ロシア高層アパート連続爆破事件
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ロシア高層アパート連続爆破事件 | |
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爆破テロで瓦礫と化した集合住宅と救助作業にあたる人達。(1999年9月14日) | |
場所 | ロシア連邦・モスクワ、ブイナクスク、ヴォルゴドンスクなど |
標的 | 集合住宅など |
日付 | 1999年8月31日 - 9月 |
概要 | 爆弾テロ事件 |
武器 | 時限爆弾、車爆弾 |
死亡者 | 約300人 |
犯人 | ? |
対処 | チェチェン独立派による犯行と見なしチェチェンへロシア軍が侵攻 |
ロシア高層アパート連続爆破事件(ロシアこうそうアパートれんぞくばくはじけん)とは、1999年にロシアで発生した爆弾テロ事件。一部のジャーナリストや歴史家はロシア政府による自作自演の可能性を指摘している。
概要
[編集]同年8月終わりから9月にかけて、首都モスクワなどロシア国内3都市で爆発が発生し、計300人近い死者を出した。
8月に首相となったウラジーミル・プーチンは、チェチェン独立派武装勢力のテロと断定。本事件と、チェチェン独立派のダゲスタン侵攻を理由にチェチェンへの侵攻を再開し、第二次チェチェン戦争の発端となった。プーチンの強硬路線は反チェチェンに傾いた国民の支持を大きく集め、彼を大統領の座に押し上げた。
一連の爆破事件はチェチェンのテロリストによって引き起こされたと一般に考えられているが[1]、彼らによる犯行は決定的に証明されたものではなく[1]、一部のジャーナリストと歴史家(アレクサンドル・リトビネンコなど)は事件がプーチンを大統領職へと押し上げるためにロシア政府機関によって仕組まれたものだと主張している[2][3][4][5][6][7]。
事件の発生
[編集]- 8月31日 - モスクワ中心部のショッピングモールで混雑時間帯に爆弾テロ。1人が死亡、40人が負傷。
- 9月4日 - ダゲスタン共和国のブイナクスクの軍人用集合住宅に乗り入れたトラックが爆発、建物が崩壊。64人のロシア兵および家族が死亡、130人が負傷。
- 9月9日 - モスクワのグリナノフ通りの集合住宅で爆破事件。94人が死亡、164人が負傷。
- 9月13日 - モスクワ、カシールスカヤ街道沿いの集合住宅で爆破事件。119人が死亡。
- 9月16日 - ヴォルゴドンスクの集合住宅で爆破事件。17人が死亡、72人が負傷した。
事件の影響
[編集]9月23日 - ロシア軍、チェチェンの首都グロズヌイに対する無差別爆撃[要出典]を開始。
10月1日 - ロシア軍地上部隊、チェチェン侵攻を開始。
2002年 - イギリスに亡命していたFSBの元職員アレクサンドル・リトビネンコは、自著『Blowing Up Russia: Terror From Within』のなかで、「事件はチェチェン侵攻の口実を得ようとしていたプーチンを権力の座に押し上げるため、FSBが仕組んだ偽装テロだった」と証言している。その後、リトビネンコは2006年に何者かに放射性物質を盛られて暗殺されたと言われている(リトビネンコ事件)。
公式説
[編集]2000年8月7日、FSBは記者会見を開き、事件の捜査状況について説明した。事件の捜査中、33人が拘束され、爆弾がチェチェンからスタヴロポリ地方ミールヌイ、キスロヴォツク、モスクワに運ばれたと断定した。
2001年6月29日、スタヴロポリにおいて、事件の事前審理が行われた。事件では、カラチャイ・チェルケス共和国の住民5人、アスラン(Аслан)とムラート・バスタノフ(Мурат Бастанов)兄弟、ムラトビ・トゥガンバエフ(Муратби Туганбаев)、タイカン・フランツーゾフ(Тайкан Французов)、ムラトビ・バイラムコフ(Муратби Байрамуков)の5人が起訴された。裁判は、当初カラチャイ・チェルケス共和国で行われる予定だったが、同地では陪審員制度がまだなかったため、スタヴロポリ地方裁判所において非公開で行われることとなった。
リャザン事件
[編集]リャザンのアパートで地元住人が不審者を発見し、通報を受けた警察がアパートの地下で時限爆弾らしき物体を発見した事件。ジョンズ・ホプキンス大学院でロシアとソビエトの政治と歴史を研究しているデイビット・サッター david satterや、元FSB職員でロシア政府を批判していたアレクサンドル・リトビネンコは、この事件がロシア政府による自作自演だと主張している[8]。一方でロシア政府は爆弾とされたものは偽物で事件は単なる訓練だったと主張している[8]。
1999年9月22日の午後9時頃、リャザンの集合住宅に住むバス運転手のアレクセイ・カルトフェルニコフは、不審な車からアパートの地下に袋を運び込む不審な男2人に気付き、警察に通報した。カルトフェルニコフはThe Independentの取材に対し「不審車のナンバープレートは最後の2桁の部分に紙が貼りつけてあり、紙にはリャザンを示す地域コードである62と手書きされていた。」と答えたとされ[9]、もう一人の目撃者である無線技術者のウラジミール・ワシリエフはLos Angeles Timesの取材に対し「不審者達は肌が黒っぽい傾向のあるチェチェン人のようではなくロシア人のようだった」と証言したとされた[10]。ナンバープレートについて、デイビット・サッターは著書の中で、プレートに貼られた紙が剥がれ落ちたことでワシリエフは紙の下に77のモスクワナンバーを目撃したと主張している[11]。lenta.ruの報道によれば、通報を受けて駆け付けた地元警察が異物の混じった砂糖袋に時限爆弾らしきものが取り付けられた不審物を発見したとされる[12]。コメルサントの報道によれば、警察は起爆装置と思われる火薬を充填した12ゲージの散弾銃の薬莢を発見したとされ、警察の爆弾処理班がガス探知機を使用したところ、蒸気からプラスチック爆弾の原料としても使われる非常に強力な軍用爆薬RDXだと判断され、地元警察は非常線を張り道路と鉄道を封鎖したとされる[13]。またコメルサントは「リャザンでは他の都市と違って爆弾の信管を外すのはFSBの専門家ではなく警察の爆発物処理班だった。」と報道した[13]。
1999年9月23日01時30分、複数のロシアメディアによれば、警察の爆発物処理班は不審物のサンプル1キロをリャザンから数キロ離れた射撃場に持ち込んだとされる。現場に残されていたものと同様に散弾銃の薬莢から作られた起爆装置を使って爆発調査を試みたが不審物を爆発させる事は出来なかったと報道された。専門家によれば袋にはオリョール地方のコルピャンスキー製糖工場で製造された通常の砂糖が詰められており、おそらくRDXと思われる異物が混合されていたが、その量が非常に少量だったのでこの混合物は実験中に爆発しなかったことが判明したと報道された[13][14][15]。
アレクサンドル・リトビネンコとユーリ・フェルシチンスキー、或いはデイビット・サッターは著書の中で、事件発生後にモスクワへ長距離電話をかけた不審な会話の一部を地元電話局のオペレータが偶然耳にして警察に通報したと主張した。会話内容は「リャザンから脱出できない」「一人ずつ離れろ。どこにでもパトロールがいる。」であり、警察が通話記録を調べたところ通話先はFSBだったと主張している[16][8]。ガーディアンはロシア比較政治研究所のボリス・カガルリツキーの発言を引用し、「警察がその後不審者2人を逮捕したものの、2人はFSBの身分証明書を提示し、モスクワからの命令により釈放された。」と報道した[17]。
当時のロシアにはRDXを製造する工場が2ヵ所あったが、いずれもFSBの厳重な監視下にあった。[要出典]
1999年9月24日、FSBのニコライ・パトルシェフ長官(当時)は「RDXは訓練の為のダミー爆弾であり、火薬のように見えた袋詰めの白い粉は砂糖だった。警察の爆薬探知機は故障していた。」と発表した[18][19]。
2000年1月18日付のロシアの英字紙『モスクワタイムス』は、FSBがロシア人の反チェチェン感情を煽る目的で実行した可能性があると指摘した。[要出典]
2000年2月、記者のパベル・ヴォロシンは、リャザンの爆弾を解除した警察の爆発物処理班の班長であるユーリ・トカチェンコとの2時間にわたるインタビューに基づいて記事を書いた。発見当時のガス分析検査は陽性でありそれが爆発物だと示しており、トカチェンコは検査機器が正常に作動したことを完全に確信していると語った。トカチェンコは、使用されたガス分析装置は世界標準の品質で、価格は2万ドルで、装置には放射線源が含まれていたため厳密なスケジュールに従って作業し、頻繁に予防的チェックを行う専門家によって保守管理されており、豊富な経験を積んだ技術者全員がモスクワの科学技術センターで更新コースを複数回受講し、2年ごとの試験に合格していたと主張した。また記事中では使用された起爆装置もかなり専門的なもので偽物とは思えなかった点が指摘された[20]。しかし、トカチェンコは後の会見で、実際は現場でガス分析装置は使用されておらず、起爆装置についても既知の爆発物を起爆させることができないショットガンの薬莢であったと述べた[21]。
2000年3月、新聞『リャザンスキエ・ヴェドモスチ』は、リャザンUFSBの捜査部門責任者ユーリ・マキシモフ中佐のインタビューを掲載した。それによればFSB総局がモスクワの研究所に完全な検査を要求し3月15日に調査結果を受け取り、現場に残されていた3つの袋から採取したサンプルに含まれる物質はサトウキビから得られる砂糖の原材料でしかなく、物質の化学組成は食品の形の砂糖に相当し、爆発物は見つからなかったとされた。マキシモフはリャザン警察の爆弾処理班には爆発性蒸気探知機「М-02」が装備されていたが、「M-02」は悪天候の元ではかなりの誤差が発生するので爆弾処理の専門家はそれを使わず、より精度の高い分析キット「Exprei」を使用すると主張した。またヘキソーゲン微粒子は最長3か月という長期間皮膚上に存在する可能性があるので純粋な分析には使い捨て手袋が必要だが、爆発物専門家の作業キットにはそれが含まれておらずそれらを購入する資金も無かったことから毎日の任務を終えたトカチェンコの手には微量のヘキソーゲンが残っていた可能性があり、それが警察が砂糖を爆発物だと誤認した理由だと主張した[22]。
2000年3月、リャザンUFSB長官セルゲイエフ将軍はテレビ番組に出演し、トカチェンコが検査を行うために袋から砂糖を注いだブリーフケースの蓋が事前に汚染されていたことによる偽の陽性結果だと主張した[23]。
2001年12月の治安局労働者の日の記者会見で、トカチェンコはガス分析装置は使用されておらず、起爆装置は既知の爆発物を起爆させることができないショットガンの薬莢であったと述べた[24]。
2003年2月、コメルサントのジャーナリスト、オルガ・アレノワは、ロシア国家院議員セルゲイ・コバレフが入手したリャザン事件に関する犯罪捜査ファイルを研究した。記録によると、現場に到着した爆弾処理専門家が2度検査を行ったが、爆発性粒子の存在は示されず、その後で到着した爆弾処理班長トカチェンコが自ら実験を行いRDXを発見したとされた。ユーリ・トカチェンコに尋問した捜査官は、ユーリ・トカチェンコが事件前日に滅菌手袋を着用せずにRDXを含む爆発物を扱っていたため、RDXの検出は彼の手の汚染によって引き起こされたという結論を主張した[25]。
アパート爆破事件の直前に発生し、ロシア軍のチェチェン侵攻のきっかけの一つとなったダゲスタン侵攻に関しては、独立派指導者シャミル・バサエフが関与を認めているが、アパート爆破事件に関しては関与を否定している[26][27][28][29][28]。
脚注
[編集]- ^ a b Petersson, Bo; Hutcheson, Derek (2021). “Rising from the ashes. The role of Chechnya in contemporary Russian politics”. Language and Society in the Caucasus. Understanding the past, navigating the present. Lund: Universus Press. p. 149. ISBN 978-91-87439-67-4. オリジナルの9 July 2021時点におけるアーカイブ。 30 June 2021閲覧. "Even if their guilt was never conclusively proven and the circumstances of the bomb blasts were shrouded in mystery, the attacks were widely attributed to Chechen terrorists (Dawisha 2014, 207–223). Together, these events provided Putin with the casus belli that he needed to initiate the Second Chechen War."
- ^ Knight, Amy (22 November 2012). “Finally, We Know About the Moscow Bombings”. New York Review of Books. オリジナルの7 December 2021時点におけるアーカイブ。 .
- ^ Satter, David (17 August 2016). “The Unsolved Mystery Behind the Act of Terror That Brought Putin to Power”. National Review. 26 April 2018時点のオリジナルよりアーカイブ。31 March 2018閲覧。
- ^ “David Satter – House committee on Foreign Affairs”. 27 September 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。29 January 2012閲覧。
- ^ Felshtinsky & Pribylovsky 2008, pp. 105–111
- ^ ’’The consolidation of Dictatorship in Russia’’ by Joel M. Ostrow, Georgiy Satarov, Irina Khakamada p.96
- ^ Salter, Lamar; Lopez, Linette; Kakoyiannis, Alana (March 22, 2018). “How a series of deadly Russian apartment bombings in 1999 led to Putin's rise to power”. Business Insider. オリジナルの17 April 2020時点におけるアーカイブ。 7 May 2020閲覧。
- ^ a b c David Satter (2002年4月30日). “The Shadow of Ryazan Is Putin’s government legitimate?”. National Review. 2002年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。
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- ^ Fears of Bombing Turn to Doubts for Some in Russia Archived 30 April 2011 at the Wayback Machine., Maura Reynolds, Los Angeles Times, 15 January 2000
- ^ David Satter (2004-09-10). Darkness at Dawn: The Rise of the Russian Criminal State. Yale University Press. pp. 25-26
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- ^ a b c “Таймер остановили за семь часов до взрыва”. (1999年9月24日). オリジナルの2022年4月11日時点におけるアーカイブ。 2022年4月23日閲覧。
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- ^ Felshtinsky, Yuri; Litvinenko, Alexander. Blowing up Russia: Terror from within. Gibson Square Books. p. 55. ISBN 978-1-903933-95-4
- ^ John Sweeney (12 March 2000). “Take care Tony, that man has blood on his hands”. The Guardian. 21 June 2019時点のオリジナルよりアーカイブ。20 August 2019閲覧。
- ^ “Russian bomb scare turns out to be anti-terror drill”. CNN (24 September 1999). 20 August 2019時点のオリジナルよりアーカイブ。20 August 2019閲覧。
- ^ “Покушение на Россию”. somnenie.narod.ru. 2023年8月23日閲覧。
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- ^ “Независимое расследование. Рязанский сахар: учения спецслужб или неудавшийся взрыв, 27:30” (ロシア語). NTV (24 March 2000). 1 October 2020時点のオリジナルよりアーカイブ。3 July 2020閲覧。
- ^ Trukhina, Lyudmila (20 December 2001). “Satisfied with the results of the year” (ロシア語). Ryazanskie Vedomosti. オリジナルの31 January 2011時点におけるアーカイブ。
- ^ Allenova, Olga (February 5, 2003). “Гексоген занесли на грязных перчатках” (ロシア語). Kommersant. オリジナルの7 July 2020時点におけるアーカイブ。 23 June 2020閲覧。
- ^ Ware & Kisriev 2009, pp. 125–126
- ^ Tom de Waal (30 September 1999). “Russia's bombs: Who is to blame?”. BBC News. オリジナルの27 November 2017時点におけるアーカイブ。 28 June 2017閲覧。
- ^ a b AUTUMN 1999 TERRORIST BOMBINGS HAVE A MURKY HISTORY Archived 27 December 2010 at the Wayback Machine., Monitor, Volume 8, Issue 27, Jamestown Foundation, 7 February 2002
- ^ Rebel Chief, Denying Terror, Fights to 'Free' Chechnya Archived 21 March 2017 at the Wayback Machine., Carlotta Gall, The New York Times, 16 October 1999
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Terror99 Information on the Russian apartment bombings and books by Aleksander Litvinenko
- [1]
- terror1999.narod.ru/sud/delokd/prigovor.html translation
- Russian Apartment Bombings: The Story of Ryazan Sugar, Medium, 28.10.2018