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上記のように国際的な孤立を深める一方で、「[[ホッジャ主義]]」と呼ばれる独自の理論を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に[[第三世界]]の左派において大きな位置を占めていた[[毛沢東主義]]者に対して、[[イデオロギー]]的に勝利することに成功した。[[日本共産党(左派)]]、[[ブラジル共産党]]、[[コロンビア人民解放軍]]のようにホッジャの思想に共鳴し、一時的ながら[[毛沢東主義]]より[[転向]]する勢力も現れた。
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なおこの間に、それまで外交関係がなかった[[日本国]]との[[国交]]を[[1981年]]に樹立している。
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2020年12月25日 (金) 23:07時点における版

アルバニア共和国
Republika e Shqipërisë
アルバニアの国旗 アルバニアの国章
国旗 (国章)
国の標語:Ti Shqipëri, më jep nder, më jep emrin Shqipëtar
国歌国旗への賛歌
アルバニアの位置
公用語 アルバニア語
首都 ティラナ
最大の都市 ティラナ
政府
大統領 イリール・メタ
首相 エディ・ラマ
面積
総計 28,748km2143位
水面積率 4.7%
人口
総計(2013年 3,011,405人(133位
人口密度 104人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 1兆3,445億[1]レク
GDP(MER
合計(2013年127億[1]ドル(125位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2013年295億[1]ドル(117位
1人あたり 10,596ドル
独立
 - 日付
オスマン帝国から
1912年11月28日
通貨 レクALL
時間帯 UTC+2 (DST:+3)
ISO 3166-1 AL / ALB
ccTLD .al
国際電話番号 355
アルバニアの最南端にある世界遺産ブトリント遺跡。
アルバニアの位置(アルバニア内)
アルバニア
アルバニアと首都ティラナの位置。
アルバニアの位置(ヨーロッパ内)
アルバニア
アルバニア (ヨーロッパ)

アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、アルバニア語: Republika e Shqipërisë)、通称アルバニアは、東ヨーロッパバルカン半島南西部に位置する共和制国家首都ティラナ

西はアドリア海に面し、対岸はイタリアである。北はモンテネグロ、北東はコソボ(コソボを独立国と認めない立場からすればセルビア)、東は北マケドニア、南はギリシャ国境を接する。

宗教の信者数はオスマン帝国支配等の歴史的経緯から、イスラム教徒である国民が大半を占めるが、信仰形態は非常に世俗的である[2]。また、キリスト教正教会カトリックの信者も少なくない。なお、欧州で唯一のイスラム協力機構正規加盟国である。

1992年 - 1998年の国章
現在使われていない歴史的な旗?オスマン帝国時代アルバニア系人の旗(1453–1793)

国名

正式名称はアルバニア語でRepublika e Shqipërisëアルバニア語発音: [ɾɛpuˈblika ɛ ʃcipəˈɾiːsə] レプブリカ・エ・シュチパリサ)、通称はShqipëri(不定形)/Shqipëria(定形)([ʃcipəˈɾi, ʃcipəˈɾiːa] シュチパリ、シュチパリア)。

公式の英語表記はRepublic of Albania[rɪˈpʌblɪk əv ælˈbeɪniə, ɔːlˈbeɪniə] リパブリク・オヴ・エルベイニア、オールベイニア)、通称はAlbania(エルベイニア、オールベイニア)。

日本語の表記はアルバニア共和国、通称はアルバニア漢字による当て字は、阿爾巴尼亜

シュチパリアとはアルバニア語で「の国」を意味し、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」はラテン語の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくするアルビオンと同様アルバニアの地質が主に石灰岩質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来する。

歴史

古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。

前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。

オスマン帝国領時代

14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まる。スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラーム教への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリア等とは異なり、現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家にイコン画を飾る風習など、正教会カトリックとの共通点を多く持つ)。

提案されたアルバニア公国の国境線(1912年 - 1914年

長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、19世紀末には民族意識(ナショナリズム)が高揚し、1878年プリズレン連盟(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。

独立

第1次バルカン戦争の後、1912年イスマイル・ケマルらがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、列強に独立は認められたものの、国境画定の際にコソボなど独立勢力が「国土」と考えていた地の半分以上が削られた(「大アルバニア」を参照)。1914年ドイツ帝国貴族ヴィート公子ヴィルヘルム・ツー・ヴィートに迎え、アルバニア公国となったものの、第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。

1920年には君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は不安定であり、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグー大統領に就任した(アルバニア共和国)。

その後、ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアには君主政アルバニア王国が成立した。

1939年4月7日、アルバニアに上陸したイタリア軍は簡単な戦闘の後、 全土に進駐[3]、ゾグーは王妃と共に亡命した(イタリアのアルバニア侵攻)。イタリア王国との同君連合という形で国王にはイタリアの国王が即位し、親伊派の傀儡政権が置かれた。第二次世界大戦時の1940年にはイタリアによるギリシャ侵攻(ギリシャ・イタリア戦争ギリシャの戦い)によって南部の各地域が激戦地となった。翌1941年には、イタリアは同じ枢軸国であるナチス・ドイツなどとともに、アルバニア北隣のユーゴスラビアに侵攻独ソ戦も始まり、バルカン半島全体が戦場となった。1943年にイタリアが連合国降伏すると、アルバニアはドイツ軍によって占領された。

社会主義時代

1944年11月29日、アルバニアのパルチザン英語版ソビエト連邦軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。

1946年には王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする共産主義政権が成立した。1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名した。同年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国コミンフォルムを脱退したことに伴い、ユーゴスラビアと断交した。

ホッジャ政権は1961年以降、スターリン批判を行ったソビエト連邦を「修正主義」と名指しで非難し、ソ連もニキータ・フルシチョフが第22回ソ連共産党大会においてアルバニアを批判するも、出席していた中華人民共和国周恩来はアルバニアを擁護し、中ソの路線の違いが鮮明になる。

毛沢東エンヴェル・ホッジャ

ソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受け、この時期のアルバニア軍は、兵士が中国人民解放軍六五式軍服に類似した軍服を着用し、中国製の56式自動歩槍とそのコピーのASh-78を制式小銃に採用して59式戦車J-6戦闘機なども配備されるなど、当時のワルシャワ条約機構軍を構成する周辺諸国と比較しても異様な軍隊となる。1968年にはワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とした極端な軍事政策を取った。領土問題を抱えていた隣国ユーゴスラビアとも、チトー大統領を「チトー主義者」であると規定し、激しく対立していた。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また1967年に中国のプロレタリア文化大革命に刺激されて「無神国家」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。更に、1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカ石灰石は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っている。1970年代には核戦争を想定して、ティラナ東方の山腹に部屋106室、広さ2,685平方メートルの大型核シェルターが建設された[4]。一方で農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成していた[5]。同年、国号を「アルバニア社会主義人民共和国」へ改称した。

1976年毛沢東主席の死によって中国で文化大革命が終息し、1978年鄧小平改革開放路線に転換するとホッジャは中国を批判した(中ア対立)。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、1980年代には、欧州の最貧国とまで揶揄されるに至った。当時の西欧各国の左派政党が採択していたユーロコミュニズム路線や隣国ユーゴスラビアのチトー主義、更に社会主義国でも同様の独自路線を行っていたルーマニア北朝鮮[6] すらも批判したホッジャは「アルバニアは世界唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言し[7][8]、事実上アルバニアの鎖国とも言える状況[9] を招いた。体制の引き締めを狙って政府高官の粛清も行われ、ホッジャに次ぐナンバー2の権力の地位にあったメフメット・シェフー首相は、1981年不可解な自殺を遂げている。

上記のように国際的な孤立を深める一方で、「ホッジャ主義」と呼ばれる独自の理論を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に第三世界の左派において大きな位置を占めていた毛沢東主義者に対して、イデオロギー的に勝利することに成功した。日本共産党(左派)ブラジル共産党コロンビア人民解放軍のようにホッジャの思想に共鳴し、一時的ながら毛沢東主義より転向する勢力も現れた。

1989年から全国的に反政府デモが続発し、ホッジャの後継者のラミズ・アリア1990年から徐々に開放路線に転化を開始した。当時の情勢については「ソビエト連邦の崩壊」「東欧革命」「ユーゴスラビア紛争」も参照。

なおこの間に、それまで外交関係がなかった日本国との国交1981年に樹立している。

アルバニア共和国

1991年に国名を「アルバニア共和国」に改称した。アリアは経済の開放とともに政党結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、1992年の総選挙によって、戦後初の非共産政権が誕生した。民主化後のサリ・ベリシャ政権は、共産主義時代の残滓の清算や市場主義経済の導入、外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。しかし、市場主義経済移行後の1990年代ネズミ講が流行し、1997年のネズミ講の破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は一瞬で破綻した(アルバニアのネズミ講英語版)。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという暴動が発生した(1997年アルバニア暴動)。暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、アルバニア労働党を前身とするアルバニア社会党が与党となり、一応の沈静化を見せたものの、未だ尾を引いているともいわれている。

2005年9月の総選挙で民主党が56議席を確保し比較第一党となり、18議席を確保した国民戦線、4議席の環境農民党・2議席の人権党連合と連立を組んで民主党のサリ・ベリシャを再び政権に送り込んだ。社会党は42議席を獲得し、最大野党となった。

2007年の大統領選出は立候補が無く、5回期限が延長された。サリ・ベリシャは、大統領選挙を直接選挙制にすべきだとの声明を出したが、2007年の大統領選挙には間に合うものではなかった。社会党党首のエディ・ラマは総選挙を行った上で民意を反映すべきだとしたが、世論はこれを支持しなかった。

結局、民主党副議長のバミール・トピと社会党前党首のファトス・ナノ英語版が立候補を表明したが、社会党はナノを支持せず、欠席戦術を用いた。トピがいずれの選挙でも勝利したものの、得票数が定数に満たないために就任できなかった。また、第3回の選挙には、民主同盟党のネリタン・セカが出馬し、打開への期待からか票を得たものの、第4回の選挙では議会空転を終結させるため立候補を取りやめ、トピを支持した。その結果、出席90名、得票85票でバミール・トピは大統領に選出された。この後、ファトス・ナノは社会党を離党し、連帯行動党を結党した。

2009年4月28日、ベリシャ首相はプラハを訪問し、欧州連合 (EU) 議長国チェコミレク・トポラーネク首相にEU加盟を申請した。2014年6月よりEU加盟候補国。

政治

行政

アルバニア首相サリ・ベリシャ(左)と日本の内閣総理大臣福田康夫(右)(2008年2月5日総理大臣官邸にて)

国家元首大統領で、任期は5年、議会の60%以上の賛成を獲得することによる間接選挙によって選出される。また、首相は大統領により任命され、閣僚は首相の推薦の下で大統領が指名するが、最終的に議会からの承認も得る必要がある。

立法

立法府たるアルバニア議会は、一院制で任期4年、全140議席である。うち、100議席は小選挙区制、40議席は比例代表制によって選出される小選挙区比例代表併用制

政党

アルバニア労働党1991年社会党に党名変更)が冷戦期を通じて一党独裁を行う共産主義体制だったが、1990年より東欧民主化の影響を受けて、対外開放や複数政党制の導入などの民主化を始めた。1991年の初総選挙では社会党が連立によって政権を維持したものの、翌1992年3月の総選挙でアルバニア民主党を中心とした勢力が大勝利を収めた。これを受けて、第一書記から大統領となったラミズ・アリアはその職を辞任。民主党のサリ・ベリシャが第2代大統領として選出された。1996年に再選。

1997年1月国民の大半が加入していたねずみ講会社の破産を原因としてアルバニア暴動が発生。6月の議会選挙の結果を受け、7月にサリ・ベリシャは辞任。社会党のレジェプ・メイダニを大統領として、社会党政権が成立した。2001年の総選挙では社会党は73議席を獲得し、6割を確保できなかったため、大統領には民主党のアルフレッド・モイシウが就任したが、依然として社会党内閣が続いた。

現在、アルバニアにはアルバニア社会党アルバニア民主党緑の党社会民主党人権党連合など十数の政党がある。

2012年にはギリシャの極右政党「黄金の夜明け」とつながりがあるとされ、コソボとの連合国家形成を主張する極右政党「赤黒連合」が結成された。2013年6月の総選挙で同党は、投票総数の0.59%にあたる1万196票を得たが、議席の獲得はできなかった。

外交

鎖国状態から対外開放に転じた1990年代以降、先進諸国国際機関との関係拡大を進めてきた。2009年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、EU加盟を目標としていた。フランスやオランダ、デンマークなどはバルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないという懸念からアルバニアや北マケドニアの加盟交渉入りに反対し続けたものの、2020年2月に欧州委員会が加盟交渉の改革案を提示したことでフランスなどが態度を軟化させ、同年3月24日に加盟交渉入りすることが決定した[10]

ヨーロッパの中ではアドリア海対岸の隣国イタリアとの経済的結びつきが強く、主要な貿易相手国の一つである。アメリカ合衆国には都市部の新興市民に強い親近感がある。一方で、地方では中国、毛沢東に対する親近感がある。2019年11月には、政治的判断によりペルシア湾イランなどを警戒するアメリカ主導の有志連合に参加した[11]

アルバニア人が多数を占めるコソボの国造りと、コソボ承認国を増やすための支援を行っている[12]

地方行政区分

アルバニアは12の州 (qark)、61の基礎自治体 (komuna) に分けられる。

地理

アルバニアの地図。

アルバニアの国土は最大で南北が約340km、東西が150kmである。海岸部の平野以外は起伏があって山がちな地形が多く、国土の約7割が海抜高度300m以上である。モンテネグロセルビア北マケドニア共和国との国境地帯にはディナラ・アルプス山系の2000m級の山々が列を成しており、一番高い山はディバル地区にあるコラビ山で、2,753メートルに達する。

海岸付近の低地は典型的な地中海性気候で降雪は珍しいが、内陸部の高地は大陸性気候で冬には大量の降雪がある。年間降水量は1,000mmを超える。の最高気温は30℃以上となるが、の最低気温は海岸部で0℃、内陸部で-10℃以下となる。また、国土の北西はモンテネグロにまたがりバルカン半島最大の湖であるシュコダル湖(約360平方キロ)に面しており、南東部にはオフリド湖プレスパ湖がある。オフリド湖が源のドリン川が約280kmにわたって国内を流れ、シュコドラ州で数本の水流に別れてアドリア海に注いでいる。国土の約40%が森林で、ブナなどが多い。

主要都市

首都のティラナ以外の主要な都市としてはドゥラスエルバサンシュコドラギロカストラヴロラコルチャ、ブローラ、サランダなどがある。

経済

アルバニア最大の都市である首都ティラナ

IMFの統計によると、2013年のアルバニアのGDPは127億ドルである。一人当たりGDPは4,565ドルで、これは世界平均の40%ほどの水準だが、バルカン半島では最下位に位置している[1]

上述したように、アルバニアは第二次世界大戦後に米ソ両陣営と距離を置き、1978年から完全な鎖国状態となった。経済は低調で、長年欧州最貧国の扱いを受けていた。国民は皆貧しく、ある意味では平等な状態にあった。

1990年代市場経済が導入された際には、投資会社という名目でねずみ講が蔓延した。ねずみ講は通常、新規参入者がいなくなった時点で資金が集まらなくなり、配当ができなくなることによって破綻する。しかしアルバニアの場合、集めた資金で武器を仕入れ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の紛争当事者へ売り払うことによって収入を得、配当を行っていた[13]。他に、国民の半分がはまったと言われるまでにねずみ講が蔓延した理由としては、社会主義国家鎖国状態であったために、国民に市場経済の金融・経済についての教育が行われず、国民が「投資とはこんなものだ」と思い、ねずみ講の危険性に気づかなかったことも挙げられる[13]。また、武器の購入を通じて麻薬などの組織犯罪アルバニア・マフィア)とも深く関わりを持つこととなり、汚職が蔓延した。ねずみ講投資会社は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結とともに破綻した[13]

その後は経済回復を続け、2000年に世界貿易機関(WTO)加盟。税制改革や、外資を呼び込もうと誘致活動を行っている。外資の誘致については、インフラストラクチャーが脆弱であることが課題となっている[13]。例えばアルバニアの電力は山がちな地形を生かした水力発電が支えており、水力で総発電量の98.8%を占めている。この水力については、施設の老朽化による電力不足が課題となっている[13]。しかし近年では新規の水力発電所の建設、送電線網の更新が進み、2017年頃からは長期の停電のような事態は都市部、地方を含めて起きにくくなっている。

ホッジャを首班とする独裁政権下では、国民は渡航規制、外国書物及び放送の規制を強いられており国民にとっては海外の文化や情報を得る手段は無に等しかった。1990年以降の市場開放により、同じヨーロッパに属する隣国イタリアの名物であるピザや、バナナといった果物を初めて知ったという国民もいた[14]

ユーロ圏への貿易、ギリシャ、イタリアへの出稼ぎが多くユーロ圏の経済に大きく影響を受ける構造である[12]

農業

アルバニアの農家

アルバニアは山がちな地形にも関わらず、国土に占める農地面積が25.5%と高い。伝統的に農業従事者の比率が高く、政府は農業以外の産業確立に苦心してきた。

1940年時点における農業人口の比率は85%であったが、1989年には55%、2004年時点では21%まで下がった。なお、農業人口の減少は同国の経済体制の変化にも原因がある。

1946年に創設された集団農場は成長を続け、1973年には全ての農場が集団化(社会主義化)された。しかしながら1991年に集団農業を放棄したことで、生産額が1年間に20%低下し、一時的に大打撃を受けている。その後、農業生産は持ち直し、労働生産性が向上した。

主な生産品目は主食の小麦、生産額は2004年時点で30万トンである。その他の麦や、トウモロコシジャガイモの生産も盛ん。地中海性気候に適したオリーブブドウザクロクルミレモンメロンオレンジスイカも生産している。

食糧自給率については、1995年時点では95%と発表されていたが、2003年時点では輸入に占める最大の品目が食料品(輸入の19.6%)となっている。 一方、近年では農産物加工品の輸出も盛んになりつつある。

鉱業

マラカスタル県油田

鉱物資源はある[15] が、長年の鎖国政策や、近年の社会的混乱によってインフラが乏しいため、生産は低調である。

典型的なのがクケス市など3カ所の鉱山から採掘されている同国第一の鉱物資源クロム鉱である。第二次世界大戦直前の1938年時点ではわずか7000トンだったクロム鉱の採掘量は、1970年代には世界第3位に達し、1987年には108万トンまで伸びた。しかし、1991年には50万トンに、2003年には9万トンまで落ち込んでいる。同じ傾向は銅鉱(1991年に至る5年間で銅鉱の産出量が半減)、ニッケルについても見られる。

有機鉱物は、品位の低い亜炭原油天然ガスを産出する。石灰岩の生産も見られる。天然アスファルトは生産量こそ少ないものの、アルバニアの特産品として知られている。

工業

工業は、輸出については衣類を中心とした軽工業が主体である。繊維自体の生産は小規模であり、布・皮からの衣服の加工、縫製が主となる。アルバニアの輸出に占める工業製品の割合は82.6%(2003年)に達する。品目別に見ると衣類34.2%、靴などに用いる皮革26.1%であり、輸出工業品目の過半数を占める。この他の工業製品としては鉄鋼、卑金属が輸出に貢献している。

輸出相手国は、イタリアとの関係が深い(輸出の74.9%がイタリア向け)。イタリアの繊維産業と深く結びついた工業形態となっていることが分かる。イタリア企業向けのコールセンターが起業されるなど海外向けのサービス業の発展が近年では顕著である。

観光

2010年頃から南部の海岸地帯を中心に観光業の発展が著しいものとなっている。特にブローラ県ではホテル、リゾートマンションが多数建設され、夏季には多くの国内外の観光客で賑わう。国民の多くが非常に世俗的なイスラム教徒であるため、レストランでのアルコールおよび豚肉料理の提供には制限はなく、内外の観光客で賑わっている。ビーチバー、カフェ、ストリップ劇場も多数営業し、イタリア、中国、ごくわずかながら日本といった海外からの直接投資も始まっている。観光業が経済的なエンジンの一つとなりつつある。

交通

道路インフラの整備が進められており、首都圏では高速道路、環状道路の整備はほぼ完了した。主要な都市を結ぶ高速道路網も整備も進められており、一部の区間では通行できるようになっている。ラマ首相のイニシアチブにより2018年より空港のある首都圏と南部の観光地帯を結ぶ高速道路の建設が本格化した。

鉄道

空運

国民

住民

アルバニア人が大部分であるが、国土の北部と南部では言語や風習に差異がある。南部にはギリシャ人などもいる他、国境付近にはマケドニア人モンテネグロ人もいる。

言語

アルバニア語公用語であるが、北部のゲグ方言と南部のトスク方言に分かれ、標準語はトスク方言に基づいている。歴史的な理由(社会主義時代にイタリアからのラジオを聴くなど)によりイタリア語を話せる高齢者が多い。義務教育課程での英語教育が導入されており若年層のほとんどは英語を話す。南部のサランダを中心とした地域に住むギリシャ系住民の間では、なまりの強いギリシャ語を話す人々もいる。

宗教

ティラナジャーミア・エトヘム・ベウト

アルバニアの宗教を語る上で1967年の共産党政府が「無神国家(無神論国家)」を宣言したことが取り上げられる。マルクス・レーニン主義を国是とする国家では旧ソビエト連邦の首都モスクワにおける救世主ハリストス大聖堂の爆破(1931年)や中華人民共和国の文化大革命(1966-76年)など宗教弾圧は見られた。しかし、これらの国々であっても、宗教の弾圧は徹底されず、(一定の制限はあるが)寺院も宗教団体も存在して、信仰と宗教活動は容認されてきた。

宗教構成(アルバニア)
イスラーム教
  
70%
アルバニア正教会
  
20%
ローマ・カトリック
  
10%
宗教構成(アルバニア、ワトソン研究所の調査より)
特になし
  
70.12%
東方正教会
  
10.33%
イスラーム教(スンニ派)
  
9.43%
ローマ・カトリック
  
8.09%
ベクタシズムイスラム神秘主義の一つ)
  
1.27%
プロテスタント
  
0.6%
その他
  
0.7%

しかし、アルバニアは国内での激しい宗教対立を背景に1967年、共産圏では初めて、内外に「無神国家」を宣言した。これは国民全てがいずれの宗教も信仰しておらず、そのため国内にはいかなる宗教団体および宗教活動は存在しないという宣言である。この世界に類を見ない強力な宗教の弾圧と排除が特筆すべきものになったのは、当時のアルバニアの指導者エンヴェル・ホッジャが過激なスターリン主義者であったことと、アルバニアの国土面積と人口が旧ソ連や中国に比べて極めて小さかったこと、1970年代から鎖国体制に入ったことなどによる。そのため1970年代の鎖国体制以降、アルバニア国外では、アルバニアではどのような宗教が信仰されているのか、どのような宗教活動が行われているのかは、不明という状態となった。

1990年、信教の自由が認められた。現在では多くの人々が穏健で世俗的なムスリム[16]正教徒カトリックであり、異なる宗教の信者間での結婚にいかなる制約もない。異教徒同士のカップルも少なくない。公式のデータは右記の通りである。

一方、最近では、信仰する宗教が特に無いという人々が多数派を占めていると言われている。 ワトソン・インスティテュートワトソン研究所)の2004年度レポート『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』[17] でのデータは以下の通り。また、アメリカ合衆国国務省が出した2007年度レポート『国際的な宗教の自由』[18] でも、国民は無宗教が多数派である事が述べられており、ワトソン研究所の調査と同じ形となっている。 ただし、イラク戦争以後、若者のごく一部に戒律的なイスラム教への回帰も散見されるようになってきた。

婚姻

婚姻では、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)か、配偶者の姓へ改姓し夫婦同姓とするか選択することが可能である[19]

文化

伝統的な男性フォークグループ(スクラパル県)。
アルバニア文学の作家、イスマイル・カダレ
世界遺産ベラト

長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から、「アルバニア人」という民族意識の形成とそれに基づく民族文化の育成が遅れた。アルバニア語の学校教育は1887年に初めて開始され、その頃から民族意識高揚による「アルバニア・ルネサンス運動」が起きた。

第二次世界大戦後の共産主義政権は、共産主義のイデオロギー的影響を強く受けながらも、強力な民族主義的立場で国民の啓蒙と文化水準向上に関する政策を展開した。地中海周辺の諸民族と比べ、比較的に温厚で忍耐強いと言われるが、家父長制的な伝統の要素が社会に残っており、女性の地位向上運動が続いている。

食文化

文学

世界遺産

アルバニア国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日1月2日 元日 Viti i Ri
3月22日 新年の日(春分の日) Nevruz
移動祝日 カトリック復活祭 Pashkët Katolike 日付は復活祭参照。
移動祝日 正教会復活祭 Pashkët Ortodokse 日付は復活祭参照。
5月1日 メーデー Një Maji
10月19日 マザー・テレサの日 Dita e Nënë Terezës
11月28日 独立記念日 Dita e Pavarësisë
11月29日 解放記念日 Dita e Çlirimit
12月25日 クリスマス Krishtlindje
イスラム暦による 犠牲祭 Bajrami i Vogël 移動祭日
イスラム暦による ラマダーン明け大祭 Bajrami Madh 移動祭日

著名な出身者

日本とアルバニアの関係

駐日アルバニア大使館

本文注

  1. ^ a b c d World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月18日閲覧。
  2. ^ イスラム教においてハラール食のタブー)とされる飲酒をしたり、豚肉を食べたりする者も珍しくない。井浦伊知郎『アルバニアインターナショナル』参照。
  3. ^ W.チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦 1』(河出文庫版)P248.
  4. ^ “独裁者の核防空壕を一般公開、観光資源に アルバニア”. AFPBBNews (フランス通信社). (2014年11月24日). http://www.afpbb.com/articles/-/3032532?ctm_campaign=pcpopin 2014年12月23日閲覧。 
  5. ^ 40 Years of Socialist Albania, Dhimiter Picani
  6. ^ Enver Hoxha, "Reflections on China II: Extracts from the Political Diary", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania," Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549.
  7. ^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nëntori Publishing House.
  8. ^ Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107
  9. ^ NHK特集 現代の鎖国アルバニア』(日本放送出版協会、1987年)
  10. ^ “EU、英抜きで再拡大へ バルカン諸国の加盟交渉で合意”. 日本経済新聞. (2020年3月26日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57194850V20C20A3FF8000/ 2020年3月26日閲覧。 
  11. ^ 「イラン包囲網」米主導の船舶護衛活動開始 日本見送り朝日新聞デジタル(2019年11月8日)2019年11月9日閲覧
  12. ^ a b アルバニア共和国(Republic of Albania)基礎データ 日本国外務省(2019年11月9日閲覧)
  13. ^ a b c d e 『アルバニア:「国民平等に貧しい」と「ねずみ講バブル」の関係』2008年3月6日付配信 日経ビジネスオンライン
  14. ^ 佐藤和孝著『戦場でメシを食う』(新潮社)第三章「アルバニア-世界でもっとも孤立した国」
  15. ^ 平野英雄「アルバニアの金属資源」『地質ニュース』531号 1998年11月 pp.43-51 PDF
  16. ^ 2と同じ
  17. ^ 『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』(ワトソン・インスティテュート(Watson Institute))(英語)
  18. ^ アメリカ国務省『国際的な宗教の自由』(英語)
  19. ^ Family Code of Albania, Law Number 9062, Chemonics International Inc., 2003.

参考文献

  • 井浦伊知郎『アルバニアインターナショナル──鎖国・無神論・ネズミ講だけじゃなかった国を知るための45カ国』(社会評論社、2009年8月)ISBN 4-7845-1111-3

関連項目

外部リンク

政府
日本政府
観光