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| Name = セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ<br /><small>{{lang|ru|Сергей Сергеевич Прокофьев}}</small> |
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{{Portal クラシック音楽}} |
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'''セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ'''({{lang-ru|Сергей Сергеевич Прокофьев}} <small>シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ</small>;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、[[1891年]][[4月27日]]{{refnest|group= "注"|プロコフィエフ本人は4月23日(ユリウス暦4月11日)が自身の誕生日であると信じていたが、死後に発見された出生証明書により4日後の4月27日(ユリウス暦4月15日)生まれであったことが明らかになった{{sfn|Slonimsky|1993|p=793}}。}} - [[1953年]][[3月5日]])は、[[ロシア]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]。数多くの形式の音楽に傑作を残したことで知られており、20世紀の大作曲家のひとりであると認知されている。作品には『[[三つのオレンジへの恋]]』の行進曲、組曲『[[キージェ中尉]]』、[[バレエ音楽]]『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロメオとジュリエット]]』、『[[ピーターと狼]]』といったような広く聴かれる楽曲がある。確立された型や様式の中で取り組み生み出された作品には、習作を除くと7つのオペラ、7つの交響曲、8つのバレエ音楽、5つのピアノ協奏曲、2つのヴァイオリン協奏曲、1つのチェロ協奏曲とチェロと管弦楽のための交響的協奏曲、そして9つのピアノソナタがある。 |
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[[画像:1991 CPA 6314.jpg|150px|thumb|ソ連の15コペイカ切手(1991年発行)に描かれたプロコフィエフの肖像]] |
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'''セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ'''({{lang-ru|Сергей Сергеевич Прокофьев}} <small>シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ</small>;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、[[1891年]][[4月23日]] - [[1953年]][[3月5日]])は、[[ロシア]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]。 |
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帝政期のロシアに生を受け、13歳で[[サンクトペテルブルク音楽院]]で作曲・ピアノを学ぶ<ref>吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』[[青弓社]]、2006年2月10日、253ページ。ISBN 4-7872-7208-X</ref>。音楽院を卒業したプロコフィエフは、当初因習を打ち破る作曲家兼ピアニストとして名を上げた。最初の2曲のピアノ協奏曲のように、不協和音と超絶技巧に獰猛さを見せる作品群を自分の楽器であるピアノのために書いて悪名を高めたのである。1915年、管弦楽のための『[[スキタイ組曲]]』により一般的な作曲家兼ピアニストの枠組みから明確に抜け出す。これは元々[[バレエ・リュス]]の[[セルゲイ・ディアギレフ]]の委嘱により作曲されたバレエ音楽から編みなおされた作品だった。ディアギレフはさらに3作のバレエ音楽、『[[道化師 (バレエ)|道化師]]』、『[[鋼鉄の歩み]]』、『[[放蕩息子 (バレエ)|放蕩息子]]』をプロコフィエフに委嘱しており、その全てが初演時に評論家と同業者にセンセーションを巻き起こした。しかしプロコフィエフが最も関心を注いだのはオペラであり、『[[賭博者 (プロコフィエフ)|賭博者]]』や『[[炎の天使 (オペラ)|炎の天使]]』など数作品を作曲した。『三つのオレンジへの恋』はシカゴ・オペラ協会のために書かれた後に10年以上にわたりヨーロッパとロシアで上演され、彼の生前のオペラでの成功作のひとつとなった。 |
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== 人物・来歴 == |
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現在の[[ウクライナ]]、[[ドネツィク州]](当時は[[ロシア帝国]]領)ソンツォフカ({{lang|ru|Сонцовка}};ラテン文字転写の例:Sontsovka)生まれの[[ロシア人]]。帝政期のロシアに生を受け、13歳で[[サンクトペテルブルク音楽院]]で作曲・ピアノを学ぶ<ref>吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』[[青弓社]]、2006年2月10日、253ページ。ISBN 4-7872-7208-X</ref>。[[ロシア革命|革命]]後、[[シベリア]]・[[日本]]を経由して[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、[[1936年]]に社会主義の[[ソビエト連邦|ソヴィエト]]へ帰国。作風は、こうした外的な環境に応じて大きく3つの時期に区分できる。 |
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1917年の[[ロシア革命]]以後は、ソビエトの大臣であった[[アナトリー・ルナチャルスキー]]の公認を得てロシアを後にし、[[アメリカ合衆国]]、[[ドイツ]]、[[パリ]]と居住地を移しながら作曲家、ピアニスト、指揮者として生計を立てた。この頃にスペイン出身の歌手であった[[リーナ・プロコフィエフ|カロリナ・コディナ]]と結婚、2人の息子を儲けた。1930年代のはじめには[[世界恐慌]]によりアメリカや西ヨーロッパでプロコフィエフのバレエやオペラの上演機会が減少する。自らを第一に作曲家であると看做していた彼はピアニストとして演奏旅行をしなければならないこの時に憤慨し、新作の委嘱のために[[ソビエト連邦]]へ向かうことが多くなっていく。そして1936年にはついに家族を連れて祖国へ戻ることになった。祖国では、特に『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』、そしてとりわけ『[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]』がいくらかの成功を収めた。 |
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ソヴィエト時代には、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]や[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]、[[ドミトリー・カバレフスキー|カバレフスキー]]らと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、[[ジダーノフ批判]]を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。 |
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[[バルバロッサ作戦|ナチスによるソ連侵攻]]に鼓舞されたプロコフィエフは、最大の野心作として[[レフ・トルストイ]]の『[[戦争と平和 (オペラ)|戦争と平和]]』のオペラ化を行う。1948年に「非民主的[[形式主義 (音楽)|形式主義]]」との批判を受けた。にもかかわらず、ロシアの新しい世代の演奏家である[[スヴャトスラフ・リヒテル]]、[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]らから個人的に、また芸術家としての支援を受け、リヒテルには[[ピアノソナタ第9番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第9番]]、ロストロポーヴィチには[[交響的協奏曲 (プロコフィエフ)|交響的協奏曲]]を書いている。 |
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[[交響曲]]、[[管弦楽曲]]、[[協奏曲]]、[[室内楽曲]]、[[ピアノ曲]]、[[声楽曲]]、[[オペラ]]、[[映画音楽]]などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 幼少期と最初の作曲 === |
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[[File:Reinhold Glière.jpg|thumb|upright|プロコフィエフに最初に作曲の指導を施した作曲家の[[レインゴリト・グリエール]]]] |
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*[[1891年]][[4月23日]]、農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた父セルゲイ・アレクセエヴィチ・プロコフィエフ([[1846年]] - [[1910年]])と母マリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、[[1855年]] - [[1924年]])の息子として、ウクライナ地方南部のエカテリノスラフ県バフムート郡ソンツォフカ村に生まれた。プロコフィエフ家には、はじめ2人の娘が生まれたが、2人とも幼くして世を去ったので、3番目の子供セルゲイは特別注意を払って育てられた。 |
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1891年に[[ロシア帝国]]、[[エカテリノスラフ県]]バフムート郡のソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka、現在の[[ウクライナ]]、[[ドネツィク州]]、ソンツィフカ)に生を受けた<ref>{{harvnb|Prokofiev|1979|pp=8, 10}}; {{harvnb|Nestyev|1961|p=1}}; and {{harvnb|Nice|2003|p=6}}</ref>。父のセルゲイ・アレクセイヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)は農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた。母のマリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)はかつて{{仮リンク|シェレメテフ家|en|Sheremetev}}に支配されていた[[農奴制|農奴]]の家系の出で、その領主の庇護により農奴の子らは若くから舞台と芸術について教えを受けていた<ref>Vishnevetskiy (2009): pp. 15–16</ref><ref>{{cite web | last =Sidorov | first =Yuriy | title =ОТЕЧЕСТВЕННЫЕ ЗАПИСКИ | date =2 August 2012 | url =http://www.sovross.ru/modules.php?name=News&file=print&sid=591534 | access-date = 7 August 2014 | archive-url =https://web.archive.org/web/20140201220032/http://www.sovross.ru/modules.php?name=News&file=print&sid=591534| url-status =dead | archive-date =1 February 2014}}</ref><ref>{{cite web|title = Sergei Prokofiev|website = Music Academy Online|url = http://www.musicacademyonline.com/composer/biographies.php?bid=82|access-date = 23 March 2014}}</ref><ref>{{cite web|title = Sergei Prokofiev by Paul Shoemaker|website = MusicWeb International|url = http://www.musicweb-international.com/classrev/2003/Apr03/Prokofiev_Biography.htm|access-date = 23 March 2014}}</ref>。プロコフィエフに最初に作曲を教えた[[レインゴリト・グリエール]]が記すところでは、彼女は「美しく聡明な目をした長身の女性(中略)自身がいかにすれば温かく純真な雰囲気を作り出せるかを心得ていた<ref>Reinhold Glière. "First Steps" from {{harvnb|Shlifstein|1956|p=144}}</ref>。」1877年に結婚した後、一家は[[スモレンスク]][[グベールニヤ|県]]にある小さな地所に移り住んだ。やがてセルゲイ・アレクセイヴィチは土壌技術者の職を得て、学生時代に一緒だったドミトリ・ソンツォフに雇われることになる。一家が引っ越したのはウクライナの[[ステップ (植生)|ステップ]]の中にある彼の地所だったのである<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=6}}</ref>。 |
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*[[1896年]](5歳)最初の作曲。母親が譜面に起こしたヘ長調のピアノの小曲で『インドのギャロップ』と名づけられた。 |
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*[[1898年]](7歳)[[連弾|4手ピアノ]]のためのハ長調の行進曲を作曲。 |
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*[[1900年]](9歳)両親に連れられ、[[モスクワ]]でオペラ『[[ファウスト (オペラ)|ファウスト]]』、『[[イーゴリ公]]』、バレエ『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠りの森の美女]]』を見る。最初のオペラ『巨人』を作曲。 |
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*[[1901年]](10歳)第2のオペラ『無人島で』の作曲を始めるが、序曲と第1幕までしかできなかった。 |
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*[[1902年]](11歳)父の友人の甥ポメランツェフの尽力で、母と共に[[セルゲイ・タネーエフ|タネーエフ]]を訪問。タネーエフの勧めでポメランツェフのレッスンを受けるが退屈きわまりないものであった。ソンツォフカに帰るとタネーエフの紹介で[[レインゴリト・グリエール|グリエール]]に師事。夏の終わる頃、ト長調の4楽章の交響曲を作曲。冬に2度目のタネーエフ訪問をし、グリエールと2人で交響曲を連弾するが、和声が単純すぎると評され、いっそう和声の勉強に集中するようになった。 |
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*[[1903年]](12歳)グリエールの指導のもと[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]による本格的なオペラ『ペスト流行期の酒宴』を作曲。3度目のタネーエフ訪問。 |
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既に2人の娘を失っていたマリヤは、プロコフィエフが生まれるまで音楽に人生を捧げていた。まだ息子が幼い頃にはピアノのレッスンを受けるために[[モスクワ]]もしくは[[サンクトペテルブルク]]で2か月を過ごしていた<ref>{{cite web|title = Prokofiev|website = Ballet Met|url = https://www.balletmet.org/backstage/ballet-notes/158|access-date = 23 March 2014|url-status = dead|archive-url = https://web.archive.org/web/20131112181410/https://www.balletmet.org/backstage/ballet-notes/158|archive-date = 12 November 2013}}</ref>。主として[[フレデリック・ショパン|ショパン]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の作品を夕方に練習していた母のピアノの音色に触発されたセルゲイは、5歳で初めてのピアノ曲を作曲している。『インドのギャロップ』というこの作品は母が譜面に起こしたもので、幼いプロコフィエフが「黒鍵に取り組む気が起きなかった」という理由でヘ長[[リディア旋法]]で書かれている<ref>Autobiography by Sergey Prokofiev: reprinted in ''Sergei Prokofiev: Soviet Diary 1927 and Other Writings''. London: Faber and Faber, 1991.</ref>。7歳までには[[チェス]]の指し方も覚えた<ref>{{harvnb|Prokofiev|1979|p=xi}}</ref>。チェスへの情熱は燃え続け、チェスの世界王者である[[ホセ・ラウル・カパブランカ]]と知り合いになり、1914年に行われた多面指しの模擬戦では勝利を収めている。[[ミハイル・ボトヴィニク]]とも面識があり、1930年代に幾度か対戦が行われた<ref>See: Winter, Edward. [http://www.chesshistory.com/winter/extra/prokofiev.html "Sergei Prokofiev and Chess"], chesshistory.com.</ref>{{#tag:ref|多面指しの場であったとはいえ、プロコフィエフは将来チェスの世界チャンピオンになる人物から勝ち星を得ているという、作曲家としては稀有な特徴を持っていた。彼がカパブランカに勝利した1914年5月16日の[[棋譜]]は次のリンクから再現できる [http://www.chessgames.com/perl/chessgame?gid=1261719 chessgames.com]([[Javaプラットフォーム|Java]]が必要)。カパブランカとの試合について詳述したプロコフィエフのノートは次のリンクから [http://www.sprkfv.net/journal/three02/thegame2.html The Game (part 2)] sprkfv.net.<ref>All references retrieved 19 December 2011.</ref>。|group= "注"}}。9歳になると最初のオペラ『[[巨人 (オペラ)|巨人]]』や<ref group= "注">「彼は5歳でピアノ曲、9歳でオペラを作曲する[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]並みの神童であった。」 [http://www.philtulga.com/Peter.html ''Peter and the Wolf''], philtulga.com</ref>、序曲、他の様々な小品を作曲していた。 |
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=== 音楽院時代(1904年 - 1914年) === |
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*[[1904年]](13歳)母に連れられ[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]の[[アレクサンドル・グラズノフ]]を訪問。女流詩人マリーヤ・キルシュテットの勧めにより、[[フリードリヒ・フーケ|フーケ]]の詩によるオペラ『[[ウンディーネ]](水の精)』の作曲を開始、第1幕を書く。[[サンクトペテルブルク音楽院]]に入学。[[アナトーリ・リャードフ|リャードフ]]の[[和声学]]クラスで学び、[[ボリス・アサフィエフ]]と親交を結ぶ。 |
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*[[1905年]](14歳)音楽院当局への抗議文に署名。特別ピアノ・クラスに移りヴィンクレル([[1865年]] - [[1935年]])にピアノを学ぶ。オペラ『ウンディーネ』の第2幕を書く。 |
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*[[1906年]](15歳)リャードフの[[対位法]]クラスと[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]の[[管弦楽法]]クラスで学ぶ。[[ニコライ・ミャスコフスキー]]と親交。ミャスコフスキーと[[ヴァイオリンソナタ]]を共作し、プロコフィエフは第1楽章を書いた。 |
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*[[1907年]](16歳)オペラ『ウンディーネ』の第3幕と第4幕を書き、オペラを完成させる。 |
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*[[1908年]](17歳)ミハイル・チェルノフに連れられ、音楽サークル『現代音楽の夕べ』に参加する。ホ短調の3楽章の交響曲を作曲、グラズノフの斡旋でワルリヒ指揮の宮廷オーケストラの非公開リハーサルで演奏される。ヴィートル(1863年 - 1949年)に[[楽式]]を学ぶ。[[12月31日]]に『現代音楽の夕べ』で自作7曲(『伝説』『雪』『思い出』『躍動』『祈り』『絶望』『悪魔的暗示』)で初の公開演奏。 |
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*[[1909年]](18歳)音楽院の作曲科の課程を修了。ミャスコフスキーらに音楽院をやめずにピアノと指揮のクラスに入るように説得される。[[ニコライ・チェレプニン]]に指揮と作曲を学び、[[アンナ・エシポワ|エシポワ夫人]]にピアノを学ぶ。『[[ピアノソナタ第1番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第1番]]』を作曲。 |
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*[[1910年]](19歳)父が急死。 |
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*[[1912年]](21歳)「人民の家」ホールで作曲者のピアノ、サラジェフの指揮で『[[ピアノ協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第1番]]』が初演される。 |
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*[[1913年]](22歳)パーヴロフスクの夏の演奏会で作曲者のピアノ、アスラーノフの指揮で『[[ピアノ協奏曲第2番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第2番]]』(初版)が初演される。曲は[[モダニズム]]に満ちており、賛否両論を巻き起こした。 |
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*[[1914年]](23歳)ピアノ科と指揮科を修了。音楽院卒業試験で[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の[[フーガ]]と自作の『ピアノ協奏曲第1番』を弾き、[[アントン・ルビンシテイン]]賞を得る。 |
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=== 正式な教育と議論を呼んだ初期作品 === |
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=== 革命前後(1914年 - 1917年) === |
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1902年、母が[[モスクワ音楽院]]の学長を務めていた[[セルゲイ・タネーエフ]]に出会い、当初[[アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル]]の下でプロコフィエフへのピアノと作曲の指導を開始すべきであると助言を受けた<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=15}}</ref>。これは実現せず<ref name=pbp46>{{harvnb|Prokofiev|1979|p=46}}</ref>、タネーエフは代わりに1902年の夏に作曲家でピアニストのレインゴリト・グリエールをソンツォフカに向かわせてプロコフィエフを指導する手はずを整えた<ref name=pbp46 />。最初の講義が最終段階に至り、11歳の本人の強い希望により新米作曲家プロコフィエフは初めて交響曲の作曲に取り組んだ<ref>{{harvnb|Prokofiev|1979|pp=51–53}}</ref>。翌年の夏にもグリエールはソンツォフカを訪ねて更なる指導を行っている<ref name="Britannica">{{Britannica|478552|Sergey Prokofiev}}</ref>。数十年が経過してグリエールとのレッスンについて記した際、プロコフィエフは師の思いやりのある教授法に当然の称賛を送りつつも、授けられたものが後になって頭から消し去らねばならなかった「四角四面の」[[フレーズ|フレーズ構造]]と因習的な[[転調]]だったことには不平を漏らしていた<ref>{{harvnb|Prokofiev|1979|pp=53–54}}</ref>。それでもなお、必要であった理論という道具を備えたプロコフィエフは、[[協和音と不協和音|不協和]]な[[和声]]や一般的でない[[拍子]]の実験を開始している。それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲を用い<ref group= "注">それらが依拠していたいわゆる「歌曲形式」、より正確には[[三部形式]]に基づく呼び名であった。</ref>、これが彼独自の音楽形式の基礎を形成していった<ref>{{harvnb|Prokofiev|1979|p=63}}</ref>。 |
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*[[1914年]](23歳)ヌヴェルと共に[[ロンドン]]旅行に行き、ヌヴェルが催した招待会でロシア第一の興行家[[セルゲイ・ディアギレフ]](セルゲイ・<!-- パーヴロヴィチ・ -->ヂャギレフ)と会う。ディアギレフに『ピアノ協奏曲第2番』を弾いて聞かせ、その才能に驚嘆したディアギレフから一緒に仕事をしようと提案される。プロコフィエフは[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の『賭博者』のオペラ化を申し出るが、オペラは流行遅れだと反対される。話し合った結果、ロシアの昔話をテーマにしたバレエを作ることになり、前衛的詩人[[セルゲイ・ゴロデツキー]]と協力して[[スキタイ]]の物語を題材にしたバレエ『アラとロリー』の台本を作り上げ、作曲に着手する。その合間に『アラとロリー』とは全く対照的な叙情性あふれる歌曲『みにくいあひるの子』を作曲。 |
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*[[1915年]](24歳)[[イタリア]]でディアギレフと再会する。ディアギレフに『アラとロリー』のスケッチを聞かせるが「筋は作為が多く、音楽はチェレプニン風で面白くない、もう1つ新しいバレエを書くべきだ」と上演を拒まれる。ディアギレフの家で[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]と会い、ストラヴィンスキーの『[[ペトルーシュカ]]』を[[連弾]]する。ディアギレフが『アラとロリー』に代わる新しい題材をアファナシエフの『ロシア民話集』の中から選び、プロコフィエフに新しいバレエの作曲を注文する。帰国後、早速作曲に着手してバレエ『[[道化師 (バレエ)|道化師]]』を完成させる。『アラとロリー』を改作して『[[スキタイ組曲]]』を完成させる。9月、ペトログラード音楽院に再入学してオルガン科に籍をおく。[[アルバート・コーツ]]に[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の小説『[[賭博者 (小説)|賭博者]]』に取材して、オペラ『[[賭博者 (プロコフィエフ)|賭博者]]』を書くようにすすめられ、作曲に着手する。 |
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<!--*[[1916年]](25歳)--> |
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*[[1917年]](26歳)ロシアが[[ロシア革命|革命]]の嵐に包まれる中、祖国を離れることを考え始める。 |
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[[image:St. Petersburg Conservatory.png|thumb|left|1910年頃の[[サンクトペテルブルク音楽院]]]] |
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=== 亡命と日本滞在(1918年) === |
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息子の才能が開花していく一方で、プロコフィエフの両親はこれほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワの優良な高校へ通わせる可能性について考えていた<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=21}}</ref>。1904年までに母はモスクワではなく[[サンクトペテルブルク]]にすることを心に決めており、プロコフィエフと2人でこの当時の首都を訪ねて教育のために移り住めるのかを探った<ref>{{harvnb|Prokofiev|1979|p=85}}</ref>。2人は[[サンクトペテルブルク音楽院]]の教授だった[[アレクサンドル・グラズノフ]]に紹介され、プロコフィエフに会ってその音楽を見てみたいと請われる。プロコフィエフはこの時さらに2つのオペラ『無人島で』と『ペスト流行期の酒宴』を完成させており、4作目の『水の精』に取り組んでいた<ref>Layton, Robert: "Prokofiev's Demonic Opera" Found in the introductory notes to the Philips Label recording of ''The Fiery Angel''</ref>。グラズノフはいたく感銘を受け、プロコフィエフの母へ息子に音楽院の入学試験を受けさせるよう強く勧めた<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=22}}</ref>。プロコフィエフは試験に合格、この年に入学を果たす<ref>{{harvnb|Nice|2003|pp=28–29}}</ref>。 |
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*[[1918年]](27歳)『[[交響曲第1番 (プロコフィエフ)|古典交響曲(交響曲第1番)]]』の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。教育人民委員[[アナトリー・ルナチャルスキー]](1875-1933)は、「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが…」と説得に努めたが、彼の亡命の意志は固かった。[[5月7日]]、[[シベリア鉄道]]にて[[モスクワ]]を発つ。31日、[[敦賀港]]に上陸し、6月1日、[[東京]]に到着。冬シーズン中の[[南アメリカ|南米]]行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、[[横浜市|横浜]]周辺に滞在。12 - 18日、[[京都市|京都]]に滞在し、[[琵琶湖疏水]]、[[祇園]]などを散策。13日には[[大阪市|大阪]]を訪れている。19〜28日、[[奈良市|奈良]]に滞在し、[[奈良ホテル]]に宿泊。[[奈良公園]]周辺を散策している。この奈良滞在中に、『[[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番]]』等の原型となった『白鍵四重奏曲』の構想を練っている。29日に[[東京]]に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19〜21日には[[軽井沢町|軽井沢]]を、28日には[[箱根町|箱根]]を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家[[大田黒元雄]]や[[徳川頼貞]]などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。プロコフィエフは[[サンフランシスコ]]に上陸し、9月には[[ニューヨーク]]へ到着した。 |
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クラスメイトの大半に比べて数年も年少のプロコフィエフは風変りで傲慢な人物と見られており、多数の同級生の間違いを記録につけて彼らを苛立たせた<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=16}}</ref>。この時期にはピアノを[[アレクサンドル・ウィンクラー]]に<ref>{{Cite book |title=Prokofiev's Piano Sonatas: A Guide for the Listener and the Performer |last=Berman |first=Boris |author-link=ボリス・ベルマン |year=2008 |publisher=Yale University Press |location=New Haven, Connecticut |isbn=978-0-300-11490-4 |page=35 }}</ref>、和声と[[対位法]]を[[アナトーリ・リャードフ]]に、[[指揮 (音楽)|指揮法]]を[[ニコライ・チェレプニン]]に、[[管弦楽法]]を[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]に学ぶなどした<ref group= "注">リムスキー=コルサコフは1908年に他界しており、プロコフィエフは「一応」彼の下で学んだに過ぎなかったと記している。プロコフィエフは学生の溢れる授業に出席していた学生の一人に過ぎず、そうでなければ「彼から学ぶ機会を得られなかった」ことを残念がった。</ref><ref>{{harvnb|Prokofiev|2006|section=Diary 3 August 1908|page=57}}</ref>。授業では作曲家の[[ボリス・アサフィエフ]]や[[ニコライ・ミャスコフスキー]]と一緒になっており、後者とは比較的親密となり生涯にわたる親交を育んだ<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=43}}</ref>。 |
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=== 遍歴:アメリカとパリ(1918年 - 1932年) === |
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*[[1918年]](27歳)-[[1922年]](31歳)主にアメリカを拠点として、作曲家、ピアニストとして活躍する。そして[[1922年]]3月には[[バイエルン州|バイエルン]]の小村{{仮リンク|エッタル|de|Ettal|en|Ettal}}に居を構える<ref>The Classic Collection 第105号より</ref><ref name=mcallister>{{cite book|1|author=Rita McAllister|translator=一柳富美子|contribution=プロコーフィエフ,セルゲイ(・セルゲエヴィチ)|others=柴田南雄, 遠山一行 総監修|title=ニューグローヴ世界音楽大事典|volume=15|pages=548-555|publisher=音楽之友社|year=1996}}</ref>。この頃から[[ボリス・アサフィエフ]]と文通を始める。 |
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*[[1923年]](32歳)フランスを拠点として活動を始め、居を構えて数か月のうちに『[[ヴァイオリン協奏曲第1番_(プロコフィエフ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]]』、『[[ピアノソナタ第5番_(プロコフィエフ)|ピアノソナタ第5番]]』(初版)、『ピアノ協奏曲第2番』(改訂版)などが初演される。アメリカで知り合った{{仮リンク|カロリナ・コディナ|es|Lina_Prokófiev}}(リーナ Lina)と結婚。翌年には子供も生まれる。 |
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*[[1925年]](34歳)『[[交響曲第2番_(プロコフィエフ)|交響曲第2番]]』が初演。ディアギレフの依頼を受けバレエ『[[鋼鉄の歩み]]』の作曲開始。 |
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*[[1927年]](36歳)『鋼鉄の歩み』がバレエ・リュスにより初演される。 |
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*[[1928年]](37歳)前年に完成していたオペラ『[[炎の天使_(オペラ)|炎の天使]]』が演奏会形式で一部初演される。『[[交響曲第3番_(プロコフィエフ)|交響曲第3番]]』作曲。 |
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*[[1929年]](38歳)バレエ『[[放蕩息子_(バレエ)|放蕩息子]]』がバレエ・リュスにより初演される。『[[交響曲第4番_(プロコフィエフ)|交響曲第4番]]』(初版)の作曲を始める(完成と初演は翌年)。 |
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*[[1931年]](40歳)[[パウル・ウィトゲンシュタイン]]の委嘱で『[[ピアノ協奏曲第4番_(プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第4番]]』を作曲する。 |
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[[1920年代]]後半にはしだいに祖国復帰を考えるようになり、[[1927年]]に短期間だけ帰国を果たす。この2年後の[[1929年]]のモスクワに於ける演奏会シリーズに着手する寸前、交通事故に遭い手を損傷したために公演を中止せざるを得なくなる<ref>{{cite book|title=The New Grove Dictionary of Music and Musicians|editor-first=Stanley|editor-last=Sadie|year=2001|publisher=Macmillan|edition=Second|volume=20|page=413|contribution=Prokofiev, Sergey|first=Dorothea|last=Redepenning}}</ref>が、これによって新しいソビエト音楽を数多く聴き、何年かぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たしたという<ref>The Classic Collection 第105号</ref>。 |
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サンクトペテルブルクの楽壇の一員として、自らピアノを演奏して披露した自作曲により称賛を受ける傍ら、音楽の反逆者として名声を高めた<ref>''Oxford Concise Dictionary of Music'', [[マイケル・ケネディ (音楽評論家)|Michael Kennedy]] & Joyce Kennedy: Oxford: Oxford University Press, 5th edition 2007</ref><ref>Rita McAllister "Sergey Prokofiev" in ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians'': London: Macmillan Publishers, 1980</ref>。1909年には特筆すべきことのない成績で作曲のクラスを卒業している。音楽院には籍を置いたままとし、[[アンナ・エシポワ]]にピアノの指導を受け、チェレプニンの指揮のレッスンで研鑽を続けた<ref>{{harvnb|Prokofiev|2000|pp=240–41}}</ref>。 |
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=== 帰国(1933年 - 1941年) === |
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*[[1933年]](42歳)ソビエト連邦へ2度旅行し、モスクワに住まいを借りるが、生活の拠点はまだパリにあった。{{仮リンク|ベラルーシフィルム|label=ベルゴスキノ映画製作所|en|Belarusfilm}}からの依頼で映画音楽『[[キージェ中尉]]』を作曲。 |
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*[[1934年]](43歳)[[マリインスキー劇場|レニングラード劇場]]からの依頼で、バレエ『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロメオとジュリエット]]』の作曲を開始する。 |
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*[[1936年]](45歳)モスクワへ移り、家族とともに正式にソビエト連邦へ定住する。『ロメオとジュリエット』完成(初演は1938年)。『[[ピーターと狼]]』作曲。翌年の[[アレクサンドル・プーシキン]]没後100周年に合わせ依頼を受け、『[[スペードの女王]]』による映画のための音楽、『ボリス・ゴドゥノフ』、『[[エヴゲーニイ・オネーギン]]』への劇付随音楽の作曲を進める(しかし企画はすべて実現しなかった)。 |
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*[[1938年]](47歳)最後の国外への演奏旅行を行う。映画『[[アレクサンドル・ネフスキー (映画)|アレクサンドル・ネフスキー]]』の音楽を作曲。翌年に[[カンタータ]]『[[アレクサンドル・ネフスキー_(プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]』として再構成される。 |
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*[[1939年]](48歳)オペラ『[[セミョーン・カトコ_(プロコフィエフ)|セミョーン・カトコ]]』作曲。のちの伴侶となる{{仮リンク|ミーラ・メンデリソン|fr|Mira_Mendelssohn}}と出会う<ref>{{cite book|title=ロシア音楽史:《カマーリンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで|author=フランシス・マース|others=森田稔、梅津紀雄、中田朱美 訳|publisher=春秋社|year=2006|page=510}}</ref>。友人であり芸術上の協力者でもあった[[フセヴォロド・メイエルホリド]]が逮捕され、翌年刑死する。 |
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*[[1940年]](49歳)『セミョーン・カトコ』が初演されるが不評に終わる。『[[ピアノソナタ第6番_(プロコフィエフ)|ピアノソナタ第6番]]』作曲。 |
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*[[1941年]](50歳)家族と離れ、ミーラとの生活を始める。4月にオペラ『[[戦争と平和_(オペラ)|戦争と平和]]』の構想を立てはじめる。 |
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1910年に父が他界して財政的支援が滞った<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|pp=29–30}}</ref>。幸運にも音楽院の外部で作曲家、ピアニストとして名を馳せ始めており、サンクトペテルブルクの『現代音楽の夕べ』にも顔を出していた。その場においては冒険的な自作のピアノ作品を複数披露しており、そうした中に非常に半音階的で不協和な練習曲集 [[作品番号|作品]]2(1909年)があった。この作品の演奏が『夕べ』の主催者らに強い感銘を与え、プロコフィエフは彼らの誘いで[[アルノルト・シェーンベルク]]の[[3つのピアノ小品 (シェーンベルク)|3つのピアノ小品]] 作品11のロシア初演を手掛けることになった<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=30}}</ref>。和声の実験はピアノのための『サルカズム(風刺)』 作品17(1912年)でも続いており、ここでは[[多調]]の使用が推し進められている<ref>{{Britannica|469182|Polytonality}}</ref>。最初の2作のピアノ協奏曲が書かれたのはこの頃で、そのうち[[ピアノ協奏曲第2番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第2番]]は1913年8月23日、[[パヴロフスク]]での初演の際にスキャンダルを巻き起こした。ある人物は次のように絶叫して会場を後にしたと記述している。「こんな未来派の音楽なんかくそくらえだ!屋根の上の猫ですらましな音楽を奏でるぞ!」一方で[[近代音楽|モダニスト]]らは魅入られていた<ref>[http://www.sprkfv.net/journal/three04/manyfaces2.html The Many faces of Prokofiev. Part 2]. Sprkfv.net. Retrieved on 28 August 2010.</ref>。 |
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=== 第二次世界大戦(1941年 - 1945年) === |
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*ドイツ軍の侵入により、他の芸術家らと共に1941年8月にモスクワから[[ナリチク]]へ疎開、さらに戦況の拡大により11月末に[[グルジア・ソビエト社会主義共和国]]の首都[[トビリシ|ティフリス]]へ移動。『戦争と平和』の作曲を進める。 |
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*[[1942年]](51歳)5月、映画監督[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]との『[[イワン雷帝 (映画)|イワン雷帝]]』の仕事のため、[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]の首都[[アルマトイ|アルマ・アタ]]へ移動。『[[ピアノソナタ第7番_(プロコフィエフ)|ピアノソナタ第7番]]』作曲。 |
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*[[1943年]](52歳)[[ソビエト連邦国家賞#スターリン国家賞|スターリン賞]]第1席をはじめて得る。[[労働赤旗勲章]]受章、[[功労芸術家]]の称号授与。 |
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*[[1945年]](54歳)1月13日、『[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|交響曲第5番]]』初演(この演奏が作曲者の最後の指揮)。1月末、階段から墜落して後頭部を強打し、意識不明のまま病院にかつぎ込まれる。6月、イギリスの[[ロイヤル・フィルハーモニー協会]]から金メダルを授与される。 |
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=== 戦争終了後の3年間(1945年 - 1947年) === |
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*[[1945年]](54歳)9月、『戦争終結によせる賛歌』が完成。11月、『交響曲第5番』が[[セルゲイ・クーセヴィツキー|クーセヴィツキー]]の指揮でアメリカ初演。バレエ『[[シンデレラ (プロコフィエフ)|シンデレラ]]』がモスクワ・[[ボリショイ劇場]]で初演。 |
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*[[1946年]](55歳)病気が重くなったため、ニコーリナに移る。『[[ヴァイオリンソナタ第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリンソナタ第1番]]』初演。『交響曲第5番』、『[[ピアノソナタ第8番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第8番]]』、『イワン雷帝』第1部、バレエ『[[シンデレラ (プロコフィエフ)|シンデレラ]]』にスターリン賞が贈られる。 |
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*[[1947年]](56歳)『[[交響曲第6番 (プロコフィエフ)|交響曲第6番]]』完成、[[エフゲニー・ムラヴィンスキー|ムラヴィンスキー]]の指揮で初演される。『ヴァイオリンソナタ第1番』にスターリン賞が贈られる。 |
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1911年にロシアの高名な[[音楽学者]]で[[音楽評論家]]の[[アレクサンドル・オッソフスキー]]から支援がもたらされる。彼が音楽出版社の[[ユルゲンソン (出版社)|ユルゲンソン]]にプロコフィエフに協力的な手紙を送り、これによって彼のもとに連絡が届いたのである<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=74}}</ref>。プロコフィエフは1913年に初の国外旅行に出て[[パリ]]と[[ロンドン]]を巡り、その中ではじめて[[セルゲイ・ディアギレフ]]の[[バレエ・リュス]]に出会うことになる<ref>{{harvnb|Prokofiev|2006|pp=424–56}}</ref>。 |
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=== 晩年(1948年 - 1953年) === |
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*[[1948年]](57歳)[[ジダーノフ批判]]の対象となる。2月17日、プロコフィエフの作品を批判対象とする作曲家集会が開かれ、作品数曲が演奏され、その席上で芸術委員会議長と[[ソビエト連邦作曲家同盟|作曲家同盟]]書記長にあてたプロコフィエフの手紙が発表される。 |
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=== 初期バレエ === |
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*[[1949年]](58歳)病状が悪化、医師から1日1時間しか作曲を許されなくなる。夏には部分的な言語症まで起こし、作曲の時間は1日30分にまで減らされた。そんな厳しい状態の中、驚異的な速さでバレエ『[[石の花 (プロコフィエフ)|石の花]]』を完成させる。直後、親友アサフィエフが1月に死亡していたことを知りショックをうける。 |
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1914年、プロコフィエフは音楽院の課程を「ピアノ勝負」への参加で締めくくる。これはピアノの成績上位5名がシュレーダーのグランドピアノをかけて競う大会であった。プロコフィエフは自作の[[ピアノ協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第1番]]を演奏して優勝を手にした<ref>{{harvnb|Nice|2003|pp=99–100}}</ref>。 |
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*[[1950年]](59歳)組曲『[[冬のかがり火]]』を完成させるが、病状を悪化させ再入院、モスクワ郊外のバルビハ療養所に入る。8月に親友ミャスコフスキーが死亡。親友2人のあいつぐ死はプロコフィエフをひどく落胆させた。それでも仕事を続け、オペラ『[[戦争と平和 (オペラ)|戦争と平和]]』を一夜で上演可能な形に大改訂し、オラトリオ『平和の守り』を完成させる。 |
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*[[1951年]](60歳)組曲『冬のかがり火』とオラトリオ『平和の守り』が、1950年度スターリン賞第2席を得る。作曲家同盟主催によるプロコフィエフ60歳誕生日祝賀会がモスクワ作曲家会館で開かれ、同会場で『[[ピアノソナタ第9番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第9番]]』が[[スヴャトスラフ・リヒテル|リヒテル]]によって初演される。バレエ『石の花』から3つの組曲(『結婚組曲』、『ジプシー幻想曲』、『ウラル狂詩曲』)を編曲。13年前に作曲した『チェロ協奏曲第1番』の主題を使用して『チェロ協奏曲第2番』を作曲。 |
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その後まもなく、ロンドンへ赴いたプロコフィエフは興行主のセルゲイ・ディアギレフに連絡を取った。ディアギレフはプロコフィエフにとって初めてとなるバレエ『[[スキタイ組曲|アラとロリー]]』を委嘱する。しかし、1915年にプロコフィエフがイタリアにいたディアギレフに作品を持っていくと、「ロシア的でない」として拒絶されてしまう<ref>{{harvnb|Prokofiev|2008|p=22}}</ref>。「国家的な性格の音楽」を書くように強く促した彼は<ref>{{harvnb|Prokofiev|2008|p=23}}</ref>、次いでバレエ『[[道化師 (バレエ)|道化師]]』を委嘱した<ref group= "注">ロシア語の原題は『Сказка про шута, семерых шутов перешутившего』であり、「7人の道化師をだました道化師の物語」の意である。</ref>。ディアギレフの指導に従い、プロコフィエフは民俗誌学者の[[アレクサンドル・アファナーシェフ]]の民話集から題材を選定し<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=44}}</ref>、ストーリーはある道化師と度重なる信用詐欺にまつわるものとなった。これは以前にディアギレフが[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]にバレエになり得る題材として提案していたもので、プロコフィエフがこれをバレエのシナリオへと落とし込むにあたってはディアギレフと彼の振付師[[レオニード・マシーン]]が力を貸した<ref>{{harvnb|Prokofiev|2008|pp=26–27}}: diary entry 6–9 March 1915</ref>。バレエの経験の少ないプロコフィエフは、ディアギレフの仔細にわたる批評に基づいて1920年代に作品に大幅な改訂を加えることになり{{refnest|group= "注"|「ディアギレフは書き直さねばならないといって多数の箇所を指摘した。彼は繊細かつ優れた見識を持つ批評家であり、強い信念をもって自らの意見を論じるのである。(中略)変更点について合意に至るにあたり困難は生じなかった<ref>{{harvnb|Prokofiev|2000|p=56}}</ref>。」}}、そうしてやっと初演にこぎつけたのであった<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=75}}</ref>。 |
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*[[1952年]](61歳)『チェロ協奏曲第2番』が[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ|ロストロポーヴィチ]]の独奏とリヒテルの指揮によってモスクワで初演される(初演後さらに改訂を加え、『[[交響的協奏曲 (プロコフィエフ)|チェロと管弦楽のための交響的協奏曲]]』に題名を変更した)。最後の交響曲である『[[交響曲第7番 (プロコフィエフ)|交響曲第7番]]』を完成、10月11日の初演に出席(これが最後の演奏会出席となった)。『チェロのためのコンチェルティーノ(小協奏曲)』の作曲に着手。 |
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*[[1953年]](62歳)『ソヴィエト音楽』誌 第1号に最後の文章となる『創作プラン』を発表。2月、作曲家同盟第6回総会で、『交響曲第7番』がソヴィエト交響曲の新しい達成だと認められる。3月5日午後6時、突然脳出血による呼吸困難に陥り死去。3月7日、[[ドミトリー・カバレフスキー|カバレフスキー]]を委員長としてモスクワ作曲家中央会館にて葬儀が行われ、[[ノヴォデヴィチ女子修道院#ノヴォデヴィチ墓地|ノヴォデヴィチ寺院]]のアサフィエフとミャスコフスキーの墓のそばに葬られた。偶然の一致だが、プロコフィエフの死は[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の死と同年同月同日で、その3時間前であった<ref>The Classic Collection 第105号</ref><ref>{{cite book|first=Helen |last=Rappaport|title=Joseph Stalin: A Biographical Companion|publisher=ABC-CLIO|year=1999|page=214}}</ref>。 |
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1921年5月17日のバレエの初演は大きな成功を収め、観客からの賛辞に迎えられた。その中には[[ジャン・コクトー]]、ストラヴィンスキー、[[モーリス・ラヴェル]]らの姿もあった。ストラヴィンスキーは本作を「楽しく聴くことができるただひとつの現代音楽作品」と評し、ラヴェルは「天才の作品」と述べた<ref>{{cite news| url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C0DE1DB1438F93BA35750C0A96F9C8B63&scp=4&sq=Chout%20Prokofiev%20Stravinsky&st=cse | work=The New York Times | title=The Week Ahead: 8–14 March March: Classical | first=Daniel J. | last=Wakin | date=8 March 2009 | access-date=23 May 2010}}</ref>。 |
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=== 第一次世界大戦と革命 === |
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[[File:Sergei Prokofiev 04.jpg|thumb|upright|1918年頃のプロコフィエフ。]] |
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[[第一次世界大戦]]の最中、プロコフィエフは音楽院に復学して[[オルガン]]を学ぶことで[[徴兵制度|徴兵]]を逃れた。[[フョードル・ドストエフスキー]]の小説『[[賭博者 (小説)|賭博者]]』を題材にオペラ『[[賭博者 (プロコフィエフ)|賭博者]]』を作曲したが、リハーサルは問題に悩まされ続け、1917年に予定されていた初演は[[2月革命 (1917年)|2月革命]]の勃発により中止を余儀なくされてしまった。同年の夏には[[交響曲第1番 (プロコフィエフ)|交響曲第1番『古典』]]が書き上げられた。副題はプロコフィエフ自身によって付けられており、作曲者曰く[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]がもし同じ時代に生きていたとしたら用いたであろう様式の音楽となっている<ref name = bbcdm>プロコフィエフの自叙伝に詳しい。次のリンク[http://www.bbc.co.uk/radio3/discoveringmusic/pipassets/ram/cdm0731prokofievclassical.ram Discovering Music]の1:00から3:02まで、特に1:45から2:39までを聞かれたし。</ref>。この作品は様式的には多かれ少なかれ[[古典派音楽|古典的]]であるが、当時の音楽の要素が多分に盛り込まれている。 |
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交響曲第1番と時を同じくして生まれたのが[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]]であった。1917年11月の初演が計画されていたが、どちらの作品も延期となり、それぞれ1918年4月21日、1923年10月18日まで待たねばならなくなった。プロコフィエフは[[コーカサス]]地方の[[キスロヴォツク]]にて、一時母と過ごしていた。 |
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管弦楽と合唱のための「[[カルデア]]の祈祷」とされた[[カンタータ]]『[[彼らは7人]]』の総譜完成後<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|pp=259–61}}</ref>、プロコフィエフは「何もすることがなく、宙に浮いた時間が重く自分の両手の上にある」状態に陥った。ロシアが「いま音楽を必要としていない」と考え、祖国の騒乱が過ぎ去るまでの間を[[アメリカ合衆国]]に運命をかけることを決断した<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|p=261}}</ref>。1918年3月にモスクワとペテルブルクへと向かい、財政面を整えてパスポートの手配を行った。5月には米国へと旅立つことになるが、教育人民委員であった[[アナトリー・ルナチャルスキー]]から公式に許可を得てのことだった。ルナチャルスキーはこう述べていた。「君は音楽の革命家、我々は人生の革命家だ。私たちは一緒になって働かねばならない。だが、君がアメリカに行くことを望むのなら、私は君の道に立ち塞がるような真似はすまい<ref>{{harvnb|Prokofiev|2000|p=50}}</ref>。」 |
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=== 日本滞在 === |
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1918年、『古典』交響曲の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。5月7日、[[シベリア鉄道]]にて[[モスクワ]]を発つ。31日、[[敦賀港]]に上陸し、6月1日に[[東京]]に到着した。冬シーズン中の[[南アメリカ|南米]]行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、[[横浜市|横浜]]周辺、12から18日には[[京都市|京都]]に滞在し、[[琵琶湖疏水]]や[[祇園]]などを散策した。13日に[[大阪市|大阪]]を訪れた後、19から28日にかけて[[奈良市|奈良]]に留まって[[奈良ホテル]]に宿泊、[[奈良公園]]周辺を散策している。この奈良滞在中に、[[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番]]等の原型となった『白鍵四重奏曲』の構想が練られた。29日に[[東京]]に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19-21日には[[軽井沢町|軽井沢]]を、28日には[[箱根町|箱根]]を訪れている。更に7月6日、7日に東京、9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日にアメリカへ向けて出国した。このプロコフィエフの日本滞在は西洋の大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家[[大田黒元雄]]や[[徳川頼貞]]などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。 |
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=== 国外生活 === |
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[[image:Dyagilev SP.jpg|thumb|right|[[セルゲイ・ディアギレフ]]、1910年。]] |
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{{仮リンク|エンジェル島|en|Angel Island (California)}}の入国管理官の審査から解放されて、1918年8月11日に[[サンフランシスコ]]に到着すると<ref>{{harvnb|Prokofiev|2008|p=321}}</ref>、プロコフィエフは間もなく[[セルゲイ・ラフマニノフ]]ら、著名なロシアからの亡命者と比較されるようになる。デビューを飾った[[ニューヨーク]]でのソロ・コンサートはいくつかの契約に結び付いた。また{{仮リンク|シカゴ・シビック・オペラ|label=シカゴオペラ協会|en|Chicago Civic Opera}}の音楽監督であった{{仮リンク|クレオフォンテ・カンパニーニ|en|Cleofonte Campanini}}との間に、新作オペラ『3つのオレンジへの恋』の上演を行うという契約を結んだ<ref>{{harvnb|Prokofiev|2008|p=364}}</ref>。しかしカンパニーニが病に倒れて他界し、初演は延期となる<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|p=266}}</ref>。この延期もオペラにまつわるプロコフィエフの不運のひとつであった。このオペラには多くの時間と労力が注がれていたため、この失敗は彼のソリストとしてのキャリアも犠牲にした。気づけばたちまち経済的困窮に陥っており、1920年4月には失敗してロシアに戻りたくないと、パリへ向かって旅立っていた<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|pp=267–68}}</ref>。 |
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パリではディアギレフの[[バレエ・リュス]]との間で契約を再確認した<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|p=268}}</ref>。また、[[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番]]などの未完成のままになっていた旧作を完成させた<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|pp=270–71}}</ref>。『3つのオレンジへの恋』は最終的に1921年12月30日に[[シカゴ]]で作曲者自身の[[指揮 (音楽)|指揮]]により初演されることになった<ref>{{harvnb|Prokofiev|2008|p=654}}</ref>。ディアギレフはこのオペラに興味を示し、1922年6月にプロコフィエフにピアノ伴奏版を演奏するように依頼する。この時には2人とも『道化師』再演のためにパリにいたため、プロコフィエフは上演の可能性について考えられるようになった<ref name=prok1991273/>。しかし、オーディションの場にいたストラヴィンスキーは1幕より後を聴くのを拒否してしまった<ref name=prok1991273>{{harvnb|Prokofiev|1991|p=273}}</ref>。「オペラを作曲して時間を浪費している」という彼の非難に対し、プロコフィエフはストラヴィンスキーは「自身が誤りに対する耐性がないのだから、芸術の常道を主張できる立場にない」とやり返した<ref name=prok2008680>{{harvnb|Prokofiev|2008|p=680}}</ref>。プロコフィエフによればストラヴィンスキーは「怒り心頭に発し<ref group= "注">直訳するならば「憤怒で白熱光を放った」と表現されている。</ref>」て「殴り合いに発展しそうだった我々は辛くも離れることができた」という<ref name=prok2008680/>。その結果、「我々の関係は張りつめたものとなり、数年間にわたってストラヴィンスキーは私に批判的な態度を取った<ref name=prok1991273/>。」 |
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1922年3月には母とともに[[バイエルン州|バイエルン]]の[[アルプス山脈|アルプス]]山あいにある小村{{仮リンク|エッタル|en|Ettal}}に移り住み<ref>The Classic Collection 第105号より</ref><ref name=mcallister>{{cite book|1|author=Rita McAllister|translator=一柳富美子|contribution=プロコーフィエフ,セルゲイ(・セルゲエヴィチ)|others=柴田南雄, 遠山一行 総監修|title=[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]|volume=15|pages=548-555|publisher=音楽之友社|year=1996}}</ref>、1年以上の期間を費やし[[ワレリー・ブリューソフ]]の{{仮リンク|炎の天使 (小説)|label=同名の小説|en|The Fiery Angel (novel)}}に基づくオペラ『[[炎の天使 (オペラ)|炎の天使]]』に集中した。この頃になるとプロコフィエフの音楽はロシア国内にファンを獲得しており、帰国の誘いも受けるようになっていたが、彼はヨーロッパ残留を決意する。1923年にはスペイン人の歌手である[[リーナ・プロコフィエフ|カロリナ・コディナ]](1897年-1989年、Lina Lluberaとして活動)と結婚<ref>{{harvnb|Prokofiev|2008|p=428}}</ref>、その後パリへと戻った<ref>{{harvnb|Nice|2003|pp=196–97}}</ref>。 |
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パリでは[[交響曲第2番 (プロコフィエフ)|交響曲第2番]]などの複数の作品が演奏されたが反応は熱のこもらないもので、プロコフィエフは自分が「どうやらもはや大きな評判にはならない」と感じ取るようになる<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|p=277}}</ref>。それでもこの交響曲を耳にしたことでディアギレフはバレエ『[[鋼鉄の歩み]]』を委嘱することになったとみられる。ソ連の工業化を描写することを意図したモダニストのバレエ作品であった本作は、パリの聴衆と評論家から熱狂的に迎えられることとなった<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=245}}</ref>。 |
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1924年頃、プロコフィエフは[[クリスチャン・サイエンス]]に招かれた<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|p=65}}</ref>。彼は健康と気性の荒さに役に立つと信じてその教えを実践するようになった<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|p=635, p. 647}}</ref>。伝記作家の[[サイモン・モリソン]]によれば、その後生涯を通じて教えに忠実であり続けたという<ref>{{cite web|url=http://www.sprkfv.net/journal/three10/dnevnik2.html|author=[[サイモン・モリソン|Simon Morrison]]|title=Dnevnik 1907–1933 (review, part 2)|trans-title=Diary|publisher=Serge Prokofiev Foundation|access-date=27 August 2019}}; originally {{cite journal|journal=Journal of the American Musicological Society|volume=58|number=1|date=Spring 2005|title=Dnevnik 1907–1933|pages=233–243}}</ref>。 |
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プロコフィエフとストラヴィンスキーは友好関係を回復する。しかし、プロコフィエフは当時の新作であった[[八重奏曲 (ストラヴィンスキー)|八重奏曲]]や[[ピアノと管楽器のための協奏曲]]にみられるようにストラヴィンスキーが「[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]を様式化すること」を特に毛嫌いしていた<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=200}}</ref>{{#tag:ref|プロコフィエフが[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]が監督した『[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]』において、侵略する[[ドイツ騎士団]]の性格描写としてストラヴィンスキーの[[詩篇交響曲]]のテクストを用いたことは、彼による「偽りのバッハ主義」に対する当てこすりだったのではないかと指摘されている<ref>Kerr, M. G. (1994) "Prokofiev and His Cymbals", ''[[ミュージカル・タイムズ|The Musical Times]]'' '''135''', 608–09. Text also available at {{cite web |url=http://www.b5-dark-mirror.demon.co.uk/nevsky.html |title=Alexander Nevsky and the Symphony of Psalms |access-date=18 September 2008 |url-status=bot: unknown |archive-url=https://web.archive.org/web/20090109030017/http://www.b5-dark-mirror.demon.co.uk/nevsky.html |archive-date=9 January 2009}}</ref>。|group= "注"}}。ストラヴィンスキーの側では、プロコフィエフを現代最高のロシアの作曲家であり、自分に続く者であると評していた<ref name="strav">{{cite news|url=https://www.theguardian.com/music/2006/jul/21/classicalmusicandopera|title=First among equals|work=[[ガーディアン|The Guardian]]|location=London|author=Martin Kettle|access-date=29 May 2014|date=21 July 2006}}</ref>。 |
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=== 初めてのソビエト訪問 === |
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[[image:Sergei Prokofiev 03.jpg|left|thumb|1918年頃のプロコフィエフ。]] |
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1927年には初となる[[ソビエト連邦|ソ連]]への演奏旅行を実施した<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|pp=407–569}}</ref>。2か月を超える期間をモスクワとレニングラード(改称されたサンクトペテルブルク)で過ごし、[[マリインスキー劇場|キーロフ劇場]](現在の[[マリインスキー劇場]])では『3つのオレンジへの恋』の上演で大きな成功を収めた<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|pp=487–90}}</ref>。1928年には上演されないままとなっていたオペラ『炎の天使』から広く題材を採る形で[[交響曲第3番 (プロコフィエフ)|交響曲第3番]]を完成させた。指揮者の[[セルゲイ・クーセヴィツキー]]は第3番を「[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[交響曲第6番 (チャイコフスキー)|6番]]以来の最も偉大な交響曲」と評した<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|p=826}}</ref>。 |
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しかし、その間にクリスチャン・サイエンスの影響下にあったプロコフィエフは[[印象主義音楽|印象主義]]的様式、並びに『炎の天使』の素材に背を向けるようになっていた{{refnest|group= "注"|「全く異なる様式で書かねばならない、『炎の天使』と『賭博者』の改訂から解放されたらすぐにでもそれに取り掛かるのだと遥かに前より心に決めていた。もし神が創造と理性の唯一の源であり、人間が神を投影したものなのだとしたら、創造主の被造物をより詳細に反映することで人間の作品がより優れたものになるということは非常に明白である<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|p=699}}</ref>。」}}。彼は今や自身が「新しい単純性」と呼ぶものを好んでおり、1920年代の現代音楽の多くを占めた「工夫と複雑性」よりも強く心からこれを信じていた<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|p=779}}</ref>{{#tag:ref|プロコフィエフが単純な音楽が良いと認めていたというわけではない。1926年6月に「『オレンジ』の行進曲を大衆受けを狙った単純な形」に編曲した際、彼は日記に次のように記している。「単純性のために剥ぎ取る工程は実に不愉快なものだ<ref>{{harvnb|Prokofiev|2012|p=341}}</ref>。」|group= "注"}}。1928年から1929年にかけて、ディアギレフのためとしては最後となるバレエ『[[放蕩息子 (バレエ)|放蕩息子]]』を作曲する。1929年5月21日にパリで行われた初演は、[[ジョージ・バランシン]]の振り付けで[[セルジュ・リファール]]が[[タイトル・ロール]]を踊った。聴衆と評論家は、最後に放蕩息子が父に迎え入れられるために膝をついて舞台中を引きずり歩く場面に衝撃を受けた<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|pp=110–11}}</ref>。このシーンに付された音楽について、ディアギレフはプロコフィエフが「かつてないほど清澄、簡素、旋律的、そして柔和」であったことを認めている<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=259}}</ref>。このわずか数か月後にディアギレフはこの世を去った<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=267}}</ref>。 |
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その夏にプロコフィエフは1925年に着手していたディヴェルティメント 作品43を完成させ、音楽院時代の作品である[[シンフォニエッタ (プロコフィエフ)|シンフォニエッタ]] 作品5/48の改訂を終えた<ref name="Prokofiev 1991 288">{{harvnb|Prokofiev|1991|p=288}}</ref>{{#tag:ref|プロコフィエフは自叙伝の中で、『古典』交響曲が広く演奏されている一方で。このシンフォニエッタの演奏機会がほとんどないことが全く理解できないと書いている<ref name="Prokofiev 1991 288"/>。|group= "注"}}。同年10月に、休暇からパリに戻るために家族を乗せて運転する途中で事故に見舞われる。車は横転し、プロコフィエフは左手の筋肉の一部を痛めてしまった<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=271}}</ref>。これにより事故のすぐ後に行われた演奏旅行で訪れたモスクワでの公演は中止せざるを得なくなったものの<ref>{{cite book|title=[[ニューグローヴ世界音楽大事典|The New Grove Dictionary of Music and Musicians]] |editor=[[スタンリー・セイディ|Sadie, Stanley]] |year=2001|publisher=Macmillan|edition=Second|volume=20|page=413|contribution=Prokofiev, Sergey|first=Dorothea|last=Redepenning}}</ref>、客席から自作曲の演奏を楽しむことができた<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|p=289}}</ref>。また、このことがかえって新しいソビエト音楽を数多く聴き、数年ぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たした<ref>The Classic Collection 第105号</ref>。[[ボリショイ劇場]]ではバレエ『鋼鉄の歩み』のオーディションに加わり、[[ロシア・プロレタリア音楽家同盟]](RAPM)のメンバーから作品について尋問を受けた。彼が受けた質問は次のようなものである。描かれている工場は「労働者が奴隷である資本主義者の工場なのか、労働者が主人であるソビエトの工場なのか。もしこれがソビエトの工場であるなら、プロコフィエフはいつ、どこでこれを取材したのか。1918年から現在に至るまで海外暮らしを続けており、最初にこちらに赴いたのは1927年の2週間であろう?」プロコフィエフはこう回答した。「それは音楽ではなく政治にかかわることですので、お答えいたしません。」RAPMはこのバレエを「平板で低俗な反ソビエト的逸話、ファシズムに近接した革命に反する楽曲」と断罪した。ボリショイ劇場はこのバレエを拒絶するしかなかった<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=118}}</ref>。 |
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左手が回復したプロコフィエフは、その頃のヨーロッパでの成功にも支えられて1930年代の初頭に米国ツアーを成功裏に終えた<ref>{{harvnb|Prokofiev|1991|p=290}}</ref>。この年に、[[パリ国立オペラ]]で主席バレエダンサーとなっていたセルジュ・リファールの委嘱に応えて、初めてディアギレフとのかかわりがないバレエ『ドニエプルの岸辺で』 作品51の作曲に取り掛かった<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=279}}</ref>。1931年と1932年には[[ピアノ協奏曲第4番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第4番]]と[[ピアノ協奏曲第5番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第5番]]を完成させている。次の年には[[交響的な歌]] 作品57が完成される。友人の[[ニコライ・ミャスコフスキー|ミャスコフスキー]]は、ソ連の中でこの作品を聴くことになる人々のことを念頭に、プロコフィエフに次のように語っている。「(この楽曲は)我々にとってはいまひとつです(中略)ここにはモニュメンタリズムにより我々が意図するものが欠けています - それは貴方が自家薬籠中のものとするよく知られた単純性と広い輪郭ですが、一時的に注意深く避けているのです<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=310}}</ref>。」 |
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1930年代初期までにはヨーロッパとアメリカは[[世界恐慌]]に苦しめられており、新作のオペラやバレエの上演は難しくなっていた。しかし、ピアニストとしてのプロコフィエフを聴きに来る聴衆の数は、少なくともヨーロッパでは減少を見せなかった<ref>{{harvnb|Nice|2003|pp=294–95}}</ref>。それでも、自らをなによりもまず作曲家であると考えていたプロコフィエフは、ピアニストとしての出番のために失われる作曲の時間の量に怒りを募らせていった<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=284}}</ref>。一時ホームシックに罹ったこともあり、ソ連との間に太い関係性を築き始めたのであった。 |
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RAPMが1932年に解散すると、プロコフィエフは祖国とヨーロッパの間で音楽大使として活動するようになっていき<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=303}}</ref>、作品の初演と委嘱に関してはソ連からの賛助を得ることが多くなっていった。例えば、『[[キージェ中尉]]』はソ連の{{仮リンク|キージェ中尉 (映画)|label=同名の映画|en|Lieutenant Kijé (film)}}のための音楽として委嘱された作品である<ref>{{harvnb|Nice|2003|p=304}}</ref>。 |
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他にも、レニングラードのキーロフ劇場からはバレエ『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロメオとジュリエット]]』の委嘱が入った。この作品は{{仮リンク|アドリアン・ピオトロフスキー|en|Adrian Piotrovsky}}とセルゲイ・ラドロフによって「ドラムバレエ」(drambalet、ドラマ化されたバレエ)という発想で創作されたシナリオに曲を付けたものだった<ref group= "注">ドラムバレエは振り付けの披露と革新に主眼を置いた作品に代わるものとして、キーロフ劇場で公式に推進されていた。</ref><ref>{{harvnb|Ezrahi|2012|p=43}}</ref>。ラドロフが1934年にキーロフ劇場に辞表を叩きつけるという事件が起こり、モスクワのボリショイ劇場と新しい契約への署名が行われたが、これはピオトロフスキーが関係を維持するとの申し合わせの上でのことだった<ref>{{harvnb|Morrison|2009|pp=32–33}}</ref>。しかし、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の原作とは異なってバレエに用意されたハッピー・エンドを巡ってソビエトの文化に関わる役人の間に論争が巻き起こり<ref>{{harvnb|Morrison|2009|pp=36–37}}</ref>、芸術委員会の議長を務めていた{{仮リンク|プラトン・ケルジェンツェフ|en|Platon Kerzhentsev}}の命によりボリショイ劇場のスタッフの見直しが行われる間、上演は無期限延期となってしまった<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=37}}</ref>。親友のミャスコフスキーは何通もの書簡の中でどれだけプロコフィエフにロシアにいて欲しいと思っているかを綴っている<ref>[In Spanish] García, E. "Sergei Prokofiev: De Francia a Rusia", Musiccato. Available on http://musiccato.blogspot.com/2015/12/sergei-prokofiev-de-francia-rusia.html Retrieved 17 January 2016</ref>。 |
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=== ロシアへの帰国 === |
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[[File:Prokofiev familly.jpg|thumb|250px|プロコフィエフと2人の息子、スヴャトスラフ、[[オレグ・プロコフィエフ|オレグ]]、そして最初の妻[[リーナ・プロコフィエフ|リーナ]]。1936年]] |
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4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、プロコフィエフはモスクワに居を構えることにした<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|pp=143–44}}</ref><ref>[[イアン・マクドナルド|Ian MacDonald]] 1995, [http://www.siue.edu/~aho/musov/proko/prokofiev1.html "Prokofiev, Prisoner of the State"]</ref>。同年には彼の全作品中でも指折りの知名度を誇る『[[ピーターと狼]]』が、{{仮リンク|ナターリャ・サーツ|en|Natalya Sats}}の{{仮リンク|ナターリャ・サーツ音楽劇場|label=中央児童劇場|en|Natalya Sats Musical Theater}}のために作曲された<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=141}}</ref>。サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得し<ref>{{harvnb|Sats|1979|pp=225–26}}</ref>、これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として出版された<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=222}}</ref>。プロコフィエフはさらに巨大な『[[十月革命20周年記念のためのカンタータ]]』を作曲し、記念の年中の初演を目指した。しかし、これは芸術委員会を前にしたオーディションを要求したケルジェンツェフによって巧みに阻止されてしまう。「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民ものもであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽とつけるとは<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=65}}</ref>。」このカンタータが部分的な初演を迎えるのは1966年4月5日、作曲者の死からさらに13年の時間を待たねばならなかった<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=66}}</ref>。 |
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新たな環境に内心不安を感じつつも順応を強いられたプロコフィエフは、公式に承認されたソビエトの詩を歌詞として用いてミサ曲(作品66、79、89)を作曲した。1938年、[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]と歴史叙事詩による映画『[[アレクサンドル・ネフスキー (映画)|アレクサンドル・ネフスキー]]』を共同制作し、プロコフィエフ作品でも有数の独創的かつ劇的な音楽を書き上げた。映画の方は非常に粗末な録音状態となったが、彼はこの劇判を[[メゾソプラノ]]、合唱と管弦楽のためのカンタータ『[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]』へと改作、多くの演奏と録音に恵まれた。『アレクサンドル・ネフスキー』の成功に続き、初となるソビエトを題材にしたオペラ『[[セミョーン・カトコ (プロコフィエフ)|セミョーン・カトコ]]』を書き上げる。これは[[フセヴォロド・メイエルホリド]]の演出による上演を目指したものだったが、メイエルホリドが1939年6月20日に[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]秘密警察組織であった[[内務人民委員部]]に逮捕され、1940年2月2日に銃殺されたために初演は延期となった<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=158}}</ref>。メイエルホリドの死からわずか数か月後に、プロコフィエフは「招待」を受けてスターリンの60歳の誕生日を祝うカンタータ『[[スターリンへの祝詞]]』 作品85を作曲している<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=159}}</ref>。 |
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1939年の暮れ、今日では「戦争ソナタ」として広く知られるピアノソナタ[[ピアノソナタ第6番 (プロコフィエフ)|第6番]]、[[ピアノソナタ第7番 (プロコフィエフ)|第7番]]、[[ピアノソナタ第8番 (プロコフィエフ)|第8番]]が作曲された。初演はそれぞれ、第6番がプロコフィエフ自身によって1940年4月8日に<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=163}}</ref>、第7番が[[スヴャトスラフ・リヒテル]]によって1943年1月18日にモスクワで、第8番が[[エミール・ギレリス]]によって1944年12月30日にモスクワで行われた<ref name="Morrison, p.164">{{harvnb|Morrison|2009|p=164}}</ref>。その後はとりわけリヒテルがこれらの作品を擁護した。伝記作家のダニエル・ヤッフェ(Daniel Jaffé)はプロコフィエフが「無理をして至福のスターリンを喜ばしく喚起させる楽曲を作ったが、自分がその役割を演じていたのだということ」そして、後の3つのソナタでは「自らの真の心情を表現したのだと人々に信じてもらいかった」のであろうと論じている<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=160}}</ref>。その証拠として、ヤッフェはピアノソナタ第7番の中間楽章で[[ロベルト・シューマン]]の『[[リーダークライス作品39 (シューマン)|リーダークライス]]』から「悲しみ」(Wehmut)の主題が引用されていることを挙げている。その歌詞は次のような内容である。「私は時に嬉しいかのように歌い、人知れず涙を流すことで心を解き放っている。ナイチンゲールは(中略)牢の深みから脱することを切に願って歌をさえずる(中略)人々は喜び、その痛み、歌に込められた深い悲しみを知ることはない<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=172}}</ref>。」皮肉にも(彼の引喩に気づく者はなかったとみられ)、第7番のソナタは[[ソビエト連邦国家賞|スターリン賞]]の第2席、第8番は第1席を獲得した<ref name="Morrison, p.164" />。 |
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その間、ようやく1940年1月11日になって『ロメオとジュリエット』が{{仮リンク|レオニード・ラヴロフスキー|en|Leonid Lavrovsky}}の振付けによって[[マリインスキー・バレエ|キーロフ・バレエ]]で上演を迎えた<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=161}}</ref>。居合わせた者が皆驚いたことに、踊り手たちは楽曲の[[シンコペーション]]のリズムへの対処に苦労して公演をボイコットしかかっていたにもかかわらず、バレエはたちまち成功を収め<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|pp=160–61}}</ref>、ソビエトの劇的バレエの頂点に君臨する偉業と看做されるようになったのであった<ref>{{harvnb|Ezrahi|2012|p=54}}</ref>。 |
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=== 戦時中 === |
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[[File:Mira Mendelssohn Prokofiev.jpg|thumb|upright|プロコフィエフと2番目の妻、[[ミーラ・メンデリソン]]]] |
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プロコフィエフは[[レフ・トルストイ]]の叙事的小説『[[戦争と平和]]』を題材としたオペラの構想を温めており、1941年6月22日に[[バルバロッサ作戦]]における[[ドイツ国]]のソ連への進行開始の報せでこの主題が一層時宜を得たものに思われるようになった。彼は2年をかけて自分自身の手による『[[戦争と平和 (オペラ)|戦争と平和]]』を書き上げた。戦禍を逃れるため他の多くの芸術家らとともにまず[[コーカサス]]へと疎開し、そこで[[弦楽四重奏曲第2番 (プロコフィエフ)|弦楽四重奏曲第2番]]を作曲している。1939年に出会っていた<ref>{{cite book|title=ロシア音楽史:《カマーリンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで|author=フランシス・マース|others=森田稔、梅津紀雄、中田朱美 訳|publisher=春秋社|year=2006|page=510}}</ref>[[リブレット (音楽)|リブレット]]作者の[[ミーラ・メンデリソン]]との関係が元で、この頃までにプロコフィエフと妻のリーナはついに別離に至っていた。喧嘩別れとなっていたにもかかわらず、プロコフィエフはリーナと息子たちにモスクワを出る避難民として一緒にいこうと説得したが、リーナは留まることを選択した<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=177}}</ref>。 |
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戦時中は作曲家らに課せられた「[[社会主義リアリズム]]」の様式で書かねばならないという制約は弱まっており、プロコフィエフは概して自らのやり方で作曲を行うことができていた。[[ヴァイオリンソナタ第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリンソナタ第1番]] 作品80、交響組曲『1941年』 作品90、カンタータ『名もない少年のバラード』 作品93は全てこの時期に生まれている。1943年には[[カザフスタン]]最大の都市である[[アルマトイ|アマル・アタ]]でエイゼンシュテインと合流し、映画音楽『[[イワン雷帝 (プロコフィエフ)|イワン雷帝]]』、そして彼の作品中でも指折りの旋律美で称賛を集めるバレエ『[[シンデレラ (プロコフィエフ)|シンデレラ]]』の制作を行った。この年のはじめには『戦争と平和』からの抜粋をボリショイ劇場共同体の面々に演奏したが<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=211}}</ref>、ソビエト政府の意見によりこのオペラは何度も改訂されることとなった{{#tag:ref|「プロコフィエフは『戦争と平和』の初版を[[第2次世界大戦]]中に作曲した。彼は本作を40年代後半と50年代初頭に改訂しているが、これは1948年の[[ジダーノフ批判]]の時期にあたる。この糾弾はソビエトの主導的作曲家の反啓蒙主義的傾向に向けられたものだった<ref>[http://www.therestisnoise.com/2004/04/war_and_peace_1.html "Prokofiev's ''War and Peace''"] by [[アレックス・ロス (音楽評論家)|Alex Ross]], ''[[ザ・ニューヨーカー|The New Yorker]]'', 4 March 2002, via Ross's blog. {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171027235642/http://www.therestisnoise.com/2004/04/war_and_peace_1.html|date=27 October 2017}}</ref>。」|group= "注"}}。1944年にはモスクワ郊外にある作曲家たちの居留地にて[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|交響曲第5番]] 作品100が書き上げられた。1945年1月13日の初演では彼自身が指揮棒を握った。これは1944年12月30日の[[ピアノソナタ第8番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第8番]]と、同じ日の『イワン雷帝』第1部の初演が大きな成功を収めてわずか2週間後のことだった。 |
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『ピーターと狼』及び『古典』交響曲([[ニコライ・アノーソフ]]指揮)と一緒にプログラムに並んだ第5交響曲の初演により、プロコフィエフはソビエト連邦の主導的作曲家として名声の頂点に達したかのように思われた<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|pp=182–84}}</ref>。その後まもなく慢性高血圧により転倒し、以降脳震盪に苦しむようになる<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=252}}</ref>。この症状の完全な快復がおとずれることはなく、医師の助言により作曲活動に制約を課されることになってしまったのであった<ref>{{harvnb|Jaffé|1998|p=186}}</ref>。 |
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=== 戦後 === |
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[[File:Prokofiev shostakovich khachaturian.jpg|thumb|280x280px|左からプロコフィエフ、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]、[[アラム・ハチャトゥリアン]]. |
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1946年。]] |
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戦後の作品となる[[交響曲第6番 (プロコフィエフ)|交響曲第6番]]や[[ピアノソナタ第9番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第9番]]を作曲する時間を持つことができたプロコフィエフは、「[[ジダーノフ批判]]」に晒されることになる。1948年のはじめ、[[アンドレイ・ジダーノフ]]の招集により開かれたソビエトの作曲家の会合に続き、[[政治局]]は作曲家らを非難する決議を行った。「形式主義」の罪の対象となったのはプロコフィエフ、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]、[[ガヴリイル・ポポーフ|ポポーフ]]、[[ニコライ・ミャスコフスキー|ミャスコフスキー]]、[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]であり、「音楽を不快な音響へと変質しさせる」ような「混濁し、神経に触る」響きを選んだことによる「古典音楽の基本原理の放棄」であるとされた<ref>{{harvnb|Tomoff|2006|p=123}}</ref>。プロコフィエフの作品では『1941年』、『戦争終結に寄せる頌歌』、祝典詩曲『30年』、『花咲け、偉大な国土よ』、『名もない少年のバラード』、ピアノ小品集『思想』、そしてピアノソナタ第6、第8番が演奏禁止となった<ref name=Morrison314>{{harvnb|Morrison|2009|p=314}}</ref>。作品を禁止されるということの裏に認められる脅威により、検閲を逃れた楽曲すらももはや演奏されなくなっていた<ref>{{harvnb|Morrison|2013|p=244}}</ref>。1948年8月までにプロコフィエフは過酷な財政的困窮に陥り、個人で抱えた借金は18万[[ルーブル]]にのぼった<ref name=Morrison314 />。 |
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1947年11月22日、プロコフィエフは疎遠となっていた妻に対する離婚手続きの開始を裁判所に申請する。5日後に出された裁判所の裁定は、婚姻は[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]で行われたものであるから法的根拠がなく、ソビエトの役所へとの届け出もなされていない、従って法的効力がなく無効であるというものだった。2人目の裁判官が評決を支持し、彼は1948年1月13日にパートナーのミラと結婚した<ref>https://www.larousse.fr/encyclopedie/musdico/Prokofiev/169700</ref><ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=306}}</ref>。最初の妻であるリーナは、スペインにいる母に送金しようとしたとして逮捕されてスパイ容疑で告発された。9か月にわたる取り調べが行われ<ref>{{harvnb|Morrison|2013|p=7}}</ref>、{{仮リンク|ソビエト連邦最高裁判所の軍事コレギウム|label=ソ連最高裁|en|Military Collegium of the Supreme Court of the Soviet Union}}により20年の重労働の判決が下った<ref>{{harvnb|Morrison|2013|p=254}}</ref>。8年後の1956年6月30日に釈放された彼女は<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=310}}</ref>、1974年にソビエトを後にしている<ref>{{harvnb|Morrison|2013|p=289}}</ref>。 |
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[[image:Prokofiev and rostropovich.jpg|left|thumb|[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ|ロストロポーヴィチ]]とプロコフィエフ。]] |
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文化に関わる要人を必死に懐柔しようと試みた『[[真の男の物語]]』を含む、プロコフィエフ後期のオペラの計画群は瞬く間にキーロフ劇場にキャンセルされてしまう<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=293}}</ref>。すげない拒絶と衰え行く健康が相まって、プロコフィエフは次第に表舞台から身を引いていった。様々な活動からの引退は愛してやまなかったチェスにまで及び、徐々に自分自身のための仕事に専念していった<ref>{{harvnb|Nestyev|1961|pp=408–09}}</ref><ref>{{harvnb|Jaffé|1998|pp=205–06}}</ref>。1949年に生じた深刻な再発を受け、主治医らは彼に作曲する時間を1日1時間に制限するよう要請した<ref>{{harvnb|Nestyev|1961|p=409}}</ref>。 |
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1949年の春、22歳の[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]のために[[チェロソナタ (プロコフィエフ)|チェロソナタ]] ハ長調 作品119を作曲、1950年にロストロポーヴィチとリヒテルによって初演された<ref>{{harvnb|Nestyev|1961|pp=412–13}}</ref>。ロストロポーヴィチに向けては[[チェロ協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|チェロ協奏曲第1番]]に大幅に手を加えて[[交響的協奏曲 (プロコフィエフ)|チェロと管弦楽のための交響的協奏曲]]へと改作しており、今日ではチェロと管弦楽のための記念碑的作品となっている<ref>{{harvnb|Nestyev|1961|pp=426–29}}</ref>。プロコフィエフが最後に公開演奏に姿を現したのは1952年10月11日に行われた[[交響曲第7番 (プロコフィエフ)|交響曲第7番]]の初演だった。これが完成させることが出来た最後の大作となる<ref>{{harvnb|Nestyev|1961|p=430}}</ref>。この交響曲は青少年のラジオ局のために書かれたものだった<ref>{{harvnb|Nestyev|1961|p=429}}</ref>。 |
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=== 最期 === |
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[[File:Novodevicij Cemetery Sergei Prokofiev (cropped).jpg|thumb|upright|[[ノヴォデヴィチ女子修道院#ノヴォデヴィチ墓地|ノヴォデヴィチ墓地]]にあるプロコフィエフの墓。妻のミーラの墓石が下に見える。]] |
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プロコフィエフは1953年3月5日に61歳でこの世を去った。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]逝去と同年同月同日、その3時間前であった<ref>The Classic Collection 第105号</ref><ref>{{cite book|first=Helen |last=Rappaport|title=Joseph Stalin: A Biographical Companion|publisher=ABC-CLIO|year=1999|page=214}}</ref>。プロコフィエフが住んでいたのは[[赤の広場]]近くであり、スターリンの死を悼む群衆が3日間にわたって詰めかけたために[[ソビエト連邦作曲家同盟]]本部でプロコフィエフの葬儀を行うことはできなかった。彼の自宅周辺では霊柩車の使用が認められなかったため、棺は人の手により裏道を抜けてスターリンの亡骸へ訪れる人々の群れとは反対の方向へ運んでいかねばならなかった。約30人が葬儀に出席し、ショスタコーヴィチも参列した。ショスタコーヴィチは顔を合わせた時には馬が合わなかったようであったが、その後の年月で関係性は友好的なものへと変わっており、プロコフィエフに次のように手紙を送っている。「私は貴方に少なくともあと百年は生きて創作してもらいたいと願っています。貴方の[[交響曲第7番 (プロコフィエフ)|第7交響曲]]のような作品を聴くことで、生きることはもっと容易で、喜ばしいものとなるのです{{sfn|Ross|2007|pp=282–283}}。」遺体はモスクワの[[ノヴォデヴィチ女子修道院#ノヴォデヴィチ墓地|ノヴォデヴィチ墓地]]に埋葬された<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p=388}}</ref>。 |
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ソビエトの主要な音楽定期報ではプロコフィエフの死を116ページに小見出しとして掲載しており<ref name="hp_death">{{cite web|url=https://www.houstonpress.com/music/how-josef-stalin-stole-sergei-prokofievs-flowers-6522832 | title=How Josef Stalin Stole Sergei Prokofiev's Flowers |date=11 April 2011 |access-date=26 November 2018}}</ref>、そこまでの115ページはスターリンの死亡記事に割かれている<ref name="hp_death"/>。プロコフィエフの死因は[[脳内出血]]であるとされるのが一般的である。彼は最後の8年間を慢性疾患に悩まされていたのである<ref>{{cite document|title=The tragedy of Sergei Prokofiev. [Semin Neurol. 1999] – PubMed – NCBI |publisher=Ncbi.nlm.nih.gov |date=4 April 2012 |pmid=8530 }}</ref>。 |
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妻のミーラ・メンデリソンは、2人で暮らした同じモスクワの自宅で晩年を過ごした{{sfn|Mendelson-Prokofieva|2012|pp=577–579}}。夫の書類を整理し、彼の音楽の普及に努め、自身の回顧録を記した。回顧録執筆はプロコフィエフによって強く勧められてのことだった。回顧録の仕事は彼女にとって困難なものとなり、未完成のまま生涯を終えることになった{{sfn|Mendelson-Prokofieva|2012|page=573}}。メンデリソンは1968年にモスクワで心臓発作を起こして他界、夫に先立たれてから15年が経過していた{{sfn|Morrison|2009|page=311}}。彼女の財布には1950年2月の日付と、プロコフィエフ、メンデリソン両名の署名が入ったメッセージが遺されていた。そこには「私たちは隣り合わせに葬られることを望む」という簡潔な指示が書かれていた。2人はノヴォデヴィチ墓地で一緒に眠りについている{{sfn|Mendelson-Prokofieva|2012|p=26}}。 |
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[[リーナ・プロコフィエフ]]はプロコフィエフの死後も長く生き続け、1989年に[[ロンドン]]で息を引き取った。元夫の音楽からもたらされる印税は多少の収入となっいた。彼女は『ピーターと狼』の語り手を引き受けたこともあり、[[ネーメ・ヤルヴィ]]指揮、[[ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団]]演奏の録音が[[シャンドス]]から頒布されている<ref>{{cite web | title = Sergei Prokofiev: Peter and the Wolf | publisher = Chandos | url = http://www.chandos.net/details06.asp?CNumber=CHAN%208511 | access-date = 7 August 2014| archive-url = https://web.archive.org/web/20071029211449/http://www.chandos.net/details06.asp?CNumber=CHAN%208511 | archive-date = 29 October 2007 | url-status = dead}}</ref>。2人の間に生まれた息子のスヴャトスラフ(1924年-2010年)は建築家、[[オレグ・プロコフィエフ|オレグ]](1928年-1998年)は画家、彫刻家、詩人となり、2人とも生涯の多くを父の人生と作品の普及のために費やした<ref>{{cite news| url=https://www.telegraph.co.uk/culture/music/classicalmusic/3588909/My-father-was-naive.html | work=The Daily Telegraph | location=London | title=My father was naïve | first=Geoffrey | last=Norris | date=23 January 2003 | access-date=29 May 2014}}</ref><ref>{{cite news| url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/obituary-oleg-prokofiev-1174110.html|last=Mann|first=Noelle|date=26 August 1998 | title=Obituary: Oleg Prokofiev |journal=The Independent|access-date=7 June 2013}}</ref>。 |
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== 死後の名声 == |
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[[File:1991 CPA 6314.jpg|thumb|right|プロコフィエフ生誕100周年にあたる1991年に発行されたソ連の15[[ルーブル#補助通貨カペイカ|コペイカ]]切手に描かれたプロコフィエフの肖像。]] |
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[[アルテュール・オネゲル]]はプロコフィエフが「我々にとって現代音楽最大の人物であり続けるだろう」と明言しており<ref>{{harvnb|Nestyev|1961|p=439}}</ref>、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の学者である[[リチャード・タラスキン]]はプロコフィエフの「他にない全音階による旋律を書く才能は、20世紀の作曲家の中では事実上並ぶ者のない」ものであると認識している{{sfn|Taruskin|1992}}。一方、西側諸国におけるプロコフィエフの名声は一時期[[冷戦]]に伴う反発感情に苦しめられ<ref>Robinson, H. "A Tale of Three Cities: Petrograd, Paris, Moscow." Lecture at [[スタンレー・カプラン|Stanley H. Kaplan]] penthouse, Lincoln Center, New York, 24 March 2009.<sup>[未出版文献のため検証不能]</sup></ref>、彼の音楽は、続く世代の音楽家により大きな影響を与えたとされる[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]や[[アルノルト・シェーンベルク]]が受けているような尊敬を、西側の学者や評論家から勝ち得るに至っていない<ref>Dorothea Redepenning. "Grove Music Online."<sup>[この3次資料は他の文献を引用しているがその名称を記載してない]</sup></ref>。 |
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今日では、プロコフィエフは20世紀の音楽の中でも最も人気のある作曲家であると言っても差し支えない{{#tag:ref|「おそらく20世紀で最も人気の高い作曲家、セルゲイ・プロコフィエフ(1891年-1953年)は勝利と悲劇の生涯を送った<ref>{{harvnb|Morrison|2009|p={{page needed|date=August 2019}}}}</ref>。」}}。彼のオペラ、バレエ、室内楽曲、ピアノ曲は世界中の主要なコンサートホールで日頃より取り上げられており、管弦楽曲ひとつをとってもアメリカでは[[リヒャルト・シュトラウス]]を除く過去100年のどの作曲家の作品より頻繁に演奏されているのである<ref>American Symphony Orchestra League{{出典無効|date=August 2019}}</ref>。 |
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生まれ故郷の[[ドネツィク州]]では、[[ドネツィク国際空港]]が「セルゲイ・プロコフィエフ国際空港」に改称し、ドネツィク音楽・教育研究所が1988年に「ドネツィク州立S.S.プロコフィエフ音楽アカデミー」に名称を変更してプロコフィエフを称えている。 |
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== 作風 == |
== 作風 == |
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快活なリズム感、斬新な[[管弦楽法]]は、[[ボリス・ティシチェンコ|ティシチェンコ]]や[[ロディオン・シチェドリン|シチェドリン]]など後代のロシアの作曲家に影響を与えた。 |
快活なリズム感、斬新な[[管弦楽法]]は、[[ボリス・ティシチェンコ|ティシチェンコ]]や[[ロディオン・シチェドリン|シチェドリン]]など後代のロシアの作曲家に影響を与えた。 |
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== 録音 == |
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理論的に音楽を構築するタイプの作曲家ではなく、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]のように音楽語法の発展に寄与した面は少ない。 |
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プロコフィエフは1932年6月に、自作の[[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番]]の世界初録音を[[ピエロ・コッポラ]]の指揮で[[ロンドン交響楽団]]とHis Master's Voiceに遺している。また一部ピアノ独奏曲の録音も1935年2月にパリのHMVで行っており、Pearlと[[ナクソス (レコードレーベル)|ナクソス]]からCDが刊行されている<ref>{{Cite web|url=https://www.naxos.com/catalogue/item.asp?item_code=8.110670 |title= |
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<!-- 出典が必要です。誤解を与えかねないエピソードですので掲載しない方が良いと思います。 |
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PROKOFIEV: Piano Concerto No. 3 / Vision Fugitives (Prokofiev) (1932, 1935) |publisher=[[ナクソス (レコードレーベル)|Naxos]] |accessdate=2021-02-27}}</ref>。1938年には[[モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮してバレエ音楽『ロメオとジュリエット』第2組曲を録音し、LPとCDで販売された<ref>{{cite web |access-date=1 June 2014|url=http://www.parnassusrecords.com/our-own-cds/prokofiev-and-stravinsky-composers-conduct/|title=Prokofiev and Stravinsky – Composers Conduct|publisher=Parnassus Classical CDs and Records}}</ref>。この他のモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団との録音としては[[ダヴィッド・オイストラフ]]を[[ソロ (音楽)|ソリスト]]に迎えた[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]]が[[エヴェレスト・レコード]]からLPで販売された。記載の情報とは異なり、指揮者は[[アレクサンドル・ガウク]]であった。プロコフィエフがオペラ『戦争と平和』から数曲を演奏し、その音楽について解説する短い映像フィルムが発見されている<ref>{{cite web|url=//www.youtube.com/watch?v=BVgwaFUfBu8 |title=Prokofiev plays and talks about his music ... |publisher=YouTube |access-date=10 June 2012}}</ref>。 |
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[[ロディオン・シチェドリン|シチェドリン]]が“[[作曲]]の極意とは何ですか?”とプロコフィエフに尋ねたところ、こう答えたと言う… |
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“如何に聴衆を驚かすかという事だ”。{{要出典}} |
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== 小説家として == |
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プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。作品の多くが当時の[[モダニズム文学]]の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。 |
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日本語訳版は2009年に[[群像社]]より刊行された<ref>ISBN 978-4-903619-16-3 C0397 {{Cite web|url=http://gunzosha.com/books/ISBN4-903619-16-3.html |title=プロコフィエフ短編集 |publisher=[[群像社]] |accessdate=2021-02-27}}</ref>。 |
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== 受賞歴 == |
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== 小説家プロコフィエフ == |
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* 6回の[[ソビエト連邦国家賞#スターリン国家賞|スターリン賞]] |
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プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。作品の多くが当時の[[モダニズム文学]]の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。日本語の翻訳は2010年に刊行された。 |
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: 1943年 第2席 - ピアノソナタ第7番 |
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: 1946年 第1席 - 交響曲第5番とピアノソナタ第8番 |
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: 1946年 第1席 - 映画音楽『イワン雷帝』第1部 (1944年) |
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: 1946年 第1席 - バレエ音楽『シンデレラ』 (1944年) |
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: 1947年 第1席 - ヴァイオリンソナタ第1番 |
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: 1951年 第2席 - 合唱組曲『[[冬のかがり火]]』とオラトリオ『[[平和の守り]]』 |
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* [[レーニン賞]] 1957年(死後の受賞) - 交響曲第7番 |
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* [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト]][[功労芸術家]] |
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* [[労働赤旗勲章]] |
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== 主な作品 == |
== 主な作品 == |
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{{main|プロコフィエフの楽曲一覧}} |
{{main|プロコフィエフの楽曲一覧}} |
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; 交響曲 |
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*交響曲 ホ短調([[1908年]]) |
*交響曲 ホ短調([[1908年]]) |
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*[[交響曲第1番 (プロコフィエフ)|交響曲第1番 ニ長調 作品25『古典』]]([[1917年]]) |
*[[交響曲第1番 (プロコフィエフ)|交響曲第1番 ニ長調 作品25『古典』]]([[1917年]]) |
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*[[交響曲第2番 (プロコフィエフ)|交響曲第2番 ニ短調 作品40]]([[1925年]] |
*[[交響曲第2番 (プロコフィエフ)|交響曲第2番 ニ短調 作品40]]([[1925年]]) |
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*[[交響曲第3番 (プロコフィエフ)|交響曲第3番 ハ短調 作品44]]([[1928年]]) |
*[[交響曲第3番 (プロコフィエフ)|交響曲第3番 ハ短調 作品44]]([[1928年]]) |
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*[[交響曲第4番 (プロコフィエフ)|交響曲第4番 ハ長調]] 作品47(第1版:[[1930年]])、作品112(第2版:[[1947年]]) |
*[[交響曲第4番 (プロコフィエフ)|交響曲第4番 ハ長調]] 作品47(第1版:[[1930年]])、作品112(第2版:[[1947年]]) |
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*[[交響曲第7番 (プロコフィエフ)|交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131(『青春』)]]([[1952年]]) |
*[[交響曲第7番 (プロコフィエフ)|交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131(『青春』)]]([[1952年]]) |
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; オペラ |
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=== 劇場音楽 === |
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==== オペラ ==== |
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*『マッダレーナ』 作品13([[1911年]]) |
*『マッダレーナ』 作品13([[1911年]]) |
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*『[[賭博者 (プロコフィエフ)|賭博師]]』 作品24([[1916年]]) |
*『[[賭博者 (プロコフィエフ)|賭博師]]』 作品24([[1916年]]) |
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144行目: | 201行目: | ||
*『遠い海』(1948年、未完) |
*『遠い海』(1948年、未完) |
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; バレエ音楽 |
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*『[[道化師 (バレエ)|道化師]]』 |
*『[[道化師 (バレエ)|道化師]]』 作品21([[1920年]]) |
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*『[[鋼鉄の歩み]]』 作品41([[1925年]]) |
*『[[鋼鉄の歩み]]』 作品41([[1925年]]) |
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*『[[放蕩息子 (バレエ)|放蕩息子]]』 作品46([[1928年]]) |
*『[[放蕩息子 (バレエ)|放蕩息子]]』 作品46([[1928年]]) |
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153行目: | 210行目: | ||
*『[[石の花 (プロコフィエフ)|石の花]]』 作品118([[1949年]]) |
*『[[石の花 (プロコフィエフ)|石の花]]』 作品118([[1949年]]) |
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; 劇付随音楽 |
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*『エジプトの夜』([[1933年]]) |
*『エジプトの夜』([[1933年]]) |
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*『ボリス・ゴドゥノフ』 作品70bis([[1936年]]) |
*『ボリス・ゴドゥノフ』 作品70bis([[1936年]]) |
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159行目: | 216行目: | ||
*『ハムレット』 作品77([[1938年]]) |
*『ハムレット』 作品77([[1938年]]) |
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; 映画音楽 |
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*『[[キージェ中尉]]』([[1933年]]) |
*『[[キージェ中尉]]』([[1933年]]) |
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*: 後に交響組曲に改作する(作品60) |
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*『スペードの女王』作品70([[1936年]]) |
*『スペードの女王』作品70([[1936年]]) |
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*『[[アレクサンドル・ネフスキー (映画)|アレクサンドル・ネフスキー]]』( |
*『[[アレクサンドル・ネフスキー (映画)|アレクサンドル・ネフスキー]]』([[1938年]]) |
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*:後に[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|カンタータ]]に改作する |
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*『レールモントフ』([[1941年]]) |
*『レールモントフ』([[1941年]]) |
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*『コトフスキー』([[1942年]]) |
*『コトフスキー』([[1942年]]) |
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*『ウクライナ草原のパルチザンたち』([[1942年]]) |
*『ウクライナ草原のパルチザンたち』([[1942年]]) |
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*『トーニャ』([[1942年]]) |
*『トーニャ』([[1942年]]) |
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*『[[イワン雷帝 ( |
*『[[イワン雷帝 (プロコフィエフ)|イワン雷帝]]』(第1部、第2部) 作品116([[1945年]]) |
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; その他の管弦楽曲 |
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* [[シンフォニエッタ (プロコフィエフ)|シンフォニエッタ イ長調 作品5]](第1版:[[1909年]]、第2版:[[1914年]])、作品48(第3版:[[1929年]]) |
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==== 劇場音楽からの組曲 ==== |
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*[[ |
* 交響的物語『[[ピーターと狼]]』 作品67([[1936年]]) |
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* |
* 組曲『[[冬のかがり火]]』(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) 作品122([[1949年]]-[[1950年]]) |
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*『[[三つのオレンジへの恋]]』組曲 作品33bis([[1924年]]) |
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*『[[鋼鉄の歩み]]』組曲 作品41bis([[1926年]]) |
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*『[[放蕩息子 (バレエ)|放蕩息子]]』組曲 作品46bis([[1929年]]) |
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*オペラ『賭博者』からの4つのポートレートおよび終結部 作品49([[1931年]]) |
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*『ドニェプルのほとりで』組曲 作品51bis([[1933年]]) |
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*交響組曲『[[キージェ中尉|キジェー中尉]]』 作品60([[1934年]]) |
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*組曲『エジプトの夜』 作品61([[1934年]]) |
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*『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロメオとジュリエット]]』第1組曲 作品64bis([[1936年]]) |
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*『ロメオとジュリエット』第2組曲 作品64ter([[1936年]]) |
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*『セミョーン・コトコ』組曲 作品81bis([[1941年]]-[[1943年]]) |
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*『ロメオとジュリエット』第3組曲 作品101([[1944年]]) |
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*『[[シンデレラ (プロコフィエフ)|シンデレラ]]』第1組曲 作品107([[1946年]]) |
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*『シンデレラ』第2組曲 作品108(1946年) |
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*『シンデレラ』第3組曲 作品109(1946年) |
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*[[シンデレラ (プロコフィエフ)#演奏会用組曲(管弦楽)|管弦楽のための組曲『ワルツ集』 作品110]](1946年) |
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*プーシキン・ワルツ 作品120([[1949年]]) |
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*交響組曲『夏の夜』 作品123([[1950年]]、オペラ『修道院での婚約』による) |
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*結婚組曲 作品126 ([[1951年]]、バレエ音楽『[[石の花 (プロコフィエフ)|石の花]]』による) |
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*ジプシー幻想曲 作品127 ([[1951年]]、バレエ音楽『石の花』による) |
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*ウラル狂詩曲 作品128 ([[1951年]]、バレエ音楽『石の花』による) |
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; 協奏曲 |
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==== その他の管弦楽曲 ==== |
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*[[ |
* [[ピアノ協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 作品10]]([[1912年]]) |
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* [[ピアノ協奏曲第2番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第2番 ト短調 作品16]]([[1913年]]) |
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*交響的絵画『夢』 作品6([[1910年]]) |
|||
* [[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26]]([[1921年]]) |
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*交響的スケッチ『秋』 作品8([[1910年]]) |
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* [[ピアノ協奏曲第4番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) 作品53]]([[1931年]]) |
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*[[ヘブライの主題による序曲|ヘブライの主題による序曲 ハ短調 作品34bis]](1934年) |
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* [[ピアノ協奏曲第5番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第5番 ト長調 作品55]]([[1932年]]) |
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*:作品34(室内楽版)の編曲 |
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* |
* ピアノ協奏曲第6番(2台のピアノと弦楽合奏のための) 作品133([[1952年]]、未完) |
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* [[ヴァイオリン協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品19]]([[1917年]]) |
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*ディヴェルティメント 作品43([[1929年]]) |
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* [[ヴァイオリン協奏曲第2番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 作品63]]([[1935年]]) |
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*交響的な歌 作品57([[1933年]]) |
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* [[チェロ協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|チェロ協奏曲第1番 ホ短調 作品58]]([[1938年]]) |
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*小管弦楽のための子供の組曲『夏の一日』 作品65bis([[1941年]]) |
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* [[交響的協奏曲 (プロコフィエフ)|チェロと管弦楽のための交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)ホ短調 作品125]]([[1951年]]) |
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*:子供の音楽 作品65 からの管弦楽編曲(全7曲) |
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*交響的物語『[[ピーターと狼]]』 作品67([[1936年]]) |
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*ロシア序曲 作品72(第1版:[[1936年]]、第2版:[[1937年]]) |
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*交響組曲『1941年』 作品90([[1941年]]) |
|||
*行進曲 変ロ長調 作品99(1944年) [吹奏楽] |
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*祝典詩曲『30年』 作品113([[1947年]]) |
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*組曲『[[冬のかがり火]]』(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) 作品122([[1949年]]-[[1950年]]) |
|||
*祝典詩曲『ヴォルガとドンの邂逅』 作品130([[1951年]]) |
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; 室内楽曲 |
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=== 協奏曲 === |
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* [[弦楽四重奏曲第1番 (プロコフィエフ)|弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 作品50]]([[1930年]]) |
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==== ピアノ協奏曲 ==== |
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*[[ |
* [[弦楽四重奏曲第2番 (プロコフィエフ)|弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) 作品92]]([[1941年]]) |
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*[[ピアノ協奏曲第2番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第2番 ト短調 作品16]]([[1913年]]) |
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*:ロシア革命時に紛失、[[1923年]]に改作。 |
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*[[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26]]([[1921年]]) |
|||
*:第3楽章に日本滞在時に聴いた長唄の[[越後獅子]]の主題を用いているという説がある。他方、第3楽章の主題は未完の『白鍵弦楽四重奏曲』から流用したもので、中央アジアの民謡を祖にしたとも言われている。 |
|||
*[[ピアノ協奏曲第4番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) 作品53]]([[1931年]]) |
|||
*:[[パウル・ウィトゲンシュタイン]]のために作曲したが演奏を拒否された(初演は[[1956年]])。 |
|||
*[[ピアノ協奏曲第5番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第5番 ト長調 作品55]]([[1932年]]) |
|||
*ピアノ協奏曲第6番(2台のピアノと弦楽合奏のための) 作品133([[1952年]]、未完) |
|||
==== ヴァイオリン協奏曲 ==== |
|||
*[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品19]]([[1917年]]) |
|||
*[[ヴァイオリン協奏曲第2番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 作品63]]([[1935年]]) |
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==== チェロ協奏曲 ==== |
|||
*[[チェロ協奏曲第1番 (プロコフィエフ)|チェロ協奏曲第1番 ホ短調 作品58]]([[1938年]]) |
|||
*[[交響的協奏曲 (プロコフィエフ)|チェロと管弦楽のための交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)ホ短調 作品125]]([[1951年]]) |
|||
*:第1番の改作。 |
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*チェロと管弦楽のための小協奏曲(コンチェルティーノ)ト短調 作品132([[1952年]]着手、未完) |
|||
*:[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ|ロストロポーヴィチ]]と[[ドミトリ・カバレフスキー|カバレフスキー]]の補筆により[[1959年]]に完成。[[アルフレート・シュニトケ]]と[[ウラジーミル・ブローク]](Vladimir Blok)による補筆版もある。 |
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=== 室内楽曲 === |
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==== 弦楽四重奏曲 ==== |
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*[[弦楽四重奏曲第1番 (プロコフィエフ)|弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 作品50]]([[1930年]]) |
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*[[弦楽四重奏曲第2番 (プロコフィエフ)|弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) 作品92]]([[1941年]]) |
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==== ヴァイオリンソナタ ==== |
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* [[ヴァイオリンソナタ第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 作品80]]([[1946年]]) |
* [[ヴァイオリンソナタ第1番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 作品80]]([[1946年]]) |
||
* [[ヴァイオリンソナタ第2番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 作品94bis]]([[1944年]]) |
* [[ヴァイオリンソナタ第2番 (プロコフィエフ)|ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 作品94bis]]([[1944年]]) |
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*: フルートソナタ 作品94 の改作。 |
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* 2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 作品56([[1932年]]) |
* 2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 作品56([[1932年]]) |
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* [[無伴奏ヴァイオリンソナタ (プロコフィエフ)|無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 作品115]]([[1947年]]) |
* [[無伴奏ヴァイオリンソナタ (プロコフィエフ)|無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 作品115]]([[1947年]]) |
||
* [[ヘブライの主題による序曲|ヘブライの主題による序曲 ハ短調 作品34]]([[1919年]]) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ] |
|||
* 五重奏曲 ト長調 作品39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス] |
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* [[ヴァイオリンソナタ第2番 (プロコフィエフ)|フルートソナタ ニ長調 作品94]]([[1943年]]) |
|||
* [[チェロソナタ (プロコフィエフ)|チェロソナタ ハ長調 作品119]]([[1949年]]) |
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; ピアノ曲 |
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==== その他の室内楽曲 ==== |
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* [[ピアノソナタ第1番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品1]]([[1909年]]) |
|||
*[[ヘブライの主題による序曲|ヘブライの主題による序曲 ハ短調 作品34]]([[1919年]]) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ] |
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* [[ピアノソナタ第2番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第2番 ニ短調 作品14]]([[1912年]]) |
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*:1934年に管弦楽編曲(作品34bis) |
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* |
* [[ピアノソナタ第3番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第3番 イ短調 作品28『古い手帳から』]]([[1917年]]) |
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* [[ピアノソナタ第4番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第4番 ハ短調 作品29『古い手帳から』]]([[1917年]]) |
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*:5つの歌詞のない歌 作品35の編曲。 |
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* [[ピアノソナタ第5番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第5番 ハ長調]] 作品38(第1版:[[1923年]])、作品135(第2版:[[1953年]]) |
|||
*五重奏曲 ト長調 作品39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス] |
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*[[ |
* [[ピアノソナタ第6番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第6番 イ長調 作品82]]([[1940年]]) |
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*[[ |
* [[ピアノソナタ第7番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第7番 変ロ長調 作品83]]([[1942年]]) |
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* |
* [[ピアノソナタ第8番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第8番 変ロ長調 作品84]]([[1944年]]) |
||
* [[ピアノソナタ第9番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第9番 ハ長調 作品103]]([[1947年]]) |
|||
*:[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ|ロストロポーヴィチ]]、ブロークにより補完。 |
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* ピアノソナタ第10番 ホ短調 作品137([[1953年]]、未完) |
|||
* [[トッカータ (プロコフィエフ)|トッカータ ニ短調 作品11]]([[1912年]]) |
|||
* サルカズム(風刺) 作品17(全5曲)([[1914年]]) |
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* [[束の間の幻影]] 作品22(全20曲)([[1917年]]) |
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; 合唱曲 |
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=== ピアノ曲 === |
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* [[カンタータ]]『[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]』 作品78([[1939年]]) |
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==== ピアノソナタ ==== |
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* [[オラトリオ]]『平和の守り』 作品124([[1950年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第1番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品1]]([[1909年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第2番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第2番 ニ短調 作品14]]([[1912年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第3番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第3番 イ短調 作品28『古い手帳から』]]([[1917年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第4番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第4番 ハ短調 作品29『古い手帳から』]]([[1917年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第5番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第5番 ハ長調]] 作品38(第1版:[[1923年]])、作品135(第2版:[[1953年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第6番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第6番 イ長調 作品82]]([[1940年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第7番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第7番 変ロ長調 作品83]]([[1942年]]) |
|||
*[[ピアノソナタ第8番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第8番 変ロ長調 作品84]]([[1944年]]) |
|||
:第6番~第8番の3曲はいずれも[[第二次世界大戦]]中に完成されたため、『[[戦争ソナタ]]」』の通称で呼ばれることがある。 |
|||
*[[ピアノソナタ第9番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第9番 ハ長調 作品103]]([[1947年]]) |
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*ピアノソナタ第10番 ホ短調 作品137([[1953年]]、未完) |
|||
; 歌曲 |
|||
==== その他のピアノ曲 ==== |
|||
*4つの練習曲 作品2([[1909年]]) |
|||
*#ニ短調 |
|||
*#ホ短調 |
|||
*#ハ短調 |
|||
*#ハ短調 |
|||
*4つの小品 作品4(全4曲)([[1908年]]) |
|||
*#思い出 |
|||
*#躍動 |
|||
*#失望 |
|||
*#悪魔的暗示 |
|||
*[[トッカータ (プロコフィエフ)|トッカータ ニ短調 作品11]]([[1912年]]) |
|||
*サルカズム(風刺) 作品17(全5曲)([[1914年]]) |
|||
*[[束の間の幻影]] 作品22(全20曲)([[1917年]]) |
|||
*年とった祖母の物語 作品31(全4曲)([[1918年]]) |
|||
*4つの小品 作品32([[1918年]]) |
|||
*#舞曲 |
|||
*#メヌエット |
|||
*#ガヴォット |
|||
*#ワルツ |
|||
*物自体 作品45(全2曲)([[1928年]]) |
|||
*2つの[[ソナチネ]] 作品54([[1931年]]-[[1932年]]) |
|||
*#第1番 ホ短調 |
|||
*#第2番 ト長調 |
|||
*3つの小品 作品59([[1933年]]-[[1934年]]) |
|||
*#散歩 |
|||
*#風景 |
|||
*#田園風ソナチネ |
|||
*思考 作品62([[1933年]]-[[1934年]]) |
|||
*#アダージョ・ペンシエローソとモデラート |
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*#レント |
|||
*#アンダンテ |
|||
*子供の音楽 作品65(全12曲)([[1935年]]) |
|||
*バレエ『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロメオとジュリエット]]』からの10の小品 作品75([[1937年]]) |
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=== 合唱曲 === |
|||
*2つの詩 作品7([[1909年]]-[[1910年]]) |
|||
*[[カンタータ]]『彼らは7人』 作品30([[1917年]]-[[1918年]]) |
|||
*十月革命20周年のためのカンタータ 作品74([[1936年]]-[[1937年]]) |
|||
*組曲『われらの時代の歌』 作品76([[1937年]]) |
|||
*[[カンタータ]]『[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]』 作品78([[1939年]]) |
|||
*『祝杯』 作品85([[1939年]]) |
|||
*[[カンタータ]]『名もない少年のバラード』 作品93([[1942年]]-[[1943年]]) |
|||
*十月革命30周年のためのカンタータ『栄えよ、力強き国土』 作品114([[1947年]]) |
|||
*[[オラトリオ]]『平和の守り』 作品124([[1950年]]) |
|||
=== 歌曲 === |
|||
*『[[みにくいあひるの子]]』 作品18([[1914年]]) |
*『[[みにくいあひるの子]]』 作品18([[1914年]]) |
||
*5つの詩 作品23([[1915年]]) |
|||
*#屋根の下で |
|||
*#灰色の服 |
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*#信じて |
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*#私の庭で |
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*#魔法使い |
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*5つの詩 作品27([[1916年]]) |
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*#太陽は私の部屋にいっぱい |
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*#真の愛情 |
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*#太陽の思い出に |
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*#おはよう |
|||
*#灰色の目の王様 |
|||
*5つの歌詞のない歌 作品35([[1920年]]) |
|||
*:後にヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー 作品35bisに編曲、珍しくペンタトニックがそのままでる。 |
|||
*5つの詩 作品36([[1921年]]) |
|||
*#火と水の呪い |
|||
*#鳥の声 |
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*#蝶々 |
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*#私をおもえ |
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*#御影石 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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**『プロコフィエフ: 自伝/随想集』(田代薫訳/音楽之友社/2010年) |
**『プロコフィエフ: 自伝/随想集』(田代薫訳/音楽之友社/2010年) |
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*『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳/群像社ライブラリー/2010年) |
*『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳/群像社ライブラリー/2010年) |
||
== 注釈 == |
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{{Reflist|30em|group= "注"|}} |
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== 出典 == |
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{{Reflist|25em}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
; 回顧録、小論、他 |
|||
* {{cite book |last1=Mendelson-Prokofieva |first1=Mira |title=О Сергее Сергеевиче Прокофьеве. Воспоминания. Дневники (1938–1967) |date=2012 |publisher=Композитор |location=Москва |language=ru |isbn=9785425400468}} |
|||
*{{Cite book|title=The Rest Is Noise: Listening to the Twentieth Century|last=Ross|first=Alex|author-link=アレックス・ロス (音楽評論家)|year=2007|publisher=Farrar, Straus and Giroux|isbn=978-0-374-24939-7|location=New York|pages=[https://archive.org/details/restisnoiseliste00ross/page/282 282–283]|oclc=82172875}} |
|||
* {{cite book |first=Natalia|last=Sats |title=Sketches From My Life |others=Sergei Syrovatkin (translator) |location=Moscow |publisher=Raduga Publishers |year=1979 |isbn=978-5-05-001099-5}} |
|||
* {{cite book |editor-first=Semyon|editor-last=Shlifstein|title=Prokofiev: Autobiography, Articles, Reminiscences|translator=Rose Prokofieva|location=Moscow|publisher=Foreign Languages Publishing House|year=1956}} |
|||
; 伝記 |
|||
* {{cite book |first=Daniel |last=Jaffé |title=Sergey Prokofiev |location=London |year=1998 |edition= 2008}} |
|||
* {{cite book |first=Simon |last=Morrison |title=The People's Artist: Prokofiev's Soviet Years |location=Oxford |year=2009}} |
|||
* {{cite book |first=Simon |last=Morrison |title=The Love & Wars of Lina Prokofiev |url=https://archive.org/details/lovewarsoflinapr0000morr |url-access=registration |location=London|year=2013}} |
|||
* {{cite book |first=Israel |last=Nestyev |others=Florence Jonas (translator) |title=Prokofiev |location=Stanford |publisher=[[スタンフォード大学出版局|Stanford University Press]] |year=1961}} |
|||
* {{cite book |first=David |last=Nice |title=Prokofiev: From Russia to the West 1891–1935 |location=London |year=2003}} |
|||
; 研究資料、論文 |
|||
* {{cite book |first=Christina|last=Ezrahi|title=Swans of the Kremlin: Ballet and Power in Soviet Russia |location=Pittsburgh|year=2012|isbn=978-1-85273-158-8}} |
|||
* {{cite book |first=Kiril|last=Tomoff|title=Creative Union: The Professional Organization of Soviet Composers, 1939–1953 |location=Ithaca|year=2006 |isbn=978-0-8014-4411-1}} |
|||
; 事典記事 |
|||
* {{cite book|editor-last=Slonimsky|editor-first=Nicolas|editor-link=ニコラス・スロニムスキー|title=The Concise Edition of Baker's Biographical Dictionary of Musicians|edition= 8th|location=New York|publisher=Schirmer Books|year=1993|isbn=978-0-02-872416-4}} |
|||
* {{cite encyclopedia|last=Taruskin|first=Richard|author-link=リチャード・タラスキン|title=Prokofiev, Sergei|encyclopedia=[[新グローヴオペラ事典|The New Grove Dictionary of Opera]]|editor=[[スタンリー・セイディ|Stanley Sadie]]|location=London|year=1992|isbn=978-0-333-73432-2}} |
|||
== 関連文献 == |
== 関連文献 == |
||
* {{cite book |first=Michel |last=Dorigné |title=Serge Prokofiev |location=Paris |year=1994|ref=none}} |
|||
*Autobiography and diaries |
|||
* Floirat, Anetta. 2016. [https://www.academia.edu/27688221/The_Scythian_element_of_the_Russian_primitivism_in_music_and_visual_arts._Based_on_the_work_of_three_painters_Goncharova_Malevich_and_Roerich_and_two_composers_Stravinsky_and_Prokofiev_ "The Scythian element of the Russian primitivism, in music and visual arts. Based on the work of three painters (Goncharova, Malevich and Roerich) and two composers (Stravinsky and Prokofiev"]. |
|||
**Prokofiev, Sergei (1979). David H. Appel, ed. Prokofiev by Prokofiev: A Composer's Memoir. Guy Daniels (translator). New York: Doubleday & Co. ISBN 0-385-09960-6. |
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* {{cite book |first=Israel |last=Nestyev |title=Prokofiev, his Musical Life |url=https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.85346 |location=New York |year=1946|ref=none}} |
|||
**Prokofiev, Sergei (1991). Soviet Diary 1927 and Other Writings. London: Faber and Faber. |
|||
* {{cite book |editor-first=Marina Pavlovna|editor-last=Rakhmanova|script-title=ru:Сергей Прокофьев: к 110-летию со дня рождения: письма, воспоминания, статьи|trans-title=Sergei Prokofiev on the 110th anniversary of his birth: letters, reminiscences and articles|language=ru|location=Moscow|year=1991|isbn=978-5-201-14607-8|ref=none}} |
|||
**Prokofiev, Sergei (2000) [1960]. S. Shlifstein, ed. Sergei Prokofiev: Autobiography, Articles, Reminiscences. Rose Prokofieva (translator). The Minerva Group, Inc. ISBN 0-89875-149-7. |
|||
* {{cite book |first=Sergei |last=Prokofiev |title=Dnyevnik 1907–1933 (3 vols)|language=ru|location=Paris |year=2002 |isbn= 978-2-9518138-0-9|ref=none}} {{ISBN|978-2-9518138-1-6}}, {{ISBN|978-2-9518138-2-3}} |
|||
**Prokofiev, Sergei (2006). Anthony Phillips (translator), ed. Diaries 1907–1914: Prodigious Youth. London/Ithaca: Faber and Faber/Cornell University Press. ISBN 978-0-8014-4540-8. |
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* {{cite book |first=Claude|last=Samuel|title=Prokofiev|location=London|year=1971|isbn=978-0-7145-0490-2|url-access=registration|url=https://archive.org/details/prokofiev0000samu|ref=none}} |
|||
**Prokofiev, Sergei (2008). Anthony Phillips (translator), ed. Diaries 1915–1923: Behind the Mask. London / Ithaca: Faber and Faber/Cornell University Press. ISBN 978-0-571-22630-6. |
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* {{cite book |first=Victor |last=Seroff |title=Sergei Prokofiev: A Soviet Tragedy |url=https://archive.org/details/sergeiprokofievs00sero |url-access=registration |location=New York |year=1968|ref=none}} |
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**Prokofiev, Sergei (2012). Anthony Phillips (translator), ed. Diaries 1924–1933: Prodigal Son. London/ Ithaca: Faber and Faber/Cornell University Press. ISBN 978-0-571-23405-9. |
|||
* {{cite book |first=Igor |last=Vishnevetsky |title=Sergei Prokofiev |language=ru|location=Moscow |year=2009|isbn=978-5-235-03212-5|ref=none}} |
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**Prokofiev, Sergei (2002). Dnyevnik 1907–1933 (3 vols, in Russian). Paris. ISBN 2-9518138-0-5. ISBN 2-9518138-1-3, ISBN 2-9518138-2-1 |
|||
*Memoirs, essays, etc.[edit] |
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**Sats, Natalia (1979). Sketches From My Life. Sergei Syrovatkin (translator). Moscow: Raduga Publishers. ISBN 5-05-001099-3. |
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**Shlifstein (ed.), Semyon (1956). Prokofiev: Autobiography, Articles, Reminiscences. Rose Prokofieva (translator). Moscow: Foreign Languages Publishing House. |
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*Biographies |
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**Dorigné, Michel (1994). Serge Prokofiev. Paris. |
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**Jaffé, Daniel (1998). Sergey Prokofiev (2008 ed.). London. |
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**Morrison, Simon (2009). The People's Artist: Prokofiev's Soviet Years. Oxford. |
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**Morrison, Simon (2013). The Love & Wars of Lina Prokofiev. London. |
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**Nestyev, Israel (1946). Prokofiev, his Musical Life. New York. |
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**Nestyev, Israel (1961). Prokofiev. Florence Jonas (translator). Stanford: Stanford University Press. |
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**Nice, David (2003). Prokofiev: From Russia to the West 1891–1935. London. |
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**Rakhmanova, Marina Pavlovna, ed. (1991). Сергей Прокофьев: к 110-летию со дня рождения: письма, воспоминания, статьи [Sergei Prokofiev on the 110th anniversary of his birth: letters, reminiscences and articles] (in Russian). Moscow. ISBN 5-201-14607-4. |
|||
**Samuel, Claude (1971). Prokofiev. London. ISBN 0-7145-0490-4. |
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**Seroff, Victor (1968). Sergei Prokofiev: A Soviet Tragedy. New York. |
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**Vishnevetskiy, Igor (2009). Sergei Prokofiev (in Russian). Moscow. ISBN 978-5-235-03212-5. |
|||
*Other monographs |
|||
**Ezrahi, Christina (2012). Swans of the Kremlin: Ballet and Power in Soviet Russia. Pittsburgh. ISBN 978-1-85273-158-8. |
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**Tomoff, Kiril (2006). Creative Union: The Professional Organization of Soviet Composers, 1939–1953. Ithaca. ISBN 978-0-8014-4411-1. |
|||
*Dictionary articles |
|||
**Slonimsky, Nicolas (ed).The Concise Edition of Baker's Biographical Dictionary of Musicians, 8th ed. New York, Schirmer Books, 1993. ISBN 0-02-872416-X |
|||
**Taruskin, Richard. "Prokofiev, Sergei" in The New Grove Dictionary of Opera, ed. Stanley Sadie (London, 1992) ISBN 0-333-73432-7 |
|||
* [[ひのまどか]]「プロコフィエフ 音楽はだれのために? 」( /作曲家の物語シリーズ、リブリオ出版 2000年) |
* [[ひのまどか]]「プロコフィエフ 音楽はだれのために? 」( /作曲家の物語シリーズ、リブリオ出版 2000年) |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Wikiquotelang|en|Sergei Prokofiev|セルゲイ・プロコフィエフ}} |
|||
{{commonscat|Sergei Prokofiev}} |
{{commonscat|Sergei Prokofiev}} |
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* {{ |
* {{Britannica|478552|Sergey Prokofiev}} |
||
* {{IMDb name|id=0006241}} |
|||
* [http://www.prokofiev.org/ The Prokofiev Page] |
|||
* {{Internet Archive author |sname=Sergei Prokofiev}} |
|||
* {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20120930001029/http://prokofmuseum.org.ua/index.php?lang=en |date=30 September 2012 |title=Prokofiev Museum in Krasnoe }} |
|||
* [http://www.sprkfv.net/ The Serge Prokofiev Foundation] |
|||
*Finding aid to the [https://findingaids.library.columbia.edu/ead/nnc-rb/ldpd_10815449 Serge Prokofiev Archive at Columbia University. Rare Book & Manuscript Library] |
|||
* [https://web.archive.org/web/20120426011608/http://prokofiev-centr.org.ua/index.php?lang=en Prokofiev-Center Information portal of Donetsk State Musical Academy named after S.Prokofiev] |
|||
* [https://web.archive.org/web/20150630235120/http://prokofiev.academy/index.php/en S. Prokofiev Donetsk State Academy of Music] |
|||
* {{IMSLP|id=Prokofiev%2C_Sergei}} |
|||
* {{BBC composer page|prokofiev|Prokofiev}} |
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* [https://blog.goo.ne.jp/sprkfv プロコフィエフの日本滞在日記] |
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2021年3月30日 (火) 12:56時点における版
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ Сергей Сергеевич Прокофьев | |
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1918年、ニューヨーク | |
基本情報 | |
生誕 |
1891年4月23日 ロシア帝国、ソンツォフカ |
死没 |
1953年3月5日(61歳没) ソビエト連邦、モスクワ |
職業 | 作曲家、ピアニスト |
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Сергей Сергеевич Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月27日[注 1] - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。数多くの形式の音楽に傑作を残したことで知られており、20世紀の大作曲家のひとりであると認知されている。作品には『三つのオレンジへの恋』の行進曲、組曲『キージェ中尉』、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』、『ピーターと狼』といったような広く聴かれる楽曲がある。確立された型や様式の中で取り組み生み出された作品には、習作を除くと7つのオペラ、7つの交響曲、8つのバレエ音楽、5つのピアノ協奏曲、2つのヴァイオリン協奏曲、1つのチェロ協奏曲とチェロと管弦楽のための交響的協奏曲、そして9つのピアノソナタがある。
帝政期のロシアに生を受け、13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ[2]。音楽院を卒業したプロコフィエフは、当初因習を打ち破る作曲家兼ピアニストとして名を上げた。最初の2曲のピアノ協奏曲のように、不協和音と超絶技巧に獰猛さを見せる作品群を自分の楽器であるピアノのために書いて悪名を高めたのである。1915年、管弦楽のための『スキタイ組曲』により一般的な作曲家兼ピアニストの枠組みから明確に抜け出す。これは元々バレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフの委嘱により作曲されたバレエ音楽から編みなおされた作品だった。ディアギレフはさらに3作のバレエ音楽、『道化師』、『鋼鉄の歩み』、『放蕩息子』をプロコフィエフに委嘱しており、その全てが初演時に評論家と同業者にセンセーションを巻き起こした。しかしプロコフィエフが最も関心を注いだのはオペラであり、『賭博者』や『炎の天使』など数作品を作曲した。『三つのオレンジへの恋』はシカゴ・オペラ協会のために書かれた後に10年以上にわたりヨーロッパとロシアで上演され、彼の生前のオペラでの成功作のひとつとなった。
1917年のロシア革命以後は、ソビエトの大臣であったアナトリー・ルナチャルスキーの公認を得てロシアを後にし、アメリカ合衆国、ドイツ、パリと居住地を移しながら作曲家、ピアニスト、指揮者として生計を立てた。この頃にスペイン出身の歌手であったカロリナ・コディナと結婚、2人の息子を儲けた。1930年代のはじめには世界恐慌によりアメリカや西ヨーロッパでプロコフィエフのバレエやオペラの上演機会が減少する。自らを第一に作曲家であると看做していた彼はピアニストとして演奏旅行をしなければならないこの時に憤慨し、新作の委嘱のためにソビエト連邦へ向かうことが多くなっていく。そして1936年にはついに家族を連れて祖国へ戻ることになった。祖国では、特に『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』、そしてとりわけ『アレクサンドル・ネフスキー』がいくらかの成功を収めた。
ナチスによるソ連侵攻に鼓舞されたプロコフィエフは、最大の野心作としてレフ・トルストイの『戦争と平和』のオペラ化を行う。1948年に「非民主的形式主義」との批判を受けた。にもかかわらず、ロシアの新しい世代の演奏家であるスヴャトスラフ・リヒテル、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチらから個人的に、また芸術家としての支援を受け、リヒテルにはピアノソナタ第9番、ロストロポーヴィチには交響的協奏曲を書いている。
生涯
幼少期と最初の作曲
1891年にロシア帝国、エカテリノスラフ県バフムート郡のソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka、現在のウクライナ、ドネツィク州、ソンツィフカ)に生を受けた[3]。父のセルゲイ・アレクセイヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)は農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた。母のマリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)はかつてシェレメテフ家に支配されていた農奴の家系の出で、その領主の庇護により農奴の子らは若くから舞台と芸術について教えを受けていた[4][5][6][7]。プロコフィエフに最初に作曲を教えたレインゴリト・グリエールが記すところでは、彼女は「美しく聡明な目をした長身の女性(中略)自身がいかにすれば温かく純真な雰囲気を作り出せるかを心得ていた[8]。」1877年に結婚した後、一家はスモレンスク県にある小さな地所に移り住んだ。やがてセルゲイ・アレクセイヴィチは土壌技術者の職を得て、学生時代に一緒だったドミトリ・ソンツォフに雇われることになる。一家が引っ越したのはウクライナのステップの中にある彼の地所だったのである[9]。
既に2人の娘を失っていたマリヤは、プロコフィエフが生まれるまで音楽に人生を捧げていた。まだ息子が幼い頃にはピアノのレッスンを受けるためにモスクワもしくはサンクトペテルブルクで2か月を過ごしていた[10]。主としてショパンやベートーヴェンの作品を夕方に練習していた母のピアノの音色に触発されたセルゲイは、5歳で初めてのピアノ曲を作曲している。『インドのギャロップ』というこの作品は母が譜面に起こしたもので、幼いプロコフィエフが「黒鍵に取り組む気が起きなかった」という理由でヘ長リディア旋法で書かれている[11]。7歳までにはチェスの指し方も覚えた[12]。チェスへの情熱は燃え続け、チェスの世界王者であるホセ・ラウル・カパブランカと知り合いになり、1914年に行われた多面指しの模擬戦では勝利を収めている。ミハイル・ボトヴィニクとも面識があり、1930年代に幾度か対戦が行われた[13][注 2]。9歳になると最初のオペラ『巨人』や[注 3]、序曲、他の様々な小品を作曲していた。
正式な教育と議論を呼んだ初期作品
1902年、母がモスクワ音楽院の学長を務めていたセルゲイ・タネーエフに出会い、当初アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの下でプロコフィエフへのピアノと作曲の指導を開始すべきであると助言を受けた[15]。これは実現せず[16]、タネーエフは代わりに1902年の夏に作曲家でピアニストのレインゴリト・グリエールをソンツォフカに向かわせてプロコフィエフを指導する手はずを整えた[16]。最初の講義が最終段階に至り、11歳の本人の強い希望により新米作曲家プロコフィエフは初めて交響曲の作曲に取り組んだ[17]。翌年の夏にもグリエールはソンツォフカを訪ねて更なる指導を行っている[18]。数十年が経過してグリエールとのレッスンについて記した際、プロコフィエフは師の思いやりのある教授法に当然の称賛を送りつつも、授けられたものが後になって頭から消し去らねばならなかった「四角四面の」フレーズ構造と因習的な転調だったことには不平を漏らしていた[19]。それでもなお、必要であった理論という道具を備えたプロコフィエフは、不協和な和声や一般的でない拍子の実験を開始している。それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲を用い[注 4]、これが彼独自の音楽形式の基礎を形成していった[20]。
息子の才能が開花していく一方で、プロコフィエフの両親はこれほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワの優良な高校へ通わせる可能性について考えていた[21]。1904年までに母はモスクワではなくサンクトペテルブルクにすることを心に決めており、プロコフィエフと2人でこの当時の首都を訪ねて教育のために移り住めるのかを探った[22]。2人はサンクトペテルブルク音楽院の教授だったアレクサンドル・グラズノフに紹介され、プロコフィエフに会ってその音楽を見てみたいと請われる。プロコフィエフはこの時さらに2つのオペラ『無人島で』と『ペスト流行期の酒宴』を完成させており、4作目の『水の精』に取り組んでいた[23]。グラズノフはいたく感銘を受け、プロコフィエフの母へ息子に音楽院の入学試験を受けさせるよう強く勧めた[24]。プロコフィエフは試験に合格、この年に入学を果たす[25]。
クラスメイトの大半に比べて数年も年少のプロコフィエフは風変りで傲慢な人物と見られており、多数の同級生の間違いを記録につけて彼らを苛立たせた[26]。この時期にはピアノをアレクサンドル・ウィンクラーに[27]、和声と対位法をアナトーリ・リャードフに、指揮法をニコライ・チェレプニンに、管弦楽法をニコライ・リムスキー=コルサコフに学ぶなどした[注 5][28]。授業では作曲家のボリス・アサフィエフやニコライ・ミャスコフスキーと一緒になっており、後者とは比較的親密となり生涯にわたる親交を育んだ[29]。
サンクトペテルブルクの楽壇の一員として、自らピアノを演奏して披露した自作曲により称賛を受ける傍ら、音楽の反逆者として名声を高めた[30][31]。1909年には特筆すべきことのない成績で作曲のクラスを卒業している。音楽院には籍を置いたままとし、アンナ・エシポワにピアノの指導を受け、チェレプニンの指揮のレッスンで研鑽を続けた[32]。
1910年に父が他界して財政的支援が滞った[33]。幸運にも音楽院の外部で作曲家、ピアニストとして名を馳せ始めており、サンクトペテルブルクの『現代音楽の夕べ』にも顔を出していた。その場においては冒険的な自作のピアノ作品を複数披露しており、そうした中に非常に半音階的で不協和な練習曲集 作品2(1909年)があった。この作品の演奏が『夕べ』の主催者らに強い感銘を与え、プロコフィエフは彼らの誘いでアルノルト・シェーンベルクの3つのピアノ小品 作品11のロシア初演を手掛けることになった[34]。和声の実験はピアノのための『サルカズム(風刺)』 作品17(1912年)でも続いており、ここでは多調の使用が推し進められている[35]。最初の2作のピアノ協奏曲が書かれたのはこの頃で、そのうちピアノ協奏曲第2番は1913年8月23日、パヴロフスクでの初演の際にスキャンダルを巻き起こした。ある人物は次のように絶叫して会場を後にしたと記述している。「こんな未来派の音楽なんかくそくらえだ!屋根の上の猫ですらましな音楽を奏でるぞ!」一方でモダニストらは魅入られていた[36]。
1911年にロシアの高名な音楽学者で音楽評論家のアレクサンドル・オッソフスキーから支援がもたらされる。彼が音楽出版社のユルゲンソンにプロコフィエフに協力的な手紙を送り、これによって彼のもとに連絡が届いたのである[37]。プロコフィエフは1913年に初の国外旅行に出てパリとロンドンを巡り、その中ではじめてセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスに出会うことになる[38]。
初期バレエ
1914年、プロコフィエフは音楽院の課程を「ピアノ勝負」への参加で締めくくる。これはピアノの成績上位5名がシュレーダーのグランドピアノをかけて競う大会であった。プロコフィエフは自作のピアノ協奏曲第1番を演奏して優勝を手にした[39]。
その後まもなく、ロンドンへ赴いたプロコフィエフは興行主のセルゲイ・ディアギレフに連絡を取った。ディアギレフはプロコフィエフにとって初めてとなるバレエ『アラとロリー』を委嘱する。しかし、1915年にプロコフィエフがイタリアにいたディアギレフに作品を持っていくと、「ロシア的でない」として拒絶されてしまう[40]。「国家的な性格の音楽」を書くように強く促した彼は[41]、次いでバレエ『道化師』を委嘱した[注 6]。ディアギレフの指導に従い、プロコフィエフは民俗誌学者のアレクサンドル・アファナーシェフの民話集から題材を選定し[42]、ストーリーはある道化師と度重なる信用詐欺にまつわるものとなった。これは以前にディアギレフがイーゴリ・ストラヴィンスキーにバレエになり得る題材として提案していたもので、プロコフィエフがこれをバレエのシナリオへと落とし込むにあたってはディアギレフと彼の振付師レオニード・マシーンが力を貸した[43]。バレエの経験の少ないプロコフィエフは、ディアギレフの仔細にわたる批評に基づいて1920年代に作品に大幅な改訂を加えることになり[注 7]、そうしてやっと初演にこぎつけたのであった[45]。
1921年5月17日のバレエの初演は大きな成功を収め、観客からの賛辞に迎えられた。その中にはジャン・コクトー、ストラヴィンスキー、モーリス・ラヴェルらの姿もあった。ストラヴィンスキーは本作を「楽しく聴くことができるただひとつの現代音楽作品」と評し、ラヴェルは「天才の作品」と述べた[46]。
第一次世界大戦と革命
第一次世界大戦の最中、プロコフィエフは音楽院に復学してオルガンを学ぶことで徴兵を逃れた。フョードル・ドストエフスキーの小説『賭博者』を題材にオペラ『賭博者』を作曲したが、リハーサルは問題に悩まされ続け、1917年に予定されていた初演は2月革命の勃発により中止を余儀なくされてしまった。同年の夏には交響曲第1番『古典』が書き上げられた。副題はプロコフィエフ自身によって付けられており、作曲者曰くハイドンがもし同じ時代に生きていたとしたら用いたであろう様式の音楽となっている[47]。この作品は様式的には多かれ少なかれ古典的であるが、当時の音楽の要素が多分に盛り込まれている。
交響曲第1番と時を同じくして生まれたのがヴァイオリン協奏曲第1番であった。1917年11月の初演が計画されていたが、どちらの作品も延期となり、それぞれ1918年4月21日、1923年10月18日まで待たねばならなくなった。プロコフィエフはコーカサス地方のキスロヴォツクにて、一時母と過ごしていた。
管弦楽と合唱のための「カルデアの祈祷」とされたカンタータ『彼らは7人』の総譜完成後[48]、プロコフィエフは「何もすることがなく、宙に浮いた時間が重く自分の両手の上にある」状態に陥った。ロシアが「いま音楽を必要としていない」と考え、祖国の騒乱が過ぎ去るまでの間をアメリカ合衆国に運命をかけることを決断した[49]。1918年3月にモスクワとペテルブルクへと向かい、財政面を整えてパスポートの手配を行った。5月には米国へと旅立つことになるが、教育人民委員であったアナトリー・ルナチャルスキーから公式に許可を得てのことだった。ルナチャルスキーはこう述べていた。「君は音楽の革命家、我々は人生の革命家だ。私たちは一緒になって働かねばならない。だが、君がアメリカに行くことを望むのなら、私は君の道に立ち塞がるような真似はすまい[50]。」
日本滞在
1918年、『古典』交響曲の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日に東京に到着した。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺、12から18日には京都に滞在し、琵琶湖疏水や祇園などを散策した。13日に大阪を訪れた後、19から28日にかけて奈良に留まって奈良ホテルに宿泊、奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった『白鍵四重奏曲』の構想が練られた。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19-21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日に東京、9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日にアメリカへ向けて出国した。このプロコフィエフの日本滞在は西洋の大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。
国外生活
エンジェル島の入国管理官の審査から解放されて、1918年8月11日にサンフランシスコに到着すると[51]、プロコフィエフは間もなくセルゲイ・ラフマニノフら、著名なロシアからの亡命者と比較されるようになる。デビューを飾ったニューヨークでのソロ・コンサートはいくつかの契約に結び付いた。またシカゴオペラ協会の音楽監督であったクレオフォンテ・カンパニーニとの間に、新作オペラ『3つのオレンジへの恋』の上演を行うという契約を結んだ[52]。しかしカンパニーニが病に倒れて他界し、初演は延期となる[53]。この延期もオペラにまつわるプロコフィエフの不運のひとつであった。このオペラには多くの時間と労力が注がれていたため、この失敗は彼のソリストとしてのキャリアも犠牲にした。気づけばたちまち経済的困窮に陥っており、1920年4月には失敗してロシアに戻りたくないと、パリへ向かって旅立っていた[54]。
パリではディアギレフのバレエ・リュスとの間で契約を再確認した[55]。また、ピアノ協奏曲第3番などの未完成のままになっていた旧作を完成させた[56]。『3つのオレンジへの恋』は最終的に1921年12月30日にシカゴで作曲者自身の指揮により初演されることになった[57]。ディアギレフはこのオペラに興味を示し、1922年6月にプロコフィエフにピアノ伴奏版を演奏するように依頼する。この時には2人とも『道化師』再演のためにパリにいたため、プロコフィエフは上演の可能性について考えられるようになった[58]。しかし、オーディションの場にいたストラヴィンスキーは1幕より後を聴くのを拒否してしまった[58]。「オペラを作曲して時間を浪費している」という彼の非難に対し、プロコフィエフはストラヴィンスキーは「自身が誤りに対する耐性がないのだから、芸術の常道を主張できる立場にない」とやり返した[59]。プロコフィエフによればストラヴィンスキーは「怒り心頭に発し[注 8]」て「殴り合いに発展しそうだった我々は辛くも離れることができた」という[59]。その結果、「我々の関係は張りつめたものとなり、数年間にわたってストラヴィンスキーは私に批判的な態度を取った[58]。」
1922年3月には母とともにバイエルンのアルプス山あいにある小村エッタルに移り住み[60][61]、1年以上の期間を費やしワレリー・ブリューソフの同名の小説に基づくオペラ『炎の天使』に集中した。この頃になるとプロコフィエフの音楽はロシア国内にファンを獲得しており、帰国の誘いも受けるようになっていたが、彼はヨーロッパ残留を決意する。1923年にはスペイン人の歌手であるカロリナ・コディナ(1897年-1989年、Lina Lluberaとして活動)と結婚[62]、その後パリへと戻った[63]。
パリでは交響曲第2番などの複数の作品が演奏されたが反応は熱のこもらないもので、プロコフィエフは自分が「どうやらもはや大きな評判にはならない」と感じ取るようになる[64]。それでもこの交響曲を耳にしたことでディアギレフはバレエ『鋼鉄の歩み』を委嘱することになったとみられる。ソ連の工業化を描写することを意図したモダニストのバレエ作品であった本作は、パリの聴衆と評論家から熱狂的に迎えられることとなった[65]。
1924年頃、プロコフィエフはクリスチャン・サイエンスに招かれた[66]。彼は健康と気性の荒さに役に立つと信じてその教えを実践するようになった[67]。伝記作家のサイモン・モリソンによれば、その後生涯を通じて教えに忠実であり続けたという[68]。
プロコフィエフとストラヴィンスキーは友好関係を回復する。しかし、プロコフィエフは当時の新作であった八重奏曲やピアノと管楽器のための協奏曲にみられるようにストラヴィンスキーが「バッハを様式化すること」を特に毛嫌いしていた[69][注 9]。ストラヴィンスキーの側では、プロコフィエフを現代最高のロシアの作曲家であり、自分に続く者であると評していた[71]。
初めてのソビエト訪問
1927年には初となるソ連への演奏旅行を実施した[72]。2か月を超える期間をモスクワとレニングラード(改称されたサンクトペテルブルク)で過ごし、キーロフ劇場(現在のマリインスキー劇場)では『3つのオレンジへの恋』の上演で大きな成功を収めた[73]。1928年には上演されないままとなっていたオペラ『炎の天使』から広く題材を採る形で交響曲第3番を完成させた。指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーは第3番を「チャイコフスキーの6番以来の最も偉大な交響曲」と評した[74]。
しかし、その間にクリスチャン・サイエンスの影響下にあったプロコフィエフは印象主義的様式、並びに『炎の天使』の素材に背を向けるようになっていた[注 10]。彼は今や自身が「新しい単純性」と呼ぶものを好んでおり、1920年代の現代音楽の多くを占めた「工夫と複雑性」よりも強く心からこれを信じていた[76][注 11]。1928年から1929年にかけて、ディアギレフのためとしては最後となるバレエ『放蕩息子』を作曲する。1929年5月21日にパリで行われた初演は、ジョージ・バランシンの振り付けでセルジュ・リファールがタイトル・ロールを踊った。聴衆と評論家は、最後に放蕩息子が父に迎え入れられるために膝をついて舞台中を引きずり歩く場面に衝撃を受けた[78]。このシーンに付された音楽について、ディアギレフはプロコフィエフが「かつてないほど清澄、簡素、旋律的、そして柔和」であったことを認めている[79]。このわずか数か月後にディアギレフはこの世を去った[80]。
その夏にプロコフィエフは1925年に着手していたディヴェルティメント 作品43を完成させ、音楽院時代の作品であるシンフォニエッタ 作品5/48の改訂を終えた[81][注 12]。同年10月に、休暇からパリに戻るために家族を乗せて運転する途中で事故に見舞われる。車は横転し、プロコフィエフは左手の筋肉の一部を痛めてしまった[82]。これにより事故のすぐ後に行われた演奏旅行で訪れたモスクワでの公演は中止せざるを得なくなったものの[83]、客席から自作曲の演奏を楽しむことができた[84]。また、このことがかえって新しいソビエト音楽を数多く聴き、数年ぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たした[85]。ボリショイ劇場ではバレエ『鋼鉄の歩み』のオーディションに加わり、ロシア・プロレタリア音楽家同盟(RAPM)のメンバーから作品について尋問を受けた。彼が受けた質問は次のようなものである。描かれている工場は「労働者が奴隷である資本主義者の工場なのか、労働者が主人であるソビエトの工場なのか。もしこれがソビエトの工場であるなら、プロコフィエフはいつ、どこでこれを取材したのか。1918年から現在に至るまで海外暮らしを続けており、最初にこちらに赴いたのは1927年の2週間であろう?」プロコフィエフはこう回答した。「それは音楽ではなく政治にかかわることですので、お答えいたしません。」RAPMはこのバレエを「平板で低俗な反ソビエト的逸話、ファシズムに近接した革命に反する楽曲」と断罪した。ボリショイ劇場はこのバレエを拒絶するしかなかった[86]。
左手が回復したプロコフィエフは、その頃のヨーロッパでの成功にも支えられて1930年代の初頭に米国ツアーを成功裏に終えた[87]。この年に、パリ国立オペラで主席バレエダンサーとなっていたセルジュ・リファールの委嘱に応えて、初めてディアギレフとのかかわりがないバレエ『ドニエプルの岸辺で』 作品51の作曲に取り掛かった[88]。1931年と1932年にはピアノ協奏曲第4番とピアノ協奏曲第5番を完成させている。次の年には交響的な歌 作品57が完成される。友人のミャスコフスキーは、ソ連の中でこの作品を聴くことになる人々のことを念頭に、プロコフィエフに次のように語っている。「(この楽曲は)我々にとってはいまひとつです(中略)ここにはモニュメンタリズムにより我々が意図するものが欠けています - それは貴方が自家薬籠中のものとするよく知られた単純性と広い輪郭ですが、一時的に注意深く避けているのです[89]。」
1930年代初期までにはヨーロッパとアメリカは世界恐慌に苦しめられており、新作のオペラやバレエの上演は難しくなっていた。しかし、ピアニストとしてのプロコフィエフを聴きに来る聴衆の数は、少なくともヨーロッパでは減少を見せなかった[90]。それでも、自らをなによりもまず作曲家であると考えていたプロコフィエフは、ピアニストとしての出番のために失われる作曲の時間の量に怒りを募らせていった[91]。一時ホームシックに罹ったこともあり、ソ連との間に太い関係性を築き始めたのであった。
RAPMが1932年に解散すると、プロコフィエフは祖国とヨーロッパの間で音楽大使として活動するようになっていき[92]、作品の初演と委嘱に関してはソ連からの賛助を得ることが多くなっていった。例えば、『キージェ中尉』はソ連の同名の映画のための音楽として委嘱された作品である[93]。
他にも、レニングラードのキーロフ劇場からはバレエ『ロメオとジュリエット』の委嘱が入った。この作品はアドリアン・ピオトロフスキーとセルゲイ・ラドロフによって「ドラムバレエ」(drambalet、ドラマ化されたバレエ)という発想で創作されたシナリオに曲を付けたものだった[注 13][94]。ラドロフが1934年にキーロフ劇場に辞表を叩きつけるという事件が起こり、モスクワのボリショイ劇場と新しい契約への署名が行われたが、これはピオトロフスキーが関係を維持するとの申し合わせの上でのことだった[95]。しかし、シェイクスピアの原作とは異なってバレエに用意されたハッピー・エンドを巡ってソビエトの文化に関わる役人の間に論争が巻き起こり[96]、芸術委員会の議長を務めていたプラトン・ケルジェンツェフの命によりボリショイ劇場のスタッフの見直しが行われる間、上演は無期限延期となってしまった[97]。親友のミャスコフスキーは何通もの書簡の中でどれだけプロコフィエフにロシアにいて欲しいと思っているかを綴っている[98]。
ロシアへの帰国
4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、プロコフィエフはモスクワに居を構えることにした[99][100]。同年には彼の全作品中でも指折りの知名度を誇る『ピーターと狼』が、ナターリャ・サーツの中央児童劇場のために作曲された[101]。サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得し[102]、これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として出版された[103]。プロコフィエフはさらに巨大な『十月革命20周年記念のためのカンタータ』を作曲し、記念の年中の初演を目指した。しかし、これは芸術委員会を前にしたオーディションを要求したケルジェンツェフによって巧みに阻止されてしまう。「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民ものもであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽とつけるとは[104]。」このカンタータが部分的な初演を迎えるのは1966年4月5日、作曲者の死からさらに13年の時間を待たねばならなかった[105]。
新たな環境に内心不安を感じつつも順応を強いられたプロコフィエフは、公式に承認されたソビエトの詩を歌詞として用いてミサ曲(作品66、79、89)を作曲した。1938年、セルゲイ・エイゼンシュテインと歴史叙事詩による映画『アレクサンドル・ネフスキー』を共同制作し、プロコフィエフ作品でも有数の独創的かつ劇的な音楽を書き上げた。映画の方は非常に粗末な録音状態となったが、彼はこの劇判をメゾソプラノ、合唱と管弦楽のためのカンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』へと改作、多くの演奏と録音に恵まれた。『アレクサンドル・ネフスキー』の成功に続き、初となるソビエトを題材にしたオペラ『セミョーン・カトコ』を書き上げる。これはフセヴォロド・メイエルホリドの演出による上演を目指したものだったが、メイエルホリドが1939年6月20日にスターリン秘密警察組織であった内務人民委員部に逮捕され、1940年2月2日に銃殺されたために初演は延期となった[106]。メイエルホリドの死からわずか数か月後に、プロコフィエフは「招待」を受けてスターリンの60歳の誕生日を祝うカンタータ『スターリンへの祝詞』 作品85を作曲している[107]。
1939年の暮れ、今日では「戦争ソナタ」として広く知られるピアノソナタ第6番、第7番、第8番が作曲された。初演はそれぞれ、第6番がプロコフィエフ自身によって1940年4月8日に[108]、第7番がスヴャトスラフ・リヒテルによって1943年1月18日にモスクワで、第8番がエミール・ギレリスによって1944年12月30日にモスクワで行われた[109]。その後はとりわけリヒテルがこれらの作品を擁護した。伝記作家のダニエル・ヤッフェ(Daniel Jaffé)はプロコフィエフが「無理をして至福のスターリンを喜ばしく喚起させる楽曲を作ったが、自分がその役割を演じていたのだということ」そして、後の3つのソナタでは「自らの真の心情を表現したのだと人々に信じてもらいかった」のであろうと論じている[110]。その証拠として、ヤッフェはピアノソナタ第7番の中間楽章でロベルト・シューマンの『リーダークライス』から「悲しみ」(Wehmut)の主題が引用されていることを挙げている。その歌詞は次のような内容である。「私は時に嬉しいかのように歌い、人知れず涙を流すことで心を解き放っている。ナイチンゲールは(中略)牢の深みから脱することを切に願って歌をさえずる(中略)人々は喜び、その痛み、歌に込められた深い悲しみを知ることはない[111]。」皮肉にも(彼の引喩に気づく者はなかったとみられ)、第7番のソナタはスターリン賞の第2席、第8番は第1席を獲得した[109]。
その間、ようやく1940年1月11日になって『ロメオとジュリエット』がレオニード・ラヴロフスキーの振付けによってキーロフ・バレエで上演を迎えた[112]。居合わせた者が皆驚いたことに、踊り手たちは楽曲のシンコペーションのリズムへの対処に苦労して公演をボイコットしかかっていたにもかかわらず、バレエはたちまち成功を収め[113]、ソビエトの劇的バレエの頂点に君臨する偉業と看做されるようになったのであった[114]。
戦時中
プロコフィエフはレフ・トルストイの叙事的小説『戦争と平和』を題材としたオペラの構想を温めており、1941年6月22日にバルバロッサ作戦におけるドイツ国のソ連への進行開始の報せでこの主題が一層時宜を得たものに思われるようになった。彼は2年をかけて自分自身の手による『戦争と平和』を書き上げた。戦禍を逃れるため他の多くの芸術家らとともにまずコーカサスへと疎開し、そこで弦楽四重奏曲第2番を作曲している。1939年に出会っていた[115]リブレット作者のミーラ・メンデリソンとの関係が元で、この頃までにプロコフィエフと妻のリーナはついに別離に至っていた。喧嘩別れとなっていたにもかかわらず、プロコフィエフはリーナと息子たちにモスクワを出る避難民として一緒にいこうと説得したが、リーナは留まることを選択した[116]。
戦時中は作曲家らに課せられた「社会主義リアリズム」の様式で書かねばならないという制約は弱まっており、プロコフィエフは概して自らのやり方で作曲を行うことができていた。ヴァイオリンソナタ第1番 作品80、交響組曲『1941年』 作品90、カンタータ『名もない少年のバラード』 作品93は全てこの時期に生まれている。1943年にはカザフスタン最大の都市であるアマル・アタでエイゼンシュテインと合流し、映画音楽『イワン雷帝』、そして彼の作品中でも指折りの旋律美で称賛を集めるバレエ『シンデレラ』の制作を行った。この年のはじめには『戦争と平和』からの抜粋をボリショイ劇場共同体の面々に演奏したが[117]、ソビエト政府の意見によりこのオペラは何度も改訂されることとなった[注 14]。1944年にはモスクワ郊外にある作曲家たちの居留地にて交響曲第5番 作品100が書き上げられた。1945年1月13日の初演では彼自身が指揮棒を握った。これは1944年12月30日のピアノソナタ第8番と、同じ日の『イワン雷帝』第1部の初演が大きな成功を収めてわずか2週間後のことだった。
『ピーターと狼』及び『古典』交響曲(ニコライ・アノーソフ指揮)と一緒にプログラムに並んだ第5交響曲の初演により、プロコフィエフはソビエト連邦の主導的作曲家として名声の頂点に達したかのように思われた[119]。その後まもなく慢性高血圧により転倒し、以降脳震盪に苦しむようになる[120]。この症状の完全な快復がおとずれることはなく、医師の助言により作曲活動に制約を課されることになってしまったのであった[121]。
戦後
戦後の作品となる交響曲第6番やピアノソナタ第9番を作曲する時間を持つことができたプロコフィエフは、「ジダーノフ批判」に晒されることになる。1948年のはじめ、アンドレイ・ジダーノフの招集により開かれたソビエトの作曲家の会合に続き、政治局は作曲家らを非難する決議を行った。「形式主義」の罪の対象となったのはプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ポポーフ、ミャスコフスキー、ハチャトゥリアンであり、「音楽を不快な音響へと変質しさせる」ような「混濁し、神経に触る」響きを選んだことによる「古典音楽の基本原理の放棄」であるとされた[122]。プロコフィエフの作品では『1941年』、『戦争終結に寄せる頌歌』、祝典詩曲『30年』、『花咲け、偉大な国土よ』、『名もない少年のバラード』、ピアノ小品集『思想』、そしてピアノソナタ第6、第8番が演奏禁止となった[123]。作品を禁止されるということの裏に認められる脅威により、検閲を逃れた楽曲すらももはや演奏されなくなっていた[124]。1948年8月までにプロコフィエフは過酷な財政的困窮に陥り、個人で抱えた借金は18万ルーブルにのぼった[123]。
1947年11月22日、プロコフィエフは疎遠となっていた妻に対する離婚手続きの開始を裁判所に申請する。5日後に出された裁判所の裁定は、婚姻はヴァイマル共和国で行われたものであるから法的根拠がなく、ソビエトの役所へとの届け出もなされていない、従って法的効力がなく無効であるというものだった。2人目の裁判官が評決を支持し、彼は1948年1月13日にパートナーのミラと結婚した[125][126]。最初の妻であるリーナは、スペインにいる母に送金しようとしたとして逮捕されてスパイ容疑で告発された。9か月にわたる取り調べが行われ[127]、ソ連最高裁により20年の重労働の判決が下った[128]。8年後の1956年6月30日に釈放された彼女は[129]、1974年にソビエトを後にしている[130]。
文化に関わる要人を必死に懐柔しようと試みた『真の男の物語』を含む、プロコフィエフ後期のオペラの計画群は瞬く間にキーロフ劇場にキャンセルされてしまう[131]。すげない拒絶と衰え行く健康が相まって、プロコフィエフは次第に表舞台から身を引いていった。様々な活動からの引退は愛してやまなかったチェスにまで及び、徐々に自分自身のための仕事に専念していった[132][133]。1949年に生じた深刻な再発を受け、主治医らは彼に作曲する時間を1日1時間に制限するよう要請した[134]。
1949年の春、22歳のムスティスラフ・ロストロポーヴィチのためにチェロソナタ ハ長調 作品119を作曲、1950年にロストロポーヴィチとリヒテルによって初演された[135]。ロストロポーヴィチに向けてはチェロ協奏曲第1番に大幅に手を加えてチェロと管弦楽のための交響的協奏曲へと改作しており、今日ではチェロと管弦楽のための記念碑的作品となっている[136]。プロコフィエフが最後に公開演奏に姿を現したのは1952年10月11日に行われた交響曲第7番の初演だった。これが完成させることが出来た最後の大作となる[137]。この交響曲は青少年のラジオ局のために書かれたものだった[138]。
最期
プロコフィエフは1953年3月5日に61歳でこの世を去った。スターリン逝去と同年同月同日、その3時間前であった[139][140]。プロコフィエフが住んでいたのは赤の広場近くであり、スターリンの死を悼む群衆が3日間にわたって詰めかけたためにソビエト連邦作曲家同盟本部でプロコフィエフの葬儀を行うことはできなかった。彼の自宅周辺では霊柩車の使用が認められなかったため、棺は人の手により裏道を抜けてスターリンの亡骸へ訪れる人々の群れとは反対の方向へ運んでいかねばならなかった。約30人が葬儀に出席し、ショスタコーヴィチも参列した。ショスタコーヴィチは顔を合わせた時には馬が合わなかったようであったが、その後の年月で関係性は友好的なものへと変わっており、プロコフィエフに次のように手紙を送っている。「私は貴方に少なくともあと百年は生きて創作してもらいたいと願っています。貴方の第7交響曲のような作品を聴くことで、生きることはもっと容易で、喜ばしいものとなるのです[141]。」遺体はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された[142]。
ソビエトの主要な音楽定期報ではプロコフィエフの死を116ページに小見出しとして掲載しており[143]、そこまでの115ページはスターリンの死亡記事に割かれている[143]。プロコフィエフの死因は脳内出血であるとされるのが一般的である。彼は最後の8年間を慢性疾患に悩まされていたのである[144]。
妻のミーラ・メンデリソンは、2人で暮らした同じモスクワの自宅で晩年を過ごした[145]。夫の書類を整理し、彼の音楽の普及に努め、自身の回顧録を記した。回顧録執筆はプロコフィエフによって強く勧められてのことだった。回顧録の仕事は彼女にとって困難なものとなり、未完成のまま生涯を終えることになった[146]。メンデリソンは1968年にモスクワで心臓発作を起こして他界、夫に先立たれてから15年が経過していた[147]。彼女の財布には1950年2月の日付と、プロコフィエフ、メンデリソン両名の署名が入ったメッセージが遺されていた。そこには「私たちは隣り合わせに葬られることを望む」という簡潔な指示が書かれていた。2人はノヴォデヴィチ墓地で一緒に眠りについている[148]。
リーナ・プロコフィエフはプロコフィエフの死後も長く生き続け、1989年にロンドンで息を引き取った。元夫の音楽からもたらされる印税は多少の収入となっいた。彼女は『ピーターと狼』の語り手を引き受けたこともあり、ネーメ・ヤルヴィ指揮、ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団演奏の録音がシャンドスから頒布されている[149]。2人の間に生まれた息子のスヴャトスラフ(1924年-2010年)は建築家、オレグ(1928年-1998年)は画家、彫刻家、詩人となり、2人とも生涯の多くを父の人生と作品の普及のために費やした[150][151]。
死後の名声
アルテュール・オネゲルはプロコフィエフが「我々にとって現代音楽最大の人物であり続けるだろう」と明言しており[152]、アメリカの学者であるリチャード・タラスキンはプロコフィエフの「他にない全音階による旋律を書く才能は、20世紀の作曲家の中では事実上並ぶ者のない」ものであると認識している[153]。一方、西側諸国におけるプロコフィエフの名声は一時期冷戦に伴う反発感情に苦しめられ[154]、彼の音楽は、続く世代の音楽家により大きな影響を与えたとされるイーゴリ・ストラヴィンスキーやアルノルト・シェーンベルクが受けているような尊敬を、西側の学者や評論家から勝ち得るに至っていない[155]。
今日では、プロコフィエフは20世紀の音楽の中でも最も人気のある作曲家であると言っても差し支えない[157]。彼のオペラ、バレエ、室内楽曲、ピアノ曲は世界中の主要なコンサートホールで日頃より取り上げられており、管弦楽曲ひとつをとってもアメリカではリヒャルト・シュトラウスを除く過去100年のどの作曲家の作品より頻繁に演奏されているのである[158]。
生まれ故郷のドネツィク州では、ドネツィク国際空港が「セルゲイ・プロコフィエフ国際空港」に改称し、ドネツィク音楽・教育研究所が1988年に「ドネツィク州立S.S.プロコフィエフ音楽アカデミー」に名称を変更してプロコフィエフを称えている。
作風
プロコフィエフは自身の作品を構成する要素として「古典的な要素」「近代的な要素」「トッカータ、もしくは "モーター" の要素」「叙情的な部分」「グロテスク」の5つを上げている[159]。初期には急進的な作風を取る一方、長期の海外生活中の作品は次第に新古典主義的で晦渋なものとなったが、ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へ転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生んだ。
快活なリズム感、斬新な管弦楽法は、ティシチェンコやシチェドリンなど後代のロシアの作曲家に影響を与えた。
録音
プロコフィエフは1932年6月に、自作のピアノ協奏曲第3番の世界初録音をピエロ・コッポラの指揮でロンドン交響楽団とHis Master's Voiceに遺している。また一部ピアノ独奏曲の録音も1935年2月にパリのHMVで行っており、PearlとナクソスからCDが刊行されている[160]。1938年にはモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してバレエ音楽『ロメオとジュリエット』第2組曲を録音し、LPとCDで販売された[161]。この他のモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団との録音としてはダヴィッド・オイストラフをソリストに迎えたヴァイオリン協奏曲第1番がエヴェレスト・レコードからLPで販売された。記載の情報とは異なり、指揮者はアレクサンドル・ガウクであった。プロコフィエフがオペラ『戦争と平和』から数曲を演奏し、その音楽について解説する短い映像フィルムが発見されている[162]。
小説家として
プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。作品の多くが当時のモダニズム文学の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。
受賞歴
- 6回のスターリン賞
- 1943年 第2席 - ピアノソナタ第7番
- 1946年 第1席 - 交響曲第5番とピアノソナタ第8番
- 1946年 第1席 - 映画音楽『イワン雷帝』第1部 (1944年)
- 1946年 第1席 - バレエ音楽『シンデレラ』 (1944年)
- 1947年 第1席 - ヴァイオリンソナタ第1番
- 1951年 第2席 - 合唱組曲『冬のかがり火』とオラトリオ『平和の守り』
主な作品
- 交響曲
- 交響曲 ホ短調(1908年)
- 交響曲第1番 ニ長調 作品25『古典』(1917年)
- 交響曲第2番 ニ短調 作品40(1925年)
- 交響曲第3番 ハ短調 作品44(1928年)
- 交響曲第4番 ハ長調 作品47(第1版:1930年)、作品112(第2版:1947年)
- 交響曲第5番 変ロ長調 作品100(1944年)
- 交響曲第6番 変ホ短調 作品111(1947年)
- 交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131(『青春』)(1952年)
- オペラ
- 『マッダレーナ』 作品13(1911年)
- 『賭博師』 作品24(1916年)
- 『三つのオレンジへの恋』 作品33(1919年)
- 『炎の天使』 作品37(1927年)
- 『セミョーン・カトコ』 作品81(1939年)
- 『修道院での婚約』 作品86(1940年)
- 『戦争と平和』 作品91(第1版:1943年、第2版:1946年、第3版:1947年、第4版:1950年、第5版:1952年)
- 『真の男の物語』 作品117(1948年)
- 『遠い海』(1948年、未完)
- バレエ音楽
- 『道化師』 作品21(1920年)
- 『鋼鉄の歩み』 作品41(1925年)
- 『放蕩息子』 作品46(1928年)
- 『ボリステーヌの岸辺で』 作品51(1930年)
- 『ロメオとジュリエット』 作品64(1936年)
- 『シンデレラ』 作品87(1944年)
- 『石の花』 作品118(1949年)
- 劇付随音楽
- 映画音楽
- 『キージェ中尉』(1933年)
- 『スペードの女王』作品70(1936年)
- 『アレクサンドル・ネフスキー』(1938年)
- 『レールモントフ』(1941年)
- 『コトフスキー』(1942年)
- 『ウクライナ草原のパルチザンたち』(1942年)
- 『トーニャ』(1942年)
- 『イワン雷帝』(第1部、第2部) 作品116(1945年)
- その他の管弦楽曲
- シンフォニエッタ イ長調 作品5(第1版:1909年、第2版:1914年)、作品48(第3版:1929年)
- 交響的物語『ピーターと狼』 作品67(1936年)
- 組曲『冬のかがり火』(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) 作品122(1949年-1950年)
- 協奏曲
- ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 作品10(1912年)
- ピアノ協奏曲第2番 ト短調 作品16(1913年)
- ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26(1921年)
- ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) 作品53(1931年)
- ピアノ協奏曲第5番 ト長調 作品55(1932年)
- ピアノ協奏曲第6番(2台のピアノと弦楽合奏のための) 作品133(1952年、未完)
- ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品19(1917年)
- ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 作品63(1935年)
- チェロ協奏曲第1番 ホ短調 作品58(1938年)
- チェロと管弦楽のための交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)ホ短調 作品125(1951年)
- 室内楽曲
- 弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 作品50(1930年)
- 弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) 作品92(1941年)
- ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 作品80(1946年)
- ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 作品94bis(1944年)
- 2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 作品56(1932年)
- 無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 作品115(1947年)
- ヘブライの主題による序曲 ハ短調 作品34(1919年) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ]
- 五重奏曲 ト長調 作品39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス]
- フルートソナタ ニ長調 作品94(1943年)
- チェロソナタ ハ長調 作品119(1949年)
- ピアノ曲
- ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品1(1909年)
- ピアノソナタ第2番 ニ短調 作品14(1912年)
- ピアノソナタ第3番 イ短調 作品28『古い手帳から』(1917年)
- ピアノソナタ第4番 ハ短調 作品29『古い手帳から』(1917年)
- ピアノソナタ第5番 ハ長調 作品38(第1版:1923年)、作品135(第2版:1953年)
- ピアノソナタ第6番 イ長調 作品82(1940年)
- ピアノソナタ第7番 変ロ長調 作品83(1942年)
- ピアノソナタ第8番 変ロ長調 作品84(1944年)
- ピアノソナタ第9番 ハ長調 作品103(1947年)
- ピアノソナタ第10番 ホ短調 作品137(1953年、未完)
- トッカータ ニ短調 作品11(1912年)
- サルカズム(風刺) 作品17(全5曲)(1914年)
- 束の間の幻影 作品22(全20曲)(1917年)
- 合唱曲
- カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』 作品78(1939年)
- オラトリオ『平和の守り』 作品124(1950年)
- 歌曲
著書
- 『プロコフィエフ自伝・評論』(園部四郎、西牟田久雄共訳/音楽之友社/1964年)
- 『プロコフィエフ: 自伝/随想集』(田代薫訳/音楽之友社/2010年)
- 『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳/群像社ライブラリー/2010年)
注釈
- ^ プロコフィエフ本人は4月23日(ユリウス暦4月11日)が自身の誕生日であると信じていたが、死後に発見された出生証明書により4日後の4月27日(ユリウス暦4月15日)生まれであったことが明らかになった[1]。
- ^ 多面指しの場であったとはいえ、プロコフィエフは将来チェスの世界チャンピオンになる人物から勝ち星を得ているという、作曲家としては稀有な特徴を持っていた。彼がカパブランカに勝利した1914年5月16日の棋譜は次のリンクから再現できる chessgames.com(Javaが必要)。カパブランカとの試合について詳述したプロコフィエフのノートは次のリンクから The Game (part 2) sprkfv.net.[14]。
- ^ 「彼は5歳でピアノ曲、9歳でオペラを作曲するモーツァルト並みの神童であった。」 Peter and the Wolf, philtulga.com
- ^ それらが依拠していたいわゆる「歌曲形式」、より正確には三部形式に基づく呼び名であった。
- ^ リムスキー=コルサコフは1908年に他界しており、プロコフィエフは「一応」彼の下で学んだに過ぎなかったと記している。プロコフィエフは学生の溢れる授業に出席していた学生の一人に過ぎず、そうでなければ「彼から学ぶ機会を得られなかった」ことを残念がった。
- ^ ロシア語の原題は『Сказка про шута, семерых шутов перешутившего』であり、「7人の道化師をだました道化師の物語」の意である。
- ^ 「ディアギレフは書き直さねばならないといって多数の箇所を指摘した。彼は繊細かつ優れた見識を持つ批評家であり、強い信念をもって自らの意見を論じるのである。(中略)変更点について合意に至るにあたり困難は生じなかった[44]。」
- ^ 直訳するならば「憤怒で白熱光を放った」と表現されている。
- ^ プロコフィエフがセルゲイ・エイゼンシュテインが監督した『アレクサンドル・ネフスキー』において、侵略するドイツ騎士団の性格描写としてストラヴィンスキーの詩篇交響曲のテクストを用いたことは、彼による「偽りのバッハ主義」に対する当てこすりだったのではないかと指摘されている[70]。
- ^ 「全く異なる様式で書かねばならない、『炎の天使』と『賭博者』の改訂から解放されたらすぐにでもそれに取り掛かるのだと遥かに前より心に決めていた。もし神が創造と理性の唯一の源であり、人間が神を投影したものなのだとしたら、創造主の被造物をより詳細に反映することで人間の作品がより優れたものになるということは非常に明白である[75]。」
- ^ プロコフィエフが単純な音楽が良いと認めていたというわけではない。1926年6月に「『オレンジ』の行進曲を大衆受けを狙った単純な形」に編曲した際、彼は日記に次のように記している。「単純性のために剥ぎ取る工程は実に不愉快なものだ[77]。」
- ^ プロコフィエフは自叙伝の中で、『古典』交響曲が広く演奏されている一方で。このシンフォニエッタの演奏機会がほとんどないことが全く理解できないと書いている[81]。
- ^ ドラムバレエは振り付けの披露と革新に主眼を置いた作品に代わるものとして、キーロフ劇場で公式に推進されていた。
- ^ 「プロコフィエフは『戦争と平和』の初版を第2次世界大戦中に作曲した。彼は本作を40年代後半と50年代初頭に改訂しているが、これは1948年のジダーノフ批判の時期にあたる。この糾弾はソビエトの主導的作曲家の反啓蒙主義的傾向に向けられたものだった[118]。」
出典
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外部リンク
- Prokofiev セルゲイ・プロコフィエフ - ブリタニカ百科事典
- セルゲイ・プロコフィエフ - IMDb
- セルゲイ・プロコフィエフに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- Prokofiev Museum in Krasnoe at the Wayback Machine (archived 30 September 2012)
- The Serge Prokofiev Foundation
- Finding aid to the Serge Prokofiev Archive at Columbia University. Rare Book & Manuscript Library
- Prokofiev-Center Information portal of Donetsk State Musical Academy named after S.Prokofiev
- S. Prokofiev Donetsk State Academy of Music
- セルゲイ・プロコフィエフの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- Prokofiev - BBC Radio 3アーカイブ
- Holdings of the Serge Prokofiev Archive listed under AIM25.
- 図書館にあるセルゲイ・プロコフィエフに関係する蔵書一覧 - WorldCatカタログ
- "Finding Unlikely Ideology in Prokofiev: Polyphonic and Anti-Authoritarian Gestures in The Gambler
- プロコフィエフの日本滞在日記