「バイエルン大公」の版間の差分
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バイエルン大公は[[907年]]頃、[[バイエルン州|バイエルン]]の在地貴族[[ルイトポルト家]]の[[アルヌルフ (バイエルン公)|アルヌルフ]]がバイエルン地域を統合し、東フランク王(ドイツ王)[[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート1世]]からその支配権を承認されて成立した。[[947年]]、[[ザクセン大公|ザクセン]]の[[リウドルフィング家]]出身である東フランク王[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]はルイトポルト家の大公[[ベルトルト (バイエルン公)|ベルトルト]]の死に乗じ、アルヌルフの婿でもある自身の弟[[ハインリヒ1世 (バイエルン公)|ハインリヒ1世]]をバイエルン大公位につけ、以降からバイエルン公はリウドルフィング家のものとなった。 |
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ハインリヒ1世の子[[ハインリヒ2世 (バイエルン公)|ハインリヒ2世]](喧嘩公)は[[ハンガリー王国|ハンガリー国王]]の[[イシュトヴァーン1世]]に娘[[ギーゼラ・フォン・バイエルン|ギーゼラ]]を嫁がせて、姻戚関係となり勢力を拡大した。[[976年]]、従兄の[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]][[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]に対して反乱を起こした。ハインリヒ2世は廃位され、バイエルン大公領から東部が[[オーストリア君主一覧|オーストリア辺境伯]]領として分離させられた。但し、ハインリヒ2世は後に復位している。 |
ハインリヒ1世の子[[ハインリヒ2世 (バイエルン公)|ハインリヒ2世]](喧嘩公)は[[ハンガリー王国|ハンガリー国王]]の[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]に娘[[ギーゼラ・フォン・バイエルン|ギーゼラ]]を嫁がせて、姻戚関係となり勢力を拡大した。[[976年]]、従兄の[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]][[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]に対して反乱を起こした。ハインリヒ2世は廃位され、バイエルン大公領から東部が[[オーストリア君主一覧|オーストリア辺境伯]]領として分離させられた。但し、ハインリヒ2世は後に復位している。 |
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2021年5月24日 (月) 20:44時点における版
バイエルン大公(バイエルンたいこう)は、中世ドイツの部族大公。ドイツ南東部からオーストリアにかけてのバイエルン公国を支配した。
「大公」とはドイツ語Herzogの訳語であるが、ドイツ史においては中世の研究では「大公」、初期近代以降の研究では「公」という訳語が用いられるのが通常である。特にはっきりした境界があるわけではないが、以下では便宜上ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公位を独占するようになる1180年以降に限ってバイエルン公という用語を使うことにする。また、1623年以降バイエルン公は選帝権を保持したためバイエルン選帝侯と呼ばれる。
歴史
ヴィッテルスバッハ以前
バイエルン大公は907年頃、バイエルンの在地貴族ルイトポルト家のアルヌルフがバイエルン地域を統合し、東フランク王(ドイツ王)コンラート1世からその支配権を承認されて成立した。947年、ザクセンのリウドルフィング家出身である東フランク王オットー1世はルイトポルト家の大公ベルトルトの死に乗じ、アルヌルフの婿でもある自身の弟ハインリヒ1世をバイエルン大公位につけ、以降からバイエルン公はリウドルフィング家のものとなった。
ハインリヒ1世の子ハインリヒ2世(喧嘩公)はハンガリー国王のイシュトヴァーン1世に娘ギーゼラを嫁がせて、姻戚関係となり勢力を拡大した。976年、従兄のローマ皇帝オットー2世に対して反乱を起こした。ハインリヒ2世は廃位され、バイエルン大公領から東部がオーストリア辺境伯領として分離させられた。但し、ハインリヒ2世は後に復位している。
その後は、バイエルンがイタリアに進出する上での要衝であったこともあって、1096年まで大公位が1つの家に長く保持されることはなかった。
しかし1070年以降は、2度の中断があったもののヴェルフ家が5代110年にわたってバイエルン大公位を保持した。ハインリヒ12世(獅子公)は後にザクセン大公位をも獲得し、ドイツ国内の反ホーエンシュタウフェン朝勢力の領袖へと成長した。1198年には子のオットーはローマ王位(ドイツ王位)をも獲得する。しかしバイエルン大公位は1180年にヴィッテルスバッハ家に与えられ、以降同家が世襲することとなった。
ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公
1180年にヴィッテルスバッハ家のオットー1世がバイエルン公になって以来、1918年にバイエルン王国が共和制に移行するまで、常にヴィッテルスバッハ家がバイエルンの君主であった。1214年にはルートヴィヒ1世がプファルツ選帝侯位も獲得、1328年にはルートヴィヒ4世が皇帝になったが、分裂と統合を重ね、一家内での内紛が絶えなかった。このためバイエルンは部族大公の伝統を引く有力諸侯でありながら選帝侯になれなかった。バイエルンが統合されるのは1504年になってからのことである。
16世紀に入ってドイツが宗教改革により新旧両派に分裂すると、プファルツのヴィッテルスバッハ家はプロテスタントの、バイエルンのヴィッテルスバッハ家はカトリックの盟主として激しく対立した。三十年戦争でプファルツ選帝侯フリードリヒ5世が皇帝フェルディナント2世とバイエルン公マクシミリアン1世の軍に敗れて国外に亡命すると、フェルディナント2世はマクシミリアン1世にプファルツを与え、選帝侯の地位につけた。この行為は金印勅書という帝国法に反するものであったから、諸侯の憤激を買った(三十年戦争長期化の一因とも言われている)。結局バイエルンは1648年、ヴェストファーレン条約でプファルツに代わって選帝侯の地位を獲得した(同時にフリードリヒ5世の子カール1世ルートヴィヒは新設のプファルツ選帝侯として認められた)。
ヴィッテルスバッハ家のバイエルン選帝侯
選帝侯となって以降は、バイエルンは南ドイツの有力諸侯として活躍し、スペイン継承戦争でマクシミリアン2世エマヌエルはフランスの後ろ盾で勢力を伸ばし、息子のカール・アルブレヒトは1740年にハプスブルク家の断絶もあってフランス軍の加勢で皇帝にもなった(カール7世)。しかしいずれもハプスブルク家の反撃で没落、1代限りの栄光に終わった。
1777年、カール7世の息子マクシミリアン3世ヨーゼフの死によりバイエルンのヴィッテルスバッハ家は断絶し、バイエルン選帝侯位はプファルツのヴィッテルスバッハ家出身のカール4世フィリップ・テオドールに受け継がれた。ヴェストファーレン条約でバイエルンとプファルツのヴィッテルスバッハ家が統合した場合、プファルツはバイエルンに合併されその選帝権も失われることになっていたため、この時点を持ってプファルツ選帝侯は消滅した。
1806年、バイエルン選帝侯マクシミリアン4世はナポレオンによりバイエルン王とされた。以降のバイエルンについてはバイエルン王国を参照。
歴代領主一覧
ヴィッテルスバッハ家以前
- ザクセン家(リウドルフィング=オットーネン家)
- ルイトポルト家
- ザクセン家(リウドルフィング=オットーネン家)
- モーゼル家(ルクセンブルク=アルデンヌ家、リュッツェルベルク家)
- ザクセン家(リウドルフィング=オットーネン家)
- モーゼル家(ルクセンブルク=アルデンヌ家、リュッツェルベルク家)
- モーゼル家(ルクセンブルク=アルデンヌ家、リュッツェルベルク家)
- ザーリアー家
- ズトフェン家(エッツォ家)
- ザーリアー家
- ハインリヒ8世(在位:1053年 - 1054年) - ローマ皇帝ハインリヒ4世
- コンラート2世(在位:1054年 - 1055年) - ローマ皇帝ハインリヒ3世次男
- アグネス・フォン・ポワトゥー(在位:1055年 - 1061年) - ローマ皇帝ハインリヒ3世妃
- ノルトハイム家
- ザーリアー家
- ヴェルフ家
- ヴェルフ1世(在位:1096年 - 1101年) - 復位
- ヴェルフ2世(肥満公、在位:1101年 - 1120年)
- ハインリヒ9世(黒公、在位:1120年 - 1126年)
- ハインリヒ10世(傲岸公、在位:1126年 - 1138年)
- バーベンベルク家
- ヴェルフ家
ヴィッテルスバッハ家
バイエルン公(1180年 - 1253年)
下バイエルン公(1253年 - 1340年)
- ハインリヒ13世(在位:1253年 - 1290年)
- ルートヴィヒ3世(在位:1290年 - 1296年)
- シュテファン1世(在位:1290年 - 1309年)
- オットー3世(在位:1290年 - 1312年)
- ハインリヒ14世(在位:1309年 - 1339年)
- オットー4世(在位:1309年 - 1334年)
- ハインリヒ15世(在位:1312年 - 1333年)
- ヨハン1世(在位:1339年 - 1340年)
上バイエルン公(1253年 - 1317年)
バイエルン公(1294年 - 1347年)
下バイエルン=シュトラウビング公(1347年 - 1425年)
- ヴィルヘルム1世(在位:1347年 - 1375年)
- アルブレヒト1世(在位:1347年 - 1404年)
- アルブレヒト2世(在位:1387年 - 1397年)
- ヴィルヘルム2世(在位:1404年 - 1417年)
- ヨハン3世(在位:1417年 - 1425年)
下バイエルン=ランツフート公(1347年 - 1503年)
- シュテファン2世(在位:1347年 - 1375年)
- フリードリヒ(在位:1375年 - 1393年)
- ハインリヒ16世(在位:1393年 - 1450年)
- ルートヴィヒ9世(在位:1450年 - 1479年)
- ゲオルク(在位:1479年 - 1503年)
上バイエルン公(1347年 - 1375年)
上バイエルン=インゴルシュタット公(1375年 - 1503年)
- シュテファン3世(在位:1375年 - 1413年)
- ルートヴィヒ7世(在位:1413年 - 1443年)
- ルートヴィヒ8世(在位:1443年 - 1445年)
- ハインリヒ16世(在位:1447年 - 1450年)
- ルートヴィヒ9世(在位:1450年 - 1479年)
- ゲオルク(在位:1479年 - 1503年)
上バイエルン=ミュンヘン公(1375年 - 1467年)
- ヨハン2世(在位:1375年 - 1397年)
- ヴィルヘルム3世(在位:1397年 - 1435年)
- エルンスト(在位:1397年 - 1438年)
- アルブレヒト3世(在位:1438年 - 1460年)
- ヨハン4世(在位:1460年 - 1463年)
- ジギスムント(在位:1460年 - 1467年)
バイエルン公(1467年 - )
- アルブレヒト4世(狡猾公、在位:1463年 - 1508年)
- ヴィルヘルム4世(在位:1508年 - 1550年)
- ルートヴィヒ10世(在位:1516年 - 1545年)
- アルブレヒト5世(在位:1550年 - 1579年)
- ヴィルヘルム5世(在位:1579年 - 1597年)
- マクシミリアン1世(在位:1597年 - )
バイエルン選帝侯(1623年 - 1805年)
- マクシミリアン1世(在位:1623年 - 1651年)
- フェルディナント・マリア(在位:1651年 - 1679年)
- マクシミリアン2世エマヌエル(在位:1679年 - 1726年)
- カール1世アルブレヒト(在位:1726年 - 1745年)
- マクシミリアン3世ヨーゼフ・カール(在位:1745年 - 1777年)
- カール2世テオドール(在位:1777年 - 1799年)
- マクシミリアン4世ヨーゼフ(在位:1799年 - 1805年)
以降のバイエルンの君主については、バイエルン国王を参照。
Herzog in Bayern
1799年に創設されたHerzog in Bayernの称号も、日本語ではバイエルン公と訳される。これは同年に、ヴィッテルスバッハ家プファルツ系傍系(プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家)のツヴァイブリュッケン公マクシミリアン・ヨーゼフ(のちのバイエルン王マクシミリアン1世)がバイエルン選帝侯位を継承した際に尽力した功により、近縁の同族プファルツ=ゲルンハウゼン公ヴィルヘルムに授けたものである。ちなみにオーストリア皇后エリーザベトはこの家系の出身である。