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前年の2006年から外野のレギュラーを務めていた[[吉村裕基]]を[[一塁手]]へ、[[牛島和彦]]監督時代に「[[クアトロK]]」と呼ばれていた中継ぎ投手陣の[[加藤武治]]と[[川村丈夫]]を先発へ、中継ぎ左腕不足の事情から[[那須野巧]]を先発から中継ぎへ、2008年のシーズン途中には[[吉見祐治]]を先発と中継ぎを掛け持ちさせ、同じくシーズン途中から先発の[[寺原隼人]]を、[[マーク・クルーン]]の移籍によって手薄になっていた[[リリーフ#抑え|抑え]]へ転向させるなど、第1期同様積極的なコンバート策を打っている。2007年の那須野はほぼ年間を通して左の中継ぎとして活躍したが<ref group="注">翌年からチーム事情から先発に戻ったが、先発としては結果を残せなかった。</ref>、加藤と川村はローテーションを守れず、失敗に終わっている。また、吉村の一塁コンバートにより、前年2006年の不調から一転して開幕から復調したベテラン一塁手・[[佐伯貴弘]]は年間を通じて[[外野手]]として出場することになった<ref group="注">吉村はその翌年には佐伯と入れ替わる形で[[外野手]]に戻っている。</ref>。
前年の2006年から外野のレギュラーを務めていた[[吉村裕基]]を[[一塁手]]へ、[[牛島和彦]]監督時代に「[[クアトロK]]」と呼ばれていた中継ぎ投手陣の[[加藤武治]]と[[川村丈夫]]を先発へ、中継ぎ左腕不足の事情から[[那須野巧]]を先発から中継ぎへ、2008年のシーズン途中には[[吉見祐治]]を先発と中継ぎを掛け持ちさせ、同じくシーズン途中から先発の[[寺原隼人]]を、[[マーク・クルーン]]の移籍によって手薄になっていた[[リリーフ#抑え|抑え]]へ転向させるなど、第1期同様積極的なコンバート策を打っている。2007年の那須野はほぼ年間を通して左の中継ぎとして活躍したが<ref group="注">翌年からチーム事情から先発に戻ったが、先発としては結果を残せなかった。</ref>、加藤と川村はローテーションを守れず、失敗に終わっている。また、吉村の一塁コンバートにより、前年2006年の不調から一転して開幕から復調したベテラン一塁手・[[佐伯貴弘]]は年間を通じて[[外野手]]として出場することになった<ref group="注">吉村はその翌年には佐伯と入れ替わる形で[[外野手]]に戻っている。</ref>。


また2008年、2009年は先発投手陣が弱かったため<ref group="注">第1期時代の先発投手だった[[野村弘樹]]が引退、斎藤、川村のリリーフ転向以降、エースの[[三浦大輔]]、年によって先発とリリーフを行き来する吉見以外の新たな先発投手が育たず、第2期1年目の2007年は寺原、[[土肥義弘]]、[[工藤公康]]の移籍先発投手陣の活躍もあり4位に入るも、2008年も寺原のリリーフ転向と土肥、工藤の不調などによって先発陣が不足した。</ref>、リリーフに頼らざるをえない状況であった。ワンポイント継投が多く、一試合に多数の投手を起用することがしばしばあった<ref group="注">インターネット上の[[電子掲示板|掲示板]]サイト、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]系サイトでは、[[マシンガン打線]]をもじって「'''マシンガン継投'''」と{{読み仮名|揶揄|やゆ}}されるほどであった{{要出典|date=2018年3月}}。</ref><ref group="注">大矢退任後も先発陣の弱体化が続いたため、後任の[[尾花高夫]]も頻繁に投手交代を行っており、尾花は2011年に1シーズンの投手登板のべ人数664人の新記録を作っている。</ref>。
また2008年、2009年は先発投手陣が弱かったため<ref group="注">第1期時代の先発投手だった[[野村弘樹]]が引退、斎藤、川村のリリーフ転向以降、エースの[[三浦大輔]]、年によって先発とリリーフを行き来する吉見以外の新たな先発投手が育たず、第2期1年目の2007年は寺原、[[土肥義弘]]、[[工藤公康]]の移籍先発投手陣の活躍もあり4位に入るも、2008年も寺原のリリーフ転向と土肥、工藤の不調などによって先発陣が不足した。</ref>、リリーフに頼らざるをえない状況であった。ワンポイント継投が多く、一試合に多数の投手を起用することがしばしばあった<ref group="注">インターネット上の[[電子掲示板|掲示板]]サイト、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]系サイトでは、[[マシンガン打線]]をもじって「'''マシンガン継投'''」と{{読み仮名|揶揄|やゆ}}されるほどであった{{要出典|date=2018年3月}}。</ref><ref group="注">大矢退任後も先発陣の弱体化が続いたため、後任の[[尾花髙夫|尾花高夫]]も頻繁に投手交代を行っており、尾花は2011年に1シーズンの投手登板のべ人数664人の新記録を作っている。</ref>。


投手の起用法については「ベテランに敗戦処理をさせても意味はない(プライドを傷つけられて腐るだけ)」「若い、経験の少ない投手なら敗戦処理でも『投げさせてもらえる』とプラスに作用させられる」という持論を持っている{{要出典|date=2018年3月}}。
投手の起用法については「ベテランに敗戦処理をさせても意味はない(プライドを傷つけられて腐るだけ)」「若い、経験の少ない投手なら敗戦処理でも『投げさせてもらえる』とプラスに作用させられる」という持論を持っている{{要出典|date=2018年3月}}。

2020年12月23日 (水) 05:04時点における版

大矢 明彦
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都大田区
生年月日 (1947-12-20) 1947年12月20日(76歳)
身長
体重
172 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1969年 ドラフト7位
初出場 1970年4月22日
最終出場 1985年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

大矢 明彦(おおや あきひこ、1947年12月20日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手捕手)・監督野球解説者

セ・リーグ初の捕手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。

経歴

プロ入りまで

早実高では1964年、2年生の時に、前年春の選抜で準決勝進出を果たした[1]織田和男、新藤克己の両投手とバッテリーを組み、夏の甲子園東京都予選に出場。優勝候補と目され決勝に進出するが、修徳高のエース成田文男に抑えられ敗退。翌1965年夏の都予選準々決勝では萩原康弘一塁手原田治明外野手のいた荏原高に延長15回サヨナラ負け、甲子園には届かなかった。この予選の4回戦では、投手として都立大附高からノーヒットノーランを記録している。高校の1年上に織田、新藤の他、一塁手内田圭一、同期に遊撃手荒川(当時は出沢)尭がいる。

卒業後は駒澤大学へ進学。東都大学リーグでは1年上のエース野村収とバッテリーを組み、1968年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で田淵幸一らのいた法大に敗れ準優勝。しかし翌1969年には、エース佐藤道郎を擁する日大に春秋季連続優勝を許す。リーグ通算94試合出場、326打数84安打打率.258、12本塁打、53打点。ベストナイン4回(捕手3回、一塁手1回)受賞。大学同期にヤクルト入りした内田順三外野手がいる。

現役時代

1969年ドラフト7位でヤクルトアトムズに入団。1年目の1970年シーズン中に当時の正捕手加藤俊夫が交通事故を引き起こし、球団から出場停止処分を受けたこともあり、以後レギュラーとしてマスクをかぶる。1971年には初の規定打席(23位、打率.231)に到達し、オールスターゲームでもファン投票で初出場を果たす。1978年には正捕手としてヤクルト球団初のリーグ優勝に貢献。4月5日の阪神タイガース戦では代打で古沢憲司からサヨナラ本塁打を打っている[2]阪急との日本シリーズでも全7戦に先発出場し24打数6安打4打点1本塁打を記録、投手陣を好リードしチームを日本一に導く。1980年には打率.283(16位)の好成績を残した。

しかし1981年に故障して膝に水が溜まるようになってからは攻守両面で大きく成績を落とし、1983年には同じ年に高卒で入団した八重樫幸雄に正捕手の座を明け渡した。翌1984年からコーチ兼任となり[3]1985年に38歳で現役を引退した。医者から「これ以上やったら50歳で歩けなくなりますよ」と言われたことで決断したという[4]

引退後

引退後、日本テレビ系列の解説者に内定していたが、松園尚巳オーナーの鶴の一声で[5]1986年から1992年までフジテレビニッポン放送の野球解説者、サンケイスポーツ専属評論家として活動。その傍らでフジテレビ系『ものまね王座決定戦』の審査員も長く務め、現役時代を知らなかった、もしくは野球に興味を持っていなかったお茶の間の視聴者にも大矢の名前と顔が広く知られた。

1991年オフに日本ハムファイターズの監督の要請を受けるが交渉が難航し就任に至らなかった[6]

1993年から1995年まで横浜ベイスターズのバッテリーコーチを務め、谷繁元信を徹底的に鍛え上げて一流の捕手へと育てた[7][8]1996年、前年度チーム16年ぶりの勝ち越しを決めながらも退任した近藤昭仁の後任として横浜の監督に昇格。1年目は春先は好調も、最下位だった阪神タイガースに1ゲーム差と迫られる、同一リーグ全球団負け越しを喫する5位と、完全最下位寸前の成績に終わる。2年目の1997年にはマシンガン打線を擁し37年ぶりのリーグ優勝に迫るシーズン2位の成績を残すも、同年シーズン終盤、野手チーフコーチの弘田澄男の解任を示唆された[注 1]ことで球団と対立し、監督を辞任した。

その後、1998年から2006年までフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、サンケイスポーツ評論家として復帰(実は1998年オフ、野村克也のヤクルト監督退任時に後任候補として名が挙がっていたが「教え子たちと戦う事は辛い」として辞退)。

2007年、横浜の監督に再び就任。1年目はシーズン4位の成績を残すも、翌2008年は優勝した巨人に36.5ゲーム差、5位ヤクルトに19ゲーム差も離されるなど開幕から最下位から抜け出せないままシーズンを終了。2009年も開幕からチームは6連敗をするなど、37試合を終えた時点で13勝24敗と最下位に低迷。同年5月18日をもって無期限休養[9]に入り、シーズン終了後、正式に退任した。

2010年から再びフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者を務めている。また、「サントリー ザ・プレミアム・モルツ ドリームマッチ」でモルツ球団に相対するチーム「ドリームヒーローズ」のゼネラルマネージャーを務めている[10]

二女の大矢陽子は、2004年から2005年に横浜ベイスターズの2代目オフィシャル・リポーターを務めていた。

プレースタイル

それまでの「太め、鈍足」という印象のあった捕手像とはそぐわないスマートな身体・甘いマスクの持ち主で、「鉄砲肩の殺し屋」[11]と称された球界一とも言われる強肩を武器に、長く正捕手として活躍[12]。球審の特徴や癖を把握してゲームに活かすのが上手く、松岡弘安田猛などヤクルトの投手が活躍した陰には、大矢の功績が大きいと言われる[13][信頼性要検証][14]

監督として

第1期監督時代

第1期では三塁手として3年連続でゴールデングラブ賞を獲得していた石井琢朗遊撃手に、遊撃手だった進藤達哉二塁手に、二塁手だったロバート・ローズを三塁手へと入れ替える、(一塁手の駒田徳広以外の)内野総コンバート策を打ち出したり、当時手薄だった先発陣を増強するために、リーグを代表する中継ぎエースであった盛田幸希を先発投手に転向させ、先発・中継ぎ・抑えと便利屋的な役割を担っていた五十嵐英樹をセットアッパーに固定した。石井は遊撃手としてのチーム歴代最多出場記録を残す遊撃手に成長したものの、進藤は遊撃手とは異なる二塁手の逆スローの動きから腰を故障をして早々に戦線を離脱。ローズも三塁でエラーを多発したため5月末にはレギュラー不在の二塁手に戻り、復帰した進藤は空いた三塁に入って、実質石井と進藤の入れ替えという形になった。また、五十嵐のセットアッパー転向は成功したものの、盛田の先発転向は成功しなかった[注 2]

1996年は、前年に先発ローテーション投手に二桁勝利投手が1人もいなかったという状況から、先発投手陣に完投を求め、完投数はリーグ2位の25を記録した[注 3]。特にエース格の斎藤隆には延長戦を1人で投げさせるなど11完投をさせている。しかし完投こそ増えたものの失点はリーグワーストの660点を記録し、チーム防御率も同じくリーズワーストの4.67と、前年度の4.37よりさらに悪化した。

また第1期は、コーチ時代からマンツーマンで指導していた、それまで半レギュラー扱いであった谷繁元信を積極的に起用し、リーグを代表する捕手に育て上げている[4]

1997年は、大矢の施したチーム改革が浸透してシーズン最終盤までヤクルトと優勝争いを繰り広げた。8月に20勝6敗の驚異的ペースで勝ち星を積み上げて首位ヤクルトとゲーム差3.5まで追いすがるが、9月2日の直接対決で石井一久ノーヒットノーランを喫し、翌日も先発した田畑一也を3回途中で降板させる野村克也監督の非情采配を前に力尽きた[15]。最終的にリーグ2位の成績を残しながらも解任され、シーズン最終戦後、大矢は選手たちに胴上げされた[16]

第2期監督時代

前年の2006年から外野のレギュラーを務めていた吉村裕基一塁手へ、牛島和彦監督時代に「クアトロK」と呼ばれていた中継ぎ投手陣の加藤武治川村丈夫を先発へ、中継ぎ左腕不足の事情から那須野巧を先発から中継ぎへ、2008年のシーズン途中には吉見祐治を先発と中継ぎを掛け持ちさせ、同じくシーズン途中から先発の寺原隼人を、マーク・クルーンの移籍によって手薄になっていた抑えへ転向させるなど、第1期同様積極的なコンバート策を打っている。2007年の那須野はほぼ年間を通して左の中継ぎとして活躍したが[注 4]、加藤と川村はローテーションを守れず、失敗に終わっている。また、吉村の一塁コンバートにより、前年2006年の不調から一転して開幕から復調したベテラン一塁手・佐伯貴弘は年間を通じて外野手として出場することになった[注 5]

また2008年、2009年は先発投手陣が弱かったため[注 6]、リリーフに頼らざるをえない状況であった。ワンポイント継投が多く、一試合に多数の投手を起用することがしばしばあった[注 7][注 8]

投手の起用法については「ベテランに敗戦処理をさせても意味はない(プライドを傷つけられて腐るだけ)」「若い、経験の少ない投手なら敗戦処理でも『投げさせてもらえる』とプラスに作用させられる」という持論を持っている[要出典]

正捕手には2007年2008年相川亮二を起用した。2008年オフに相川がFA移籍したため阪神からFAで野口寿浩を獲得して2009年に臨んだ。が、運悪く野口がキャンプ中に右肩の腱を断裂してしまい[17]、ルーキーの細山田武史に期待を掛け、積極的に起用していたが、大矢自身はシーズン途中で休養に追い込まれた。

結果として1年目は4位で終われたものの、2年目・3年目ともに90敗・勝率3割台で、首位とのゲーム差が2年目36.5、3年目42.5と大きく差をつけられての最下位となった。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1970 ヤクルト 93 281 255 17 52 10 1 6 82 27 1 2 9 0 16 4 1 43 7 .204 .254 .322 .575
1971 127 432 377 29 87 16 3 10 139 40 2 3 18 5 28 7 4 39 9 .231 .287 .369 .656
1972 120 416 361 44 97 24 2 5 140 40 6 2 15 4 36 12 0 33 9 .269 .332 .388 .719
1973 121 393 355 28 67 8 2 7 100 21 3 2 10 3 25 7 0 46 14 .189 .240 .282 .522
1974 130 471 431 31 103 20 0 13 162 41 6 3 6 4 28 7 2 44 11 .239 .286 .376 .662
1975 130 466 436 27 106 17 0 9 150 43 2 3 0 4 26 8 0 38 14 .243 .283 .344 .627
1976 122 454 408 30 93 17 1 7 133 42 4 4 9 1 34 3 2 29 14 .228 .290 .326 .616
1977 85 308 282 28 71 14 1 8 111 29 1 1 4 4 17 7 1 30 5 .252 .293 .394 .686
1978 118 408 365 44 98 13 0 7 132 44 2 2 13 3 26 2 1 29 10 .268 .316 .362 .678
1979 100 342 321 26 87 10 0 6 115 31 6 3 4 1 11 1 5 32 7 .271 .305 .358 .663
1980 110 404 368 35 104 15 3 8 149 50 1 10 4 4 25 2 3 32 14 .283 .330 .405 .735
1981 82 234 213 21 47 8 3 2 67 23 2 1 9 2 10 1 0 18 10 .221 .253 .315 .568
1982 81 271 247 16 67 9 0 1 79 18 3 1 2 3 18 7 1 25 5 .271 .320 .320 .640
1983 66 178 150 12 39 5 1 2 52 20 1 1 5 2 21 5 0 16 3 .260 .347 .347 .693
1984 50 89 77 10 23 1 1 2 32 9 1 0 4 0 7 0 1 6 1 .299 .365 .416 .780
1985 17 20 19 1 3 1 0 0 4 1 0 0 1 0 0 0 0 6 0 .158 .158 .211 .368
通算:16年 1552 5167 4665 399 1144 188 18 93 1647 479 41 38 113 40 328 73 21 466 133 .245 .295 .353 .648
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績



捕手












1970 ヤクルト 88 88 38 50 .568 3
1971 126 144 85 59 .410 12
1972 119 80 36 44 .550 4
1973 121 71 41 30 .424 5
1974 130 87 39 48 .552 6
1975 130 104 54 50 .481 2
1976 121 82 41 41 .500 3
1977 84 59 32 27 .458 2
1978 114 82 48 34 .415 7
1979 92 76 47 29 .382 4
1980 110 103 55 48 .466 2
1981 65 53 33 20 .377 2
1982 79 67 54 13 .194 2
1983 56 52 41 11 .212 3
1984 47 19 15 4 .211 1
1985 15 9 8 1 .111 1
通算 1497 1176 667 509 .433 59

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1996年 横浜 5位 130 55 75 0 .433 22.0 85 .270 4.67 49歳
1997年 2位 135 72 63 0 .533 11.0 105 .273 3.70 50歳
2007年 4位 144 71 72 1 .497 9.0 124 .265 4.01 60歳
2008年 6位 144 48 94 2 .338 36.5 145 .266 4.74 61歳
2009年 6位 144 51 93 0 .354 42.5 128 .239 4.36 62歳
通算:5年 590 259 328 3 .441 Aクラス1回、Bクラス3回
※1 1996年は130試合制
※2 1997年から2000年までは135試合制
※3 2007年からは144試合制
※4 2009年はシーズン途中から休養。以降の監督代行は田代富雄
※5 通算成績は、2009年の休養後の107試合を含めない。

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1978年8月6日、対広島東洋カープ17回戦(藤崎台県営野球場)、7番・捕手として先発出場 ※史上202人目
  • 1000安打:1981年7月15日、対中日ドラゴンズ14回戦(明治神宮野球場)、2回裏に小松辰雄から右前安打 ※史上120人目
  • 1500試合出場:1984年7月27日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上79人目
その他の記録

背番号

  • 32 (1970年)
  • 27 (1971年 - 1985年)
  • 75 (1993年 - 1995年)
  • 81 (1996年 - 1997年)
  • 85 (2007年 - 2009年)[注 9]

関連情報

出演番組

著作

  • 大矢明彦『プロ野球ニュースおもしろデータ』フジテレビ出版、1987年5月。ISBN 4893531409NCID BA56824229 
  • 大矢明彦『捕手の目で見るとプロ野球はこんなに面白い』リム出版、1991年6月。ISBN 4871201333NCID BA32751903 
  • 大矢明彦「敗軍の将,兵を語る 大矢明彦氏(横浜ベイスターズ前監督)--積極野球に悔いはない来年も監督続けたかったが…」『日経ビジネス』第915号、日経BP社、1997年11月10日、109-112頁、ISSN 00290491NAID 40002806535 
  • 大矢明彦『大矢明彦的「捕手」論』二見書房、2002年4月。ISBN 4576020684NCID BA57666043 

資料映像

参考文献

脚注

注記

  1. ^ 前年にも権藤博をヘッドコーチ格で招聘しょうへいしたのに伴い、当時ヘッドコーチだった弘田の解任を打診されたがその際もこれを頑として拒み、その意志が強いことを示すために契約更改の日に頭を丸めて現れた。結局弘田の解任は回避されたが、権藤がバッテリーチーフコーチ、弘田が野手チーフコーチとヘッド格のコーチが2人置かれる事態となった(矢島裕紀彦 1998, pp. &#91, 要ページ番号&#93, )。
  2. ^ 深刻な先発投手不足とオープン戦では好投していたので、盛田は翌1997年にも開幕投手を任せられている。
  3. ^ 完投数リーグ1位は優勝した巨人の30。
  4. ^ 翌年からチーム事情から先発に戻ったが、先発としては結果を残せなかった。
  5. ^ 吉村はその翌年には佐伯と入れ替わる形で外野手に戻っている。
  6. ^ 第1期時代の先発投手だった野村弘樹が引退、斎藤、川村のリリーフ転向以降、エースの三浦大輔、年によって先発とリリーフを行き来する吉見以外の新たな先発投手が育たず、第2期1年目の2007年は寺原、土肥義弘工藤公康の移籍先発投手陣の活躍もあり4位に入るも、2008年も寺原のリリーフ転向と土肥、工藤の不調などによって先発陣が不足した。
  7. ^ インターネット上の掲示板サイト、SNS系サイトでは、マシンガン打線をもじって「マシンガン継投」と揶揄やゆされるほどであった[要出典]
  8. ^ 大矢退任後も先発陣の弱体化が続いたため、後任の尾花高夫も頻繁に投手交代を行っており、尾花は2011年に1シーズンの投手登板のべ人数664人の新記録を作っている。
  9. ^ 2度目の横浜監督就任時の背番号85は第1期横浜監督時代にバッテリーコーチを務め、前年に白血病で死去した小山昭晴の背番号を選んだ。

出典

  1. ^ 毎日新聞社 編 編『選抜高等学校野球大会60年史』毎日新聞社、1989年、[要ページ番号]頁。 
  2. ^ サヨナラ本塁打”. 球団アーカイブ. 東京ヤクルトスワローズ. 2017年8月11日閲覧。
  3. ^ 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』ベースボール・マガジン社、1992年、442-423頁。ISBN 4583030339 
  4. ^ a b 横浜での恩師・大矢明彦氏が語る中日・谷繁の“修業時代”」『日刊ゲンダイ』日刊現代、2015年7月29日。2017年8月11日閲覧。
  5. ^ 週刊ポスト』8月11日号、小学館、2017年、19頁。 
  6. ^ 【復刻】日本ハム次期監督、土橋正幸氏」『nikkansports.com日刊スポーツ新聞社、2013年8月26日。2017年8月11日閲覧。
  7. ^ 谷繁元信 (2017年7月23日). “元中日・谷繁が語る、「本当の結果」を出す方法”. 東洋経済ONLINE. 東洋経済新報社. p. 3. 2017年8月11日閲覧。
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関連項目

外部リンク