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第23代[[マー伯爵]]{{Refnest|group=注釈|1572年没の[[ジョン・アースキン (第18代マー伯)|ジョン・アースキン]]は1565年にマー伯爵の爵位を回復したが、1875年の[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]裁決と1885年の議会立法の結果、爵位復活と爵位創設の両方が行われたものとみなされ<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Mar, Earldom of|volume=17|pages=665–666|last=Round|first=John Horace|authorlink=ジョン・ホレス・ラウンド}}</ref>、本記事の人物は中世創設の爵位では「第23代マー伯爵」、1565年創設の爵位では「第6代マー伯爵」となる。また、『クラクロフト貴族名鑑』など1435年没の{{仮リンク|アレクサンダー・ステュアート (第12代マー伯爵)|en|Alexander Stewart, Earl of Mar|label=第12代マー伯爵アレクサンダー・ステュアート}}を正式な伯爵として数えない文献もあり<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
第23代[[マー伯爵]]{{Refnest|group=注釈|1572年没の[[ジョン・アースキン (第18代マー伯)|ジョン・アースキン]]は1565年にマー伯爵の爵位を回復したが、1875年の[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]裁決と1885年の議会立法の結果、爵位復活と爵位創設の両方が行われたものとみなされ<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Mar, Earldom of|volume=17|pages=665–666|last=Round|first=John Horace|authorlink=ジョン・ホレス・ラウンド}}</ref>、本記事の人物は中世創設の爵位では「第23代マー伯爵」、1565年創設の爵位では「第6代マー伯爵」となる。また、『クラクロフト貴族名鑑』など1435年没の{{仮リンク|アレクサンダー・ステュアート (第12代マー伯爵)|en|Alexander Stewart, Earl of Mar|label=第12代マー伯爵アレクサンダー・ステュアート}}を正式な伯爵として数えない文献もあり<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/mar1114.htm|date=18 March 2013|accessdate=10 November 2019}}</ref>、その場合は本記事の人物が中世創設の爵位における「第22代マー伯爵」となる。}}'''ジョン・アースキン'''({{lang|en|John Erskine, 23rd Earl of Mar}}, [[1675年]] - [[1732年]]5月)は、[[イギリス]]・[[スコットランド]]の貴族、政治家。[[アン (イギリス女王)|アン女王]]時代の[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]政権で[[スコットランド担当大臣]]を務めていたが、[[1714年]]に[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]と[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]によって解任された。それを恨んで[[ジャコバイト]]となり、[[1715年ジャコバイト蜂起|1715年のジャコバイト蜂起]]ではジャコバイト軍の指揮官となった。 |
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[[1675年]]に第22代マー伯{{仮リンク|チャールズ・アースキン (第22代マー伯)|label=チャールズ・アースキン|en|Charles Erskine, Earl of Mar}}とその妻メアリー・モール(第2代{{仮リンク|パンミュア伯爵|en|Earl of Panmure}}[[ジョージ・モール (第2代パンミュア伯爵)|ジョージ・モール]]の娘)の息子として生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p2589.htm#i25884|title=John Erskine, 23rd/6th Earl of Mar|accessdate= 2017-11-11 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP EM">{{Cite web |title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
[[1675年]]に第22代マー伯{{仮リンク|チャールズ・アースキン (第22代マー伯)|label=チャールズ・アースキン|en|Charles Erskine, Earl of Mar}}とその妻メアリー・モール(第2代{{仮リンク|パンミュア伯爵|en|Earl of Panmure}}[[ジョージ・モール (第2代パンミュア伯爵)|ジョージ・モール]]の娘)の息子として生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p2589.htm#i25884|title=John Erskine, 23rd/6th Earl of Mar|accessdate= 2017-11-11 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP EM">{{Cite web |title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/mar1114.htm|accessdate= 2017-10-26|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。 |
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2020年12月4日 (金) 05:50時点における版
第23代マー伯爵 ジョン・アースキン John Erskine 23rd Earl of Mar | |
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| |
生年月日 | 1675年 |
出生地 | スコットランド王国 |
没年月日 | 1732年5月 |
死没地 | 帝国自由都市アーヘン |
所属政党 | ホイッグ党→トーリー党→ホイッグ党→トーリー党→ジャコバイト[1] |
称号 | 第23代マー伯、第6代マー伯、第11代アースキン卿、シッスル勲章勲爵士(KT)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 |
(1)マーガレット(旧姓ヘイ) (2)フランセス(旧姓ピエールポント) |
内閣 |
ゴドルフィン=マールバラ内閣 ハーレー内閣 |
在任期間 |
1707年5月1日 - 1709年2月3日 1713年9月30日 - 1714年9月24日 |
貴族院議員 | |
選挙区 | スコットランド貴族代表議員 |
在任期間 | 1707年2月13日 - 1715年1月5日 |
第23代マー伯爵[注釈 1]ジョン・アースキン(John Erskine, 23rd Earl of Mar, 1675年 - 1732年5月)は、イギリス・スコットランドの貴族、政治家。アン女王時代のトーリー党政権でスコットランド担当大臣を務めていたが、1714年にジョージ1世とホイッグ党によって解任された。それを恨んでジャコバイトとなり、1715年のジャコバイト蜂起ではジャコバイト軍の指揮官となった。
経歴
1675年に第22代マー伯チャールズ・アースキンとその妻メアリー・モール(第2代パンミュア伯爵ジョージ・モールの娘)の息子として生まれる[4][5]。
1689年5月23日に父の死により爵位を継承[4][5]。1697年にスコットランドの枢密顧問官に列する[4]。イングランドとスコットランドの連合を支持し、1707年の連合の際にはその委員の一人を務めた。連合後、スコットランドの貴族代表議員として貴族院に議席を保有するとともにグレートブリテン王国枢密顧問官に列した[4][6]。政治的には無定形で情勢に応じてホイッグ党とトーリー党を行き来していたので「浮動のジョン(Bobbing John)」と呼ばれた[1]。1705年から1709年と1713年から1714年にかけてトーリー党政権において新設のスコットランド担当大臣を務めた[4]。
しかし1714年8月にジョージ1世が即位するとトーリー党からホイッグ党への政権入れ替えが行われた。この際にマー伯もスコットランド担当大臣を解任された[1]。ホイッグ政権はトーリー党の主要政治家たちを大逆罪で告発していったが、ホイッグ党による官職独占や重税への反発からイングランド各地で暴動が発生するようになった。フランスに亡命している大僭称者ジェイムズ・エドワードは王位奪還のチャンスが来たと見てジャコバイト蜂起を煽った[7]。
マー伯も解任されたことを恨んでジャコバイトとなり、大僭称者支持を表明した[1]。同じく解任されてジャコバイトになっていた初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンは初代マールバラ公ジョン・チャーチルらトーリー党幹部の取り込みを図っていたが、それが完了する前の1715年9月6日にマー伯は独断でブレーマーで挙兵し、大僭称者から追認を受けた[8]。マー伯の軍は9月14日にパースを占領した。それ以外にもスコットランド北東部でジャコバイト蜂起が続々と発生し、10月初めまでにはエディンバラやグラスゴー周辺や西部アーガイル公爵領を除いたスコットランド大部分がジャコバイトの手中に落ちた[8]。
10月22日には大僭称者からジャコバイトの爵位としてスコットランド貴族爵位「マー公爵(Duke of Mar)」に叙せられている[4]。
11月13日にはマー伯の軍とオランダ軍の支援を受けたアーガイル公ジョン・キャンベルの軍がシェリフミュアの戦いで対峙したが、マー伯の逡巡のために引き分けに終わった。この戦いで一気に勝利を決しえなかったことは、同日にトマス・フォースター率いるジャコバイト軍がブレストンを攻撃して大敗したことと併せてジャコバイトにとって致命的となった。その後、アーガイル公の軍、イングランド軍、オランダ軍の連合軍の増強を見てジャコバイト軍は瓦解し始めた[9]。12月22日に大僭称者がフランスからアバディーン近くの港に上陸した時にはジャコバイト軍の敗北はすでに決していた[9]。マー伯も大僭称者とともに逃避行を続け、結局1715年2月には部下たちを置き去りにしてモントローズから出航してフランスへ亡命していった[1]。
1716年2月17日の議会の決議で全称号と全所有地が剝奪された[5]。その後、大僭称者とマー伯はフランスからも見限られて追放され、イタリアへ逃れていったが、1717年にはスウェーデン国王カール12世の支援を受けて再度スコットランドへ進行する計画がマー伯を中心に立てられた。イングランド国内の協力者ロチェスター主教フランシス・アタベリーを連絡役にしていたが、この計画は事前に露見して失敗に終わった[10]。
1717年11月10日には大僭称者からジャコバイトの爵位としてイングランド貴族爵位の「マー伯爵」位を与えられ、ついで1722年12月13日にもアイルランド貴族爵位の「マー公爵」位を与えられた[4]。だがジャコバイト派の間でも徐々に信用を落とし、1724年には大僭称者への勤仕を止めた[6]。1732年5月にドイツの帝国自由都市アーヘンで死去した[4]。
英国本国では爵位が剥奪されているため、息子のトマス・アースキンは爵位を継承できなかったが、娘フランセス・アースキンと甥ジェイムズ・アースキン(弟ジェイムズ・アースキンの息子)の間の子であるジョン・アースキンは、1824年6月27日の議会法によりマー伯位の回復を認められている[5]。
栄典
爵位
1689年5月23日に父チャールズ・アースキンの死去により以下の爵位を継承[4][5]。
- 第23代マー伯爵 (23rd Earl of Mar)
- 第6代マー伯爵 (6th Earl of Mar)
- (1565年創設のスコットランド貴族爵位)
- 第11代アースキン卿 (11th Lord Erskine)
- (1438年頃創設のスコットランド貴族爵位)
1716年2月17日の議会の決議により上記の爵位が剥奪された[5]。
1715年10月22日に大僭称者ジェイムズ・エドワードから以下のジャコバイトの爵位を与えられる[4]。
- 初代マー公爵 (1st Duke of Mar)
- (ジャコバイトのスコットランド貴族爵位)
- 初代アースキン侯爵 (1st Marquess of Erskine)
- (ジャコバイトのスコットランド貴族爵位)
- 初代キルドラミー伯爵 (1st Earl of Kildrummie)
- (ジャコバイトのスコットランド貴族爵位)
- 初代ゲイロック子爵 (1st Viscount Gairloch)
- (ジャコバイトのスコットランド貴族爵位)
- 初代アロア卿 (1st Lord of Alloa)
- (ジャコバイトのスコットランド貴族爵位)
1717年11月10日に大僭称者ジェイムズ・エドワードから以下のジャコバイトの爵位を与えられる[4]。
- 初代マー伯爵 (1st Earl of Mar)
- (ジャコバイトのイングランド貴族爵位)
1722年12月13日に大僭称者ジェイムズ・エドワードから以下のジャコバイトの爵位を与えられる[4]。
- 初代マー公爵 (1st Duke of Mar)
- (ジャコバイトのアイルランド貴族爵位)
勲章
家族
1703年4月6日に第7代キノール伯爵トマス・ヘイの娘マーガレット(生年不詳-1707)と結婚し、彼女との間に以下の子を儲けた[4][5]。
最初の妻との死別後の1714年に初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポントの娘フランセス(1690-1761)と再婚した。彼女との間に以下の子を儲けた[4][5]。
- 第2子(長女)フランセス・アースキン (生年不詳-1776) - 従兄妹のジェイムズ・アースキンと結婚し、24代マー伯ジョン・アースキンを産む
注釈
出典
- ^ a b c d e 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 452.
- ^ Round, John Horace (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 665–666.
- ^ "Mar, Earl of (S, 1114)". Cracroft's Peerage (英語). 18 March 2013. 2019年11月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Lundy, Darryl. “John Erskine, 23rd/6th Earl of Mar” (英語). thepeerage.com. 2017年11月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Heraldic Media Limited. “Mar, Earl of (S, 1114)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017年10月26日閲覧。
- ^ a b この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Mar, John Erskine, 6th or 11th Earl of". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 666–667.
- ^ 浜林正夫 1983, p. 381.
- ^ a b 浜林正夫 1983, p. 382.
- ^ a b 浜林正夫 1983, p. 383-384.
- ^ 浜林正夫 1983, p. 385.
参考文献
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。
- 浜林正夫『イギリス名誉革命史 下巻』未来社、1983年(昭和58年)。ASIN B000J7GX1Y。
関連項目
- イレヴンス・アール・オブ・マー - マー伯ジョン・アースキンを題材にした、ジェネシスの楽曲。アルバム『静寂の嵐』に収録。
公職 | ||
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先代 新設 第2代クイーンズベリー公爵 |
スコットランド担当大臣 1707年 - 1709年 1713年 - 1714年 |
次代 第2代クイーンズベリー公爵 初代モントローズ公爵 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 チャールズ・アースキン |
第23代マー伯爵 1689年 - 1716年剥奪 |
次代 ジョン・アースキン (爵位回復) |