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'''羽地 朝秀'''(はねじ ちょうしゅう、1617年-1675年(琉球年号:[[尚寧]]29年、日本年号:[[元和 (日本)|元和]]3年、中国([[明]])年号:[[万暦]]45年丁巳5月4日-琉球年号:[[尚貞]]7年、日本年号:[[延宝]]3年、中国([[清]])年号 [[康熙]]14年乙卯11月20日){{refnest|group="注釈"|name="琉球で使用される年号"|琉球で使用される年号は、琉球暦、和暦、中国暦があり、時代などによって使い分けがなされる。羽地の時代は年号の使用についても過渡期に当たるため、ここでは琉球暦、和暦、中国暦をすべて示した。}}は、[[琉球王国]]の[[政治家]]。1609年の[[薩摩藩|薩摩]][[島津氏|島津]]氏の侵攻以降の琉球を、薩摩島津氏や[[将軍]]権力への従属を前提としつつ、[[首里]]王府を主体した国家運営機構を確立すべく種々の改革を行った人物<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1998|page=83|publisher=}}</ref>。
'''羽地 朝秀'''(はねじ ちょうしゅう、[[万暦]]45年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]([[1617年]][[6月6日]]) - [[康熙]]14年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1676年]][[1月5日]]))は、[[琉球王国]]の[[政治家]]、[[歴史家]]。[[1650年]]、琉球最初の正史、[[中山世鑑]]を編纂する。また、[[1666年]]には[[琉球の摂政|摂政]](しっしー)の地位につき、数々の[[政治改革]]を断行した。その時期の布達は『[[羽地仕置]]』として残されている。

[[唐名]]、向象賢(しょう じょうけん)<ref>[https://kotobank.jp/word/向象賢-79348#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus コトバンク 向象賢] </ref><ref>「しょうしょうけん」と訓む資料もある。[https://dictionary.goo.ne.jp/jn/108874/meaning/m0u/ デジタル大辞泉]</ref>。
薩摩の重臣との親交を通して藩-王国間のコネクションを築き上げ、薩摩との関係抜きには成立し得ない国家運営形態を作り上げた。また、それ以前の中世的な国家形態を近世的なかたちに改め、基礎づけた改革者としても注目されている<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1989|page=178|publisher=}}</ref>。彼の人物像は、彼が1650年に[[尚質]]の王命により行った『[[中山世鑑]]』の編纂や、1666年から1673年までのあいだに 尚質の[[琉球の摂政|摂政]](しっしー)となって行った数々の改革のなかで語られることが多い。
== 生涯 ==

なお尚質とは従弟の間柄にあり、後に「王子」に称せられるようになる<ref>[[#伊波普猷 (1916)|伊波普猷 (1916)]] p. 76.</ref>。このことについて、『中山世鑑』の序において尚質を「[[尚円王|尚円]]公七世嫡孫」とするのに対し、羽地みずからのことも「尚円公嫡孫浦添王子若王月浦六世後胤」とし、[[第二尚氏]]の末裔であることや尚質と親戚関係にあることを示している。

==生涯==
===出自===
===出自===
羽地朝秀は、1617年、琉球王族の[[羽地御殿]]5世・朝泰の男として生まれた。童名・思亀、唐名は[[第二尚氏#尚氏と向氏|向]]象賢(しょう・しょうけん)。ただしこの唐名は、羽地の死後に付けられたものであり、生存中の唐名は呉象賢である<ref>『沖縄県姓氏家系大辞典』23頁参照。</ref>。また名乗りは重家であった。王家分家氏が「向」、名乗り頭が「朝」に統一されようになったのは、[[1691年]]以降である。それゆえ、生存中の本来の名は、呉象賢・羽地按司重家である。号は通外
羽地朝秀は、1617年、琉球王族の[[羽地御殿]]の四代目、朝泰の男として生まれた。童名・思亀、[[唐名]]は[[第二尚氏#尚氏と向氏|向]]象賢(しょう・しょうけん)。ただしこの唐名は、羽地の死後に付けられたものであり、生存中の唐名は呉象賢である<ref>{{Cite journal||author=田名真之|year=1998|page=99|publisher=}}</ref>。羽地領地を相続す以前は、1635年に豊見城[[間切]]の大嶺を賜っていたことから「大嶺」を称していた<ref>{{Cite |author=田真之|year=1998|pages=97-102|publisher=}}</ref>。名乗りは重家。


[[1640年]]、羽地は羽地御殿の家督を継いで羽地[[間切]]の[[按司地頭]]となった。若くして[[薩摩藩]](現[[鹿児島県]])留学し数々学問を修める。
1640年、羽地は羽地御殿の家督を継いで羽地[[間切]]の[[按司地頭]]となった。王家分家の氏が「向」名乗り頭が「朝」統一されるようになったのは1691年以降である。それゆえ、生存中本来の名は呉象賢・羽地按司重家である。
1658年6月~1659年10月、1661年~1662年11月、1667年~1668年12月の合計3回{{refnest|group="注釈"|name="4回説"|死の直前に渡ったものも数え、計4回という説もある。この時は薩摩で中風に罹りすぐさま帰国したという<ref name="琉球の苦境と向象賢">[[#伊波普猷 (1916)|伊波普猷 (1916)]] pp. 99-100.</ref>。}}、王命を受けて薩摩に赴任している<ref>{{Cite journal||author=真栄平房昭|year=2000A|page=113|publisher=}}</ref>。彼の通外という号は、薩摩で親交のあったとされる[[薩摩藩]][[家老]]の新納又左衛門久了から1661年の薩摩滞在時に送られたものであった<ref name=iha_1916_p77>[[#伊波普猷 (1916)|伊波普猷 (1916)]] p. 77.</ref>。
===中山世鑑の編纂===
[[1650年]]、羽地は[[尚質王]]の王命により『[[中山世鑑]]』の編纂を行い、琉球王国初の[[正史]]を完成させた。全5巻で、和文で表記。[[開闢伝説]]から、尚清王代の1555年まで記述。為朝伝説など、{{要出典範囲|羽地の持論である|date=2019年11月}}[[日琉同祖論]]的記述が見られる。
===摂政としての改革===
[[1666年]]、[[尚質王]]の摂政となり、数々の改革を断行。[[薩摩藩]]による琉球侵攻以来、疲弊していた国を立て直すのに成功した。[[1673年]]に摂政の地位を退き、[[1675年]]に死去した。のちに、[[琉球の五偉人]]に数えられるほど評価が高く、彼の葬儀には[[尚貞]]王も臨席する[[国葬]]級の葬儀であったという。墓所は那覇市首里平良町の[[羽地朝秀の墓]]。


羽地の前任に当たる摂政であった具志川王子尚享が、[[京太郎 (沖縄の芸能)|京太郎(チョンダラー)]]の舞いを見ていた時、乳母に抱かれた小児に会った。その時、小児の目を見た尚享は、「いまだかつてこのように器量の優れた子を見たことがない。後日、私を継いで政治を行い、琉球に「黄金のたが」をはめるのはこの子であろう。」と言い教育したという逸話が伝えられている<ref>{{Cite journal||author=伊波普猷|year=1916|pages=73-74|publisher=}}</ref>。
== 改革政策==
===地方制度改革===
羽地がまず取り組んだのは、地方制度改革であった。[[間切]]と[[村]]を再編成した。まず[[今帰仁間切]]から[[本部間切]]を、[[越来間切]]から[[美里間切]]を独立させた。続いて[[宜野湾間切]]、[[恩納間切]]、[[大宜味間切]]、[[小禄間切]]、[[久志間切]]を独立させ、村に数も増やした。これは徴税制度と関係していた。
===行政機能の強化===
ついで、[[摂政]]、[[三司官]]からなる[[評定所]]を王府の最高機関と位置付けた。
===質素倹約===
王家のみならず、庶民に至るまで贅沢を禁止し、虚礼を廃止、無駄な財政支出を抑えた。<ref>新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房 東洋企画</ref>
===政教分離===
その一環として、政治と結びついて多額の出資の元となっていた土着の[[琉球神道]]を問題視して、[[聞得大君]](きこえおおきみ)位の格下げ、[[御嶽 (沖縄)#東御廻りの御嶽|東御回り]](あがりうまーい)への王参拝の禁止、諸祭事を縮小させるなどの改革を行った。ただし必ずしも徹底したものではなく、行政や社会維持に差し障りのない範囲での存続は認めた。


16歳の時には、薩摩藩主の侍読であり、当時は尚豊の侍講として来琉していた儒学者の泊如竹<ref>{{Cite journal||author=島尻勝太郎|year=1983|page=|publisher=}}</ref>に出会い、彼の講義を受ける。ここで如竹は、彼の師に当たる南浦文之による学を羽地に伝授し、それが後に『[[中山世鑑]]』における南浦史観に繋がったとされる<ref>{{Cite journal||author=東恩納寛惇|year=1978|page=147|publisher=}}</ref>。
羽地朝秀の信条は[[日琉同祖論]]で「日本は即ち本であり、本にそむくものは禍に遭う」との立場から琉球独自の風習には批判的だった。この立場は編纂した『中山世鑑』に反映されている。この信条は薩摩留学の頃に得たと見られ、[[薩摩藩]]は迎合主義として歓迎したと評価されている。一方で、羽地朝秀の改革と続く[[蔡温]]の改革において、琉球古来の[[祭政一致]]体制を変革し、琉球版の近世的封建体制を確立しようとした時流があったのも史実である。


[[File:Tomb of haneji choshu.jpg|thumb|戦前の羽地朝秀の墓(1933年撮影)]]
また羽地朝秀は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている<ref>真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」。</ref><ref>なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている</ref>。
20歳前後から政治経済に興味があったために、国中の間切や村々を廻り田畑や百姓の様子等を実地検分した。同時に、地元の老人たちから詳しく地域についての話を聞いて廻ったという<ref>{{Cite journal||author=伊波普猷|year=1916|pages=75-76|publisher=}}</ref>。
また、羽地の晩年に中国から丘澹『[[大学衍義補]]』が伝えられた。この書物に感銘を受けた羽地は、この本をもう少し早く見れていたら私の事業にもさらに加えられるところが出てきたのにと、喝采を挙げつつもそれまで見られなかったことを嘆息したというという逸話も存在する<ref>{{Cite journal||author=伊波普猷|year=1916|pages=98-99|publisher=}}</ref>。
[[ファイル:King Sho Tei.jpg|サムネイル|尚貞]]


1673年に摂政の地位を退き、[[1675年]]に死去した。のちに、[[琉球の五偉人]]に数えられるほど評価が高く、彼の葬儀には[[尚貞]]王も臨席する[[国葬]]級の葬儀であったという<ref>{{Cite journal||author=伊波普猷|year=1916|page=100|publisher=}}</ref>。墓所は那覇市首里平良町の[[羽地朝秀の墓]]。
羽地朝秀は宗教に一定の打撃は与えたものの、財政再建策は成功を収め王室に寄与することとなった。


== 家族表 ==
==中山世鑑==
1650年に、羽地は国王[[尚質]]の命により琉球王国初の[[正史]]の編纂を行った。これが『[[中山世鑑]]』である。この書物は序・総論を含め全6巻で構成され<ref name=tanaka_1992_p5>[[#田名真之 (1992)|田名真之 (1992)]] p. 5.</ref>、地の文については漢字仮名まじり文(和文)で表記されている<ref>{{Cite journal||author=池宮正治|year=2015|page=3|publisher=}}</ref>。

現存するものは1816年に書き改められたものであるとされるが、内容や構成については羽地の時代のものがそのまま書写されたと考えて良いとされる<ref name=tanaka_1992_p5/>。
[[ファイル:NAJDA-178-0378 琉球国中山世鑑1.pdf|サムネイル|中山世鑑]]

内容については、[[開闢伝説]]から、[[舜天王統|舜天]]、[[英祖王統|英祖]]、[[察度王統|察度]]の各王統を経て[[第一尚氏]]、[[第二尚氏]]王統へと擬制的に連続して語られる。[[開闢伝説]]に登場する[[天孫氏]]や[[利勇]]は羽地による創作だとされている。また、舜天王統紀では[[源為朝]]が舜天の父であるとされるが、これも羽地の創作であるとされる<ref>{{Cite journal||author=田名真之|year=2014|pages=11-14|publisher=}}</ref>。

1530年頃から日本の一部で語られ、17世紀初頭には琉球にも流入していたとされる為朝伝説が舜天王統紀に接続されることで、源氏と琉球の王統が接続されたのである<ref>{{Cite journal||author=黒嶋敏|year=2010||publisher=}}</ref>。第二尚氏王統は、尚清王代の1555年まで記述されている。

日本年号の使用や島津氏[[附庸国|附庸]]之国という記述、また尚真紀や尚寧紀を欠いている点や<ref name=tanaka_1992_p3>[[#田名真之 (1992)|田名真之 (1992)]] p. 3.</ref>、本来連続性のない各王統を[[禅譲]]や国王出生の際の[[日光感精説話]]などといった中国的な思想を盛り込み連続させている<ref>{{Cite journal||author=比嘉実|year=1991|pages=52-53|publisher=}}</ref>点から、本書の基本的な立場は薩摩への配慮と[[儒教]]倫理であるとされている<ref>[[#田名真之 (1992)|田名真之 (1992)]] p. 7.</ref>。同様に、このような手法を用いて王統の始祖の誕生を神秘化し神聖視して叙述するのも羽地の特徴であるとされる<ref>{{Cite journal||author=保坂達雄|year=2015|page=72|publisher=}}</ref>。

本書には、諸見友重による訳注が存在する<ref>{{Cite journal||author=諸見友重|year=2011|publisher=}}</ref>。

===編纂の経緯とその目的===
編纂については、1650年に国王尚質が当時の摂政である金武王子朝貞や三司官の大里良安に命じて広く旧僚や古老から聞き取りを行った。それらを羽地が世[[系図]]としてまとめ、[[詩経]]の「殷鑑遠からず」を意識して「世鑑」と名付けたという。

専ら王家の系図を作成するという構想のもとに成ったものである。<ref>{{Cite journal||author=田名真之|year=2014|pages=11-12|publisher=}}</ref>。編纂の目的も、過去を手本としつつ先王らの系統や事績を見ることで今後の参照としていくこと。また、子孫たちに先王がこれまで万世一系であったという所以を知らしめるということを意図しているという<ref name=tanaka_1992_p3>[[#田名真之 (1992)|田名真之 (1992)]] p. 3.</ref>。

この時期に編纂が行われた理由として、幕府が諸大名に家系図編纂を命じそれが『[[寛永諸家系図伝]]』として完成したのが1643年のことであり、そのことが大きく影響したと言われている<ref>{{Cite journal||author=田名真之|year=2014|page=12|publisher=}}</ref>。

===引用文献===
[[南浦文之]]「[[討琉球詩序]]」、[[袋中]]『[[琉球神道記]]』といった17世紀当時の薩摩の禅僧によって書かれたものや、琉球に伝わる「[[おもろ]]」や[[金石文]]、皇帝の[[勅書]]や[[勅諭]]、琉球側の渡航証明書、[[冊封]]による記録、さらには『[[保元物語]]』{{refnest|group="注釈"|name="保元物語の版本"|『中山世鑑』に引用されている『保元物語』の版本は不明であるが、寛永元年製本版のものが『中山世鑑』に引用されているものと極めて近いとされる<ref name="『中山世鑑』における『保元物語』の再構成">[[#『中山世鑑』における『保元物語』の再構成|小此木敏明(2007)]]</ref>。}}『[[平治物語]]』といった日本の[[軍記物]]が中心であるとされる<ref>{{Cite journal||author=東恩納寛惇|year=1993|pages=274-284|publisher=}}</ref>。

また中国における文献も、『[[論語]]』『[[孟子 (書物)|孟子]]』『[[中庸]]』『[[易経]]』『[[書経]]』『[[詩経]]』『[[礼記]]』『[[春秋]]』といった[[四書五経]]のほか、『[[淮南子]]』『[[周易大全]]』『[[荘子 (書物)|荘子]]』『[[荀子]]』『[[史記]]』『[[韓詩外伝]]』『[[後漢書]]』『[[晋書]]』『[[十八史略]]』『[[論衡]]』『[[説苑]]』『[[楚辞]]』『[[玉台新詠]]』など史書や[[諸子百家]]の著作、詩集に至るまで幅広く引用されている<ref>{{Cite journal||author=呉海燕|year=2016|page=44|publisher=}}</ref>。

===薩摩への配慮===
日本年号の使用や王号・公号の書き分け、また[[尚真王|尚真]]紀や[[尚寧王|尚寧]]紀を欠いている点から、薩摩に配慮した作りになっていると考えられている<ref name=tanaka_1992_p3/>。

また、初代の王を[[舜天]]としたり、[[舜天]]と[[日琉同祖論|源為朝伝説]]を融合させている点は羽地の創作であるとされている<ref>[[#安里進等編 (2004)|安里進等編 (2004)]] p. 61.</ref>。

[[琉球侵攻]]の前後に形成され薩摩や日本へ広がったと考えられる、侵攻と同地の支配とを正当化する島津氏の論理。すなわち、琉球は島津氏の附庸国であり、当時の[[三司官]]であった[[謝名利山|謝名親方]]が奸臣であったためにやむなく島津が琉球への討伐に乗り出したという論理を、本書は採用している<ref>{{Cite journal||author=渡辺美季|year=2014|pages=85-93|publisher=}}</ref>。

==台湾海賊対策==
17世紀初頭から、中国大陸に[[進貢]]にむかう琉球船が[[台湾]]を拠点とするオランダ船に[[海賊]]行為を受けていた。中国([[明]])と敵対していた[[オランダ東インド会社|オランダ]]が、中国船と同じジャンク型である琉球船を攻撃したのである。これに対し琉球は、1636年にこの事態を薩摩藩に訴えた。薩摩藩は、[[オランダ商館|長崎のオランダ商館]]にかけ合い安全保障の目印となる旗と通行証を譲り受け、これらを琉球に渡した。琉球は薩摩藩から譲り受けた[[オランダの国旗|オランダ旗]]を掲げ台湾近辺を航行することで、オランダからの攻撃を免れたのである<ref>{{Cite journal||author=真栄平房昭|year=2000B|pages=37-39|publisher=}}</ref>{{refnest|group="注釈"|name="琉球貿易図屏風"|滋賀大学経済学部附属史料館が所蔵する近世後期に作成された「琉球貿易図屏風」には、描かれた進貢船にオランダ風の三色旗らしい旗が掲げられている。<ref name="一七世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球">[[#一七世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球|真栄平房昭(2000B)p.39]]</ref>}}。

[[画像:Shinkosen.jpg|thumb|250px|進貢船]]
一方1662年には、明朝滅亡後に[[清|清朝]]と抗争した[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏]]一族がオランダ勢力を台湾から追い出し、この地を新たな抗争の拠点とした。琉球は1663年に清朝と[[冊封]]関係を結んだために鄭氏から敵対勢力と見なされるようになり、進貢の際に攻撃対象となった{{refnest|group="注釈"|name="年号問題"|1663年と1664年の史料や墓碑には、日本の寛文年号が使用され、清の康煕年号は用いられていない。ところが、これが1670年になると清の康煕年号に統一される。これは、日本年号を使用することで内面においては清との冊封関係を否定していたが、1670年に至る頃には清を容認するようになったと解釈されている。<ref name="明清動乱と琉球・日本">[[#明清動乱と琉球・日本|真栄平房昭(1987)pp.522-525]]</ref>}}。こうした事態を打開するため、羽地は琉球船の航海安全の保障を鄭氏に求めるべく薩摩藩に依頼した。オランダの時と同様に、[[長崎貿易]]を通じて鄭氏と太いパイプをもつ[[幕藩制国家]]を介し状況を打開しようとしたのである<ref>{{Cite journal||author=真栄平房昭|year=2000B|pages=42-43|publisher=}}</ref>。

薩摩藩や長崎の尽力により台湾側と交渉が成立した事例も存在するが、その後も海賊の被害が頻発したため、琉球は薩摩藩の許可の下で、進貢の際に武装するなどの自衛手段に努める他なかった<ref>{{Cite journal||author=真栄平房昭|year=2000B|pages=43-46|publisher=}}</ref>。

==首里城焼失と再建==
1660年、旧暦の9月27日に失火により首里城が全焼した。1671年に再建されるも、資金難により再建に11年もの歳月を有したり、1663年に行われた国王の冊封儀礼が、王府機能の移転先である[[大美御殿]]で行われることになるなど、王政に多大な影響を与えることとなった<ref>{{Cite journal||author=首里城研究グループ編|year=1997|page=16|publisher=}}</ref>。

首里城の焼失は、薩摩による税収に加え[[明清交替|明清王朝交替]]の影響で進貢貿易の不振に喘いでいた矢先に起こった。羽地は、こうした窮状の下にある中で首里城の再建を実現すべく、薩摩に渡り首里城再建を口実に経済的支援に関する請願を行っている。請願の内容は主に、首里城再建のための材木船3艘の建造や、百姓たちに課せられる薩摩への出米を再建終了まで免除してほしいなどといった、造船や運送、そして薩摩が琉球に課している税の減免についてであった。しかしながら、当時の薩摩においても天災や江戸への[[軍役]]負担、[[藩邸]]の火災などにより藩財政が悪化していたために、造船や運送については許可されたものの税の減免は許可されなかった<ref>{{Cite journal||author=上原兼善|year=1989B|page=30|publisher=}}</ref>。薩摩での請願活動が認められたのか、1663年正月には再建のための総責任者となっているが<ref>{{Cite journal||author=知名定寛|year=2008| page=211|publisher=}}</ref>、その半年後に冊封使が来琉したために、再建事業はいったん中止となった<ref>{{Cite journal||author=「英姓家譜 渡名喜家」|year=1982|page=43|publisher=}}</ref>。

財政難により再建が遅れたものの、1666年以降の羽地の改革により3年の内に再建にこぎ着けた。再建された首里城は前のものよりも良い出来栄えであり、これは羽地によるリーダーシップと百姓による尽力による賜物であると、羽地自身が自負を示している<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=2008|page=140|publisher=}}</ref>。

『羽地仕置』には役人たちの参上に関する規定の他、「玄関」や「廊下」といった首里城内部に関する文章も存在している。これについては、難事だった首里城の再建を視野に入れた諸政策を羽地が推進し、その結果や内容を文書に反映したものであると考えられている<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=2008|pages=134-142|publisher=}}</ref>。

==北谷・恵祖事件==
1660年代なかばに起こった、羽地が摂政に就任する契機となった事件。進貢の際に金品略奪が起こり、これに三司官等王府首脳部も関わっていたことから、薩摩藩により首脳部が引責辞任に追い込まれたことで羽地が摂政に就任することとなった。

1609年の薩摩島津氏の侵攻以降、王府中枢では、薩摩の支配を受け容れる王に対し、薩摩の命に従わない役人たちによるサボタージュが相次いでいた。侵攻時の国王である尚寧の次代に当たる[[尚豊王|尚豊]]の政権下では、島津氏の支配と冊封朝貢関係を両立・整合させ、島津氏と妥協しつつ王権を維持しようとする尚豊に対し、島津氏の命により中国で購入する物品に粗悪品を選ぶなどして島津氏に対抗しようとする勢力が存在したのである<ref>{{Cite journal||author=豊見山和行|year=2004|pages=67-71|publisher=}}</ref>。

そうした政治情勢のなか、1663年に清朝による初の冊封が実現し、その[[謝恩使]]として三司官の北谷(ちゃたん)親方朝暢が派遣された。その翌年の1664年には、聖祖[[康熙帝]]の即位を祝う[[慶賀使]]として恵祖親方重孝が派遣された。恵祖等が福州に入港する直前に暴風に遭い、それに乗じて海賊に襲撃された。この混乱に際して、皇帝への慶賀品が奪われただけでなく毒殺事件まで起こった。そしてさらに問題となったのは、海賊等ふくめ事件は全て乗組員や[[福州市|福州]]に滞在している琉球人の自作自演であることが判明したことである。薩摩は関係者を藩に呼び出し、厳しく尋問した。その結果、監督責任を問われた北谷と恵祖は、二人とも[[斬首刑|斬首]]。二人の家族も連座となり[[宮古島|宮古]]・[[八重山列島|八重山]]に[[流罪]]となった<ref>{{Cite journal||author=真栄平房昭|year=2000A|pages=117-119|publisher=}}</ref>。

この事件の顛末から、羽地の摂政就任が薩摩藩による琉球の新たな支配編成の要求を担っていたものであるということがわかる<ref>{{Cite journal||author=上原兼善|year=1989A|page=151|publisher=}}</ref>{{refnest|group="注釈"|name="一種の恫喝"|こうした薩摩の態度は、琉球側の失態を容赦しないという強い姿勢を示した一種の恫喝であったという説もある。<ref name="琉球王国の展開">[[#琉球王国の展開|高良倉吉(1998)p.79]]</ref>}}。なお琉球は、この事件と同時期に、薩摩との緊張関係緩和を目指し、毎年中国に行き貿易することが可能となる[[接貢船]]の制度化{{refnest|group="注釈"|name="接貢船の制度化"|琉球ではこの時期、二年に一度中国に進貢することが許されていた。接貢とは、進貢に当たらない年に進貢使者を迎えにやることを指す。これを行うことにより、琉球では事実上毎年中国に赴き貿易を行うことが可能となる。}}を進めることで[[朝貢貿易]]の再建・拡大を目論んでいた。しかし鄭氏からの攻撃やそれに続く中国大陸における[[三藩の乱]]勃発により、海外貿易政策を介した薩摩との関係改善は打開策を見いだせないでいた<ref>{{Cite journal||author=豊見山和行|year=2004|pages=80-81|publisher=}}</ref>。

===砂糖やウコンの専売制===
冊封使の来琉により、王府の財源は底をつきかけていた。この事態を打開するために王府が行ったのが、薩摩藩からの借金(借銀)を元手とした[[唐物]]貿易の拡張であった。

一方で薩摩藩側も、王府の行おうとしている唐物貿易に藩財政の活路を見出そうとしていたのである。薩摩藩は、王府のこれ以上の借銀願いを控えるように言いつつ、貿易品やその利益は薩摩藩への借銀返済に充てるのではなく唐物貿易を滞りなく行うための費用として蓄えておくこと、借銀の返済は琉球国内の産物を増産して賄うことといった二点について王府に命じている。

これに対し王府は、康熙帝慶賀使の一行に白糖技術を学ぶ者を随行させたり、[[砂糖]]奉行を王府専属の役所として配置した。その後、後述する羽地の[[仕明]]地政策と結びつくことで、1667年頃には砂糖と[[ウコン]]の[[専売制]]が開始されるのである<ref>{{Cite journal||author=上原兼善|year=1989B|pages=38-40|publisher=}}</ref>。

==羽地朝秀の改革==
===行政機構の改革===
近世琉球の政治的中心である評定所の各機構を整備したと言われる。具体的には、1666年から1673年までの羽地の摂政期の間に、[[耳目官]]や[[御物奉行]]重人衆を[[吟味役]]と改称(1666年)、[[評定所筆者]]二人を減去し(1666年)、評定所筆者[[主取]]を設置(1668年)。[[日帳]]主取二員や御物奉行帳当(共に1671年)の設置などがある<ref>{{Cite journal||author=梅木哲人|year=1990|pages=6-9|publisher=}}</ref>。
また1667年には、三司官の最短距離にあり、薩摩―琉球間の取次を主たる任務とする[[在番親方]]が制度化した<ref>{{Cite journal||author=紙屋敦之|year=2009|pages=56-58|publisher=}}</ref>。

===『羽地仕置』===
『[[羽地仕置]]』は、1666年から1673年までの羽地朝秀の摂政期に出された[[布達文書]]集の一部である<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1998|page=78|publisher=}}</ref>。当初は『羽地仕置』というまとまったものではなく、当時における[[廻文]]や各役所に掲示された文書を集積したものである。したがって「羽地仕置」という標題は、後世に至って[[沖縄県庁]]が琉球資料に収録する際に付けられたものであろうと推測されている<ref>{{Cite journal||author=東恩納寛惇|year=1978|page=221|publisher=}}</ref>。

『羽地仕置』に出てくる事項の日付が必ずしも実施の日付ではないということから、実施以降に後年への備忘や参考のためにまとめられたことがわかる。このため、年次の記憶違いと思しき箇所も存在する<ref>{{Cite journal||author=東恩納寛惇|year=1978|page=222|publisher=}}</ref>。

『羽地仕置』の内訳をみると、羽地が摂政に就任した1667年の春から夏にかけて頻繁に文書を布達しているが、1668年と1672年の文書は収録していない。それ以外の年は2~4件程度であるが、引退間際の1673年には文書が集中している<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=2011|page=133|publisher=}}</ref>。

===摂政就任時の王府慣習改革===
『羽地仕置』によると、羽地は摂政就任の際、「内証」から遣わされた「書院の親方」を追い返し、摂政の次席に当たる三司官の伊野波親方に改めて就任要請に来させたという。羽地はこのように、慣習となっていた王府内システムを否定し、身分や事柄に合ったかたちでの公式なシステムに改変することを要求したのである。

三司官の任職を要請する際には、王府内の女官が国王からの要請を取り次ぐという慣習を否定し、上級役人に取次役を担わせるようにした。他にも、重職就任や領地拝領、節句の際の進物や祝儀、その際の対応について簡素化を要請した。これまでは、国王や王妃、その側仕えの者たちにも進物を送っていたが、以後は国王や王妃以外への進物は停止する。

また祝儀を持参して面会に来た際には、毎回面会するのではなく帳面に来訪者を記載するだけで良いとしたり、必要以上の祝儀を用意する必要はないとした。これらの意図は、虚礼に対する廃止や合理化であると同時に、王府内における身分秩序を明確化することで政治行政組織の強化を目指したものであるとされている<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1989|pages=161-166|publisher=}}</ref>。

===城内規定の制定===
羽地は摂政就任時に、諸士が城内を草履履きで歩行することや、老人の多い座敷衆に対しては、冬季に限り城内で足袋を履くことを認めている。これは、当初は首里城火災後の避難場所である大美御殿における規定であったが、首里城の存在を前提にしているような文面から、首里城再建後の規定として踏まえられていたとも考えられる<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=2011|page=141|publisher=}}</ref>。

一方で、首里城再建後には、城内作法の規定も定められている。それらは主に、「玄関」や「廊下」において役人の身分によって城内に帯同できる従者の人数を決めたことや、従者のなかでも特に草履取りについては「玄関」の外側で控えることなどといった、身分を可視化させた規定であった<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=2011|pages=134-139|publisher=}}</ref>。

===身分の確定===
島津氏の侵攻以前の琉球において、位階制度による一定の支配・被支配の関係は存在したが、位階はあくまで個人に与えられるものであり、子々孫々まで継承されるものではなかった。島津氏の侵攻以後には、検地や諸士への給地およびキリシタン宗門改めの必要性から、身分や各構成人員を明らかにする必要が生じた。これにより導入されたのが、諸士に対する系図(家譜)提出の義務化に他ならない<ref>{{Cite journal||author=田名真之|year=1992|pages=97-101|publisher=}}</ref>。

この制度は、1689年の系図座の設置をもって始期とされ、これによって家譜を持つことを許された身分を「系持」、持てない身分を「無系」として区別した。こうして「系持」を士、「無系」を百姓とし、士身分の者が王府により体制的に保障されるといった身分制が成立したのである。また当然のことながら、家譜には家筋や家のステータスを表示する必要があり、家譜の提出を求められるのも家単位であることから、位階制度をはじめとした社会組織も個人から家へとその対象を変化させた。こうして、琉球においても家を中心とした父系論理や祖先祭祀が浸透してくのである<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1998|pages=86-87|publisher=}}</ref>。


こうした身分制が確立されていくための端緒となったのが、羽地の改革である。改革に至る前段階として、羽地は1650年に王府の「家譜」に当たる『中山世鑑』を編纂した。このことが呼び水となり家譜編集を行った士家もあったが、一部に留まった<ref>{{Cite journal||author=田名真之|year=1992|page=102|publisher=}}</ref>。摂政就任後は、1670年に王府名義で諸士へ各々の系図を提出するように求めている。これには、士たちの出自や家格を明確にするという目的があった。これによって、もともと士である者を指す普代、新しく士になった新参と、諸間切衆中・田舎衆中といった農村に居住している士たちの出自の明確化がなされた。また、これまでは城での席順は年齢順であったが、今後は普代の者が上座であることが決められた<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=2011|pages=124-125|publisher=}}</ref>。

系持層には、学文、算数、書道、歌や音楽、医道、料理、乗馬、生け花、茶道などのなかで一つも芸を嗜まない者は、たとえ家格が良くとも役人に登用することはないとしている<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1998|page=87|publisher=}}</ref>{{refnest|group="注釈"|name="日本の芸術"|伊波普猷はこれらを日本の芸術としている。羽地は日本の芸術を奨励し、かつ役人たちがこれらを行っているうちに自然と大和心になっていったとしている。<ref name="琉球の五偉人">[[#伊波普猷 (1916)|伊波普猷 (1916)]] p. 84.</ref>}}。首里城での公式行事の際にも、身分を示す冠を付けてくるようにとの通達も『羽地仕置』には見られる。

===儀礼や冠婚葬祭に関する改革===
取りも直さず、王府内慣習の改革は、王府や国王の儀礼、さらには百姓を含めた冠婚葬祭に関する改革へと結びついていく。

王府ではこれまで、中国や日本へ出張する役人たちを正月の元旦と十五日に首里城に出仕させたり、そうした役人のなかでその年の干支(歳日:トゥシビー)に当たる者がいる場合には、その者たちに対し女踊りを行っていたが、これらを全て廃止した。同時に、正月の元旦と十五日に首里城に出仕する役人たちへの振る舞いも全て廃止した。

冠婚葬祭に関しては、法事の際に各役人の家に国王から賜品を送る慣例を禁止した。また、国王が行幸や参詣を行った際、関係者に祝物を下す慣例も廃止した<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1989|page=166|publisher=}}</ref>。

冠婚葬祭の規定は、王府の役人たちだけではなく一般の百姓たちにまで及んだ。

たとえば、婚約祝において媒酌人に対し豪勢な馳走を用意していたが、これを簡略化し分相応にするようにした

葬礼に関しても、死者を運ぶ籠や式典の際の装飾の数や法事の際の坊主の数や儀礼、食事や衣装に関する事柄などが事細かに決められた。葬礼については同時に、親孝行を名目に必要以上に華美になり、子や孫の出費がかさむことや、忌中を理由とした職務の倦怠を問題視している。

特に田舎では、身分不相応に大酒を呑んだり牛を殺したりと、儀礼が華麗に流れ過ぎることで物入りが家計を圧迫し、果ては身売りをする者まで出ていた。こうした事態に対し羽地は、こういった輩が以後も出た場合は、当人だけではなく村の役人や当人が所属している与(組)の者まで処罰するといった厳罰をもって対処したのである。

ここから、羽地の目指した改革が単に虚礼の廃止や質素倹約を目指したものではなく、国王から百姓までに及ぶ王国内の広範な「意識改革」であったことがわかる<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1989|pages=166-168|publisher=}}</ref>。

===久高島や知念城内での祭祀===
[[ファイル:Kudaka Island,Nanjo.jpg|サムネイル|久高島]]
羽地は、[[久高島]]や[[知念城]]の祭祀の際に国王が赴くことについても難色を示した。

久高島は琉球開闢神話の聖地であると言われていたため、国王は毎年旧二月に行われる祭祀に神女を伴い隔年で参詣していた。これに対し羽地は、久高島には港が無いうえ旧ニ月の強風が国王の身体に障ること、久高島祭祀は聖賢の規式ではないうえに、神女が祭祀に参加するということが日本や中国の人に知れたら嘲笑されるということ、知念城内は大変狭く火事になったら逃げ場がないこと、また周辺地域の百姓たちにかかる国王接待にかかる費用がバカにならないという理由から、参詣は国王一代限りとするか名代を派遣する。あるいは中国や日本から仏教を移入したのと同様に、久高島や知念城の神を首里城の近郊に移して祀れば良いとした。

羽地はこうした自説を補強するために、琉球人は日本から渡来し、琉球における天地・山川・草木などはみな日本と同じであるという説を唱えた。この説が、[[伊波普猷]](いは ふゆう)を代表する後の学者たちによって「[[日琉同祖論]]」として取り上げられるのである<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1989|pages=172-177|publisher=}}</ref>。

===暦の使用===
同時に羽地は、時之大屋子といった無学の巫者に日選びをさせているが、中国の暦を用意したので今後はこれらを用いるとし、巫者を否定した<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1989|page=173|publisher=}}</ref>。

===役人の不正に関わる改革===
地方に赴任した役人のなかには、現地の百姓に対し非法を働く者たちもいた。彼らはみずからの領地で生活する百姓たちに金や物を強制的に貸し付け、その対価として百姓たちを使役したり、節句の際に赴任地域から特産物などの賄賂として受け取るなどといった搾取や非法を繰り返し行っていたのである。

また役人のなかには、赴任地に赴かずに遊女に溺れ放蕩するに留まらず、赴任したとしても、お抱えの遊女にみずからの領地の管理経営を委ねてしまう者などがいた。

一方、百姓の側もこうした事態から農業を嫌がるようになり、ひそかに那覇や首里といった都市部に流入する者が現れた。こうした事態に際し羽地は、役人に対して不正な非法や中間搾取を取り締まることで、厳正かつ公正に職務を全うする姿勢を堅持させようとした。同時に百姓には、生活を安定させることで荒廃した農村を立て直させた<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1989|pages=169-171|publisher=}}</ref>。また、開墾を奨励することで産業や経済の振興を彼ら自身に積極的に担わせたのである。

===開墾奨励(仕明地政策)===
薩摩から土地の開墾(仕明:しあけ)許可を取り付けた羽地は{{refnest|group="注釈"|name="万治内検の影響"|この仕明許可についても、薩摩における万治内検の延長に位置づけられるという説がある。<ref name="琉球国における寛文改革の意義">[[#琉球国における寛文改革の意義|上原兼善(1989B)p.41]]</ref>}}、1669年、[[間切]](まぎり:現在の郡に相当)や村、さらにはそこを統治する地頭や百姓たちに至るまで、広く仕明奨励策を打ち出した。仕明した土地は「永々」にその所持を許されたという。

島津氏の侵攻の直後、慶長年間に検地が行われて以来、約60年に渡り検地が行われていなかった。その影響により水害による荒廃や荒れ地が点在するようになり、慶長検地にて定められた耕地への税率と羽地時代のものとでは大きな食い違いが生まれていた。このため、現実にそぐわない重税を百姓が担わねばならない状態にあった。そこで羽地は、定められた税率と実際の税率の格差を縮めることを口実に薩摩に仕明の許可を願い出たのである<ref>{{Cite journal|author=上原兼善|year=1990|title=|journal=|volume=|page=|pages=4-5}}</ref>。

この政策はかなりの成果をあげたようで、羽地の死後も継続して行われた。ところが、17世紀の末頃には、耕地拡大は達成されていくものの次第に乱開発や燃料、飼料の枯渇という事態が出来したために、王府は仕明抑制策を取ることとなった<ref>[[#安里進等編 (2004)|安里進等編 (2004)]] pp.154-156.</ref>。

===間切や村の新設===
羽地の摂政就任当時、沖縄本島の村数は322ヶ村であったが、羽地はこれを27[[間切]]322[[村]]に再編成した。

まず1666年に今帰仁(なきじん)間切から11村を分け、さらに7村を新設して本部(もとぶ)間切を設置、その後、越来(ごえく)間切から15村を分け、5村を新設して美里間切を設置した。1671年に宜野湾(ぎのわん)間切、1673年に恩納(おんな)間切、大宜味(おおぎみ)間切、[[小禄間切]]、久志間切、1676年に与那城間切、計8間切を新設した。こうして、旧来のものも合わせて35間切の体制が出来たのである<ref>{{Cite journal||author=田里修|year=1989|page=193|publisher=}}</ref>。

===寺院整理(仏教政策)と儒教奨励===
古琉球期以来、琉球では仏教が盛んであった。島津の琉球侵攻後は、薩摩によって部分的なの寺院建立制限は受けたものの、寺院建立や既存寺院の修復・再建は活発に行われていた<ref>{{Cite journal||author=知名定寛|year=2008| pages=185-194|publisher=}}</ref>。また1661年に羽地が薩摩に渡った際、新納又左衛門久了から薩摩の制度や仏教の教義を研究して帰るようにとの注意を受けてもいた<ref name=iha_1916_p77/>。

ところが、仏教徒による結党が問題視されることにより、1662年には江戸幕府は出家・山伏・行人等の活動を規制した。これに呼応して、琉球においても仏説の講談等が規制され、代わりに儒教が奨励されたのである<ref>{{Cite journal||author=知名定寛|year=2008| pages=197-199|publisher=}}</ref>。このことにより羽地は、改革の一環として寺院の新建や修復再建を一ヶ寺たりとも行うことなく、また知行地を整理・削減するといった寺院整理を行っている<ref>{{Cite journal||author=知名定寛|year=2008| pages=216-222|publisher=}}</ref>{{refnest|group="注釈"|name="反動"|なお、羽地の辞任後には、再び寺院の修復再建がなされるようになる。<ref name="琉球仏教史の研究">[[#琉球仏教史の研究|知名定寛(2008)pp.236-243]]</ref>}}。

また1671年には、久米村より出された孔子廟創建の請願を羽地自身が許可している<ref>{{Cite journal||author=鎌田,伊藤|year=2017|page=3|publisher=}}</ref>{{refnest|group="注釈"|name="対清政策"|なお鎌田,伊藤(2017年)では、この孔子廟創建が1670年代~1680年代の対清政策に直接繋がっていくとする。}}。

==家族表==
*父 - 尚維藩、羽地王子朝泰([[羽地御殿]]五世)
*父 - 尚維藩、羽地王子朝泰([[羽地御殿]]五世)
*兄弟姉妹
*兄弟姉妹
44行目: 194行目:
**次女・真牛金
**次女・真牛金


==朝秀の勲功を利用する子孫たち==
== 脚注 ==
七代目羽地朝興が乾隆21年(1756年)2月に隠居し、八代目羽地朝季が家督を相続する際に、先祖の勲功を有する家はそれを報告するように王府から仰せつけられた。朝秀の勲功により一時は1000石あった石高も、代を経るにつれ400石、300石、150石と減少していった。朝季は、もし今回も報告をしなかったならばさらに石高を減らされてしまうという次第を朝興に話した。朝興は、朝秀が国中を仕置して政道の根元を定めたのは皆が知っている事実であるから、このことを報告すればこれ以上石高を減らされずに済むのではないかと考えた。
{{脚注ヘルプ}}

<references/>
そのことを親戚一門に相談したところ、当時政権を担っていた[[蔡温]]に請願しても無駄ではないかという意見が出た。しかし、当時蔡温が推し進めていた中国的な政治のやり方も、朝秀が定めた政道の根元を取り除いては成り立たつものではないという意見から、朝季の考え通り朝秀の由緒について報告することになったのである。

由緒報告の時点ですでに蔡温は隠居の身であったが、蔡温の息子である蔡翼が当時国王の側仕えをしていたということもあり、蔡温・蔡翼の両人に羽地家の由緒を報告することとなった。

朝秀の功績をよく知っていた蔡温は、これだけの功績を残した人物の一門の石高が減少するのはどうなのかということを思った。そこで、摂政・三司官の宅に赴き口頭でこの話を伝えたところ50石の加増が認められ、この時の羽地家の総知行高は計200石となった<ref>{{Cite book|title=|date=1916|year=|publisher=|author=伊波普猷|pages=138-141}}</ref><ref name="羽地家家之傳物語">[[#羽地家家之傳物語|羽地家家之傳物語]]</ref>。
[[ファイル:Sai On.jpg|サムネイル|蔡温]]

ところが、朝季の家督相続と羽地家の総知行高が200石と認められた矢先、朝季が病に倒れ隠居せねばならなくなった。そこで九代目の羽地朝英が家督を継ぐこととなったが、知行高の減少を恐れ、家督相続の直前に朝季が総石高200石を認められたことを王府に再度申請、朝英自身も総石高200石をそのまま認められることとなった<ref name="羽地家家之傳物語"/>。

このように2代続けての石高加増や総知行高の維持に成功した子孫たちであったが、十代目羽地朝美が家督相続の際、朝興・朝季・朝英たちと同様に総知行高維持を王府に願い出たが聞き入れられず、朝興の頃と同様の150石に総知行高が戻ることとなった<ref name="羽地家家之傳物語"/>。

== 復帰前と復帰後の評価 ==
戦前および日本復帰前の沖縄に関する諸々の学問([[沖縄学]])は、沖縄人による自己認識(沖縄認識)という性格が強い。また、沖縄人=日本人であること、さらには沖縄が日本の一部であるということの証明に勢力を注ぎ込んでいるという特色がある。これが1980年以降になると、それまでのような日本や人種に規定されてきた視点が批判され、アジアのなかにおける他国とは異なる歴史を持つ独立国という視点での[[沖縄学]]へと変容してくる<ref>{{Cite journal||author=豊見山和行編|year=2003|pages=8-18|publisher=}}</ref>。

羽地朝秀に対する評価も例外ではなく、たとえば戦前の研究者である[[伊波普猷]]は、「思慮深い経世家」「自国の立場に対する自覚の強い人」「先見の明があって琉球の将来をも見透かしていた」と称し<ref>{{Cite journal||author=伊波普猷|year=1916|page=96|publisher=}}</ref>、島津侵攻後、琉球役人たちへ大和(日本)心の涵養を斡旋し、みずからは薩摩とのパイプ役となり、薩摩の指示に従うことで日本民族として同化していったとするような、日本や日本民族への同化という視点で羽地をとらえている。

また、戦後7年目に当たる1952年に「羽地仕置」の校注を行った[[東恩納寛惇]]は、伊波同様に羽地を「本土の源流に(琉球を)復帰」させた人物と位置づけたうえで「我等の郷里の現状が、慶長終戦直後と酷似してゐる事に想到」させ、「一片の私心なき熱血良識の指導者」である彼が存在した島津侵攻後と、彼の存在しない戦後を比較して述べている<ref>{{Cite book|title=東恩納寛惇|date=1978|year=|publisher=|page=148}}</ref>{{refnest|group="注釈"|name="伊波普猷や東恩納寛惇の文献"|伊波普猷や東恩納寛惇の文献は、戦前に関連史料を確認したうえでの行論であるが、多くの資料は戦災によって失われてしまっている。したがってこの両者が言及している史料のなかには、現在では確認できないものも存在する。}}。

一方、復帰後になると、[[高良倉吉]]は「施策遂行のために一貫して具体的・実践的な姿勢を堅持した政治家」「周到な戦術を駆使する論客」として羽地を称し、蔡温に先行して日本とは軌を一としない琉球の「近世化」を準備し「伝統」を形成した人物<ref>{{Cite journal||author=高良倉吉|year=1998|pages=77-78|publisher=}}</ref>と位置づけた。また田名真之などは、儒教的なイデオロギーによって王国を再建した人物として羽地を位置づけている<ref>{{Cite book|title=|date=1998|year=|publisher=|author=田名真之|page=110}}</ref>。この両者に共通しているのは、合理主義者でありかつ琉球の「伝統」や琉球「近世」の創出者という視点で羽地をとらえていることである。

== 注釈 ==
<references group="注釈" />


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|editor=安里進等|title=県史47 沖縄県の歴史||publisher=山川出版社|year=2004|isbn=4634324709|ref=安里進等編 (2004)}}
*{{Citation|和書|author=池宮正治|title=琉球史文化論|series=池宮正治著作選集 3|publisher=笠間書院|year=2015|isbn=9784305600530|ncid=BB18157615|ref=池宮正治 (2015)}}
*{{Citation|和書|author=糸数兼治|title=蔡温の思想とその時代|journal=新琉球史 近世編(下)|publisher=琉球新報社|year=1990|ncid=BN04002477|ref=糸数兼治 (1990)}}
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*{{Citation|和書|author=上原兼善|title=貿易の展開|journal=新琉球史 近世編(上)|publisher=琉球新報社|year=1989|ncid=BN04002477|ref=上原兼善 (1989年A)}}(1989年A)
*{{Citation|和書|author=上原兼善|title=琉球国における寛文改革の意義―いわゆる羽地「仕置」の性格をめぐって―|journal=西日本史学会宮崎支部報|publisher=西日本史学会宮崎支部|year=1989|ncid=AN10285163|ref=上原兼善 (1989年B)}}(1989年B)
*{{Citation|和書|author=上原兼善|title=元禄期琉球王政の展開|journal=沖縄史料編纂所紀要|volume=15|publisher=沖縄県立図書館史料編集室|year=1990|naid=40004698363|ref=上原兼善 (1990年)}}
*{{Citation|和書|author=梅木哲人|title=評定所の機構と評定所文書|journal=琉球王国評定所文書 第4巻|publisher=浦添市教育委員会|year=1990}}(のち『近世琉球国の構造』第一書房、2011年に収録)
*{{Citation|和書|author=小此木敏明|title=『中山世鑑』における『保元物語』の再構成―舜天紀を中心として―|journal=國語國文|volume=46|publisher=立正大学國語國文学会|year=2007}}
*鎌田出,伊藤陽寿「孔子廟からみる‘‘近世,,琉球」『至誠館大学研究紀要』第4巻、2017年
*紙屋敦之「薩摩藩の琉球支配と中国情報」『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』榕樹書林、2009年
*黒嶋敏「琉球王家由緒と源為朝」『由緒の比較史』青木書店、2010年
*呉海燕「『中山世鑑』における中国古典の引用について」『沖縄芸術の科学』第28号 沖縄県立芸術大学附属研究所紀要、2016年
*島尻勝太郎「泊如竹」『沖縄大百科事典』中巻 沖縄タイムス社、1983年
*首里城研究グループ編『首里城入門 その建築と歴史』ひるぎ社、1997年
*高良倉吉「向象賢の論理」『新琉球史 近世編(上)』琉球新報社、1989年
*高良倉吉「琉球王国の展開」『岩波講座 世界歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成』岩波書店、1998年
*高良倉吉「『羽地仕置』に見る首里城の覚書」『琉球王国史の探求』榕樹書林、2011年
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*{{Citation|和書|author=田名真之|title=沖縄近世史の諸相|publisher=ひるぎ社|year=1992|ncid=BN08367525|ref=田名真之 (1992)}}
*田名真之「羽地朝秀と「羽地仕置」」『近世沖縄の素顔』ひるぎ社、1998年
*田名真之「王府の歴史記述-『中山世鑑』と『中山世譜』-」『琉球 交叉する歴史と文化』勉誠出版、2014年
*知名定寛『琉球仏教史の研究』榕樹書林、2008年
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*豊見山和行『琉球王国の外交と王権』吉川弘文館、2004年
*比嘉実「琉球王国・王権思想の形成過程―若太陽から太陽子思想へ―」『古琉球の思想』沖縄タイムス社、1991年
*東恩納寛惇「校註 羽地仕置」『東恩納寛惇全集』2 第一書房、1978年(『校註 羽地仕置』興南社、1952年より再録)
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*保坂達雄「『中山世鑑』、矛盾を孕む史観」『日本文学』64巻5号 日本文学協会、2015年
*真栄平房昭「明清動乱と琉球・日本」『第一届中琉歴史関係国際学術会議論文集』聯合報文化基金国学文献館、1987年
*真栄平房昭「尚質・尚貞王時代と羽地朝秀」喜舎場一隆編『琉球・尚氏のすべて』、新人物往来社、2000年A
*真栄平房昭「一七世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球」『経済史研究』、大阪経済大学 日本経済史研究所、2000年B
*諸見友重『訳注 中山世鑑』榕樹書林、2011年
*渡辺美季「東アジア世界のなかの琉球」『岩波講座 日本歴史』第12巻近世3 岩波書店、2014年

*{{Citation|和書|title=英姓家譜 渡名喜家|journal=那覇市史 家譜資料(三)首里系|publisher=那覇市企画部市史編集室|year=1982}}
*{{Citation|和書|title=羽地家家之傳物語|publisher=法政大学沖縄文化研究所所蔵|ref=羽地家家之傳物語}}(なお那覇市歴史博物館は『家之伝物語(羽地家)』として同書を所蔵)

*宮里朝光編「向姓世系圖」 向姓世系圖刊行会 1993年
*宮里朝光編「向姓世系圖」 向姓世系圖刊行会 1993年
*{{Cite book|和書|author=沖縄県氏姓家系大辞典 編纂委員会|date=1992年(平成4年)|title=沖縄県氏姓家系大辞典|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040024707|ref=沖縄県氏姓(1992)}}
*{{Cite book|和書|author=沖縄県氏姓家系大辞典 編纂委員会|year=1992|title=沖縄県氏姓家系大辞典|publisher=角川書店|isbn=|ref=沖縄県氏姓(1992)}}
*{{Cite book|和書|author=宮里朝光(監修)、那覇出版社(編集)|date=1998年(平成10年)|title=沖縄門中大事典|publisher=那覇出版社|isbn=978-4890951017|ref=宮里(1998)}}
*{{Cite book|和書|author=宮里朝光(監修)|date=1998|title=沖縄門中大事典|publisher=那覇出版社|isbn=|ref=宮里(1998)|year=1998}}

=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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*[[羽地御殿]]
*[[羽地御殿]]

2020年12月27日 (日) 13:41時点における版

羽地 朝秀(はねじ ちょうしゅう、1617年-1675年(琉球年号:尚寧29年、日本年号:元和3年、中国()年号:万暦45年丁巳5月4日-琉球年号:尚貞7年、日本年号:延宝3年、中国()年号 康熙14年乙卯11月20日)[注釈 1]は、琉球王国政治家。1609年の薩摩島津氏の侵攻以降の琉球を、薩摩島津氏や将軍権力への従属を前提としつつ、首里王府を主体した国家運営機構を確立すべく種々の改革を行った人物[1]

薩摩の重臣との親交を通して藩-王国間のコネクションを築き上げ、薩摩との関係抜きには成立し得ない国家運営形態を作り上げた。また、それ以前の中世的な国家形態を近世的なかたちに改め、基礎づけた改革者としても注目されている[2]。彼の人物像は、彼が1650年に尚質の王命により行った『中山世鑑』の編纂や、1666年から1673年までのあいだに 尚質の摂政(しっしー)となって行った数々の改革のなかで語られることが多い。

なお尚質とは従弟の間柄にあり、後に「王子」に称せられるようになる[3]。このことについて、『中山世鑑』の序において尚質を「尚円公七世嫡孫」とするのに対し、羽地みずからのことも「尚円公嫡孫浦添王子若王月浦六世後胤」とし、第二尚氏の末裔であることや尚質と親戚関係にあることを示している。

生涯

出自

羽地朝秀は、1617年、琉球王族の羽地御殿の四代目、朝泰の四男として生まれた。童名・思亀、唐名象賢(しょう・しょうけん)。ただしこの唐名は、羽地の死後に付けられたものであり、生存中の唐名は呉象賢である[4]。羽地の領地を相続する以前は、1635年に豊見城間切の大嶺を賜っていたことから「大嶺」を称していた[5]。名乗りは重家。

1640年、羽地は羽地御殿の家督を継いで羽地間切按司地頭となった。王家分家の氏が「向」名乗り頭が「朝」に統一されるようになったのは、1691年以降である。それゆえ、生存中の本来の名は呉象賢・羽地按司重家である。 1658年6月~1659年10月、1661年~1662年11月、1667年~1668年12月の合計3回[注釈 2]、王命を受けて薩摩に赴任している[7]。彼の通外という号は、薩摩で親交のあったとされる薩摩藩家老の新納又左衛門久了から1661年の薩摩滞在時に送られたものであった[8]

羽地の前任に当たる摂政であった具志川王子尚享が、京太郎(チョンダラー)の舞いを見ていた時、乳母に抱かれた小児に会った。その時、小児の目を見た尚享は、「いまだかつてこのように器量の優れた子を見たことがない。後日、私を継いで政治を行い、琉球に「黄金のたが」をはめるのはこの子であろう。」と言い教育したという逸話が伝えられている[9]

16歳の時には、薩摩藩主の侍読であり、当時は尚豊の侍講として来琉していた儒学者の泊如竹[10]に出会い、彼の講義を受ける。ここで如竹は、彼の師に当たる南浦文之による学を羽地に伝授し、それが後に『中山世鑑』における南浦史観に繋がったとされる[11]

戦前の羽地朝秀の墓(1933年撮影)

20歳前後から政治経済に興味があったために、国中の間切や村々を廻り田畑や百姓の様子等を実地検分した。同時に、地元の老人たちから詳しく地域についての話を聞いて廻ったという[12]。 また、羽地の晩年に中国から丘澹『大学衍義補』が伝えられた。この書物に感銘を受けた羽地は、この本をもう少し早く見れていたら私の事業にもさらに加えられるところが出てきたのにと、喝采を挙げつつもそれまで見られなかったことを嘆息したというという逸話も存在する[13]

尚貞

1673年に摂政の地位を退き、1675年に死去した。のちに、琉球の五偉人に数えられるほど評価が高く、彼の葬儀には尚貞王も臨席する国葬級の葬儀であったという[14]。墓所は那覇市首里平良町の羽地朝秀の墓

中山世鑑

1650年に、羽地は国王尚質の命により琉球王国初の正史の編纂を行った。これが『中山世鑑』である。この書物は序・総論を含め全6巻で構成され[15]、地の文については漢字仮名まじり文(和文)で表記されている[16]

現存するものは1816年に書き改められたものであるとされるが、内容や構成については羽地の時代のものがそのまま書写されたと考えて良いとされる[15]

中山世鑑

内容については、開闢伝説から、舜天英祖察度の各王統を経て第一尚氏第二尚氏王統へと擬制的に連続して語られる。開闢伝説に登場する天孫氏利勇は羽地による創作だとされている。また、舜天王統紀では源為朝が舜天の父であるとされるが、これも羽地の創作であるとされる[17]

1530年頃から日本の一部で語られ、17世紀初頭には琉球にも流入していたとされる為朝伝説が舜天王統紀に接続されることで、源氏と琉球の王統が接続されたのである[18]。第二尚氏王統は、尚清王代の1555年まで記述されている。

日本年号の使用や島津氏附庸之国という記述、また尚真紀や尚寧紀を欠いている点や[19]、本来連続性のない各王統を禅譲や国王出生の際の日光感精説話などといった中国的な思想を盛り込み連続させている[20]点から、本書の基本的な立場は薩摩への配慮と儒教倫理であるとされている[21]。同様に、このような手法を用いて王統の始祖の誕生を神秘化し神聖視して叙述するのも羽地の特徴であるとされる[22]

本書には、諸見友重による訳注が存在する[23]

編纂の経緯とその目的

編纂については、1650年に国王尚質が当時の摂政である金武王子朝貞や三司官の大里良安に命じて広く旧僚や古老から聞き取りを行った。それらを羽地が世系図としてまとめ、詩経の「殷鑑遠からず」を意識して「世鑑」と名付けたという。

専ら王家の系図を作成するという構想のもとに成ったものである。[24]。編纂の目的も、過去を手本としつつ先王らの系統や事績を見ることで今後の参照としていくこと。また、子孫たちに先王がこれまで万世一系であったという所以を知らしめるということを意図しているという[19]

この時期に編纂が行われた理由として、幕府が諸大名に家系図編纂を命じそれが『寛永諸家系図伝』として完成したのが1643年のことであり、そのことが大きく影響したと言われている[25]

引用文献

南浦文之討琉球詩序」、袋中琉球神道記』といった17世紀当時の薩摩の禅僧によって書かれたものや、琉球に伝わる「おもろ」や金石文、皇帝の勅書勅諭、琉球側の渡航証明書、冊封による記録、さらには『保元物語[注釈 3]平治物語』といった日本の軍記物が中心であるとされる[27]

また中国における文献も、『論語』『孟子』『中庸』『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』といった四書五経のほか、『淮南子』『周易大全』『荘子』『荀子』『史記』『韓詩外伝』『後漢書』『晋書』『十八史略』『論衡』『説苑』『楚辞』『玉台新詠』など史書や諸子百家の著作、詩集に至るまで幅広く引用されている[28]

薩摩への配慮

日本年号の使用や王号・公号の書き分け、また尚真紀や尚寧紀を欠いている点から、薩摩に配慮した作りになっていると考えられている[19]

また、初代の王を舜天としたり、舜天源為朝伝説を融合させている点は羽地の創作であるとされている[29]

琉球侵攻の前後に形成され薩摩や日本へ広がったと考えられる、侵攻と同地の支配とを正当化する島津氏の論理。すなわち、琉球は島津氏の附庸国であり、当時の三司官であった謝名親方が奸臣であったためにやむなく島津が琉球への討伐に乗り出したという論理を、本書は採用している[30]

台湾海賊対策

17世紀初頭から、中国大陸に進貢にむかう琉球船が台湾を拠点とするオランダ船に海賊行為を受けていた。中国()と敵対していたオランダが、中国船と同じジャンク型である琉球船を攻撃したのである。これに対し琉球は、1636年にこの事態を薩摩藩に訴えた。薩摩藩は、長崎のオランダ商館にかけ合い安全保障の目印となる旗と通行証を譲り受け、これらを琉球に渡した。琉球は薩摩藩から譲り受けたオランダ旗を掲げ台湾近辺を航行することで、オランダからの攻撃を免れたのである[31][注釈 4]

進貢船

一方1662年には、明朝滅亡後に清朝と抗争した鄭氏一族がオランダ勢力を台湾から追い出し、この地を新たな抗争の拠点とした。琉球は1663年に清朝と冊封関係を結んだために鄭氏から敵対勢力と見なされるようになり、進貢の際に攻撃対象となった[注釈 5]。こうした事態を打開するため、羽地は琉球船の航海安全の保障を鄭氏に求めるべく薩摩藩に依頼した。オランダの時と同様に、長崎貿易を通じて鄭氏と太いパイプをもつ幕藩制国家を介し状況を打開しようとしたのである[34]

薩摩藩や長崎の尽力により台湾側と交渉が成立した事例も存在するが、その後も海賊の被害が頻発したため、琉球は薩摩藩の許可の下で、進貢の際に武装するなどの自衛手段に努める他なかった[35]

首里城焼失と再建

1660年、旧暦の9月27日に失火により首里城が全焼した。1671年に再建されるも、資金難により再建に11年もの歳月を有したり、1663年に行われた国王の冊封儀礼が、王府機能の移転先である大美御殿で行われることになるなど、王政に多大な影響を与えることとなった[36]

首里城の焼失は、薩摩による税収に加え明清王朝交替の影響で進貢貿易の不振に喘いでいた矢先に起こった。羽地は、こうした窮状の下にある中で首里城の再建を実現すべく、薩摩に渡り首里城再建を口実に経済的支援に関する請願を行っている。請願の内容は主に、首里城再建のための材木船3艘の建造や、百姓たちに課せられる薩摩への出米を再建終了まで免除してほしいなどといった、造船や運送、そして薩摩が琉球に課している税の減免についてであった。しかしながら、当時の薩摩においても天災や江戸への軍役負担、藩邸の火災などにより藩財政が悪化していたために、造船や運送については許可されたものの税の減免は許可されなかった[37]。薩摩での請願活動が認められたのか、1663年正月には再建のための総責任者となっているが[38]、その半年後に冊封使が来琉したために、再建事業はいったん中止となった[39]

財政難により再建が遅れたものの、1666年以降の羽地の改革により3年の内に再建にこぎ着けた。再建された首里城は前のものよりも良い出来栄えであり、これは羽地によるリーダーシップと百姓による尽力による賜物であると、羽地自身が自負を示している[40]

『羽地仕置』には役人たちの参上に関する規定の他、「玄関」や「廊下」といった首里城内部に関する文章も存在している。これについては、難事だった首里城の再建を視野に入れた諸政策を羽地が推進し、その結果や内容を文書に反映したものであると考えられている[41]

北谷・恵祖事件

1660年代なかばに起こった、羽地が摂政に就任する契機となった事件。進貢の際に金品略奪が起こり、これに三司官等王府首脳部も関わっていたことから、薩摩藩により首脳部が引責辞任に追い込まれたことで羽地が摂政に就任することとなった。

1609年の薩摩島津氏の侵攻以降、王府中枢では、薩摩の支配を受け容れる王に対し、薩摩の命に従わない役人たちによるサボタージュが相次いでいた。侵攻時の国王である尚寧の次代に当たる尚豊の政権下では、島津氏の支配と冊封朝貢関係を両立・整合させ、島津氏と妥協しつつ王権を維持しようとする尚豊に対し、島津氏の命により中国で購入する物品に粗悪品を選ぶなどして島津氏に対抗しようとする勢力が存在したのである[42]

そうした政治情勢のなか、1663年に清朝による初の冊封が実現し、その謝恩使として三司官の北谷(ちゃたん)親方朝暢が派遣された。その翌年の1664年には、聖祖康熙帝の即位を祝う慶賀使として恵祖親方重孝が派遣された。恵祖等が福州に入港する直前に暴風に遭い、それに乗じて海賊に襲撃された。この混乱に際して、皇帝への慶賀品が奪われただけでなく毒殺事件まで起こった。そしてさらに問題となったのは、海賊等ふくめ事件は全て乗組員や福州に滞在している琉球人の自作自演であることが判明したことである。薩摩は関係者を藩に呼び出し、厳しく尋問した。その結果、監督責任を問われた北谷と恵祖は、二人とも斬首。二人の家族も連座となり宮古八重山流罪となった[43]

この事件の顛末から、羽地の摂政就任が薩摩藩による琉球の新たな支配編成の要求を担っていたものであるということがわかる[44][注釈 6]。なお琉球は、この事件と同時期に、薩摩との緊張関係緩和を目指し、毎年中国に行き貿易することが可能となる接貢船の制度化[注釈 7]を進めることで朝貢貿易の再建・拡大を目論んでいた。しかし鄭氏からの攻撃やそれに続く中国大陸における三藩の乱勃発により、海外貿易政策を介した薩摩との関係改善は打開策を見いだせないでいた[46]

砂糖やウコンの専売制

冊封使の来琉により、王府の財源は底をつきかけていた。この事態を打開するために王府が行ったのが、薩摩藩からの借金(借銀)を元手とした唐物貿易の拡張であった。

一方で薩摩藩側も、王府の行おうとしている唐物貿易に藩財政の活路を見出そうとしていたのである。薩摩藩は、王府のこれ以上の借銀願いを控えるように言いつつ、貿易品やその利益は薩摩藩への借銀返済に充てるのではなく唐物貿易を滞りなく行うための費用として蓄えておくこと、借銀の返済は琉球国内の産物を増産して賄うことといった二点について王府に命じている。

これに対し王府は、康熙帝慶賀使の一行に白糖技術を学ぶ者を随行させたり、砂糖奉行を王府専属の役所として配置した。その後、後述する羽地の仕明地政策と結びつくことで、1667年頃には砂糖とウコン専売制が開始されるのである[47]

羽地朝秀の改革

行政機構の改革

近世琉球の政治的中心である評定所の各機構を整備したと言われる。具体的には、1666年から1673年までの羽地の摂政期の間に、耳目官御物奉行重人衆を吟味役と改称(1666年)、評定所筆者二人を減去し(1666年)、評定所筆者主取を設置(1668年)。日帳主取二員や御物奉行帳当(共に1671年)の設置などがある[48]。 また1667年には、三司官の最短距離にあり、薩摩―琉球間の取次を主たる任務とする在番親方が制度化した[49]

『羽地仕置』

羽地仕置』は、1666年から1673年までの羽地朝秀の摂政期に出された布達文書集の一部である[50]。当初は『羽地仕置』というまとまったものではなく、当時における廻文や各役所に掲示された文書を集積したものである。したがって「羽地仕置」という標題は、後世に至って沖縄県庁が琉球資料に収録する際に付けられたものであろうと推測されている[51]

『羽地仕置』に出てくる事項の日付が必ずしも実施の日付ではないということから、実施以降に後年への備忘や参考のためにまとめられたことがわかる。このため、年次の記憶違いと思しき箇所も存在する[52]

『羽地仕置』の内訳をみると、羽地が摂政に就任した1667年の春から夏にかけて頻繁に文書を布達しているが、1668年と1672年の文書は収録していない。それ以外の年は2~4件程度であるが、引退間際の1673年には文書が集中している[53]

摂政就任時の王府慣習改革

『羽地仕置』によると、羽地は摂政就任の際、「内証」から遣わされた「書院の親方」を追い返し、摂政の次席に当たる三司官の伊野波親方に改めて就任要請に来させたという。羽地はこのように、慣習となっていた王府内システムを否定し、身分や事柄に合ったかたちでの公式なシステムに改変することを要求したのである。

三司官の任職を要請する際には、王府内の女官が国王からの要請を取り次ぐという慣習を否定し、上級役人に取次役を担わせるようにした。他にも、重職就任や領地拝領、節句の際の進物や祝儀、その際の対応について簡素化を要請した。これまでは、国王や王妃、その側仕えの者たちにも進物を送っていたが、以後は国王や王妃以外への進物は停止する。

また祝儀を持参して面会に来た際には、毎回面会するのではなく帳面に来訪者を記載するだけで良いとしたり、必要以上の祝儀を用意する必要はないとした。これらの意図は、虚礼に対する廃止や合理化であると同時に、王府内における身分秩序を明確化することで政治行政組織の強化を目指したものであるとされている[54]

城内規定の制定

羽地は摂政就任時に、諸士が城内を草履履きで歩行することや、老人の多い座敷衆に対しては、冬季に限り城内で足袋を履くことを認めている。これは、当初は首里城火災後の避難場所である大美御殿における規定であったが、首里城の存在を前提にしているような文面から、首里城再建後の規定として踏まえられていたとも考えられる[55]

一方で、首里城再建後には、城内作法の規定も定められている。それらは主に、「玄関」や「廊下」において役人の身分によって城内に帯同できる従者の人数を決めたことや、従者のなかでも特に草履取りについては「玄関」の外側で控えることなどといった、身分を可視化させた規定であった[56]

身分の確定

島津氏の侵攻以前の琉球において、位階制度による一定の支配・被支配の関係は存在したが、位階はあくまで個人に与えられるものであり、子々孫々まで継承されるものではなかった。島津氏の侵攻以後には、検地や諸士への給地およびキリシタン宗門改めの必要性から、身分や各構成人員を明らかにする必要が生じた。これにより導入されたのが、諸士に対する系図(家譜)提出の義務化に他ならない[57]

この制度は、1689年の系図座の設置をもって始期とされ、これによって家譜を持つことを許された身分を「系持」、持てない身分を「無系」として区別した。こうして「系持」を士、「無系」を百姓とし、士身分の者が王府により体制的に保障されるといった身分制が成立したのである。また当然のことながら、家譜には家筋や家のステータスを表示する必要があり、家譜の提出を求められるのも家単位であることから、位階制度をはじめとした社会組織も個人から家へとその対象を変化させた。こうして、琉球においても家を中心とした父系論理や祖先祭祀が浸透してくのである[58]


こうした身分制が確立されていくための端緒となったのが、羽地の改革である。改革に至る前段階として、羽地は1650年に王府の「家譜」に当たる『中山世鑑』を編纂した。このことが呼び水となり家譜編集を行った士家もあったが、一部に留まった[59]。摂政就任後は、1670年に王府名義で諸士へ各々の系図を提出するように求めている。これには、士たちの出自や家格を明確にするという目的があった。これによって、もともと士である者を指す普代、新しく士になった新参と、諸間切衆中・田舎衆中といった農村に居住している士たちの出自の明確化がなされた。また、これまでは城での席順は年齢順であったが、今後は普代の者が上座であることが決められた[60]

系持層には、学文、算数、書道、歌や音楽、医道、料理、乗馬、生け花、茶道などのなかで一つも芸を嗜まない者は、たとえ家格が良くとも役人に登用することはないとしている[61][注釈 8]。首里城での公式行事の際にも、身分を示す冠を付けてくるようにとの通達も『羽地仕置』には見られる。

儀礼や冠婚葬祭に関する改革

取りも直さず、王府内慣習の改革は、王府や国王の儀礼、さらには百姓を含めた冠婚葬祭に関する改革へと結びついていく。

王府ではこれまで、中国や日本へ出張する役人たちを正月の元旦と十五日に首里城に出仕させたり、そうした役人のなかでその年の干支(歳日:トゥシビー)に当たる者がいる場合には、その者たちに対し女踊りを行っていたが、これらを全て廃止した。同時に、正月の元旦と十五日に首里城に出仕する役人たちへの振る舞いも全て廃止した。

冠婚葬祭に関しては、法事の際に各役人の家に国王から賜品を送る慣例を禁止した。また、国王が行幸や参詣を行った際、関係者に祝物を下す慣例も廃止した[63]

冠婚葬祭の規定は、王府の役人たちだけではなく一般の百姓たちにまで及んだ。

たとえば、婚約祝において媒酌人に対し豪勢な馳走を用意していたが、これを簡略化し分相応にするようにした

葬礼に関しても、死者を運ぶ籠や式典の際の装飾の数や法事の際の坊主の数や儀礼、食事や衣装に関する事柄などが事細かに決められた。葬礼については同時に、親孝行を名目に必要以上に華美になり、子や孫の出費がかさむことや、忌中を理由とした職務の倦怠を問題視している。

特に田舎では、身分不相応に大酒を呑んだり牛を殺したりと、儀礼が華麗に流れ過ぎることで物入りが家計を圧迫し、果ては身売りをする者まで出ていた。こうした事態に対し羽地は、こういった輩が以後も出た場合は、当人だけではなく村の役人や当人が所属している与(組)の者まで処罰するといった厳罰をもって対処したのである。

ここから、羽地の目指した改革が単に虚礼の廃止や質素倹約を目指したものではなく、国王から百姓までに及ぶ王国内の広範な「意識改革」であったことがわかる[64]

久高島や知念城内での祭祀

久高島

羽地は、久高島知念城の祭祀の際に国王が赴くことについても難色を示した。

久高島は琉球開闢神話の聖地であると言われていたため、国王は毎年旧二月に行われる祭祀に神女を伴い隔年で参詣していた。これに対し羽地は、久高島には港が無いうえ旧ニ月の強風が国王の身体に障ること、久高島祭祀は聖賢の規式ではないうえに、神女が祭祀に参加するということが日本や中国の人に知れたら嘲笑されるということ、知念城内は大変狭く火事になったら逃げ場がないこと、また周辺地域の百姓たちにかかる国王接待にかかる費用がバカにならないという理由から、参詣は国王一代限りとするか名代を派遣する。あるいは中国や日本から仏教を移入したのと同様に、久高島や知念城の神を首里城の近郊に移して祀れば良いとした。

羽地はこうした自説を補強するために、琉球人は日本から渡来し、琉球における天地・山川・草木などはみな日本と同じであるという説を唱えた。この説が、伊波普猷(いは ふゆう)を代表する後の学者たちによって「日琉同祖論」として取り上げられるのである[65]

暦の使用

同時に羽地は、時之大屋子といった無学の巫者に日選びをさせているが、中国の暦を用意したので今後はこれらを用いるとし、巫者を否定した[66]

役人の不正に関わる改革

地方に赴任した役人のなかには、現地の百姓に対し非法を働く者たちもいた。彼らはみずからの領地で生活する百姓たちに金や物を強制的に貸し付け、その対価として百姓たちを使役したり、節句の際に赴任地域から特産物などの賄賂として受け取るなどといった搾取や非法を繰り返し行っていたのである。

また役人のなかには、赴任地に赴かずに遊女に溺れ放蕩するに留まらず、赴任したとしても、お抱えの遊女にみずからの領地の管理経営を委ねてしまう者などがいた。

一方、百姓の側もこうした事態から農業を嫌がるようになり、ひそかに那覇や首里といった都市部に流入する者が現れた。こうした事態に際し羽地は、役人に対して不正な非法や中間搾取を取り締まることで、厳正かつ公正に職務を全うする姿勢を堅持させようとした。同時に百姓には、生活を安定させることで荒廃した農村を立て直させた[67]。また、開墾を奨励することで産業や経済の振興を彼ら自身に積極的に担わせたのである。

開墾奨励(仕明地政策)

薩摩から土地の開墾(仕明:しあけ)許可を取り付けた羽地は[注釈 9]、1669年、間切(まぎり:現在の郡に相当)や村、さらにはそこを統治する地頭や百姓たちに至るまで、広く仕明奨励策を打ち出した。仕明した土地は「永々」にその所持を許されたという。

島津氏の侵攻の直後、慶長年間に検地が行われて以来、約60年に渡り検地が行われていなかった。その影響により水害による荒廃や荒れ地が点在するようになり、慶長検地にて定められた耕地への税率と羽地時代のものとでは大きな食い違いが生まれていた。このため、現実にそぐわない重税を百姓が担わねばならない状態にあった。そこで羽地は、定められた税率と実際の税率の格差を縮めることを口実に薩摩に仕明の許可を願い出たのである[69]

この政策はかなりの成果をあげたようで、羽地の死後も継続して行われた。ところが、17世紀の末頃には、耕地拡大は達成されていくものの次第に乱開発や燃料、飼料の枯渇という事態が出来したために、王府は仕明抑制策を取ることとなった[70]

間切や村の新設

羽地の摂政就任当時、沖縄本島の村数は322ヶ村であったが、羽地はこれを27間切322に再編成した。

まず1666年に今帰仁(なきじん)間切から11村を分け、さらに7村を新設して本部(もとぶ)間切を設置、その後、越来(ごえく)間切から15村を分け、5村を新設して美里間切を設置した。1671年に宜野湾(ぎのわん)間切、1673年に恩納(おんな)間切、大宜味(おおぎみ)間切、小禄間切、久志間切、1676年に与那城間切、計8間切を新設した。こうして、旧来のものも合わせて35間切の体制が出来たのである[71]

寺院整理(仏教政策)と儒教奨励

古琉球期以来、琉球では仏教が盛んであった。島津の琉球侵攻後は、薩摩によって部分的なの寺院建立制限は受けたものの、寺院建立や既存寺院の修復・再建は活発に行われていた[72]。また1661年に羽地が薩摩に渡った際、新納又左衛門久了から薩摩の制度や仏教の教義を研究して帰るようにとの注意を受けてもいた[8]

ところが、仏教徒による結党が問題視されることにより、1662年には江戸幕府は出家・山伏・行人等の活動を規制した。これに呼応して、琉球においても仏説の講談等が規制され、代わりに儒教が奨励されたのである[73]。このことにより羽地は、改革の一環として寺院の新建や修復再建を一ヶ寺たりとも行うことなく、また知行地を整理・削減するといった寺院整理を行っている[74][注釈 10]

また1671年には、久米村より出された孔子廟創建の請願を羽地自身が許可している[76][注釈 11]

家族表

  • 父 - 尚維藩、羽地王子朝泰(羽地御殿五世)
  • 兄弟姉妹
    • 向自泰、勝連按司朝賢(朝泰次男。向氏内間家5世・朝勝連按司朝盈の養子になる)
    • 勝連按司朝景(朝泰三男)
    • 高安按司真犬兼(朝泰長女)
    • 川上按司思武太金(朝泰次女)
    • 美里按司加那志(朝泰三女。号・栢窓。尚質王の妃)
    • 乙益美(朝泰四女)
    • 真竃金(朝泰五女。号・花窓。和氏古謝親雲上景信に嫁ぐ)
  • 妻・思戸金(毛氏豊見城殿内六世・豊見城親方盛良次女)
  • 子女
    • 長男・向愼淵、羽地按司朝字
    • 男・活童和尚
    • 長女・屋我按司真竈金(毛氏座喜味殿内七世・座喜味親方盛員に嫁ぐ)
    • 次女・真牛金

朝秀の勲功を利用する子孫たち

七代目羽地朝興が乾隆21年(1756年)2月に隠居し、八代目羽地朝季が家督を相続する際に、先祖の勲功を有する家はそれを報告するように王府から仰せつけられた。朝秀の勲功により一時は1000石あった石高も、代を経るにつれ400石、300石、150石と減少していった。朝季は、もし今回も報告をしなかったならばさらに石高を減らされてしまうという次第を朝興に話した。朝興は、朝秀が国中を仕置して政道の根元を定めたのは皆が知っている事実であるから、このことを報告すればこれ以上石高を減らされずに済むのではないかと考えた。

そのことを親戚一門に相談したところ、当時政権を担っていた蔡温に請願しても無駄ではないかという意見が出た。しかし、当時蔡温が推し進めていた中国的な政治のやり方も、朝秀が定めた政道の根元を取り除いては成り立たつものではないという意見から、朝季の考え通り朝秀の由緒について報告することになったのである。

由緒報告の時点ですでに蔡温は隠居の身であったが、蔡温の息子である蔡翼が当時国王の側仕えをしていたということもあり、蔡温・蔡翼の両人に羽地家の由緒を報告することとなった。

朝秀の功績をよく知っていた蔡温は、これだけの功績を残した人物の一門の石高が減少するのはどうなのかということを思った。そこで、摂政・三司官の宅に赴き口頭でこの話を伝えたところ50石の加増が認められ、この時の羽地家の総知行高は計200石となった[77][78]

蔡温

ところが、朝季の家督相続と羽地家の総知行高が200石と認められた矢先、朝季が病に倒れ隠居せねばならなくなった。そこで九代目の羽地朝英が家督を継ぐこととなったが、知行高の減少を恐れ、家督相続の直前に朝季が総石高200石を認められたことを王府に再度申請、朝英自身も総石高200石をそのまま認められることとなった[78]

このように2代続けての石高加増や総知行高の維持に成功した子孫たちであったが、十代目羽地朝美が家督相続の際、朝興・朝季・朝英たちと同様に総知行高維持を王府に願い出たが聞き入れられず、朝興の頃と同様の150石に総知行高が戻ることとなった[78]

復帰前と復帰後の評価

戦前および日本復帰前の沖縄に関する諸々の学問(沖縄学)は、沖縄人による自己認識(沖縄認識)という性格が強い。また、沖縄人=日本人であること、さらには沖縄が日本の一部であるということの証明に勢力を注ぎ込んでいるという特色がある。これが1980年以降になると、それまでのような日本や人種に規定されてきた視点が批判され、アジアのなかにおける他国とは異なる歴史を持つ独立国という視点での沖縄学へと変容してくる[79]

羽地朝秀に対する評価も例外ではなく、たとえば戦前の研究者である伊波普猷は、「思慮深い経世家」「自国の立場に対する自覚の強い人」「先見の明があって琉球の将来をも見透かしていた」と称し[80]、島津侵攻後、琉球役人たちへ大和(日本)心の涵養を斡旋し、みずからは薩摩とのパイプ役となり、薩摩の指示に従うことで日本民族として同化していったとするような、日本や日本民族への同化という視点で羽地をとらえている。

また、戦後7年目に当たる1952年に「羽地仕置」の校注を行った東恩納寛惇は、伊波同様に羽地を「本土の源流に(琉球を)復帰」させた人物と位置づけたうえで「我等の郷里の現状が、慶長終戦直後と酷似してゐる事に想到」させ、「一片の私心なき熱血良識の指導者」である彼が存在した島津侵攻後と、彼の存在しない戦後を比較して述べている[81][注釈 12]

一方、復帰後になると、高良倉吉は「施策遂行のために一貫して具体的・実践的な姿勢を堅持した政治家」「周到な戦術を駆使する論客」として羽地を称し、蔡温に先行して日本とは軌を一としない琉球の「近世化」を準備し「伝統」を形成した人物[82]と位置づけた。また田名真之などは、儒教的なイデオロギーによって王国を再建した人物として羽地を位置づけている[83]。この両者に共通しているのは、合理主義者でありかつ琉球の「伝統」や琉球「近世」の創出者という視点で羽地をとらえていることである。

注釈

  1. ^ 琉球で使用される年号は、琉球暦、和暦、中国暦があり、時代などによって使い分けがなされる。羽地の時代は年号の使用についても過渡期に当たるため、ここでは琉球暦、和暦、中国暦をすべて示した。
  2. ^ 死の直前に渡ったものも数え、計4回という説もある。この時は薩摩で中風に罹りすぐさま帰国したという[6]
  3. ^ 『中山世鑑』に引用されている『保元物語』の版本は不明であるが、寛永元年製本版のものが『中山世鑑』に引用されているものと極めて近いとされる[26]
  4. ^ 滋賀大学経済学部附属史料館が所蔵する近世後期に作成された「琉球貿易図屏風」には、描かれた進貢船にオランダ風の三色旗らしい旗が掲げられている。[32]
  5. ^ 1663年と1664年の史料や墓碑には、日本の寛文年号が使用され、清の康煕年号は用いられていない。ところが、これが1670年になると清の康煕年号に統一される。これは、日本年号を使用することで内面においては清との冊封関係を否定していたが、1670年に至る頃には清を容認するようになったと解釈されている。[33]
  6. ^ こうした薩摩の態度は、琉球側の失態を容赦しないという強い姿勢を示した一種の恫喝であったという説もある。[45]
  7. ^ 琉球ではこの時期、二年に一度中国に進貢することが許されていた。接貢とは、進貢に当たらない年に進貢使者を迎えにやることを指す。これを行うことにより、琉球では事実上毎年中国に赴き貿易を行うことが可能となる。
  8. ^ 伊波普猷はこれらを日本の芸術としている。羽地は日本の芸術を奨励し、かつ役人たちがこれらを行っているうちに自然と大和心になっていったとしている。[62]
  9. ^ この仕明許可についても、薩摩における万治内検の延長に位置づけられるという説がある。[68]
  10. ^ なお、羽地の辞任後には、再び寺院の修復再建がなされるようになる。[75]
  11. ^ なお鎌田,伊藤(2017年)では、この孔子廟創建が1670年代~1680年代の対清政策に直接繋がっていくとする。
  12. ^ 伊波普猷や東恩納寛惇の文献は、戦前に関連史料を確認したうえでの行論であるが、多くの資料は戦災によって失われてしまっている。したがってこの両者が言及している史料のなかには、現在では確認できないものも存在する。

参考文献

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出典

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関連項目

先代
久米具志川朝盈
琉球の摂政
1666年 - 1675年
次代
大里朝亮