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Japan Vertical Datum 201001.jpg|[[日本水準原点標庫]]
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Jimin Honbu at Tokyo in 2018.jpg|[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]本部
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Democratic Party of Japan headquarters.jpg|[[国民民主党 (日本 2018-)|国民民主党]]本部
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Hibiya-Highschool-00.jpg|[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高等学校]]
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Sannnouparkyoko.JPG|[[山王パークタワー]]
Sannnouparkyoko.JPG|[[山王パークタワー]]

2020年12月25日 (金) 08:35時点における版

日本 > 東京都 > 千代田区 > 永田町
永田町
画像左側が永田町一丁目、右側が永田町二丁目である (参議院通用門前交差点)
画像左側が永田町一丁目、右側が永田町二丁目である
(参議院通用門前交差点)
永田町の位置(東京23区内)
永田町
永田町
永田町の位置
北緯35度40分36.65秒 東経139度44分23.69秒 / 北緯35.6768472度 東経139.7399139度 / 35.6768472; 139.7399139
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 千代田区
地域 麹町地域
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 539人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
100-0014[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 品川
地図永田町の位置

永田町(ながたちょう)は、東京都千代田区の地名。現行行政地名は永田町一丁目および永田町二丁目。住居表示実施済みの地域。郵便番号は100-0014[2]

隣接する霞が関とともに日本の国家中枢機能が集中する。特に国会議事堂を中心に総理大臣官邸(首相官邸)、衆議院議長公邸参議院議長公邸、諸政党の本部などが立地し、日本における国会や議会の場の代名詞でもある。

歴史

地名は、江戸時代初期に永田姓の屋敷が並んでいたので一帯が「永田馬場」と呼ばれたことに由来する。

江戸城に近いことからさらに大名屋敷が建ち並ぶようになり、江戸末期に暗殺された井伊直弼をはじめとする多くの大名の屋敷があった。2003年(平成15年)の旧首相官邸改築工事の際には、村上藩内藤家の屋敷跡が発見された。

1872年(明治5年)以降、現在の憲政記念館から日本水準原点付近に陸軍省参謀本部教育総監部陸軍航空総監部など陸軍中枢が順次置かれるようになった。1941年(昭和16年)12月以降、これらが市ヶ谷台に移転するまでは、「三宅坂」あるいは「永田町」といえば主に参謀本部を指す言葉でもあった。1888年(明治21年)には東京女学館が、翌1889年(明治22年)には女子学習院(当時の華族女学校)が現在の衆・参両議長公邸の地にそれぞれ移転開校し、後に共学の女子学習院幼稚園(当時の華族女学校幼稚園)も置かれた。1908年(明治41年)には永田町小学校(当時の永田町尋常小学校)が開校した。

1923年(大正12年)の関東大震災を機に、現在の霞ヶ関地区の区画再編が行われ、北大路魯山人星岡茶寮を借り受け「美食倶楽部」の拠点とし、また、都立日比谷高校(当時の府立一中)がこの地の「たばこ王」村井吉兵衛の邸宅跡に移転してくる。

1936年(昭和11年)に国会議事堂が完成すると、一挙に政治中枢が集中し、「永田町」は「政界」の代名詞になっていった。また、同年に発生した二・二六事件では、永田町・霞が関・山王下(日枝神社赤坂周辺)周辺一帯を反乱軍が占拠した。

1964年(昭和39年)、東京オリンピックに向けての道路(国会通り)拡幅前は国会議事堂横に民家が数軒存在した。1967年(昭和42年)4月1日住居表示を実施した[4]

町名の変遷

実施後 実施年月日 実施前(特記なければ各町ともその一部)
永田町一丁目 1967年4月1日 永田町一丁目(大部分)、三年町、霞ケ関一丁目、霞ケ関二丁目、霞ケ関三丁目
永田町二丁目 永田町一丁目、永田町二丁目(大部分)
霞が関三丁目 霞ケ関三丁目、三年町、永田町二丁目

世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
永田町一丁目・二丁目 336世帯 539人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[6]

丁目 番地 小学校 中学校
永田町一丁目 全域 千代田区立麹町小学校 千代田区立麹町中学校
千代田区立神田一橋中学校
永田町二丁目 全域

施設・建造物

掲載されているのは一部である。

道路

交通

関係者

居住その他ゆかりある人物

脚注

  1. ^ a b 町丁別世帯数および人口(住民基本台帳)”. 千代田区 (2017年12月6日). 2018年1月2日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月2日閲覧。
  4. ^ 1967年(昭和42年)4月11日自治省告示第81号「住居表示が実施された件」
  5. ^ 区立小学校の通学区域”. 千代田区 (2017年8月17日). 2018年1月2日閲覧。
  6. ^ 区立中学校の通学区域と学校選択”. 千代田区 (2017年10月26日). 2018年1月2日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i 吉田茂は、関東大震災翌年から渋谷神山町牧野伸顕邸隣に居住し、1928年田中義一内閣外務次官就任以降は、永田町の有栖川宮威仁親王邸跡(現内閣府庁舎界隈)の外務次官官舎に居住した。1930年駐伊大使就任以降の留守宅は麻布笄町西竹一男爵邸、帰任後は赤坂台町の旧楠田男爵邸を借り、退官後の1939年、永田町の麻生太賀吉邸(樺山資紀邸→三菱銀行会長串田萬蔵邸→昭和金融恐慌以降の1930年から麻生太賀吉邸)と神山町の自邸を交換し居住した。1944年以降は大磯町に居住した(「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇 竹内正浩 実業之日本社 2017年7月21日発売)。
  8. ^ 総理大臣官邸を参照。
  9. ^ 総理大臣公邸を参照。
  10. ^ 目白豊多摩郡落合村、現在の新宿区下落合)に居住していたが、1924年11月から1929年12月の期間を永田町に居住し、再び目白に転居した(「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇 竹内正浩 実業之日本社 2017年7月21日発売)。
  11. ^ a b c d 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)、神戸大学新聞記事文庫
  12. ^ 村井没後、昭和金融恐慌を経て邸宅敷地は府立一中(現:日比谷高校)に用いられた。
  13. ^ 永田町二丁目、日比谷高校隣、現在のパレロワイヤル永田町に邸宅があった(ちよだの人々 千代田区観光協会)。

関連項目

外部リンク