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[[1853年]]からの[[クリミア戦争]]では、同地を拠点とする[[黒海艦隊]]が[[シノープの海戦]]で[[オスマン帝国]]の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げたが、[[1854年]]にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきた[[イギリス]]と[[フランス]]が[[オーストリア]]の妨害工作により攻略目標を[[オデッサ]]からセヴァストポリに変更。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化したが、長期にわたる包囲戦の末に[[パーヴェル・ナヒーモフ]]提督や[[ヴラジーミル・コルニーロフ]]提督も戦死し([[セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)]])、[[1855年]]9月に放棄を決定。後に[[パリ]]で開かれた講和会議で[[カルス (都市)|カルス]]要塞と引き換えに返還された。 |
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[[第二次世界大戦]]時、要塞化された同地に対してドイツ軍は[[80cm列車砲]]「ドーラ」、[[カール自走臼砲]]などを用いて攻略、占領したが、その後[[赤軍]]の反撃によりセヴァストポリはソ連へ取り戻された。([[セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)]]) |
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== 関連項目 == |
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* [[セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)]] |
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* [[伝説のセヴァストポリ]] - 旧ソ連の歌曲 |
* [[伝説のセヴァストポリ]] - 旧ソ連の歌曲 |
2020年12月27日 (日) 05:22時点における版
セヴァストポリ Севастополь Sevastopol | |||||
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セヴァストポリ(2015年) | |||||
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位置 | |||||
ウクライナのセヴァストポリ特別市 | |||||
ロシア連邦のセヴァストポリ連邦市 | |||||
座標 : 北緯44度36分00秒 東経33度31分48秒 / 北緯44.60000度 東経33.53000度 | |||||
行政 | |||||
国 | ウクライナ(国連総会決議) ロシア(事実上) | ||||
行政区画 | セヴァストポリ特別市 セヴァストポリ連邦市 | ||||
市 | セヴァストポリ | ||||
市長 | ミハイル・ラズフォザエフ | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 864 km2 | ||||
市街地 | 57.45 km2 | ||||
標高 | 100 m (300 ft) | ||||
人口 | |||||
人口 | (2016年現在) | ||||
市域 | 416,263人 | ||||
人口密度 | 481.8人/km2 | ||||
市街地 | 370,750人 | ||||
市街地人口密度 | 6,453.4人/km2 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | EET(UTC+2) MSK(UTC+3) | ||||
夏時間 | EEST (UTC+2) | ||||
郵便番号 | 299000—299699 | ||||
市外局番 | +380-692 +7-8692 | ||||
ナンバープレート | CH 92 | ||||
ISO 3166-2 | UA-40(ウクライナ) | ||||
公式ウェブサイト : セヴァストポリ連邦市の公式サイト |
セヴァストポリ(ウクライナ語:Севастополь (セヴァストーポリ)、ロシア語:Севастополь (シヴァストーパリ)、ラテン文字転写の例:Sevastopol、クリミア・タタール語:Акъяр, Aqyar)は、黒海に面したクリミア半島南西部に位置する都市である。
首都のキエフとともに、ウクライナの特別市であったが、2014年3月17日にクリミア自治共和国とともに主権宣言した上で、翌3月18日にロシア連邦と条約を締結し、ロシア連邦の構成主体となったとしている[1]。一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナおよび国際連合(総会決議68/262)との間で論争が続いている状態である。
広義・行政区画上のセヴァストポリ(特別市 / 連邦市)は864平方キロメートル、41万6263人(2016年)。4つの行政区で構成され、インケルマンやカチャなどの集落を含む。 狭義・都市としてのセヴァストポリは57.45平方キロメートル、37万750人(2016年[2])。
歴史
古代この地にはボスポロス王国の都市ケルソネソス(ケルソン)があり、6世紀に東ローマ帝国の統治下になった後も東ローマ帝国のクリミア半島における統治の拠点、ハザールやキエフ大公国などとの交易拠点としてテマ(軍管区)が置かれ、12世紀のコムネノス王朝時代まで東ローマの領土であった。
12世紀後半に東ローマが衰退すると、その後はモンゴル人のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、その後裔のクリミア・ハン国などの支配下にあったが、1783年、ロシア帝国がクリミア半島を併合した際、一緒に組み込まれた。その後、重要な海軍基地、商業港として発展してきた。
1853年からのクリミア戦争では、同地を拠点とする黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げたが、1854年にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスがオーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストポリに変更。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化したが、長期にわたる包囲戦の末にパーヴェル・ナヒーモフ提督やヴラジーミル・コルニーロフ提督も戦死し(セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年))、1855年9月に放棄を決定。後にパリで開かれた講和会議でカルス要塞と引き換えに返還された。
第二次世界大戦時、要塞化された同地に対してドイツ軍は80cm列車砲「ドーラ」、カール自走臼砲などを用いて攻略、占領したが、その後赤軍の反撃によりセヴァストポリはソ連へ取り戻された。(セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦))
ソビエト連邦の時代には、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内のクリミア州の一部としてではなく、キエフ(1954年以前はモスクワ)の直轄下に置かれ、外国人の立ち入りを固く規制する閉鎖都市だった。
ソ連時代に、クリミア戦争と第二次世界大戦での攻防戦の奮闘を讃え英雄都市の称号を与えられた。
現在のセヴァストポリ軍港にはロシア連邦の海軍基地とウクライナ海軍の司令部も置かれている。ソビエト連邦時代はソ連の黒海艦隊の基地であったが、ソ連邦解体後の1997年にロシア・ウクライナ間で締結された協定により、2017年まで租借、また2010年に再締結された協定によりさらに2042年まで駐留が認められることになった。ウクライナが受け取る租借料は年間9800万ドルであり、そのセヴァストポリ軍港租借料はウクライナがロシアへ払うガス料金未納分を考慮して決められている。
ロシアとウクライナの政治対立から、セヴァストポリのロシア領土編入を求める運動がしばしば同地に住むロシア人住民によって起きており、両国の対立の火種となってきた。2010年以降のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権では対立は沈静化していた。しかし2014年2月にヤヌコーヴィチ政権は崩壊し、親欧米派の暫定政権が樹立されたことにクリミア自治共和国は反発。2014年3月11日、同月16日の住民投票においてクリミアのロシアへの編入が賛成多数を得た場合、ウクライナよりいったん独立する決議をクリミア自治共和国とともに採択した(クリミア・セヴァストポリ独立宣言)[3]。16日の投票では賛成票が全体の9割を超え(2014年クリミア住民投票)、クリミア自治共和国とともに主権宣言した上で(クリミア共和国)、3月18日にロシア連邦に編入される条約をロシア連邦と締結した(ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入)。 この編入により、ロシア連邦の連邦市という位置付けになったが、ウクライナを始めとする大多数の国は認めていないため、国際的にはウクライナの特別市のままである。
行政区分
- ガガーリン地区・・・ケルソネソス
- レーニン地区
- ナヒモフ地区
- バラクラヴァ地区 - バラクラヴァ・・・旧ソ連バラクラヴァ原子力潜水艦地下秘密基地(Balaklava Underground submarine base)の所在地
- インケルマン
産業
帝政ロシア時代以来セヴァストポリは軍港都市・商港都市として発展してきた。またリゾート地・観光地としても有名である。
人口
2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。
- 総人口: 379,500人[4]
- 都市人口: 358,100人(94%);農村人口: 21,400人(6%)[5]
- 性別人口:男性は 173,500人(46%);女性は 206,000人(54%)[6]
姉妹都市
- サンクトペテルブルク、ロシア 2000年
- ポティ、ジョージア 2008年
- ペトロパブロフスク・カムチャツキー、ロシア 2009年
標準時
この地域は、モスクワ時間帯の標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。ロシア編入前は標準時がUTC+2で、夏時間がUTC+3であった。2014年3月に通年UTC+4に変更されたが、同年10月に通年UTC+3に変更された。
脚注
- ^ ロシアの声. (2014年3月18日)
- ^ Citypopulation.de/Sevastopol
- ^ “クリミア議会、ウクライナからの独立を決議”. AFPBB News (フランス通信社). (2014年3月11日) 2014年3月12日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
参考文献
- 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 4-634-41500-3. ISBN-13: ISBN 978-4-634-41500-3.
- ISBN 4-12-101655-6. 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年.
- Історія міст і сіл Української РСР: Кримська область. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1971.
関連項目
- セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)
- セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)
- 伝説のセヴァストポリ - 旧ソ連の歌曲
- トルストイ - 士官候補生としてクリミア戦争時の攻防戦に参加。この時の経験を元に『セヴァストポリ物語』を書いた。
外部リンク
- Official website(ロシア語・英語・ウクライナ語)
- セヴァストポリの写真