「ボリス・エリツィン」の版間の差分
41行目: | 41行目: | ||
'''ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン'''({{Lang-ru|Борис Николаевич Ельцин}}、[[1931年]][[2月1日]] - [[2007年]][[4月23日]])は、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[政治家]]で、同国の初代[[ロシア連邦大統領|大統領]](在任: [[1991年]] - [[1999年]])と初代[[ロシアの首相|首相]](在任: [[1991年]] - [[1992年]])を務めた。 |
'''ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン'''({{Lang-ru|Борис Николаевич Ельцин}}、[[1931年]][[2月1日]] - [[2007年]][[4月23日]])は、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[政治家]]で、同国の初代[[ロシア連邦大統領|大統領]](在任: [[1991年]] - [[1999年]])と初代[[ロシアの首相|首相]](在任: [[1991年]] - [[1992年]])を務めた。 |
||
大統領在任中に[[ソ連8月クーデター]]に対する抵抗と[[ソビエト連邦]]からのロシアの離脱を呼びかけて[[ソ連崩壊]]に導いた評価と共に、ロシアの威信の低下、腐敗した[[縁故資本主義]]、[[議会]]と対決する強権的な政治手法、[[チェチェン紛争]]の泥沼化への批判もあった<ref>Paul J. Saunders, "U.S. Must Ease Away From Yeltsin" Newsday, 14 May 1999.</ref>。 |
大統領在任中に[[ソ連8月クーデター]]に対する抵抗と[[ソビエト連邦]]からのロシアの離脱を呼びかけて[[ソビエト連邦の崩壊]]に導いた評価と共に、ロシアの威信の低下、腐敗した[[縁故資本主義]]、[[議会]]と対決する強権的な政治手法、[[チェチェン紛争]]の泥沼化への批判もあった<ref>Paul J. Saunders, "U.S. Must Ease Away From Yeltsin" Newsday, 14 May 1999.</ref>。 |
||
==来歴、人物== |
==来歴、人物== |
||
60行目: | 60行目: | ||
同年8月にソ連副大統領[[ゲンナジー・ヤナーエフ]]を擁立する「保守派」が起こした[[ソ連8月クーデター]]の際には戦車の上からロシア国民に対し[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]を呼びかけるなど徹底抗戦した。ゼネストは不徹底であったものの、軍と治安機関の大勢はクーデター派を支持せず、結果として[[クーデター]]を失敗に終わらせ、この事件によりゴルバチョフの求心力が大きく失われ、代わってエリツィンの影響力が増大する。 |
同年8月にソ連副大統領[[ゲンナジー・ヤナーエフ]]を擁立する「保守派」が起こした[[ソ連8月クーデター]]の際には戦車の上からロシア国民に対し[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]を呼びかけるなど徹底抗戦した。ゼネストは不徹底であったものの、軍と治安機関の大勢はクーデター派を支持せず、結果として[[クーデター]]を失敗に終わらせ、この事件によりゴルバチョフの求心力が大きく失われ、代わってエリツィンの影響力が増大する。 |
||
1991年[[11月6日]]、エリツィンはソ連共産党系の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党|ロシア共産党]]が活動することを禁止し、首相(ロシア共和国閣僚会議議長)を兼任した。同年[[12月8日]]、エリツィンは[[ウクライナ]]の[[レオニード・クラフチュク]]大統領、[[ベラルーシ]]の[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と[[独立国家共同体]] (CIS) の樹立を宣言することで合意した([[ベロヴェーシ合意]])。[[ソ連崩壊]]は避けられなくなり、[[12月25日]]にゴルバチョフはソ連大統領を辞任。ソビエト連邦はその歴史に幕を下ろした。 |
1991年[[11月6日]]、エリツィンはソ連共産党系の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党|ロシア共産党]]が活動することを禁止し、首相(ロシア共和国閣僚会議議長)を兼任した。同年[[12月8日]]、エリツィンは[[ウクライナ]]の[[レオニード・クラフチュク]]大統領、[[ベラルーシ]]の[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と[[独立国家共同体]] (CIS) の樹立を宣言することで合意した([[ベロヴェーシ合意]])。[[ソビエト連邦の崩壊]]は避けられなくなり、[[12月25日]]にゴルバチョフはソ連大統領を辞任。ソビエト連邦はその歴史に幕を下ろした。 |
||
=== ロシア連邦大統領として === |
=== ロシア連邦大統領として === |
2020年12月25日 (金) 23:17時点における版
ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン Борис Николаевич Ельцин | |
任期 | 1991年7月10日 – 1999年12月31日 |
---|---|
副大統領 | アレクサンドル・ルツコイ ヴィクトル・チェルノムイルジン セルゲイ・キリエンコ エフゲニー・プリマコフ セルゲイ・ステパーシン ウラジミール・プーチン |
任期 | 1990年5月29日 – 1991年7月10日 |
任期 | 1985年12月23日 – 1987年11月11日 |
副大統領 | ミハイル・ゴルバチョフ |
出生 | 1931年2月1日 ソビエト連邦 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ウラル州ブトカ地区ブトカ(ないしバスマノフスコエ) |
死去 | 2007年4月23日(76歳没) ロシア、モスクワ |
政党 | ソビエト連邦共産党(1961年 - 1990年) 無所属 |
配偶者 | ナイーナ・エリツィナ |
署名 |
ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン(ロシア語: Борис Николаевич Ельцин、1931年2月1日 - 2007年4月23日)は、ロシア連邦の政治家で、同国の初代大統領(在任: 1991年 - 1999年)と初代首相(在任: 1991年 - 1992年)を務めた。
大統領在任中にソ連8月クーデターに対する抵抗とソビエト連邦からのロシアの離脱を呼びかけてソビエト連邦の崩壊に導いた評価と共に、ロシアの威信の低下、腐敗した縁故資本主義、議会と対決する強権的な政治手法、チェチェン紛争の泥沼化への批判もあった[1]。
来歴、人物
青年期
ソビエト連邦内ロシア共和国、ウラル州ブトカ地区ブトカ村(あるいはバスマノフスコエ村[2])生まれ。家系はウラル地方の独立農民。父は富農撲滅運動で無実の罪を着せられ収容所生活を送った。自伝によれば、エリツィンは幼年期にロシア正教会でキリスト教の幼児洗礼を受けたという。第二次世界大戦中に武器庫から盗んだ手榴弾を分解している最中に、手榴弾が爆発し、左手の親指と人差し指が失われた。ベレズニキ (Berezniki) にあるプーシキン高校 (Pushkin High School) を卒業。1955年にスヴェルドロフスクのウラル工科大学建築科を卒業する。その後、1968年までスヴェルドロフスク州にある建設企業に勤めた。
ソビエト連邦共産党
1961年、ソビエト連邦共産党に入党する。1968年に党の活動に専従し、1976年にスヴェルドロフスク州党第一書記に就任する。なお、1977年には党の指示によりニコライ2世一家殺害現場のイパチェフ館を取り壊している。スヴェルドロフスク州での働きぶりをレオニード・ブレジネフに評価され、1981年に党中央委員となる。
ミハイル・ゴルバチョフの書記長就任後、1985年に党政治局員候補兼中央委員会書記に就任。ブレジネフ派の大物であるヴィクトル・グリシンがモスクワ市の党第一書記を解任されると、1985年12月に後任のモスクワ市の党第一書記に就任した。
ゴルバチョフの下では改革派として行動したが、ゴルバチョフ政権におけるペレストロイカの遅れを強く非難したため、他の政治局員からのエリツィンに対する批判はゴルバチョフを驚かせるほど強いものとなる。1987年にブレジネフ派の大物エゴール・リガチョフを公然と非難したため、そのリガチョフと対立し、モスクワ市の党第一書記を解任された。さらに1988年2月には政治局員候補からも解任される。
ロシア共和国大統領
しかし、1989年3月の人民代議員大会選挙にモスクワ選挙区から出馬して当選して政界復帰、急進改革派の地域間代議員グループに属し、民主綱領派のリーダーとなる。翌年の1990年5月にロシア共和国の最高会議議長(実質大統領)に就任。同年7月13日にはソ連共産党を離党した。1991年6月12日に行われたロシア共和国大統領選挙では57.3%の得票率を獲得して当選し、同年7月にロシア共和国大統領に就任。
同年8月にソ連副大統領ゲンナジー・ヤナーエフを擁立する「保守派」が起こしたソ連8月クーデターの際には戦車の上からロシア国民に対しゼネストを呼びかけるなど徹底抗戦した。ゼネストは不徹底であったものの、軍と治安機関の大勢はクーデター派を支持せず、結果としてクーデターを失敗に終わらせ、この事件によりゴルバチョフの求心力が大きく失われ、代わってエリツィンの影響力が増大する。
1991年11月6日、エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党が活動することを禁止し、首相(ロシア共和国閣僚会議議長)を兼任した。同年12月8日、エリツィンはウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と独立国家共同体 (CIS) の樹立を宣言することで合意した(ベロヴェーシ合意)。ソビエト連邦の崩壊は避けられなくなり、12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任。ソビエト連邦はその歴史に幕を下ろした。
ロシア連邦大統領として
ロシア共和国大統領(任期5年)、ロシア共和国閣僚会議議長だったエリツィンはソ連崩壊後も引き続きロシア連邦の大統領兼閣僚会議議長となった。
1992年1月2日、首相を兼任したエリツィンは貿易、価格、通貨の自由化を命じた。同時にマクロ経済安定化の経済政策を採用し、厳格な緊縮財政を行った。財政均衡を実現するため、エリツィンは金融を引き締め、産業への補助金や福祉支出などを大幅に削減した。しかし、この急激な市場経済への移行は市民の貯蓄、資産に打撃を与え、ソ連時代の生活水準は破壊された[3]。同年6月に首相代行に指名したエゴール・ガイダルやアナトリー・チュバイスに経済政策のイニシアティヴを取らせ、国際通貨基金 (IMF) 等の国際機関の助言に従って「ショック療法」と呼ばれる急進的な経済改革で完全な資本主義の導入を図った。市場経済化への一環として行われた価格自由化と国債濫発は1992年に前年比2510%ものハイパーインフレーションを引き起こし、1992年の国内総生産 (GDP) は前年比マイナス14.5%となってしまった。1990年代を通じてロシアのGDPは50%減少し、不平等と失業は激増し、収入は劇的に減少した[4][5]。一部のエコノミストは、1990年代にロシアが経験した経済危機は1930年代にアメリカやドイツで起きた大恐慌に匹敵するとも評した[3]。
1992年2月に副大統領のアレクサンドル・ルツコイもエリツィンの経済改革を「経済的ジェノサイド」と批判し[6]、1992年12月にエリツィンは経済改革で失敗したガイダルを解任し、代わりにガスプロム社長のヴィクトル・チェルノムイルジンを首相に指名した。12月、チェルノムイルジンは議会の信任を得、首相に就任した。一方、10月から国民一人ひとりに国有企業の株式を与えて自由に売買をさせるバウチャー方式による民営化も行われていたが、これを上手く利用して国有資産だった会社を手に入れ、莫大な富を築き上げる新興財閥(オリガルヒ)も出現した[7][8][9]。
1993年1月にアメリカ合衆国と第二次戦略兵器削減条約 (START II) を正式に調印し、外交政策では西側諸国との関係改善を推し進める一方で同年9月にはエリツィンの経済政策に反発していたルスラン・ハズブラートフ最高会議議長から「大統領は当てにできない。どうしようもないどん百姓だ。(人差し指で喉をたたきながら=酔っ払いのジェスチャー)これさえあれば、あいつはどんな大統領令にも署名する」と非難されたことに激怒したエリツィンは、「大統領令1400号」を公布して超法規的に現行憲法を停止した上でロシア人民代議員大会及び最高会議を強制的に解体し、議会を中心とする反エリツィン陣営の除去に取りかかった。これに対してハズブラートフも、最高会議の緊急会議を召集し、ルツコイ副大統領に大統領全権を付与し、10月3日、最高会議ビルに立てこもって抵抗した。翌10月にはハズブラートフらがたてこもる最高会議ビルを戦車で砲撃し、議会側は降伏し(10月政変)、ルツコイを解任すると同時に副大統領の職も廃止した。
1993年12月には大統領に強大な権限を与え、連邦会議と国家会議から成る両院制議会、ロシア連邦議会にする事を定めた新しいロシア連邦憲法が制定された。西側諸国はエリツィンを支持した。しかし、ロシア国内ではその経済政策で生活を困窮に追いやられた多くの民衆の反感を買い、同年12月の1993年ロシア連邦議会選挙で超国家主義的なウラジーミル・ジリノフスキー率いる極右のロシア自由民主党が第一党となってロシアの議会政治が綻びを見せ始めた。
1994年にデノミを行うなど経済の混乱が続き、また第一次チェチェン紛争でのチェチェン侵攻が失敗した結果、エリツィンの支持率は低下した。
1995年の下院選挙では極右のロシア自由民主党に代わって極左のロシア連邦共産党が第一党となり、エリツィンの経済政策で貧困に喘ぐ民衆の支持でソ連崩壊で過去のものとなったはずの共産主義が復権しつつあった。さらに1996年の大統領選挙の第1回投票ではそのロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ候補に得票数で僅差に追い込まれ、大苦戦する。劣勢を逆転させたい一念でアメリカから選挙キャンペーンのプロを呼び[10][11][12]、さらにジュガーノフ当選による共産主義への回帰を恐れたボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキーなど新興財閥から巨額の選挙資金を捻出させ、新興財閥支配下のメディアにエリツィン支持のキャンペーンを張らせるなどしてなり振りかまわぬ選挙戦を展開した[13][14]。ジュガーノフとの決選投票の前には、第1回投票で3位につけたアレクサンドル・レベジ退役大将を安全保障会議書記に任命して取り込み、決選投票でエリツィンは53.8%を獲得し結果的に再選を果たした[15]。
大統領選において新興財閥の力に大きく頼ったために第二次エリツィン政権では新興財閥の影響力が増した[16]。また、大統領選前の1995年にエネルギー産業などの国営企業が株式を担保に金融機関から融資を受けられるようにする有償民営化が行われていたことで、新興財閥は結果として石油産業ほか多くの国営企業を手に入れ、さらに国有資産を私物化し[17]、二女のタチアナ・ディアチェンコらエリツィンの親族とともに「セミヤー」と呼ばれる側近集団を形成するようになる。このような「セミヤー」との癒着によりエリツィン政権は政治腐敗が蔓延していき、特にベレゾフスキーを筆頭とする7人の銀行家と呼ばれた新興財閥が1996年から2000年までにロシアの富の50%から70%を支配していたともされる[18][19]。
1998年5月、経済復興を実現するには力不足だとして、チェルノムイルジン首相を解任した。同首相は、5年間にわたる長期首相だったが、一説によると病身の大統領に代わり副大統領然として振舞っていたこと、あるいは経済界との腐れ縁を大統領が嫌っての解任とも言われる。後任には35歳のセルゲイ・キリエンコ第一副首相兼燃料エネルギー相が就任したが、8月17日にロシア財政危機が発生。短期国債の取引を停止し、事実上の債務超過に陥った。就任直後の出来事だったが、責任をとらされ、解任された。
1998年9月11日に首相に任命されたのは諜報機関KGB出身のエフゲニー・プリマコフであった。プリマコフはエリツィン政権で対外情報庁長官や外相を歴任した実力者であった。プリマコフ首相は、大統領よりも議会重視のスタンスを打ち出し、キリエンコ内閣で産業貿易大臣だった共産党のユーリ・マスリュコフを第一副首相に大抜擢したことで第一党の共産党を名実ともに与党にさせ、議会の支持に依拠した珍しい内閣であり、プリマコフはソ連時代に計画経済の司令塔であるゴスプラン最後の議長だったマスリュコフとともにIMFと交渉して金融危機の対処に当たった[20]。
1999年3月にエリツィンはコソボ紛争に介入した北大西洋条約機構(NATO)を「侵略者」であると批判し[21]、外交政策ではプリマコフとともにアンドレイ・コズイレフ外相時代のNATOに融和的な路線も修正した。NATOがコソボに地上部隊を配備した場合のロシアの介入の可能性を警告し、「私はNATO、アメリカ、ドイツに言った。軍事行動に向かわせないでくれと。さもなければヨーロッパで戦争は確実に起き、世界大戦の可能性もある」と述べた[22][23]。
1999年5月には経済を安定化させて大統領よりも支持を集めていたプリマコフ首相を解任した[24]。さらに後任のセルゲイ・ステパーシン首相も僅か3ヶ月で解職し、首相を短期間で次々に挿げ替えて自らの権力を維持するためになりふり構わぬようにも見える行動を繰り返して政権はレームダックの様相を呈し、議会では第一党の共産党によって「ソ連解体、10月政変、チェチェン侵攻、軍事力の弱体化、ロシアの人口減少に対する責任」を理由にした弾劾の手続きも始まっていた[25]。
1999年8月16日にはエリツィン大統領の汚職を追及していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで解任に追い込んだロシア連邦保安庁(FSB)の長官でプリマコフと同じKGB出身のウラジーミル・プーチンを首相に任命し、31日のロシア高層アパート連続爆破事件をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕を振るったプーチン首相は「強いリーダー」というイメージを高めて後の大統領当選を支える国民からの人気を得ることとなった[26][27]。
1999年11月、欧州安全保障協力機構(OSCE)の会議でアメリカのクリントン大統領はエリツィンに指を差して多くの民間人犠牲者を出しているチェチェンへの空爆を止めるよう要求するとエリツィンは席から立ち去った[28]。翌12月9日から10日にかけて、チェチェンでの軍事作戦への支持を求めて訪れて最後の外遊先となった中国で李鵬国務院総理や江沢民総書記(国家主席)と会談したエリツィンは「クリントンはロシアが核兵器の完全な備蓄を保有する偉大な大国であることを忘れているようだ」と述べてかつては蜜月を築いていたアメリカに対して核戦争を示唆して恫喝した[29][30][31]。
晩年
1999年12月31日正午のテレビ演説で辞意を表明し、全体主義を脱して明るい未来への期待を抱いた国民に応えられなかったことへの自省の念や民主主義の原則を守って辞任する旨を述べ、新世紀である21世紀が始まる2000年を迎えるに当たって新しい指導者がロシアに求められていると語った[32][33]。後継の大統領として、プーチン首相を指名し、プーチンの最初の大統領令はエリツィンを生涯にわたって刑事訴追から免責するというものだった[34]。
大統領辞任後は表舞台からは姿を消し、悠々自適の年金生活を送ったという[35]。プーチン政権については、2004年のベスラン学校占拠事件発生後に知事を大統領による任命制に改めたことに対しては批判をする一方、2006年2月にプーチンはロシアにとって正しい選択だったと賞賛している。同年6月3日、パリで開催されていた全仏オープン7日目を夫妻で観戦し、マリア・シャラポワから帽子にサインしてもらう姿が撮られている。これが最後の公の姿となった。
2007年4月23日、長年の心臓疾患による多臓器不全(一部報道では心血管不全症とも)によりモスクワの病院で死去。76歳だった。4月25日に救世主ハリストス大聖堂にて国葬が行われ、プーチンはこの日を「国民服喪の日」とすることを宣言した。葬儀にはプーチン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンらが参列した。なお、日本からは要人が派遣できなかった[36]。葬儀後、遺体はノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。
著書
- 『告白』(小笠原豊樹訳、草思社、1990年)
- 『エリツィンの手記――崩壊・対決の舞台裏』(中沢孝之訳、同朋舎出版〈上下〉、1994年)
- 『ボリス・エリツィン 最後の証言』(網屋慎哉・桃井健司訳、NCコミュニケーションズ、2004年)
評伝
- ジョン・モリソン『ボリス・エリツィン ゴルバチョフを超えた英雄の二〇〇〇日』(赤井照久訳、ダイヤモンド社、1992年)
- ヴラジーミル・ソロヴィヨフ/エレーナ・クレピコヴァ『エリツィンの選択』(山岡洋一訳、文藝春秋、1992年)
- レフ・スハーノフ『ボスとしてのエリツィン ロシア大統領補佐官の記録』(川上洸訳、同文書院インターナショナル、1993年)
- 木村汎『ボリス・エリツィン 一ロシア政治家の軌跡』(丸善ライブラリー、1997年)
- 『エリツィンとゴルバチョフ 1500日の政治対決』(ゴルシコフ編、佐藤利郎・村田優訳、新評論、1993年)
脚注
- ^ Paul J. Saunders, "U.S. Must Ease Away From Yeltsin" Newsday, 14 May 1999.
- ^ “Где родился Борис Ельцин?”. newstube (2011年2月1日). 2015年11月7日閲覧。
- ^ a b Nolan, Peter (1995). China's Rise, Russia's Fall. London: Macmillan Press. pp. 17–18. ISBN 0-333-62265-0.
- ^ Daniel Treisman, "Why Yeltsin Won: A Russian Tammany Hall", Foreign Affairs, September/October 1996.
- ^ Gerber, Theodore P.; Hout, Michael (1998). "More Shock than Therapy: Market Transition, Employment, and Income in Russia, 1991–1995". American Journal of Sociology. 104 (1): 1–50. doi:10.1086/210001.
- ^ Bohlen, Celestine (9 February 1992). "Yeltsin Deputy Calls Reforms 'Economic Genocide'". The New York Times.
- ^ Johanna Granville, "The Russian Kleptocracy and Rise of Organized Crime." Demokratizatsiya (summer 2003), pp. 448-457.
- ^ 広瀬隆 『一本の鎖』 ダイヤモンド社 2004年 P156,157
- ^ Holmstrom, Nancy; Richard Smith (February 2000). "The Necessity of Gangster Capitalism: Primitive Accumulation in Russia and China". Monthly Review. Monthly Review Foundation. 51 (09).
- ^ "Spinning Hillary: a history of America and Russia's mutual meddling". The Guardian. 3 August 2016.
- ^ Jones, Owen (5 January 2017). "The Guardian: Americans can spot election meddling because they've been doing it for years". The Guardian.
- ^ TIME: Yanks to the rescue. The secret story of how American advisers helped Yeltsin win. (July 15, 1996)
- ^ Daniel Treisman, "Blaming Russia First", Foreign Affairs, November/December 2000.
- ^ See, e.g., Sutela, Pekka (1994). "Insider Privatization in Russia: Speculations on Systemic Changes". Europe-Asia Studies. 46 (3): 420–21. doi:10.1080/09668139408412171.
- ^ "Lee Hockstader, Washington Post Foreign Service". The Washington Post. 5 July 1996. Retrieved 3 November 2010.
- ^ “Двойник Ельцина выразил соболезнования”. Известия (23 April 2007). 2019年10月30日閲覧。
- ^ Åslund, Anders (September–October 1999). "Russia's Collapse". Foreign Affairs. Council on Foreign Relations.
- ^ Russia, Inc. // The Moscow Times, 12 November 1996, Issue 1087
- ^ А. И. Солженицын. Россия в обвале, — Москва: Русский путь, 2006. — С. 57.
- ^ “Russia talks to the IMF again”. BBC (1999年3月29日). 2019年11月2日閲覧。
- ^ “Russia condemns Nato at UN”. BBC News. (1999年3月25日)
- ^ "Yeltsin Warns of European War Over Kosovo". Reuters. 9 April 1999.
- ^ "Yeltsin warns of possible world war over Kosovo". CNN. 9 April 1999.
- ^ "Europe Russia gripped by power struggle". BBC. 12 May 1999.
- ^ “How Russian Parliament tried to impeach President Yeltsin”. ロシア・ビヨンド. (2019年9月25日)
- ^ Hoffman, David (2002), The Oligarchs: Wealth & Power in the New Russia, PublicAffairs, ISBN 978-1-58648-001-1 pp. 461–477
- ^ Talbott, Strobe (2002), The Russia Hand: A Memoir of Presidential Diplomacy, Random House, ISBN 978-0-375-50714-4 pp. 356–357
- ^ Charles Babington (19 November 1999). "Clinton Spars With Yeltsin on Chechnya, President Denounces Killing of Civilians". The Washington Post. p. A01.
- ^ "Yeltsin wins Chinese support on Chechnya". Associated Press, December 9, 1999
- ^ Michael Laris (10 December 1999). "In China, Yeltsin Lashes Out at Clinton Criticisms of Chechen War Are Met With Blunt Reminder of Russian Nuclear Power". The Washington Post. p. A35.
- ^ “Yeltsin gives US nuclear warning”. ガーディアン. (1999年12月31日)
- ^ Colton, Timothy J. (2008). Yeltsin: A Life. New York: Basic Books. ISBN 978-0-465-01271-8. p.1-2
- ^ “Statement by Boris Yeltsin”. ロシア大統領府. (1999年12月31日)
- ^ "Transcripts of 'Insight' on CNN". CNN. 7 October 2002.
- ^ AFPBB News「故エリツィン大統領、『晩年はプーチン政権監視下』と露元首相」
プーチン大統領時代の1期目である2000年から4年間首相を務めたミハイル・カシヤノフによれば、エリツィンはプーチン監視下での隔離された生活であったという。 - ^ これは26日に安倍晋三首相の訪米が予定されていて政府専用機のスケジュールがふさがっており、かつモスクワへ向かう便の確保が葬儀に間に合わなかった(連絡のあった24日午前の段階で特使を指名し、当該特使が準備を整えて当日のモスクワ直行便へ搭乗することは、時間的制約から困難であったと見られる)ことによるもの。このような経緯から、麻生太郎外相(当時)は後日の閣僚懇談会で小型政府専用機の導入を提唱している。ちなみにロシア側も葬儀に当たって公式な弔問団の招待は一切しないとの表明をしている。
|
|
|
|