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2021年8月29日 (日) 00:00時点における版
青原行思 | |
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不詳 - 開元28年12月13日 (不詳 - 741年1月4日) | |
『仏祖正宗道影』(1880年)の木版画像 | |
諡号 | 弘済禅師 |
生地 | 吉州安復県 |
宗派 | 禅宗 |
寺院 | 青原山浄居寺 |
師 | 六祖慧能 |
弟子 | 石頭希遷 |
青原行思(せいげん ぎょうし、生年不詳 - 開元28年12月13日(741年1月4日))は、中国の唐代の禅僧。諡は弘済禅師。俗姓は劉。吉州安復県(『宋高僧伝』では廬陵)の出身。
一説には生誕年を673年としているが、定かではない。
生涯
子供の頃に寺に入り、暫く修行した後に曹渓(広東省韶関市曲江区)の慧能を尋ねて師事した。
その後、故郷に帰って青原山に浄居寺(江西省吉安市青原区)を開いて布教した。
『宋高僧伝』では、大師号を、弘済大師[注釈 1]としている。髪塔は帰真塔といい、会昌の廃仏時に廃毀されたが、後に法嗣の者が重建したとする。
後に弟弟子に当たる石頭希遷が慧能の死後に、第一座の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、曹洞宗、雲門宗、法眼宗が派生し、臨済宗、潙仰宗を派出した同じ慧能門下の南嶽懐譲と共に、後世、禅の二大祖師として並び称されるようになった。
思想
青原の仏法は、師の慧能の頓悟禅を受け継ぎつつも、相手が納得するまで論じる丁寧さを持ち合わせ、比喩を用いて教えるなど、後世の禅宗三派の思想の発端が見られる。
伝記
脚注
注釈
出典
師:慧能 | 禅宗 | 弟子:石頭希遷 |