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孫策の弟の[[孫権]]は周泰を気に入り自分の配下に貰い受けた。[[197年]]、孫策が六県の[[山越]]征伐に赴き、孫権が丹陽の宣城に住んでいる。以前、孫策は江東を平定すると[[袁胤]]を逐った。[[袁術]]は孫策を深く怨み、陰かに間者を遣って印綬を丹陽の宗帥である陵陽の[[祖郎]]らに与え、山越を煽動して大いに手勢を合せ、共に孫策勢力を攻囲させた(「孫輔伝」)。兵士が少なく油断しきっていたところを山越の反乱軍に急に襲われて命の危険にさらされた。このとき周泰は、人に倍する勇気を持って味方を鼓舞し、全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。しばらく人事不省な状態に陥ったが、孫策から感謝され、回復後に春穀の県長に任命された。 |
孫策の弟の[[孫権]]は周泰を気に入り自分の配下に貰い受けた。[[197年]]、孫策が六県の[[山越]]征伐に赴き、孫権が丹陽の宣城に住んでいる。以前、孫策は江東を平定すると[[袁胤]]を逐った。[[袁術]]は孫策を深く怨み、陰かに間者を遣って印綬を丹陽の宗帥である陵陽の[[祖郎]]らに与え、山越を煽動して大いに手勢を合せ、共に孫策勢力を攻囲させた(「孫輔伝」)。兵士が少なく油断しきっていたところを山越の反乱軍に急に襲われて命の危険にさらされた。このとき周泰は、人に倍する勇気を持って味方を鼓舞し、全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。しばらく人事不省な状態に陥ったが、孫策から感謝され、回復後に春穀の県長に任命された。 |
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小説『[[三国志演義]]』では、蔣欽と共に江賊をしていたとされる。弟に'''周平'''(架空人物)。[[韓当]]とペアで行動することが多い。 |
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[[孫堅]]の遺児が挙兵したのを聞きつけ改心して孫策の陣営に駆けつけ、その後の孫策の[[江東]]征服戦の各所で活躍した。宣城で重傷を負ったときは[[華佗]]が周泰の傷を治療したことになっている。命がけの警護だった。(正史では将軍と督軍) |
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赤壁の戦いの緒戦では韓当と共に先陣を務め、韓当とともに元[[袁紹]]の部下の[[張南]]を斬り、焦触を討ち取っている。赤壁の追撃戦においては、韓当と共に文聘を打ち負かした。南郡の戦いでは、曹洪は韓当との一騎討ちで敗れた後、曹仁は出陣して呉軍を迎撃し、周泰との一騎討ちで敗れ倒れる。劉備が[[孫夫人]]との婚礼のために呉を訪れたときは、[[張昭]]のすすめで孫権より追撃の任務を |
赤壁の戦いの緒戦では韓当と共に先陣を務め、韓当とともに元[[袁紹]]の部下の[[張南]]を斬り、焦触を討ち取っている。赤壁の追撃戦においては、韓当と共に文聘を打ち負かした。南郡の戦いでは、曹洪は韓当との一騎討ちで敗れた後、曹仁は出陣して呉軍を迎撃し、周泰との一騎討ちで敗れ倒れる。劉備が[[孫夫人]]との婚礼のために呉を訪れたときは、[[張昭]]のすすめで孫権より追撃の任務を蔣欽と共に与えられ、場合によっては夫婦ともども切り捨ててもよいという厳命を受けている。 |
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濡須口の戦いでは、韓当と共に許褚を攻撃し、許褚と一騎討ちをして引き分けて、許褚は辛くも曹操を救い出した。第二回濡須口の戦いでは、孫権は周泰に命じて奇襲を仕掛けて帰ってきた甘寧100人を迎える。曹操は許褚に命じて孫権の大軍を分割させ、曹操軍の張遼、徐晃、龐徳、李典に攻撃されて窮地に追い込まれた孫権をまたもや傷だらけになりながらも救出している。さらに、この時は乱戦の中にいる徐盛も救出に成功している。(正史にある、孫権と徐盛は窮地に陥ることはない、逆に曹操は孫権に包囲されて多くの犠牲を出し、敗走した。また周泰の追撃で曹操軍を撃退に成功し、濡須の守りも任される。) |
濡須口の戦いでは、韓当と共に許褚を攻撃し、許褚と一騎討ちをして引き分けて、許褚は辛くも曹操を救い出した。第二回濡須口の戦いでは、孫権は周泰に命じて奇襲を仕掛けて帰ってきた甘寧100人を迎える。曹操は許褚に命じて孫権の大軍を分割させ、曹操軍の張遼、徐晃、龐徳、李典に攻撃されて窮地に追い込まれた孫権をまたもや傷だらけになりながらも救出している。さらに、この時は乱戦の中にいる徐盛も救出に成功している。(正史にある、孫権と徐盛は窮地に陥ることはない、逆に曹操は孫権に包囲されて多くの犠牲を出し、敗走した。また周泰の追撃で曹操軍を撃退に成功し、濡須の守りも任される。) |
2020年9月15日 (火) 15:17時点における版
周泰 | |
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清代の書物に描かれた周泰 | |
呉 漢中太守・奮威将軍・陵陽侯 | |
出生 |
生没年不詳 揚州九江郡下蔡 |
拼音 | Zhōu Tài |
字 | 幼平 |
主君 | 孫策→孫権 |
周 泰(しゅう たい、生没年不詳)は、中国後漢末から三国時代の武将。呉に仕えた。字は幼平。揚州九江郡下蔡の人。子は周邵・周承。
生涯
蔣欽とともに孫策に仕え、左右となる。196年、孫策が会稽郡に進出すると、別部司馬となった。
孫策の弟の孫権は周泰を気に入り自分の配下に貰い受けた。197年、孫策が六県の山越征伐に赴き、孫権が丹陽の宣城に住んでいる。以前、孫策は江東を平定すると袁胤を逐った。袁術は孫策を深く怨み、陰かに間者を遣って印綬を丹陽の宗帥である陵陽の祖郎らに与え、山越を煽動して大いに手勢を合せ、共に孫策勢力を攻囲させた(「孫輔伝」)。兵士が少なく油断しきっていたところを山越の反乱軍に急に襲われて命の危険にさらされた。このとき周泰は、人に倍する勇気を持って味方を鼓舞し、全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。しばらく人事不省な状態に陥ったが、孫策から感謝され、回復後に春穀の県長に任命された。
199年、皖城や江夏の攻撃に参加し、帰還中に豫章に立ち寄ったとき、宜春県の長に任命された。任地における租税を扶持として与えられる待遇を受けた。
孫権の時代になると、江夏の黄祖討伐で功績を挙げたのを始め、赤壁の戦いで周瑜や程普に随って、曹操の攻撃を防ぎ、南郡の曹仁攻撃にも参加した。
217年、濡須では攻めてきた曹操軍に対して再度攻撃し、曹操軍を撃退させた。戦い後、勝利を収めた周泰は平虜将軍に就任し、濡須の督になる。このころ、徐盛や朱然といった面々は周泰の指揮下に入っていたが、誰も周泰の指示に随おうとはしなかった。孫権は諸将を集めて濡須塢で宴を開き、その席上でいきなり周泰に服を脱がせ、孫権を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、最後に「私が今在るのは、お前のおかげだ」と言い涙を流して感謝した。さらに周泰に対し御蓋を与えるなど、目に見える厚遇を施した[1]。このことがあって、徐盛達は周泰の指揮下に入ることを納得するようになった。
孫権が劉備と対立し、その将軍関羽を滅ぼして荊州を手中にすると、さらに蜀漢へ侵攻する姿勢を見せた。このときに周泰は漢中太守に任じられ、奮威将軍に就任し、陵陽侯に封じられた。
夷陵の戦い直後に、孫権が周泰を濡須に駐屯させる。魏軍は横江を渡らせ、同時に別働隊に居巣へ攻撃した。これを見た周泰が濡須を固守して敵と戦い、魏軍を撃ち返した。
子の周邵が跡を継いだが、230年に没し、その弟の周承が爵位を継承している。
三国志演義
小説『三国志演義』では、蔣欽と共に江賊をしていたとされる。弟に周平(架空人物)。韓当とペアで行動することが多い。
孫堅の遺児が挙兵したのを聞きつけ改心して孫策の陣営に駆けつけ、その後の孫策の江東征服戦の各所で活躍した。宣城で重傷を負ったときは華佗が周泰の傷を治療したことになっている。命がけの警護だった。(正史では将軍と督軍)
赤壁の戦いの緒戦では韓当と共に先陣を務め、韓当とともに元袁紹の部下の張南を斬り、焦触を討ち取っている。赤壁の追撃戦においては、韓当と共に文聘を打ち負かした。南郡の戦いでは、曹洪は韓当との一騎討ちで敗れた後、曹仁は出陣して呉軍を迎撃し、周泰との一騎討ちで敗れ倒れる。劉備が孫夫人との婚礼のために呉を訪れたときは、張昭のすすめで孫権より追撃の任務を蔣欽と共に与えられ、場合によっては夫婦ともども切り捨ててもよいという厳命を受けている。
濡須口の戦いでは、韓当と共に許褚を攻撃し、許褚と一騎討ちをして引き分けて、許褚は辛くも曹操を救い出した。第二回濡須口の戦いでは、孫権は周泰に命じて奇襲を仕掛けて帰ってきた甘寧100人を迎える。曹操は許褚に命じて孫権の大軍を分割させ、曹操軍の張遼、徐晃、龐徳、李典に攻撃されて窮地に追い込まれた孫権をまたもや傷だらけになりながらも救出している。さらに、この時は乱戦の中にいる徐盛も救出に成功している。(正史にある、孫権と徐盛は窮地に陥ることはない、逆に曹操は孫権に包囲されて多くの犠牲を出し、敗走した。また周泰の追撃で曹操軍を撃退に成功し、濡須の守りも任される。)
関羽の報復として劉備が攻め寄せた夷陵の戦いでは韓当とともに出陣し、劉備本隊と対峙する。韓当麾下の夏恂が張苞に敗北しそうになると、周泰の弟の周平が救援に出たが関興に討ち取られる。後に陸遜が指揮を執るようになると、古参の将の一人として韓当と共に不快感を示し、陸遜に叱責されている。陸遜の計略で呉が大勝すると、敗走する蜀軍を諸将と共に追撃し、周泰は武陵蛮の将で先に甘寧を戦死させていた沙摩柯を一騎討ちで討ち取っている。