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[[福岡高等学校 (旧制)|旧制福岡高校]]を経て、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]政治学科卒業。[[文部省]]各課長。[[内閣総理大臣]]・[[文部大臣]][[秘書官]]。文部省施設局長・管理局長・調査局長。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の文教調査副会長となり[[万国著作権条約]]会議・諸外国の教育事情を視察するために欧米各国に出張する。[[九州大学]]助教授、日本短波研究所理事長も務めた<ref name="kotobank"/>。 |
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[[1955年]](昭和30年)の[[第27回衆議院議員総選挙]]と[[1958年]](昭和33年)の[[第28回衆議院議員総選挙]]に[[三重県第1区 (中選挙区)|三重1区]]から無所属で出馬するが、落選。[[1960年]](昭和35年)の[[第29回衆議院議員総選挙]]で初当選。 |
2020年12月30日 (水) 09:25時点における版
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久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月17日 - 1993年(平成5年)5月8日[1])は、参議院議員(1期)。衆議院議員(2期)。勲二等旭日重光章受章[1]。
略歴
旧制福岡高校を経て、東京大学法学部政治学科卒業。文部省各課長。内閣総理大臣・文部大臣秘書官。文部省施設局長・管理局長・調査局長。自由民主党の文教調査副会長となり万国著作権条約会議・諸外国の教育事情を視察するために欧米各国に出張する。九州大学助教授、日本短波研究所理事長も務めた[1]。
1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙と1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に三重1区から無所属で出馬するが、落選。1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙で初当選。
1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では、自由民主党公認で出馬するが、落選。1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で返り咲く。1968年(昭和43年)の第2次佐藤第2次改造内閣文部政務次官。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で中井徳次郎に549票差で敗れ、落選。
1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙三重県選挙区に出馬し初当選。1973年(昭和48年)に、参議院地方行政委員長。1977年(昭和52年)の第11回参議院議員通常選挙で日本社会党の新人坂倉藤吾に2141票差で敗れ、落選。
1980年(昭和55年)から1987年(昭和62年)には大阪音楽大学理事長を務めた[1]。
家族
甥-北川正恭(元三重県知事)
役員
脚注
- ^ a b c d 新訂 政治家人名事典 明治~昭和(コトバンク)
参考文献
- 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年11月)
- 「日本政治史に残る三重県選出国会議員」(著者)廣新二 出版年は昭和60年(1985年)三重県選出の日本社会党議員で、社会党右派所属の「久保田藤磨」の項目
- 「三重県史」資料編 近代1 政治・行政 1
- 「三重県史」資料編 近代2 政治・行政 2
議会 | ||
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先代 久次米健太郎 |
参議院地方行政委員長 1973年 - 1974年 |
次代 原文兵衛 |