「近衛経家」の版間の差分
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* [[はにふの物語]] - [[御伽草子]]の一つ。[[石山寺|石山観音]]の霊験によって、「南方の近衛殿の[[公達]]」(経家?)など、濁世の人々の魂が救済されるという内容。 |
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2020年12月17日 (木) 22:33時点における版
時代 | 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 元弘2年/正慶元年(1332年) |
死没 | 元中6年/康応元年(1389年)? |
別名 | 冬経、平田、福恩寺? |
官位 |
従三位・左近衛中将(北朝) 関白・内大臣?(南朝) |
主君 | 光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後村上天皇→長慶天皇? |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛経忠、母:花山院家定娘 |
兄弟 | 大覚?、経家、冬実、実玄、勝子? |
子 | 近衛殿? |
近衛 経家(このえ つねいえ)は、南北朝時代の公卿。関白左大臣・近衛経忠の子。官位は従三位・左近衛中将。南朝へ出仕し、関白に昇った。大和国平田荘に住していたことから、平田関白と号する。名は冬経(ふゆつね)とも。
経歴
初めは北朝に仕えたが、父・経忠が南朝へ出奔したために叙爵が遅れることとなった。正平元年/貞和2年(1346年)12月に15歳で元服して禁色・昇殿を許され、正五位上・右近衛権少将に叙任。翌正平2年/貞和3年(1347年)1月に従四位上、11月に従三位へ越階昇叙されているが[1]、以降北朝での昇進は見られない。
正平8年/文和2年(1353年)5月実相寺へ伊賀国平柿荘を寄進したが[2]、その文書では文和の北朝元号を使用している上、8月に足利義詮が寄進を安堵せしめる旨の文書もある。また、同年6月に南軍が京都を回復した際、後光厳天皇の退避した延暦寺に経家も参じているので、当時なお北朝に仕えていたことは確かであろう。ところが、正平11年/延文元年(1356年)7月佐々木道誉と結託し、幕府の命と称して家門の回復を図ったため、右大臣道嗣によってこれを拒否されている[3]。当時、「南方前執柄」[4]として平田荘に住していたというから、恐らく北朝での昇進を見限って正平8年(1353年)南朝へ参じ、同11年(1356年)まで関白を務めていたと考えられる。
その後の動向については史料を欠くため、全く不明という他ないが、北朝での昇進が見られないことに加え、子と思われる人物が南朝に仕えていること(後述)からすれば、やはり南朝にて官途を歩んだ可能性が高い。その場合、二条教基が散位(前関白)であった正平15年/延文5年(1360年)頃に再び関白に在職していたか。正平19年/貞治3年(1364年)後村上天皇に書物を進覧した「前関白経」[5]や『新葉和歌集』作者の「福恩寺前関白内大臣」(13首入集)[6]を経家に比定する説もある。
『公卿補任』によれば、元中6年/康応元年(1389年)に薨去したとされるが、検討の余地が残る。確実な歌作としては、『菟玖波集』に連歌1句が入集。
子孫
経家の子孫について、『尊卑分脈』・『摂家系図』(東京大学史料編纂所蔵)などは何も記していない。ただ、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一の際に南朝の関白であった「近衛殿」(『南山御出次第』)は、世代的に見て経家の子であろう。この「近衛殿」は名も不明であるが、『看聞日記』応永23年(1416年)11月9日条によれば、花山院遺跡の相続者が絶えたために、「南方近衛」の12歳の子息を耕雲の猶子として迎えて遺跡を継がせたといい、これが後の花山院持忠であるとされる。
脚注
- ^ 経家と家門を争っていた近衛道嗣(基嗣の子)は同齢でありながら、この年既に内大臣に就任していた。
- ^ 『東寺文書』文和2年5月13日付近衛経家御教書
- ^ 『愚管記』延文元年7月22日条
- ^ 『園太暦目録』延文元年7月4日条。「執柄(しっぺい)」とは、摂政・関白の異称である。
- ^ 『大間成文抄』第一上・下の後村上天皇奥書に「正平十九年四月六日、(於灯下)静一見之、依前関白経、所進也(下略)」とある。
- ^ 経家を「福恩寺関白」に比定する『南朝公卿補任』によれば、南朝における経家の官歴は以下のとおり。
正平7年(1352年)従二位権大納言、同11年(1356年)正二位、同12年(1357年)左大将、同13年(1358年)内大臣、同14年(1359年)従一位、同20年(1365年)関白氏長者、同24年(1369年)辞職・薨去。
参考文献
- 『大日本史料』6編20冊、延文元年7月22日条
- 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
- 森茂暁 「南北朝期の近衛家門について」(『陽明叢書記録文書篇月報』11 思文閣出版、1986年1月)
- 『伊賀市史 第1巻 通史編(古代・中世)』 伊賀市、2011年