戦場ヲ離脱再擧ヲ決意シ南下ス速力約30kt… 〕
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- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『戦艦名鑑』コーエー、1998年。ISBN 4-87719-604-8
- 小林昌信ほか『戦艦十二隻 国威の象徴"鋼鉄の浮城"の生々流転と戦場の咆哮』光人社、2014年8月。ISBN 978-4-7698-1572-3。
- 元軍令部作戦課長・海軍大佐大前敏一『第二次大戦と日本戦艦十二隻の生涯 国家の興亡を賭けて建造された主力艦隊の生々流転と最後』
- 元「陸奥」運用長・海軍中佐福地周夫『悲劇の戦艦「陸奥」桂島水道に死す』
- 元「扶桑」乗組砲術指導官付・海軍中尉高橋嘉夫/元甲飛十一期艦務実習生・海軍上飛曹古屋一彦『私は陸奥爆沈の決定的瞬間を見た 桂島泊地の第一艦隊を震撼させた謎の一大火柱の真相』
- 元「扶桑」艦長・海軍少将古村啓蔵『戦艦「扶桑」レイテ出撃とその戦訓』
- 戦史研究家伊藤一郎『南溟に映える戦艦「山城」最後の英姿 悲壮な使命をおびてスリガオ海峡に突入した西村部隊旗艦の死闘』
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-76-981246-9
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年5月。ISBN 47698-2009-7。
- (9-19頁)武運と幸運と <戦艦「扶桑」艦長・鶴岡信道少将の証言>(太平洋戦争時、北上艦長、扶桑艦長、第3護衛団司令官、第31戦隊司令官等)
- (232-249頁)空隙と盲点 <駆逐艦「時雨」艦長・西野繁中佐の証言>(レイテ沖海戦時の時雨駆逐艦長)
- 佐藤静夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社NF文庫、2004年1月。ISBN 4-7698-2408-4。
- カール・ソルバーグ著、高城肇訳『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0934-4。
- 「高松宮宣仁親王」伝記刊行委員会編『高松宮宣仁親王 自明治三十四年至大正二年』朝日新聞社、1991年3月。ISBN 4-02-256278-1。
- 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第一巻 大正十年一月一日~昭和七年十二月三十一日』中央公論社、1996年3月。ISBN 4-12-403391-5。
宣仁親王は1924年(大正14年)5月1日から少尉候補生として扶桑乗組。1933年(昭和8年)12月15日、海軍大尉として扶桑分隊長(主砲後部砲台長)。翌年11月、海軍大学校入学のため退艦。 - 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』中央公論社、1996年6月。ISBN 4-12-403392-3。
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
- 戦史研究家村井至『太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘』
- (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福田啓二/編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0。
- 福田幸弘『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6。
- 藤田千代吉ほか『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』光人社、1990年7月。ISBN 4-7698-0504-7。
- 防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』、1968年
- 防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』、1972年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍戦備<2> 開戦以後』 第88巻、朝雲新聞社、1975年10月。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦I』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0451-2
- 雑誌「丸」編集部『丸エキストラ 5月号別冊「戦史と旅」34』光人社、2002年
- 雑誌「丸」編集部『丸 2013年 08月号』光人社、2013年
- 雑誌「丸」編集部『丸 2014年 07月号』光人社、2014年
- サミュエル・モリソン著、大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9。
- 歴史群像太平洋戦史シリーズ30『扶桑型戦艦日本初の超弩級戦艦「扶桑」「山城」、その誕生と最期』学習研究社、2001年1月。ISBN 4-05-602444-8。
- 歴史群像シリーズ『日本の戦艦』学習研究社、2004年。ISBN 4-05-603411-7
- 『官報』
- 昭和45年11月15日発刊 第1巻・第2号「丸」季刊「Graphic Quarterly(グラフィック・クォータリー) THE MARU GRAPHIC 11/AUTUMN1970」