「槇村正直」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
link、カテゴリ追加、{{京都府知事}}と重複する{{Succession box}}除去 |
m Bot作業依頼: はしごだかの人物の改名に伴うリンク修正依頼 (髙嶋政宏) - log |
||
83行目: | 83行目: | ||
* [[新京極通]] |
* [[新京極通]] |
||
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]](1977年・NHK大河ドラマ)-演:[[池田鴻]] |
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]](1977年・NHK大河ドラマ)-演:[[池田鴻]] |
||
* [[八重の桜]](2013年・NHK大河ドラマ)-演:[[ |
* [[八重の桜]](2013年・NHK大河ドラマ)-演:[[髙嶋政宏]] |
||
{{-}} |
{{-}} |
||
{{Start box}} |
{{Start box}} |
2020年12月23日 (水) 04:04時点における版
槇村 正直 | |
---|---|
| |
生年月日 | 1834年6月29日 |
没年月日 | 1896年4月12日(61歳没) |
前職 | 長州藩士 |
称号 | 従二位、勲一等瑞宝章、男爵 |
配偶者 | 槇村千賀 |
第2代京都府知事 | |
在任期間 | 1875年7月 - 1881年1月 |
在任期間 | 1881年1月29日 - 1890年6月30日 |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1896年4月21日 |
槇村 正直(まきむら まさなお、天保5年5月23日(1834年6月29日) - 明治29年(1896年)4月21日)は日本の官僚、政治家。貴族院議員、男爵。幼名・半九郎。
経歴
長州藩郷士・丹藤左衛門正純の二男として生まれ、21歳で槇村満久の養子となる[1]。藩右筆役を経て明治元年(1868年)、議政官史官試補となる[1]。同年、京都府に出仕。
権大参事、大参事、参事などを歴任[1]。小野組転籍事件を起こし明治6年(1873年)10月に勾留され、同年12月31日に罰金30円の判決を受けた。
明治8年(1875年)7月に京都府知事となり、東京奠都により人口が減少し、荒廃した京都の復興に尽力した[1]。
明治13年(1880年)5月、京都府会の同意を得ず地租追徴を決定する。山本覚馬が議長を務める府会は反発すると、槇村は追徴を撤回し府会に追徴議案を提出し、議案は可決する。
明治14年(1881年)1月、元老院議官となる[1]。明治20年(1887年)5月24日、男爵を授爵し華族となる[2]。明治23年(1890年)2月から行政裁判所長官となり、また同年7月に貴族院議員(男爵議員)となり、ともに死去するまで務めた。
明治28年(1896年)4月21日に死去。死後、爵位は長男・正介が継承したが、昭和8年(1933年)に嗣子なく没したため、家系は断絶している。墓は青山霊園にあったが無縁仏となり撤去された。
人物・逸話
- 明治4年(1871年)10月に開かれた第1回京都博覧会に際し、春季の博覧会の余興として槇村が祇園の芸妓・舞妓の舞を公開させたのが都をどりの始まりとされている[1]。
- 明治5年(1872年)、「非科学的である」との理由で五山送り火をはじめとするお盆の諸行事を禁止した(槇村離任後の明治16年(1883年)に解除)。
- 明治9年(1876年)、府令をもって「撃剣の稽古をなす者は国事犯嫌疑者として監禁する」とし、剣術を禁止した[3]。
栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
- ^ a b c d e f 光永俊郎「京都を復活させた敏腕知事 - 文明開化に尽力した槇村正直」『近代日本の創造史』第7巻、近代日本の創造史懇話会、2009年、3-13頁、doi:10.11349/rcmcjs.7.3。
- ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
- ^ 後任の知事北垣国道は剣術を奨励し、のちに京都は大日本武徳会の本部となった
- ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 長谷信篤 |
京都府知事 第2代:1875年7月 - 1880年1月 |
次代 北垣国道 |
先代 (新設) |
行政裁判所長官 初代:1890年6月30日 - 1896年4月21日 |
次代 箕作麟祥 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 槇村(正直)家初代 1887年 - 1896年 |
次代 槇村正介 |