ジダーノフ批判
ジダーノフ批判(ジダーノフひはん)は、1948年2月10日に公にされた、ソビエト連邦共産党中央委員会による文化、芸術に対するイデオロギーの統制である[1]。この批判を推し進めた人物、中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフにちなむ。1958年5月28日に宣言が解除されるまでの10年間について、旧ソ連では俗に「ジダーノフシナ(Zhdanovshchna, ジダーノフ時代[2])」として知られている。ヨシフ・スターリンの死まで有効とされた[3]。
ニキータ・フルシチョフによるヨシフ・スターリンへの批判である『スターリン批判』を連想させるが、こちらは「ジダーノフに対する批判」ではなく、「ジダーノフによる批判」である。
音楽
[編集]形式上は、ヴァノ・ムラデリのオペラ『偉大なる友情』への非難を目的としたものであった。しかしこのオペラは「形式主義」であったどころか、むしろ聴衆の間では大人気であった。そもそも非難の発端は、このオペラがカフカス地方を舞台として戦争を描いており、その描写にスターリンが激怒したことにあったとされる。ジダーノフがこの機に乗じて、社会主義リアリズム路線に反すると見なしうる、より抽象的で晦渋な作風の作曲家をまとめて糾弾するために、ことさらムラデリへの非難を仕掛けたというのが、ジダーノフ批判の実態であった。
後に、プロコフィエフ、ミャスコフスキー、ハチャトゥリアン、カバレフスキーら、ソ連国内の多くの作曲家が批判の対象となった。中でも真の攻撃対象はショスタコーヴィチで、その他は目くらましのために言及されたという可能性も指摘されている。この宣言は翌年4月に、ソ連作曲家連盟の特別会議において追認され、攻撃された側の多くは、自己批判を公にすることを余儀なくされた。
文学
[編集]ソ連文壇ではいち早く1946年に、諷刺作家ミハイル・ゾーシェンコと詩人アンナ・アフマートワに対して同様の攻撃がなされた。
関連文献
[編集]脚注
[編集]- ^ 「ジダーノフ批判」『世界大百科事典 第2版』 。コトバンクより2022年4月9日閲覧。
- ^ “«ЖДАНОВЩИНА» НА ЗАКАРПАТТІ”. journals.tsu.ru. 2018年12月17日閲覧。
- ^ Taruskin, Richard, 2010. Music in the Late Twentieth Century. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-538485-7. p.12
関連項目
[編集]- ティホン・フレンニコフ - 作曲家。プロコフィエフとショスタコーヴィチに対する批判を名指しで行なった。
- プラウダ批判 - ジダーノフ批判と比較されることが多い。
外部リンク
[編集]- 雑誌「ズヴェズダ」および「レニングラード」に関する全ソ連邦共産党(ボ)中央委員会組織局の決議(1946年8月14日づけ、文学に関する批判。ゾーシチェンコ,アフマートワらを攻撃。ロシア語)
- 雑誌「ズヴェズダ」および「レニングラード」についての報告 - ウェイバックマシン(2005年9月25日アーカイブ分)(1946年9月21日。ロシア語)
- ドラマ劇場の演目と、その改善の方策に関する全ソ連邦共産党(ボ)中央委員会組織局の決議(1946年8月26日づけ、演劇に関する批判。ロシア語)
- 映画「大いなる生活」に関する全ソ連邦共産党(ボ)中央委員会組織局の決議(1946年9月4日づけ、映画に関する批判。エイゼンシテイン,プドフキンらを攻撃。ロシア語)
- 全ソ連邦共産党(ボ)中央委員会ソヴェト音楽家会議での開会の辞 (1948年1月10日、音楽家会議初日における演説。ロシア語)
- ムラデリの歌劇「偉大な友情」に関する全ソ連邦共産党(ボ)中央委員会政治局の決議 (1948年2月10日づけ、音楽に関する批判。ショスタコーヴィチ,プロコフィエフらを攻撃。ロシア語)
- 歌劇「偉大な友情」,「ボグダン・フメリニツキー」および「心の底から」に対する評価の誤りの訂正に関するソ連共産党中央委員会の決議 - ウェイバックマシン(2014年1月16日アーカイブ分)(1958年5月28日づけ。ジダーノフ批判の撤回。ロシア語)
- ソヴェト文化の新しい段階 : ジダーノフ文化問題演説集(国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
- 党と文化問題(国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)、国民文庫