コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「青原行思」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Robot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反
2行目: 2行目:
{{Infobox Buddhist
{{Infobox Buddhist
|名前=青原行思
|名前=青原行思
|生没年=不詳 - [[開元]]28年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]</br>(不詳 - [[741年]][[1月4日]])
|生没年=不詳 - [[開元]]28年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]<br />(不詳 - [[741年]][[1月4日]])
|諡号=弘済禅師
|諡号=弘済禅師
|尊称=
|尊称=

2021年8月29日 (日) 00:00時点における版

青原行思
不詳 - 開元28年12月13日
(不詳 - 741年1月4日
『仏祖正宗道影』(1880年)の木版画像
諡号 弘済禅師
生地 吉州安復県
宗派 禅宗
寺院 青原山浄居寺
六祖慧能
弟子 石頭希遷
テンプレートを表示

青原行思(せいげん ぎょうし、生年不詳 - 開元28年12月13日741年1月4日))は、中国代の弘済禅師。俗姓は劉。吉州安復県(『宋高僧伝』では廬陵)の出身。

一説には生誕年を673年としているが、定かではない。

生涯

子供の頃に寺に入り、暫く修行した後に曹渓(広東省韶関市曲江区)の慧能を尋ねて師事した。

その後、故郷に帰って青原山に浄居寺(江西省吉安市青原区)を開いて布教した。

『宋高僧伝』では、大師号を、弘済大師[注釈 1]としている。髪塔は帰真塔といい、会昌の廃仏時に廃毀されたが、後に法嗣の者が重建したとする。

後に弟弟子に当たる石頭希遷が慧能の死後に、第一座の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、曹洞宗雲門宗法眼宗が派生し、臨済宗潙仰宗を派出した同じ慧能門下の南嶽懐譲と共に、後世、禅の二大祖師として並び称されるようになった。

思想

青原の仏法は、師の慧能の頓悟禅を受け継ぎつつも、相手が納得するまで論じる丁寧さを持ち合わせ、比喩を用いて教えるなど、後世の禅宗三派の思想の発端が見られる。

伝記

脚注

注釈

  1. ^ 北宋の宣祖趙弘殷を避諱して、大師号を済大師と書かれる。

出典

師:慧能禅宗弟子:石頭希遷