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{{儒教}}
{{儒教}}
'''朱子学'''(しゅしがく)とは、[[南宋]]の[[朱熹]](1130-1200)によって構築された'''[[儒教]]'''の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた[[北宋]]の[[程頤]]と合わせて'''程朱学'''('''程朱理学''')・'''程朱学派'''と呼ばれ、[[宋明理学]]に属す当時は程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして[[:en:Daoism|道学]](Daoism)とも呼ばれ
'''朱子学'''(しゅしがく)とは、[[南宋]]の[[朱熹]]([[1130年]]-[[1200年]])によって構築された'''[[儒教]]'''の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた[[北宋]]の[[程頤]]と合わせて'''程朱学'''('''程朱理学''')・'''程朱学派'''と呼ばれまた、聖人の[[統]]の継承を標榜する学派であることから、'''道学'''とも呼ばれ


[[陸王心学]]と合わせて人間や物に先天的に存在するという[[理]]に依拠して学説が作られているため'''[[宋明理学|理学]]'''(宋明理学)と呼ばれ、また、[[清代]]、[[漢唐訓詁学]]に依拠する漢学([[考証学]])からは'''宋学'''と呼ばれた
[[北宋]]・[[南宋]]期の特徴的な学問は'''宋学'''と総称され、朱子学はその一つである{{Sfn|西|1984|}}。また、[[陸王心学]]と同じく「[[理]]に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して'''[[宋明理学]]'''(理学)と


== 概要 ==
== 成立の背景 ==
{{See also|宋明理学|道統}}
朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、[[程頤]]による[[性即理]]説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち[[理]]であるとする)や[[程顥]]の天理(天が理である)をもとに、[[仏教]]思想の論理体系性、[[道教]]の生成論および[[静坐]]という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。
[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]の時代に入り、徐々に[[士大夫]]層が社会に進出した。彼らは[[科挙]]を通過するべく[[儒教]][[経典]]の知識を身に着けた人々であり、特に宋に入ると学術尊重の気風が強まった{{Sfn|島田|1967b|pp=14-17}}。そのような状況下で、[[仏教]]・[[道教]]への対抗、またはその受容、儒教の中の正統と異端の分別が盛んになり、士大夫の中から新たな思想・学問が生まれてきた。これが「宋学」であり、その中から朱子学が生まれた{{Sfn|島田|1967b|p=17}}。


=== 宋学・朱子学の先蹤 ===
なお朱子の[[理]]とは、[[理]]は[[形而上学|形而上]]のもの、[[気]]は[[形而上学#形而下学|形而下]]のものであってまったく別の二物(「[[性即理|理気二元論]]」)であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、[[気]]は、この世の中の万物を構成する要素でつねに運動してやむことがない。そして「気」の運動量の大きいときを「陽」、運動量の小さいときを「陰」と呼ぶ。[[陰陽]]の二つの気が凝集して木火土金水の「[[五行]]」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出されるという。理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「[[性即理]]」という実践論が導かれている。「性即理」の「性」とは心が静かな状態である。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされるというのが、朱子学の説く倫理的テーマである。つまり、朱子学の核心は実践倫理である。朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。その方法が「[[居敬窮理]]」である。「[[居敬]]」の心構えで、万物の理を窮めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきる([[窮理]])のである。ちなみに、朱熹の主張する「性即理」説は、[[陸象山]]の学説[[心即理]]説と対比され、朱熹は、[[心即理]]説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、[[陳亮]]ら[[功利学派]](事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。
唐の[[韓愈]]は、新興の士大夫層の理想主義を体現した早期の例で、宋学の源流の一つである{{Sfn|島田|1967b|p=17}}。彼の『原道』には、仁・義・道・徳の重視、文明主義・文化主義の立場、仏教・道教の批判、[[道統]]の継承など、宋学・朱子学と共通する思想が既に現れている{{Sfn|島田|1967b|pp=18-26}}。また、韓愈の弟子の[[李翺]]の『復性書』も、『[[易経]]』と『[[中庸]]』に立脚したもので、宋学に似た内容を備えている{{Sfn|島田|1967b|p=30}}。


=== 北宋の儒学者 ===
朱熹の学は、社会の統治を担う[[士大夫]]層の学として受け入れられたが、[[慶元の党禁]]によって弾圧され、朱熹も不遇の晩年を送った。その後、一転して[[理宗]]の時代に[[孔子廟]]に従祀されることとなり、続く[[元 (王朝)|元]]代には[[科挙]]試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。その結果、科挙で唯一採用された朱子学を学ぶことが中国社会を生きる上での必要かつ十分条件として位置づけられるようになり、反対に科挙から排除された他の学説は一部の「偏屈な人あるいは変わり者」が学ぶものとする風潮が醸成されるようになった<ref name=kinugawa>衣川強『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)p464-468 </ref>。
宋学の最初の大師は[[周敦頤]]であり、彼は『太極図』『太極図説』を著し、万物の生成を『[[易経]]』や[[陰陽五行思想]]に基づいて解説した。これは、朱熹の「理」の理論の形成に大きな影響を与えた{{Sfn|島田|1967b|pp=30-33}}。更に、彼の『通説』には、宋学全体のモチーフとなる「'''聖人学んで至るべし'''」(聖人は学ぶことによってなりうる)の原型が提示されている{{Sfn|島田|1967b|pp=33-35}}。学習によって聖人に到達可能であるとする考え方は『[[孟子 (書物)|孟子]]』を引き継いだものであり、自分が身を修めて聖人に近づくということだけでなく、他者を聖人に導くという方向性を含んでいた。これも後に[[程頤]]・朱熹に継承される{{Sfn|福谷|2019|pp=16-21}}。


同じく朱熹に大きな影響を与えた学者として、「[[二程子]]」と称される[[程顥]]・程頤兄弟が挙げられる。程顥は、万物一体の仁・良知良能の思想を説き、やや後世の[[陽明学]]的な面も見られる{{Sfn|島田|1967b|pp=40-52}}。一方、程頤は、仁と愛の関係の再定義を通して、体と用の峻別を説き、「[[性即理]]」を主張するなど、朱熹に決定的な影響を与える学説を唱えた{{Sfn|島田|1967b|pp=54-61}}。更に、程頤は学問の重要な方法として「[[窮理]](理の知的な追求)」と「[[居敬]](専一集中の状態に維持すること)」を説いており、これも後に朱子学の大きな柱となった{{Sfn|島田|1967b|pp=63-64}}。
[[明]]代、国家教学となった朱子学は、科挙合格という世俗的な利益のためにおこなわれ、また体制側でも郷村での共同体倫理確立に朱子学を用い、道徳的実践を重んじた聖人の学としての本質を損なうようになった。そこで明代の朱子学者たちは、[[陸九淵]]の[[心学]]を取り入れて道徳実践の学を補完するようになった。この流れのなかで[[王守仁]]の[[陽明学]]が誕生することになる。一方で胡居仁[[:zh:胡居仁|(中国語版)]]のように従来の朱子学のあり方を模索し、その純粋性を保持しようとした人物もいる。


また、「[[気]]の哲学」を説いた[[張載]]も朱熹に大きな影響を与えた。彼は「太虚」たる宇宙は、気の自己運動から生ずるものであり、そして気が調和を保ったところに「道」が現れると考えた{{Sfn|島田|1967b|pp=65-67}}。かつて、[[唯物史観]]が主流の時代には、中国の学界では程顥・朱熹の「性即理」を客観唯心論、[[陸象山]]・[[王陽明]]の「[[心即理]]」を主観唯心論、張載と後に彼の思想を継承した[[王夫之]]の「気」の哲学を唯物論とし、張載の思想は高く評価された{{Sfn|島田|1967b|p=65}}。
[[清]]代の朱子学は、理気論や心性論よりも、朱熹が晩年に力を入れていた[[礼学]]が重視され、社会的な秩序構築を具体的に担う「[[礼]]」への関心が高まり、壮大な世界観を有する学問よりは、具体的・具象的な学問へと狭まっていった。礼学への考証的な研究はやがて考証学の一翼を担うことになる。清代になっても朱子学は、体制教学として継承され、礼教にもとづく国家体制作りに利用され、君臣倫理などの狭い範囲でしか活用されることはなかった。


=== 朱熹の登場 ===
衣川強<ref>きぬがわつよし(1939 - )京都大学博士(文学)、京都橘大学文学部教授(2006年現在)</ref>は理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している<ref name=kinugawa/>。
{{See also|朱熹}}
北宋に端を発した道学は、[[南宋]]の頃には、[[士大夫]]の間にすでに相当の信奉者を得ていた{{Sfn|島田|1967b|p=77}}。ここで朱熹が現れ、彼らの学問に首尾一貫した体系を与え、いわゆる「朱子学」が完成された。朱熹の出現は、朱子学の影響するところが単に中国のみにとどまらなかったという点でも、東アジア世界における世界的事件であった{{Sfn|島田|1967b|p=77}}。


朱子学を完成させた[[朱熹]]は、[[建炎]]4年([[1130年]])に南剣州[[尤渓県]]の山間地帯で生まれた。「朱子」というのは尊称{{Sfn|島田|1967b|p=77}}。19歳で科挙試験に合格して進士となり、以後各地を転々とした{{Sfn|島田|1967b|p=78}}。朱熹は、[[乾道 (宋)|乾道]]6年([[1170年]])に[[張栻]]・[[呂祖謙]]とともに「'''知言疑義'''」を著し、当時の道学の中心的存在であった[[湖南学]]に対して疑義を表明すると、「東南の三賢」として尊ばれ、南宋の思想界で勢力を広げた{{Sfn|福谷|2019|p=125}}。しかし、張栻・呂祖謙が死去すると、徐々に朱熹を思想面において批判する者が現れた{{Sfn|福谷|2019|p=125}}。その一人は[[陳亮]]であり、夏殷周三代・漢代の統治をどのように理解するかという問題をめぐって「義利・王覇論争」が展開された{{Sfn|福谷|2019|pp=126, 135}}。
周濂渓→程伊道→張横渠と展開されてきた新しい思想、すなわち当時の言葉で言われる「道学」は、宋が南方に遷都して[[南宋]]となった頃には、[[士大夫]]の間にすでに相当の信奉者を得ていたようである。かくて朱子学が現れて、この道学に首尾一貫した体系を与え、いわゆる朱子学が完成されたことになる。[[朱子]]の出現は、朱子学の影響するところが単に中国のみにとどまらなかったという点でも、東アジア世界における世界的事件であった。


また、朱熹の論争相手として著名なのが[[陸九淵]]であり、[[淳熙]]2年([[1175年]])に呂祖謙の仲介によって両者が対面して行われた学術討論会([[鵝湖の会]])では、「心即理」の立場の陸九淵と、「性即理」の立場の朱熹が論争を繰り広げた{{Sfn|福谷|2019|p=167}}。両者はその後もたびたび討論を行ったが、両者は政治的に近い立場にいた時期もあり、陸氏の葬儀に朱熹が門人を率いて訪れるなど、必ずしも対立していたわけではない{{Sfn|福谷|2019|pp=168-169}}。
朱子というのは尊称で、本名は[[朱熹]]、本籍は安徽の婺源であるが、実際に生まれ成長したのは、[[福建省]]の山間地帯。父は早くから詩人として知られ、また道学を学んだ理想主義者で、のちに[[秦檜]]の対金和議に反対して中央官界から追放された人。朱子が少年時代より道学を研究したのは、父の遺言による。19歳で科挙試験に合格して進士となり、以後、福建省、[[広西省]]、[[浙江省]]などの各地で事務官、知事、首都隣接地域の経済部長などを経て、浙江省の警察長官、最後には[[侍講]]となって[[寧宗 (宋)|寧宗皇帝]]の輔導のために心を尽くしたが、権臣・[[韓侂冑|韓侂胄]]に憎まれて、在職わずか45日で免職となった。韓侂胄の一派は朱子など道学者に対する迫害をやめず、ついに偽学を名としてその学徒を政府の官職から一斉に追放し、著述の流布をも禁じるにいたった。いわゆる慶元の偽学の禁である。彼は官にあること50年、つまり官史の職員録には50年間も登録されていたが、実際に職務のある官にいたのは、地方官として、5回、計9年と、宮中で侍講としての45日のみで、他は全て奉祠の官であった。奉祠の官というのは、全国各所にある道観、例えば湖南省[[長沙市|長沙]]にある南岳廟、浙江省[[台州市|台州]]の崇道観、などの管理官となることである。これは必ずしも実際に起任する必要のない名目的な官で、要するに退職官史とか学者などへの優待策である。すなわち朱子は、官史としてはかならずしも栄達したとは言えないけれども、さてばとてけっして下級官僚に終始したというわけではない。一般に彼はいわゆる道学先生、哲学者としてのみ知られているが、実際に行政官としても立派な仕事をした人で、地方官としての彼が非常な熱意をもって職務に精励し、浙江省東部の[[大飢饉]]を救済したり、不合理な税金700万を廃止したり、社倉法などの社会施設を創始したり、その成績は大いにみるべきものであった。それはひとえに、全体大用というその哲学的根本思想に由来するものであった<ref name="shimada">島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書、1967年) </ref>。


朱熹は、最後には[[侍講]]となって[[寧宗 (宋)|寧宗]]の指導に当たったが、[[韓侂冑]]に憎まれわずか45日で免職となった{{Sfn|島田|1967b|p=78}}。韓侂胄の一派は、朱子など道学者に対する迫害を続け、[[慶元]]元年([[1195年]])には[[慶元党禁]]を起こし朱熹ら道学一派を追放、著書を発禁処分とした{{Sfn|島田|1967b|p=78}}。朱熹の死後、[[理宗]]の時期になると、一転して朱熹は[[孔子廟]]に従祀されることとなり、国家的な尊敬の対象となった{{Sfn|衣川|2006|pp=464-468}}。
== 朝鮮半島への伝来と影響 ==
{{See also|李氏朝鮮の学問#性理学}}
朱子学は13世紀には[[朝鮮]]に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの[[高麗]]の国教であった[[仏教]]を排し、'''朱子学'''を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は今日まで[[朝鮮の文化]]に大きな影響を与えている。


== 内容 ==
[[李氏朝鮮]]時代、国家教学として採用され、16世紀には[[李退渓]]、[[李栗谷]]の二大儒者が現れ、朱子学を朝鮮人の間に根付かせた<ref name=i>尹基老 [http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/313/1/v6p293_yoon.pdf 「西洋に対しての日本と朝鮮の対応の比較 - シーボルトとハーメルを手がかりに」]『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』第6号、[[県立長崎シーボルト大学]]、2005年</ref>。日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした[[両班]]は、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層に発展した。特に李退渓の学問は日本の[[林羅山]]や[[山崎闇斎]]らに影響を与えた。
[[島田虔次]]は、朱子学の内容を大きく以下の五つに区分している{{Sfn|島田|1967b|p=79}}。
#存在論 - 「理気」の説(理気二元論)
#倫理学・人間学 - 「性即理」の説
#方法論 - 「居敬・窮理」の説
#古典注釈学・著述 - 『四書集注』『詩集伝』といった[[経書]][[注釈]]、また[[歴史書]]『[[資治通鑑綱目]]』や『[[文公家礼]]』など。
#具体的な政策論 - 科挙に対する意見、社倉法、勧農文など。


=== 理気説 ===
朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって、[[仏教]]はもちろん、儒教の一派である[[陽明学]]ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また、[[朱熹]]の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる<ref name=i/>。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある<ref name=i/>。
{{See also|理|気}}
朱子学では、おおよそ存在するものは全て「[[気]]」から構成されており、一気・[[陰陽]]・[[五行]]の不断の運動によって世界は生成変化すると考えられる{{Sfn|島田|1967b|pp=80-83}}。気が凝集すると物が生み出され、解体すると死に、季節の変化、日月の移動、個体の生滅など、一切の現象とその変化は気によって生み出される{{Sfn|三浦|1997|p=12}}。

この「気」の生成変化に根拠を与えるもの、筋道を与えるものが「理」である。「理」は、宇宙・万物の根拠を与え、個別の存在を個別の存在たらしめている{{Sfn|島田|1967b|p=87}}。「理」は形而上の存在であり、超感覚的・非物質的なものとされる{{Sfn|島田|1967b|p=88}}。
{{Quotation|天下の物、すなわち必ずおのおの然る所以の故と、其の当(まさ)に然るべきの則と有り、これいわゆる理なり。|朱子|『大学或問』}}
「理」は、あるべきようにあらしめる「当然の則」と、その根拠を表す「然る所以の故」を持っている{{Sfn|島田|1967b|p=87}}。理と気の関係について、朱熹はどちらが先とも言えぬとし、両者はともに存在するものであるとする{{Sfn|島田|1967b|p=87}}。

=== 性即理 ===
{{See also|性即理|性善説}}
朱子学において最も重点があるのが、倫理学・人間学であり、「性即理」はその基礎である{{Sfn|島田|1967b|p=92}}。「性」がすなわち「理」に他ならず、人間の性が本来的には天理に従う「善」なるものである([[性善説]])という考え方である。

島田虔次は、性と理に関する諸概念を以下のように整理している{{Sfn|島田|1967b|p=93}}。
*体 - 理 - 形而上 - 道 - 未発 - 中 - 静 - 性
*用 - 気 - 形而下 - 器 - 已発 - 和 - 動 - 情
「性」は、仁・義・礼・智・信の[[五常]]であるが、これは喜怒哀楽の「情」が発動する前の未発の状態である{{Sfn|島田|1967b|p=92}}。これは気質の干渉を受けない純粋至善のものであり、ここに道徳の根拠が置かれるのである{{Sfn|佐藤|1984|p=246}}。一方、「情」は必ず悪いものというわけではないが、気質の干渉を受けた動的状態であり、中正を失い悪に流れる傾向をもつ{{Sfn|島田|1967b|p=93}}。ここで、人欲(気質の性)に流れず、天理(本然の性)に従い、過不及のない「中」の状態を維持することを目標とする{{Sfn|島田|1967b|p=94}}。

=== 居敬・窮理 ===
{{See also|居敬|窮理}}
朱子学における学問の方法とは、聖人になるための方法、つまり天理を存し、人欲を排するための方法に等しい{{Sfn|島田|1967b|p=101}}。その方法の一つは「[[居敬]]」また「尊徳性」つまり徳性を尊ぶこと、もう一つは「[[窮理]]([[格物致知]])」また「道問学」つまり知的な学問研究を進めることである{{Sfn|島田|1967b|p=101}}。

朱熹が儒教の修養法として「居敬・窮理」を重視するのは、程顥の以下の言葉に導かれたものである{{Sfn|三浦|1997|p=235}}。
{{Quotation|涵養は須らく敬を用うべし、進学は則ち致知に在り。|程顥|『程氏遺書』第十八}}
ここから、朱熹は[[経書]]の文脈から居敬・窮理の二者を抽出し、儒教的修養法を整理した{{Sfn|三浦|1997|p=236}}。[[三浦國雄]]は、この二者の関係は[[智顗]]『[[天台小止観]]』による「止」と「観」の樹立の関係に相似し、仏教の修養法との共通点が見られる{{Sfn|三浦|1997|p=236}}。

「居敬」とは、意識の高度な集中を目指す存心の法のこと{{Sfn|三浦|1997|p=236}}。但し、[[静坐]]や[[坐禅]]のように特定の身体姿勢に拘束されるものではなく、むしろ動・静の場の両方において行われる修養法である{{Sfn|三浦|1997|p=237}}。また、[[道教]]における[[養生 (健康)|養生法]]とは異なり、病の治癒や長生は目的ではなく、あくまで心の修養を目的としたものであった{{Sfn|三浦|1997|p=243}}。

「窮理」とは、理を窮めること、『[[大学 (書物)|大学]]』でいう「格物致知」のことで、事物の理をその究極のところまで極め至ろうとすることを
指す{{Sfn|島田|1967b|p=102}}。以下は、朱熹が「格物致知」を解説した一段である。
{{Quotation|いわゆる「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り」とは、吾の知を致さんと欲すれば、物に即きて其の理を窮むるに在るを言う。蓋し人心の霊なる、知有らざるはなく、而して天下の物、理有らざるは莫(な)し。惟だ理に於いて未だ窮めざる有るが故に、其の知も尽くさざる有り。是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知れるの理に因りて益ます之を窮め、以て其の極に至るを求めざること莫からしむ。|朱熹|『大学』第五章・注、島田1967a、p.76}}
朱熹のこの説は、もともと程顥の影響を受けたものであり{{Sfn|島田|1967a|p=80}}、朱熹注の『大学』に附された「格物補伝」に詳しく記されている{{Sfn|島田|1967b|p=103}}。

=== 古典注釈学・著述 ===
[[File:Commentaries of the Four Classics.jpg|thumb|『四書集注』]]
{{See also|新注|四書}}
朱熹やその弟子たちは、[[経書]]に注釈を附す、または経書そのものを整理するという方法によって学問研究を進め、自分の意見を表明した。特に、『[[礼記]]』の中の一篇であった「[[大学 (書物)|大学]]」「[[中庸]]」を独自の経典として取り出したのは朱熹に始まる{{Sfn|島田|1967a|p=4}}。更に、朱熹は『大学』のテキストを大幅に改定して「経」一章と「伝」十章に整理し、脱落を埋めるために自らの言葉で「伝」を補うこともあった{{Sfn|島田|1967a|p=5}}{{Sfn|宇野|1984|p=169}}。

宋学においては[[孔子]]の継承者として[[孟子]]が非常に重視され、従来は[[諸子百家]]の書であった『孟子』が、経書の一つとしての位置づけを得ることになった{{Sfn|福谷|2019|pp=43-44}}。『大学』『中庸』『孟子』に『論語』を加えた四種の経書が「[[四書]]」と総称され、朱熹はその注釈書として『'''[[四書集注]]'''』を制作した{{Sfn|宇野|1984|p=169}}。これにより、古典学の中心が[[五経]]から[[四書]]へと移行した{{Sfn|宇野|1984|p=169}}。
{{main|#基本文献}}
=== 具体的な政策論 ===
朱熹の思想は、同時代の諸派の中では急進的な革新思想であり、その批判の対象は高級官僚や皇帝にも及んだ{{Sfn|福谷|2019|p=255}}。朱熹の現実政治への提言は非常に多く、上奏文が数多く残されている{{Sfn|福谷|2019|p=255}}。朱熹は、理想の帝王としての古の聖王の威光を借りる形で、現実の皇帝を叱咤激励した{{Sfn|福谷|2019|p=294}}。また、朱熹は地方官として熱心に仕事に当たったことでも知られ、飢饉の救済や税の軽減、社倉法といった社会施設の創設なども行っている{{Sfn|島田|1967b|p=78-79}}。

朱熹の説を信奉し、慶元党禁の後の朱子学の再興に力を尽くした[[真徳秀]]は、数々の役職を歴任し、数十万言の上奏を行うなど、積極的に政治に参加している{{Sfn|黒坂|1984|p=235}}。

== その後の展開 ==
=== 元代 ===
朱子学は[[元 (王朝)|元代]]に入るころには南方では学問の主流となり、[[許衡]]・[[劉因]]によって北方にも広まった{{Sfn|島田|1967b|pp=119-120}}。これに[[呉澄]]を加えた三人は元の三大儒と呼ばれる{{Sfn|岡田|1984|pp=167-170}}。許衡の学は真徳秀から引き継がれた{{仮リンク|熊禾|zh|熊禾}}の全体大用思想を受け、知識思索の面よりも精神涵養を重視した{{Sfn|岡田|1984|pp=167-170}}。呉澄は朱子学を説きながらも陸学を称賛し、朱陸同異論の端緒を開いた{{Sfn|岡田|1984|pp=167-170}}。

[[延祐]]元年([[1314年]])、元朝が中断していた[[科挙]]を再開した際、学科として「四書」を立て、その注釈として朱熹の『[[四書集注]]』が用いられた{{Sfn|島田|1967b|pp=119-120}}。つまり、[[科挙]]が準拠する経書解釈として朱子学が国家に認定されたのであり、これによって朱子学は国家教学としてその姿を変えることになった{{Sfn|衣川|2006|pp=464-468}}。

=== 明代 ===
[[明|明代]]の初期、朱子学者である[[宋濂]]が[[朱元璋]]のもとで礼学制度の裁定に携わったほか、[[王子充]]が『[[元史]]』編纂の統括に当たった。国家教学となった朱子学は、変わらず科挙に採用され、国家的な注釈として朱子学に基づいて『[[四書大全]]』『五経大全』『性理大全』が制作された{{Sfn|岡田|1984|pp=170-171}}。

明代の朱子学思想の発達の端緒に挙げられるのは{{仮リンク|薛瑄|zh|薛瑄}}・{{仮リンク|呉与弼|zh|呉与弼}}である。ともに呉澄と似た傾向を有し、朱子学の博学致知の面はやや希薄になり、精神涵養の面が強調された。特に呉与弼の門下には{{仮リンク|陳献章|zh|陳獻章}}が出て、陸象山の心学と共通する思想を強調し陽明学の先駆的役割を果たしたため、呉与弼は「明学の祖」とも呼ばれる{{Sfn|岡田|1984|pp=170-171}}。

薛瑄は純粋な朱子学の信奉者で、理気二元論を深く理解していた。同じく{{仮リンク|胡居仁|zh|胡居仁}}も朱子学を信奉し、特に[[仏教]]・[[道教]]などの異端を批判する議論を積極的に展開した。[[陽明学]]の勃興と時を同じくした朱子学者が{{仮リンク|羅欽順|zh|羅欽順}}であり、彼は陽明学を激しく批判し、その[[致良知|良知説]]や格物説、[[王陽明]]の「朱子晩年定論」などに異論を唱えた{{Sfn|岡田|1984|pp=171-177}}。

明末には、[[東林党]]が活動し、体得自認と気節清議に務め、国内外の多難に対して清議を唱えて節義を全うした{{Sfn|岡田|1984|pp=183-186}}。

=== 清代 ===
[[清|清代]]に入ると、朱子学・陽明学からの転換し、[[考証学]]と呼ばれる経書に対するテキスト考証の研究が盛んになった。この原因については、明末に朱子学・陽明学が空虚な議論に終始したことに対する全面的な反発と見る説が一般的で、そこに[[文字の獄]]に代表される清朝の知識人弾圧が加わり、研究者の関心が[[訓詁学|訓詁考証の学]]に向かわざるを得なかったとされる{{Sfn|島田|1983|p=283}}。

一方、中国思想研究者の[[余英時]]は、考証学は朱子学・陽明学に対する反発と見る説と、朱子学・陽明学の影響が考証学にも及んでいると見る説があることを述べた上で、宋以後の儒学は当初から尊徳性・道問学の両方向を不可分に持っていたのであり、考証学は宋学の反対物ではなく、宋学が考証学に発展しうる内在的要因があったことと説明する{{Sfn|島田|1983|p=284}}。

[[京都工芸繊維大学]]名誉教授の衣川強は、理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している{{Sfn|衣川|2006|pp=464-468}}。

== 朝鮮半島への影響 ==
{{See also|李氏朝鮮の学問#性理学|朝鮮の儒教#李氏朝鮮の宋明理学}}
朱子学は13世紀には[[朝鮮]]に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの[[高麗]]の国教であった[[仏教]]を排し、'''朱子学'''を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は今日まで[[朝鮮の文化]]に大きな影響を与えている。特に李氏朝鮮時代、国家教学として採用され、朱子学が朝鮮人の間に根付いた<ref name=i>尹基老 [http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/313/1/v6p293_yoon.pdf 「西洋に対しての日本と朝鮮の対応の比較 - シーボルトとハーメルを手がかりに」]『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』第6号、[[県立長崎シーボルト大学]]、2005年</ref>。日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした[[両班]]は、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層に発展した。

もともと朱子学を朝鮮に伝えたのは、[[高麗]]の末期の[[白頤正]]([[1247年]] - [[1323年]])であるとされ、その後は権陽村・鄭三峰らが崇儒抑仏に貢献した{{Sfn|裴|2007|pp=58-59}}。[[李氏朝鮮]]時代に入ると朝鮮朱子学はより発展した。その初期には、[[死六臣]]・生六臣や[[趙光祖]]など、特に実践の方向(政治・文章・通経明史)で展開し、徐々に形而上学的な根拠確立の問題追求に向かうようになった{{Sfn|裴|2007|pp=59-62}}。

16世紀には[[李滉]](李退渓)・[[李珥]](李栗谷)の二大儒者が現れ、より朱子学の議論が深められた。李退渓は「主理派」と呼ばれ、徹底した理気二元論から理尊気卑を唱え{{Sfn|裴|2007|pp=73-84}}、その思想は後に嶺南地方で受け継がれた{{Sfn|裴|2007|p=125}}。一方、李栗谷は「主気派」とされ、気発理乗の立場から理気一途説を唱え{{Sfn|裴|2007|p=85}}、その思想は京畿地方で受け継がれた{{Sfn|裴|2007|p=144}}。のち、[[権尚夏]]の門下の韓元震と[[李柬]]が「人物性同異」の問題(人と動物などの性は同じか否か)をめぐって論争になり、主気派の「湖学」と主理派の「洛学」の間で湖洛論争が交わされた{{Sfn|裴|2007|pp=220-230}}。

朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって、[[仏教]]はもちろん、儒教の一派である[[陽明学]]ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また、[[朱熹]]の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる<ref name=i/>。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある<ref name=i/>。


== 琉球への影響 ==
== 琉球への影響 ==
[[17世紀]]後半から[[18世紀]]にかけて活躍した[[詩人]]・[[儒学者]]の[[程順則]]は、[[琉球王朝]]時代の[[沖縄]]で最初に創設された学校である[[明倫堂]]創設建議を行うなど、琉球の学問に大きく貢献した。清との通訳としても活動し、『六諭衍義』を持ち帰って琉球に頒布した。この書は琉球を経て日本にも影響を与えている。
[[17世紀]]後半から[[18世紀]]にかけて活躍した[[詩人]]・[[儒学者]]の[[程順則]]は、[[琉球王朝]]時代の[[沖縄]]で最初に創設された学校である[[明倫堂]]創設建議を行うなど、琉球の学問に大きく貢献した。清との通訳としても活動し、『六諭衍義』を持ち帰って琉球に頒布した。この書は琉球を経て日本にも影響を与えている。


== 日本への伝来と影響 ==
== 日本への影響 ==
{{See also|日本の儒教}}
[[日本の儒教]]も参照。{{出典の明記|date=2019年11月|section=1}}
=== 朱子学の日本伝来 ===
一般には[[正治]]元年([[1199年]])に入宋した[[真言宗]]の[[僧]][[俊芿]]が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。[[鎌倉時代]]後期までには、[[五山]]を中心として学僧等の基礎教養として広まり、[[正安]]元年([[1299年]])に来日した[[元 (王朝)|元]]の[[僧]][[一山一寧]]がもたらした注釈によって学理を完成した。{{独自研究範囲|date=2019年11月|[[後醍醐天皇]]や[[楠木正成]]は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から[[建武の新政]]にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。}}
{{Harvtxt|土田|2014|}}の整理に従い、朱子学の日本伝来のうち初期の例を以下に示す。


# 年代的に早いものとしては、[[臨済宗]]の[[栄西]]、[[律宗]]の[[俊芿]]、[[臨済宗]]の[[円爾]]などが南宋に留学し多くの書物を持ち帰ったことから、朱子学の紹介者とされる{{Sfn|土田|2014|pp=36-37}}。
その後は長く停滞したが、[[江戸時代]]に入り[[林羅山]]によって「[[上下定分の理]]」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた<ref group="注釈">ただし、幕府には大学に相当する教育機関はなく、[[湯島聖堂]]は林家の私塾にすぎなかった。</ref>。全国で教えられた朱子学は、武士や町人に広く浸透したが、儒学者や思想家の中には朱子学批判を行うものも現れた。[[山鹿素行]]、[[伊藤仁斎]]、[[伊藤東涯]]、[[荻生徂徠]]、[[貝原益軒]]、[[中江藤樹]]、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]などがそれである。大坂の町人学問所[[懐徳堂]]では、[[中井竹山]]や[[中井履軒]]などの朱子学者の他、[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]の朱子学批判者(合理主義者)を生み出した。
# [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[虎関師錬]]が[[禅宗]]の僧侶の中ではいち早く道学を論難した。その門下の[[中巌円月]]も道学に対する仏教の優位を述べる。また、[[義堂周信]]は『四書』の価値や新注・古注の相違に言及している{{Sfn|土田|2014|pp=36-37}}。
[[松平定信]]は、[[1790年]]([[寛政]]2年)に[[寛政異学の禁]]を発している。だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって[[天皇]]を中心とした国づくりをするべきという[[尊皇論|尊王論]]と尊王運動が起こり、後の[[倒幕運動]]と[[明治維新]]へ繋がっていくのである。ただし、幕末・維新期の尊皇派の主要人物である[[西郷隆盛]]や[[吉田松陰]]は、ともに朱子学ではなく[[陽明学]]に近い人物であり、佐幕派の中核であった[[会津藩]]、[[桑名藩]]はそれぞれ[[保科正之]]、松平定信の流れであり朱子学を尊重していた。
# [[室町時代]]の[[一条兼良]]の『[[尺素往来]]』には、朝廷の講義で道学の解釈が採られ始めたことが記録されている{{Sfn|土田|2014|pp=36-37}}。
# [[博士家]]では、[[清原宣賢]]が道学を重視した{{Sfn|土田|2014|pp=36-37}}。


ほか、[[北畠親房]]の『[[神皇正統記]]』や、[[楠木正成]]の出処進退には朱子学の影響があるとの説もあるが、{{Harvtxt|土田|2014|p=44-48}}は慎重な姿勢を示し、日本の思想史の中に活きた形で朱子学を取り込んだ最初期の人物としては、清原宣賢・[[岐陽方秀]]とその門人を挙げる{{Sfn|土田|2014|p=38}}。また、室町時代には朱子学は地方にも広まっており、[[桂庵玄樹]]は明への留学後、[[応仁の乱]]を避けて[[薩摩]]まで行き、[[蔡沈]]の『[[書集伝]]』を用いて講義をし、ここから[[薩南学派]]が始まった{{Sfn|土田|2014|p=39}}。また、[[土佐]]では[[南村梅軒]]が出て[[海南学派]]が始まった{{Sfn|土田|2014|p=39}}。
朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。「[[学制]]」が制定された当時、教科の中心であった儒教は廃され、西洋の知識・技術の習得が中心となった。その後、明治政府は自由民権運動の高まりを危惧し、それまでの西洋の知識・技術習得を重視する流れから、[[仁義]]忠孝を核とした方針に転換した。[[1879年]]の「[[教学聖旨]]」、[[1882年]]「[[幼学綱要]]」に続き、[[1890年]]([[明治]]23年)、山縣有朋内閣のもと、『[[教育勅語]]』が下賜された。明治天皇の側近の儒学者である[[元田永孚]]の助力があったことから、『[[教育勅語]]』には儒教朱子学の[[五倫]]の影響が見られる<ref name=":02">{{Cite journal|author=荒川紘|year=2010年|title=教育基本法と儒教教育|journal=東邦学誌|volume=39|page=37-52}}</ref>。


=== 江戸時代 ===
また、[[1882年]](明治15年)に明治天皇から勅諭された、『[[軍人勅諭]]』にも儒教の影響が見られる。『[[軍人勅諭]]』には忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の解説があり、これらは儒教朱子学における五常・五論の影響が見られる。この「[[軍人勅諭]]」は、後の[[1941年]](昭和16年)に発布された『[[戦陣訓]]』にも強く影響を与え、第二次世界大戦時の全軍隊の行動に大きく影響を与えた<ref name=":0">{{Cite journal|author=荒川紘|year=2010年|title=教育基本法と儒教教育|journal=東邦学誌|volume=39|page=37-52}}</ref>。
[[File:朱熹, 呂祖謙『近思録』.jpg|thumb|350px|朱子学入門書である『近思録』の[[和刻本]](寛永年間の古活字版)。日本語でのおびただしい書き入れが見受けられる。]]
[[江戸時代]]の朱子学の嚆矢として、[[藤原惺窩]]が挙げられる。室町時代まで、日本の朱子学は仏教の補助学という立ち位置にある場合が多かったが、彼は朱子学を仏教から独立させようとした。実際には彼の思想は純粋な朱子学ではなく、[[陸九淵]]の思想や[[林兆恩]]の解釈を交えており、諸学派融合的な方向性を有している{{Sfn|土田|2014|pp=50-52}}。惺窩以来京都に伝わった朱子学を「[[京学派]]」と呼び、その一人に[[木下順庵]]がいる{{Sfn|土田|2014|p=69}}。その門下からは[[新井白石]]、[[室鳩巣]]、[[祇園南海]]、[[雨森芳洲]]らが出た{{Sfn|土田|2014|p=69}}。詩文の応酬が多く見られるのが京学派の特徴で、思想家として自己主張を行うというよりも、自身の教養の中核に朱子学があり、文芸活動が盛んであった{{Sfn|土田|2014|p=70}}。


また、[[山崎闇斎]]から、朱子学の純粋な理解を目指す学風が始まった。彼は仏教に対する儒教の特質を「[[三綱]]」と「[[五常]]」に見て、社会的倫理規範を重視した{{Sfn|土田|2014|pp=52-53}}。闇斎の学派は「[[崎門]]」と呼ばれ、[[浅見絅斎]]・[[佐藤直方]]・[[三宅尚斎]]らが出たが、闇斎が後に[[神道]]に傾斜したことによって主要な門弟と齟齬が生じ、多くは破門された{{Sfn|土田|2014|p=71}}。ただ、厳格さを特徴とするこの学派は驚異的な持続性を見せ、明治まで継続した{{Sfn|土田|2014|pp=71, 78-79}}。
===日本の簡単な儒系図===
''※以下の系図は全てではない''


幕府に仕えた朱子学者である[[林羅山]]は、[[将軍]]への[[進講]]、和文注釈書の作成、学者の育成など、朱子学を軸にした啓蒙活動を積極的に行った{{Sfn|土田|2014|pp=74-75}}。林羅山の子の[[林鵞峰]]も同じく啓蒙的活動に力を入れ、儒家の家元としての[[林家 (儒学者)|林家]]の確立に尽力した{{Sfn|土田|2014|pp=75-76}}。
====程朱学派====
いわゆる[[宋学]]を奉じたもの。


当初は朱子学を信奉したが、後に転向し反朱子学の主張を取るようになった学者として[[伊藤仁斎]]がいる。仁斎は朱子学・陽明学・仏教を受容したうえで、それらを否定し、日常道徳が独立して成立する根拠を究明した{{Sfn|土田|2014|p=94}}。そして、仁斎学と朱子学をまとめて批判することで自分の立場を鮮明にしたのが[[荻生徂徠]]である{{Sfn|土田|2014|pp=94-95}}。徂徠は、朱熹『論語集注』と仁斎『論語古義』を批判しながら、自己の主張を展開し、『論語徴』を著した{{Sfn|土田|2014|pp=94-95}}。
*[[藤原惺窩]]
**主な弟子
***[[松永尺五]]、[[石川丈山]]、[[林羅山]]など。


山崎闇斎らの朱子学の純粋化を求める思想と、伊藤仁斎らの反朱子学的思想の形成はほぼ同時期である{{Sfn|土田|2014|pp=96-97}}。{{Harvtxt|土田|2014|pp=96-97}}は、朱子学があったからこそ思想表現が可能になった反朱子学が登場したのであり、朱子学と反朱子学の議論の土台が形成されたことが、江戸時代の思想形成に大きな影響を与えたと述べている。たとえば、反朱子学を主張した伊藤仁斎は、自分の主張を理論化する際には朱子学の問題意識と思想用語を利用し、朱子学との対比から自分の思想を確立した{{Sfn|土田|2014|p=94}}。
====官儒派====
*林系
**[[林羅山]]以下いわゆる林派。
*順庵系
**[[松永尺五]]の弟子、[[木下順庵]]の一派。
***主な弟子
****[[新井白石]]、[[室鳩巣]]、[[祇園南海]]、[[雨森芳洲]]など。
*一斎系
**[[佐藤一斎]]
***主な弟子
****[[佐久間象山]]、[[池田草庵]]、[[山田方谷]]など。


[[松平定信]]は、[[1790年]]([[寛政]]2年)に[[寛政異学の禁]]を発したが、この時期は多くの藩で藩校を立ち上げる時期に当たり、各地で幕府に倣って朱子学を採用する傾向を促進した{{Sfn|土田|2014|p=201}}。この頃の学者としては、[[古賀精里]]・[[尾崎二洲]]・[[柴野栗山]]らがいる{{Sfn|土田|2014|p=201}}。
====南学派====

*[[谷時中]]
=== 明治時代 ===
**主な弟子
朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。「[[学制]]」が制定された当時、教科の中心であった儒教は廃され、西洋の知識・技術の習得が中心となった。その後、明治政府は自由民権運動の高まりを危惧し、それまでの西洋の知識・技術習得を重視する流れから、[[仁義]]忠孝を核とした方針に転換した。[[1879年]]の「[[教学聖旨]]」、[[1882年]]「[[幼学綱要]]」に続き、[[1890年]]([[明治]]23年)、山縣有朋内閣のもと、『[[教育勅語]]』が下賜された。明治天皇の側近の儒学者である[[元田永孚]]の助力があったことから、『教育勅語』には儒教朱子学の[[五倫]]の影響が見られる{{Sfn|荒川|2010}}。
***[[野中兼山]]

***[[小倉三省]]
また、[[1882年]](明治15年)に明治天皇から勅諭された『[[軍人勅諭]]』にも儒教の影響が見られる。『軍人勅諭』には忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の解説があり、これらは儒教朱子学における五常・五論の影響が見られる。この「軍人勅諭」は、後の[[1941年]](昭和16年)に発布された『[[戦陣訓]]』にも強く影響を与え、第二次世界大戦時の全軍隊の行動に大きく影響を与えた{{Sfn|荒川|2010}}。
***[[山崎闇斎]]

****闇斎の系統は「崎門学派」といわれ、闇斎の弟子には[[浅見絅斎]]、[[三宅尚斎]]、[[佐藤直方]]などがいる。
=== 後世の評価 ===
日本思想史研究者の[[丸山眞男]]は、徳川政権に適合した朱子学的思惟が解体していく過程に、日本の近代的思惟への道を見出した{{Sfn|土田|2014|pp=88-90}}。但し、この見解には批判も寄せられており、少なくとも江戸時代の朱子学人口は徐々に増加する傾向にあり、儒学教育の基礎作りとしての朱子学の役割は変わらず大きかった{{Sfn|土田|2014|pp=88-90}}。江戸時代には『四書』また『四書集注』、『近思録』といった朱子学関連の書籍は数多く出版されてよく読まれ、朱子学は江戸時代の基礎教養という役割を担っていた{{Sfn|土田|2014|p=138}}。

== 基本文献 ==
;『[[四書集注]]』 : [[朱熹]]が『大学』『中庸』『孟子』『論語』の「[[四書]]」に対して制作した注釈書{{Sfn|宇野|1984|p=169}}。『大学』『中庸』には「或問」が附されており、特に『大学或問』は朱子学のエッセンスを伝えるものとされる{{Sfn|島田|1983|p=270}}。
;『[[近思録]]』 : 北宋四子の発言をテーマ別に抜粋したもの。朱熹・[[呂祖謙]]の共編{{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。朱熹は、本書は四書を読む際の入門書であると言い、日本でも『[[十八史略]]』や『[[唐詩選]]』と並んでインテリの必読書として普及した{{Sfn|島田|1983|pp=264-265}}。のちに宋の葉采・清の茅星来や[[江永]]らによって注釈が作られた{{Sfn|島田|1983|pp=264-265}}。
;『伊洛淵源録』 : 朱熹編。伊洛(二程子のこと)の学問の由来を明らかにするために、[[周敦頤]]・[[程顥]]・[[程頤]]・[[邵雍]]・[[張載]]やその弟子たちの事跡・墓誌銘・遺書・逸話などを集めた本{{Sfn|島田|1983|p=265}}。
;『周子全書』 : 明の徐必達が周敦頤の著作を集めたもの。周敦頤の著作はほとんど残されていないが、『太極図』『[[太極図説]]』『通書』に対して朱熹が「解」をつけたものが残されており、これらが収録されている{{Sfn|島田|1983|p=265}}。
;『河南程氏遺書』 : 朱熹が程顥・程頤の発言を整理したもの、加えて『程氏外書』もある{{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。ほか、『明道先生文集』『伊川先生文集』『周易程氏伝』『経説』、そして[[楊時]]編『程氏粋言』もあり、これらをまとめて『二程全書』という{{Sfn|島田|1983|p=267}}。二程の発言は、どれがどちらのものか混乱が生じている場合があり、注意が必要である{{Sfn|島田|1983|p=267}}。
;『周易本義』 : 朱熹による『[[易経]]』に対する注釈。易数に関する研究書の『易学啓蒙』もある(蔡元定との共著){{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。
;『書集伝』 : 『[[書経]]』の注釈だが、朱熹の生前に完成せず、弟子の[[蔡沈]]によって完成した{{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。
;『詩集伝』 : 朱熹による『[[詩経]]』に対する注釈{{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。
;『[[儀礼経伝通解]]』 : 「[[礼]]」に関する体系的な編纂書で、朱熹の没後にも継続して編纂された。より具体的な冠婚葬祭の手順を明示する『家礼(文公家礼)』もある{{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。
;『五朝名臣言行録』 : 朱熹が、北宋の朝廷を担った名臣たちの言動を検証する歴史書。ほか、『三朝名臣言行録』『八朝名臣言行録』もある{{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。
;『資治通鑑綱目』 : [[司馬光]]『[[資治通鑑]]』を朱熹が再検証した歴史書{{Sfn|木下|2013|p=106-110}}。
;『西銘解』 : 張載の『[[西銘]]』に対して朱熹が[[注釈]]をつけたもの。
;『[[朱子語類]]』 : 朱熹とその門人が交わした座談の筆記集。門人別のノートが黎靖徳によって集大成され、テーマ別に再編成された。当時の俗語が多く見られ、言語資料としても価値が高い{{Sfn|三浦|1984|p=193}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{Notelist}}
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
=== 単著 ===
* {{Citation|和書|title=宋明哲学の本質|url=https://www.worldcat.org/oclc/15412508|publisher=木耳社|date=1984|NCID=BN01501619|last=岡田|first=武彦|author-link=岡田武彦}}
* {{Citation|和書|title=宋代官僚社会史研究|url=http://www.worldcat.org/oclc/74815733|publisher=汲古書院|series=汲古叢書|date=2006|isbn=4762925667|last=衣川|first=強}}
* {{Citation|和書|title=朱子学|url=https://www.worldcat.org/oclc/855437211|publisher=講談社|series=選書メチエ|date=2013|isbn=978-4-06-258558-3|oclc=855437211|last=木下|first=鉄矢}}
* {{Citation|和書|title=江戸の朱子学|series=筑摩選書|last=土田|first=健次郎|author-link=土田健次郎|publisher=筑摩書房|date=2014|isbn=9784480015907}}
* {{Citation|和書|title=大学 ; 中庸|last=島田|first=虔次|author-link=島田虔次|series=新訂中国古典選|publisher=朝日新聞社|year=1967a|ncid=BN01486027}}
* {{Citation|和書|title=朱子学と陽明学|isbn=4004120284|last=島田|first=虔次|series=岩波新書, 青|publisher=岩波書店|year=1967b}}
* {{Citation|和書|title=朝鮮儒学史|url=http://www.worldcat.org/oclc/675365266|publisher=知泉書館|year=2007|isbn=9784862850010|oclc=675365266|last=裴|first=宗鎬|translator=川原秀城}}
* {{Citation|和書|title=南宋道学の展開|series=プリミエ・コレクション|url=https://www.worldcat.org/oclc/1091896530|publisher=京都大学学術出版会|date=2019|isbn=978-4-8140-0207-8|oclc=1091896530|first=彬|last=福谷|author=福谷彬}}

=== 雑誌論文 ===
* {{Citation|和書|last=荒川|first=紘|year=2010|title=教育基本法と儒教教育|journal=東邦学誌|volume=39|page=37-52}}

=== その他 ===
* {{Citation|和書|title=アジア歴史研究入門|volume=3|chapter=思想史3 宋-清|year=1983|publisher=同朋舎出版|last=島田|first=虔次|isbn=4810403688}}
* {{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|publisher=研文出版|editor=日原利国}}
** {{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|pages=169|last=宇野|first=茂彦|contribution=四書集注}}
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** {{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|pages=235|last=黒坂|first=満輝|contribution=真徳秀}}
** {{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|pages=246|authorlink=佐藤仁 (中国哲学者)|last=佐藤|first=仁|contribution=性即理}}
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== 関連文献 ==
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== 関連項目 ==
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*[[朱熹]]
*[[儒教]]
*[[経学]]
*[[陽明学]]
*[[朱子学大系]]
*[[朱子学大系]]
*[[寛政異学の禁]]
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2021年5月26日 (水) 13:52時点における版

朱熹

朱子学(しゅしがく)とは、南宋朱熹1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋程頤と合わせて程朱学程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。

北宋南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである[1]。また、陸王心学と同じく「」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。

成立の背景

の時代に入り、徐々に士大夫層が社会に進出した。彼らは科挙を通過するべく儒教経典の知識を身に着けた人々であり、特に宋に入ると学術尊重の気風が強まった[2]。そのような状況下で、仏教道教への対抗、またはその受容、儒教の中の正統と異端の分別が盛んになり、士大夫の中から新たな思想・学問が生まれてきた。これが「宋学」であり、その中から朱子学が生まれた[3]

宋学・朱子学の先蹤

唐の韓愈は、新興の士大夫層の理想主義を体現した早期の例で、宋学の源流の一つである[3]。彼の『原道』には、仁・義・道・徳の重視、文明主義・文化主義の立場、仏教・道教の批判、道統の継承など、宋学・朱子学と共通する思想が既に現れている[4]。また、韓愈の弟子の李翺の『復性書』も、『易経』と『中庸』に立脚したもので、宋学に似た内容を備えている[5]

北宋の儒学者

宋学の最初の大師は周敦頤であり、彼は『太極図』『太極図説』を著し、万物の生成を『易経』や陰陽五行思想に基づいて解説した。これは、朱熹の「理」の理論の形成に大きな影響を与えた[6]。更に、彼の『通説』には、宋学全体のモチーフとなる「聖人学んで至るべし」(聖人は学ぶことによってなりうる)の原型が提示されている[7]。学習によって聖人に到達可能であるとする考え方は『孟子』を引き継いだものであり、自分が身を修めて聖人に近づくということだけでなく、他者を聖人に導くという方向性を含んでいた。これも後に程頤・朱熹に継承される[8]

同じく朱熹に大きな影響を与えた学者として、「二程子」と称される程顥・程頤兄弟が挙げられる。程顥は、万物一体の仁・良知良能の思想を説き、やや後世の陽明学的な面も見られる[9]。一方、程頤は、仁と愛の関係の再定義を通して、体と用の峻別を説き、「性即理」を主張するなど、朱熹に決定的な影響を与える学説を唱えた[10]。更に、程頤は学問の重要な方法として「窮理(理の知的な追求)」と「居敬(専一集中の状態に維持すること)」を説いており、これも後に朱子学の大きな柱となった[11]

また、「の哲学」を説いた張載も朱熹に大きな影響を与えた。彼は「太虚」たる宇宙は、気の自己運動から生ずるものであり、そして気が調和を保ったところに「道」が現れると考えた[12]。かつて、唯物史観が主流の時代には、中国の学界では程顥・朱熹の「性即理」を客観唯心論、陸象山王陽明の「心即理」を主観唯心論、張載と後に彼の思想を継承した王夫之の「気」の哲学を唯物論とし、張載の思想は高く評価された[13]

朱熹の登場

北宋に端を発した道学は、南宋の頃には、士大夫の間にすでに相当の信奉者を得ていた[14]。ここで朱熹が現れ、彼らの学問に首尾一貫した体系を与え、いわゆる「朱子学」が完成された。朱熹の出現は、朱子学の影響するところが単に中国のみにとどまらなかったという点でも、東アジア世界における世界的事件であった[14]

朱子学を完成させた朱熹は、建炎4年(1130年)に南剣州尤渓県の山間地帯で生まれた。「朱子」というのは尊称[14]。19歳で科挙試験に合格して進士となり、以後各地を転々とした[15]。朱熹は、乾道6年(1170年)に張栻呂祖謙とともに「知言疑義」を著し、当時の道学の中心的存在であった湖南学に対して疑義を表明すると、「東南の三賢」として尊ばれ、南宋の思想界で勢力を広げた[16]。しかし、張栻・呂祖謙が死去すると、徐々に朱熹を思想面において批判する者が現れた[16]。その一人は陳亮であり、夏殷周三代・漢代の統治をどのように理解するかという問題をめぐって「義利・王覇論争」が展開された[17]

また、朱熹の論争相手として著名なのが陸九淵であり、淳熙2年(1175年)に呂祖謙の仲介によって両者が対面して行われた学術討論会(鵝湖の会)では、「心即理」の立場の陸九淵と、「性即理」の立場の朱熹が論争を繰り広げた[18]。両者はその後もたびたび討論を行ったが、両者は政治的に近い立場にいた時期もあり、陸氏の葬儀に朱熹が門人を率いて訪れるなど、必ずしも対立していたわけではない[19]

朱熹は、最後には侍講となって寧宗の指導に当たったが、韓侂冑に憎まれわずか45日で免職となった[15]。韓侂胄の一派は、朱子など道学者に対する迫害を続け、慶元元年(1195年)には慶元党禁を起こし朱熹ら道学一派を追放、著書を発禁処分とした[15]。朱熹の死後、理宗の時期になると、一転して朱熹は孔子廟に従祀されることとなり、国家的な尊敬の対象となった[20]

内容

島田虔次は、朱子学の内容を大きく以下の五つに区分している[21]

  1. 存在論 - 「理気」の説(理気二元論)
  2. 倫理学・人間学 - 「性即理」の説
  3. 方法論 - 「居敬・窮理」の説
  4. 古典注釈学・著述 - 『四書集注』『詩集伝』といった経書注釈、また歴史書資治通鑑綱目』や『文公家礼』など。
  5. 具体的な政策論 - 科挙に対する意見、社倉法、勧農文など。

理気説

朱子学では、おおよそ存在するものは全て「」から構成されており、一気・陰陽五行の不断の運動によって世界は生成変化すると考えられる[22]。気が凝集すると物が生み出され、解体すると死に、季節の変化、日月の移動、個体の生滅など、一切の現象とその変化は気によって生み出される[23]

この「気」の生成変化に根拠を与えるもの、筋道を与えるものが「理」である。「理」は、宇宙・万物の根拠を与え、個別の存在を個別の存在たらしめている[24]。「理」は形而上の存在であり、超感覚的・非物質的なものとされる[25]

天下の物、すなわち必ずおのおの然る所以の故と、其の当(まさ)に然るべきの則と有り、これいわゆる理なり。 — 朱子、『大学或問』

「理」は、あるべきようにあらしめる「当然の則」と、その根拠を表す「然る所以の故」を持っている[24]。理と気の関係について、朱熹はどちらが先とも言えぬとし、両者はともに存在するものであるとする[24]

性即理

朱子学において最も重点があるのが、倫理学・人間学であり、「性即理」はその基礎である[26]。「性」がすなわち「理」に他ならず、人間の性が本来的には天理に従う「善」なるものである(性善説)という考え方である。

島田虔次は、性と理に関する諸概念を以下のように整理している[27]

  • 体 - 理 - 形而上 - 道 - 未発 - 中 - 静 - 性
  • 用 - 気 - 形而下 - 器 - 已発 - 和 - 動 - 情

「性」は、仁・義・礼・智・信の五常であるが、これは喜怒哀楽の「情」が発動する前の未発の状態である[26]。これは気質の干渉を受けない純粋至善のものであり、ここに道徳の根拠が置かれるのである[28]。一方、「情」は必ず悪いものというわけではないが、気質の干渉を受けた動的状態であり、中正を失い悪に流れる傾向をもつ[27]。ここで、人欲(気質の性)に流れず、天理(本然の性)に従い、過不及のない「中」の状態を維持することを目標とする[29]

居敬・窮理

朱子学における学問の方法とは、聖人になるための方法、つまり天理を存し、人欲を排するための方法に等しい[30]。その方法の一つは「居敬」また「尊徳性」つまり徳性を尊ぶこと、もう一つは「窮理格物致知)」また「道問学」つまり知的な学問研究を進めることである[30]

朱熹が儒教の修養法として「居敬・窮理」を重視するのは、程顥の以下の言葉に導かれたものである[31]

涵養は須らく敬を用うべし、進学は則ち致知に在り。 — 程顥、『程氏遺書』第十八

ここから、朱熹は経書の文脈から居敬・窮理の二者を抽出し、儒教的修養法を整理した[32]三浦國雄は、この二者の関係は智顗天台小止観』による「止」と「観」の樹立の関係に相似し、仏教の修養法との共通点が見られる[32]

「居敬」とは、意識の高度な集中を目指す存心の法のこと[32]。但し、静坐坐禅のように特定の身体姿勢に拘束されるものではなく、むしろ動・静の場の両方において行われる修養法である[33]。また、道教における養生法とは異なり、病の治癒や長生は目的ではなく、あくまで心の修養を目的としたものであった[34]

「窮理」とは、理を窮めること、『大学』でいう「格物致知」のことで、事物の理をその究極のところまで極め至ろうとすることを 指す[35]。以下は、朱熹が「格物致知」を解説した一段である。

いわゆる「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り」とは、吾の知を致さんと欲すれば、物に即きて其の理を窮むるに在るを言う。蓋し人心の霊なる、知有らざるはなく、而して天下の物、理有らざるは莫(な)し。惟だ理に於いて未だ窮めざる有るが故に、其の知も尽くさざる有り。是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知れるの理に因りて益ます之を窮め、以て其の極に至るを求めざること莫からしむ。 — 朱熹、『大学』第五章・注、島田1967a、p.76

朱熹のこの説は、もともと程顥の影響を受けたものであり[36]、朱熹注の『大学』に附された「格物補伝」に詳しく記されている[37]

古典注釈学・著述

『四書集注』

朱熹やその弟子たちは、経書に注釈を附す、または経書そのものを整理するという方法によって学問研究を進め、自分の意見を表明した。特に、『礼記』の中の一篇であった「大学」「中庸」を独自の経典として取り出したのは朱熹に始まる[38]。更に、朱熹は『大学』のテキストを大幅に改定して「経」一章と「伝」十章に整理し、脱落を埋めるために自らの言葉で「伝」を補うこともあった[39][40]

宋学においては孔子の継承者として孟子が非常に重視され、従来は諸子百家の書であった『孟子』が、経書の一つとしての位置づけを得ることになった[41]。『大学』『中庸』『孟子』に『論語』を加えた四種の経書が「四書」と総称され、朱熹はその注釈書として『四書集注』を制作した[40]。これにより、古典学の中心が五経から四書へと移行した[40]

具体的な政策論

朱熹の思想は、同時代の諸派の中では急進的な革新思想であり、その批判の対象は高級官僚や皇帝にも及んだ[42]。朱熹の現実政治への提言は非常に多く、上奏文が数多く残されている[42]。朱熹は、理想の帝王としての古の聖王の威光を借りる形で、現実の皇帝を叱咤激励した[43]。また、朱熹は地方官として熱心に仕事に当たったことでも知られ、飢饉の救済や税の軽減、社倉法といった社会施設の創設なども行っている[44]

朱熹の説を信奉し、慶元党禁の後の朱子学の再興に力を尽くした真徳秀は、数々の役職を歴任し、数十万言の上奏を行うなど、積極的に政治に参加している[45]

その後の展開

元代

朱子学は元代に入るころには南方では学問の主流となり、許衡劉因によって北方にも広まった[46]。これに呉澄を加えた三人は元の三大儒と呼ばれる[47]。許衡の学は真徳秀から引き継がれた熊禾中国語版の全体大用思想を受け、知識思索の面よりも精神涵養を重視した[47]。呉澄は朱子学を説きながらも陸学を称賛し、朱陸同異論の端緒を開いた[47]

延祐元年(1314年)、元朝が中断していた科挙を再開した際、学科として「四書」を立て、その注釈として朱熹の『四書集注』が用いられた[46]。つまり、科挙が準拠する経書解釈として朱子学が国家に認定されたのであり、これによって朱子学は国家教学としてその姿を変えることになった[20]

明代

明代の初期、朱子学者である宋濂朱元璋のもとで礼学制度の裁定に携わったほか、王子充が『元史』編纂の統括に当たった。国家教学となった朱子学は、変わらず科挙に採用され、国家的な注釈として朱子学に基づいて『四書大全』『五経大全』『性理大全』が制作された[48]

明代の朱子学思想の発達の端緒に挙げられるのは薛瑄中国語版呉与弼中国語版である。ともに呉澄と似た傾向を有し、朱子学の博学致知の面はやや希薄になり、精神涵養の面が強調された。特に呉与弼の門下には陳献章中国語版が出て、陸象山の心学と共通する思想を強調し陽明学の先駆的役割を果たしたため、呉与弼は「明学の祖」とも呼ばれる[48]

薛瑄は純粋な朱子学の信奉者で、理気二元論を深く理解していた。同じく胡居仁中国語版も朱子学を信奉し、特に仏教道教などの異端を批判する議論を積極的に展開した。陽明学の勃興と時を同じくした朱子学者が羅欽順中国語版であり、彼は陽明学を激しく批判し、その良知説や格物説、王陽明の「朱子晩年定論」などに異論を唱えた[49]

明末には、東林党が活動し、体得自認と気節清議に務め、国内外の多難に対して清議を唱えて節義を全うした[50]

清代

清代に入ると、朱子学・陽明学からの転換し、考証学と呼ばれる経書に対するテキスト考証の研究が盛んになった。この原因については、明末に朱子学・陽明学が空虚な議論に終始したことに対する全面的な反発と見る説が一般的で、そこに文字の獄に代表される清朝の知識人弾圧が加わり、研究者の関心が訓詁考証の学に向かわざるを得なかったとされる[51]

一方、中国思想研究者の余英時は、考証学は朱子学・陽明学に対する反発と見る説と、朱子学・陽明学の影響が考証学にも及んでいると見る説があることを述べた上で、宋以後の儒学は当初から尊徳性・道問学の両方向を不可分に持っていたのであり、考証学は宋学の反対物ではなく、宋学が考証学に発展しうる内在的要因があったことと説明する[52]

京都工芸繊維大学名誉教授の衣川強は、理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している[20]

朝鮮半島への影響

朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は今日まで朝鮮の文化に大きな影響を与えている。特に李氏朝鮮時代、国家教学として採用され、朱子学が朝鮮人の間に根付いた[53]。日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした両班は、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層に発展した。

もともと朱子学を朝鮮に伝えたのは、高麗の末期の白頤正1247年 - 1323年)であるとされ、その後は権陽村・鄭三峰らが崇儒抑仏に貢献した[54]李氏朝鮮時代に入ると朝鮮朱子学はより発展した。その初期には、死六臣・生六臣や趙光祖など、特に実践の方向(政治・文章・通経明史)で展開し、徐々に形而上学的な根拠確立の問題追求に向かうようになった[55]

16世紀には李滉(李退渓)・李珥(李栗谷)の二大儒者が現れ、より朱子学の議論が深められた。李退渓は「主理派」と呼ばれ、徹底した理気二元論から理尊気卑を唱え[56]、その思想は後に嶺南地方で受け継がれた[57]。一方、李栗谷は「主気派」とされ、気発理乗の立場から理気一途説を唱え[58]、その思想は京畿地方で受け継がれた[59]。のち、権尚夏の門下の韓元震と李柬が「人物性同異」の問題(人と動物などの性は同じか否か)をめぐって論争になり、主気派の「湖学」と主理派の「洛学」の間で湖洛論争が交わされた[60]

朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって、仏教はもちろん、儒教の一派である陽明学ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また、朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる[53]。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある[53]

琉球への影響

17世紀後半から18世紀にかけて活躍した詩人儒学者程順則は、琉球王朝時代の沖縄で最初に創設された学校である明倫堂創設建議を行うなど、琉球の学問に大きく貢献した。清との通訳としても活動し、『六諭衍義』を持ち帰って琉球に頒布した。この書は琉球を経て日本にも影響を与えている。

日本への影響

朱子学の日本伝来

土田 (2014)の整理に従い、朱子学の日本伝来のうち初期の例を以下に示す。

  1. 年代的に早いものとしては、臨済宗栄西律宗俊芿臨済宗円爾などが南宋に留学し多くの書物を持ち帰ったことから、朱子学の紹介者とされる[61]
  2. 南北朝時代には虎関師錬禅宗の僧侶の中ではいち早く道学を論難した。その門下の中巌円月も道学に対する仏教の優位を述べる。また、義堂周信は『四書』の価値や新注・古注の相違に言及している[61]
  3. 室町時代一条兼良の『尺素往来』には、朝廷の講義で道学の解釈が採られ始めたことが記録されている[61]
  4. 博士家では、清原宣賢が道学を重視した[61]

ほか、北畠親房の『神皇正統記』や、楠木正成の出処進退には朱子学の影響があるとの説もあるが、土田 (2014, p. 44-48)は慎重な姿勢を示し、日本の思想史の中に活きた形で朱子学を取り込んだ最初期の人物としては、清原宣賢・岐陽方秀とその門人を挙げる[62]。また、室町時代には朱子学は地方にも広まっており、桂庵玄樹は明への留学後、応仁の乱を避けて薩摩まで行き、蔡沈の『書集伝』を用いて講義をし、ここから薩南学派が始まった[63]。また、土佐では南村梅軒が出て海南学派が始まった[63]

江戸時代

朱子学入門書である『近思録』の和刻本(寛永年間の古活字版)。日本語でのおびただしい書き入れが見受けられる。

江戸時代の朱子学の嚆矢として、藤原惺窩が挙げられる。室町時代まで、日本の朱子学は仏教の補助学という立ち位置にある場合が多かったが、彼は朱子学を仏教から独立させようとした。実際には彼の思想は純粋な朱子学ではなく、陸九淵の思想や林兆恩の解釈を交えており、諸学派融合的な方向性を有している[64]。惺窩以来京都に伝わった朱子学を「京学派」と呼び、その一人に木下順庵がいる[65]。その門下からは新井白石室鳩巣祇園南海雨森芳洲らが出た[65]。詩文の応酬が多く見られるのが京学派の特徴で、思想家として自己主張を行うというよりも、自身の教養の中核に朱子学があり、文芸活動が盛んであった[66]

また、山崎闇斎から、朱子学の純粋な理解を目指す学風が始まった。彼は仏教に対する儒教の特質を「三綱」と「五常」に見て、社会的倫理規範を重視した[67]。闇斎の学派は「崎門」と呼ばれ、浅見絅斎佐藤直方三宅尚斎らが出たが、闇斎が後に神道に傾斜したことによって主要な門弟と齟齬が生じ、多くは破門された[68]。ただ、厳格さを特徴とするこの学派は驚異的な持続性を見せ、明治まで継続した[69]

幕府に仕えた朱子学者である林羅山は、将軍への進講、和文注釈書の作成、学者の育成など、朱子学を軸にした啓蒙活動を積極的に行った[70]。林羅山の子の林鵞峰も同じく啓蒙的活動に力を入れ、儒家の家元としての林家の確立に尽力した[71]

当初は朱子学を信奉したが、後に転向し反朱子学の主張を取るようになった学者として伊藤仁斎がいる。仁斎は朱子学・陽明学・仏教を受容したうえで、それらを否定し、日常道徳が独立して成立する根拠を究明した[72]。そして、仁斎学と朱子学をまとめて批判することで自分の立場を鮮明にしたのが荻生徂徠である[73]。徂徠は、朱熹『論語集注』と仁斎『論語古義』を批判しながら、自己の主張を展開し、『論語徴』を著した[73]

山崎闇斎らの朱子学の純粋化を求める思想と、伊藤仁斎らの反朱子学的思想の形成はほぼ同時期である[74]土田 (2014, pp. 96–97)は、朱子学があったからこそ思想表現が可能になった反朱子学が登場したのであり、朱子学と反朱子学の議論の土台が形成されたことが、江戸時代の思想形成に大きな影響を与えたと述べている。たとえば、反朱子学を主張した伊藤仁斎は、自分の主張を理論化する際には朱子学の問題意識と思想用語を利用し、朱子学との対比から自分の思想を確立した[72]

松平定信は、1790年寛政2年)に寛政異学の禁を発したが、この時期は多くの藩で藩校を立ち上げる時期に当たり、各地で幕府に倣って朱子学を採用する傾向を促進した[75]。この頃の学者としては、古賀精里尾崎二洲柴野栗山らがいる[75]

明治時代

朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。「学制」が制定された当時、教科の中心であった儒教は廃され、西洋の知識・技術の習得が中心となった。その後、明治政府は自由民権運動の高まりを危惧し、それまでの西洋の知識・技術習得を重視する流れから、仁義忠孝を核とした方針に転換した。1879年の「教学聖旨」、1882年幼学綱要」に続き、1890年明治23年)、山縣有朋内閣のもと、『教育勅語』が下賜された。明治天皇の側近の儒学者である元田永孚の助力があったことから、『教育勅語』には儒教朱子学の五倫の影響が見られる[76]

また、1882年(明治15年)に明治天皇から勅諭された『軍人勅諭』にも儒教の影響が見られる。『軍人勅諭』には忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の解説があり、これらは儒教朱子学における五常・五論の影響が見られる。この「軍人勅諭」は、後の1941年(昭和16年)に発布された『戦陣訓』にも強く影響を与え、第二次世界大戦時の全軍隊の行動に大きく影響を与えた[76]

後世の評価

日本思想史研究者の丸山眞男は、徳川政権に適合した朱子学的思惟が解体していく過程に、日本の近代的思惟への道を見出した[77]。但し、この見解には批判も寄せられており、少なくとも江戸時代の朱子学人口は徐々に増加する傾向にあり、儒学教育の基礎作りとしての朱子学の役割は変わらず大きかった[77]。江戸時代には『四書』また『四書集注』、『近思録』といった朱子学関連の書籍は数多く出版されてよく読まれ、朱子学は江戸時代の基礎教養という役割を担っていた[78]

基本文献

四書集注
朱熹が『大学』『中庸』『孟子』『論語』の「四書」に対して制作した注釈書[40]。『大学』『中庸』には「或問」が附されており、特に『大学或問』は朱子学のエッセンスを伝えるものとされる[79]
近思録
北宋四子の発言をテーマ別に抜粋したもの。朱熹・呂祖謙の共編[80]。朱熹は、本書は四書を読む際の入門書であると言い、日本でも『十八史略』や『唐詩選』と並んでインテリの必読書として普及した[81]。のちに宋の葉采・清の茅星来や江永らによって注釈が作られた[81]
『伊洛淵源録』
朱熹編。伊洛(二程子のこと)の学問の由来を明らかにするために、周敦頤程顥程頤邵雍張載やその弟子たちの事跡・墓誌銘・遺書・逸話などを集めた本[82]
『周子全書』
明の徐必達が周敦頤の著作を集めたもの。周敦頤の著作はほとんど残されていないが、『太極図』『太極図説』『通書』に対して朱熹が「解」をつけたものが残されており、これらが収録されている[82]
『河南程氏遺書』
朱熹が程顥・程頤の発言を整理したもの、加えて『程氏外書』もある[80]。ほか、『明道先生文集』『伊川先生文集』『周易程氏伝』『経説』、そして楊時編『程氏粋言』もあり、これらをまとめて『二程全書』という[83]。二程の発言は、どれがどちらのものか混乱が生じている場合があり、注意が必要である[83]
『周易本義』
朱熹による『易経』に対する注釈。易数に関する研究書の『易学啓蒙』もある(蔡元定との共著)[80]
『書集伝』
書経』の注釈だが、朱熹の生前に完成せず、弟子の蔡沈によって完成した[80]
『詩集伝』
朱熹による『詩経』に対する注釈[80]
儀礼経伝通解
」に関する体系的な編纂書で、朱熹の没後にも継続して編纂された。より具体的な冠婚葬祭の手順を明示する『家礼(文公家礼)』もある[80]
『五朝名臣言行録』
朱熹が、北宋の朝廷を担った名臣たちの言動を検証する歴史書。ほか、『三朝名臣言行録』『八朝名臣言行録』もある[80]
『資治通鑑綱目』
司馬光資治通鑑』を朱熹が再検証した歴史書[80]
『西銘解』
張載の『西銘』に対して朱熹が注釈をつけたもの。
朱子語類
朱熹とその門人が交わした座談の筆記集。門人別のノートが黎靖徳によって集大成され、テーマ別に再編成された。当時の俗語が多く見られ、言語資料としても価値が高い[84]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 西 1984.
  2. ^ 島田 1967b, pp. 14–17.
  3. ^ a b 島田 1967b, p. 17.
  4. ^ 島田 1967b, pp. 18–26.
  5. ^ 島田 1967b, p. 30.
  6. ^ 島田 1967b, pp. 30–33.
  7. ^ 島田 1967b, pp. 33–35.
  8. ^ 福谷 2019, pp. 16–21.
  9. ^ 島田 1967b, pp. 40–52.
  10. ^ 島田 1967b, pp. 54–61.
  11. ^ 島田 1967b, pp. 63–64.
  12. ^ 島田 1967b, pp. 65–67.
  13. ^ 島田 1967b, p. 65.
  14. ^ a b c 島田 1967b, p. 77.
  15. ^ a b c 島田 1967b, p. 78.
  16. ^ a b 福谷 2019, p. 125.
  17. ^ 福谷 2019, pp. 126, 135.
  18. ^ 福谷 2019, p. 167.
  19. ^ 福谷 2019, pp. 168–169.
  20. ^ a b c 衣川 2006, pp. 464–468.
  21. ^ 島田 1967b, p. 79.
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参考文献

単著

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雑誌論文

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関連文献

関連項目