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「歩兵第38連隊」の版間の差分

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** 6月1日 :[[杞県]]を攻略。
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** 6月9日 :支那第32軍長[[商震]]は[[介石]]の命により、我が軍の追撃阻止のため[[黄河]]の堤防を爆破([[黄河決壊事件|黄河決壊作戦]])。
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** 6月15日:自国民もろとも押し流し氾濫が[[尉氏県|尉氏]]付近に及び、歩兵第38連隊は孤立。[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]([[佐々木到一]]中将・[[姫路市|姫路]])に救出されるも追撃は遅滞。そのため、東方に反転。
** 6月15日:自国民もろとも押し流し氾濫が[[尉氏県|尉氏]]付近に及び、歩兵第38連隊は孤立。[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]([[佐々木到一]]中将・[[姫路市|姫路]])に救出されるも追撃は遅滞。そのため、東方に反転。
** 7月7日 :[[睢県]]付近に集結。
** 7月7日 :[[睢県]]付近に集結。

2020年9月15日 (火) 14:06時点における版

歩兵第38連隊
創設 1896年
廃止 1944年8月玉砕
所属政体 日本の旗 日本
所属組織  大日本帝国陸軍
部隊編制単位 連隊
兵科 歩兵
所在地 大津 - 伏見 - 奈良
通称号/略称 淀4073
上級単位 第4師団 - 第16師団 - 第29師団
最終位置 マリアナ諸島 グアム島
戦歴 日露 - 日中 - 第二次世界大戦
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歩兵第38連隊(ほへいだい38れんたい、歩兵第三十八聯隊)は、大日本帝国陸軍連隊のひとつ。

沿革

  • 1938年(昭和13年)
    • 4月7日 :大本営は支那第5戦区軍(李宗仁・60万)を包囲殲滅すべく徐州作戦を下令。
    • 5月2日 :徐州作戦参加のため済南を経て済寧に集結。
    • 5月11日:進撃を開始。
    • 5月14日:金郷に進出。
    • 5月19日:徐州北方高地の九里山を攻略。支那軍徐州を放棄し撤退。
    • 5月20日:軍は徐州を攻略。
    • 5月21日:敗走する支那軍を反転して追撃、隴海線沿いに西進。
    • 5月24日:碭山を攻略。
    • 5月31日:睢県に進出。
    • 6月1日 :杞県を攻略。
    • 6月4日 :尉氏に進出。挺進隊を新鄭付近に進出させ京漢線を遮断。
    • 6月9日 :支那第32軍長商震蔣介石の命により、我が軍の追撃阻止のため黄河の堤防を爆破(黄河決壊作戦)。
    • 6月15日:自国民もろとも押し流し氾濫が尉氏付近に及び、歩兵第38連隊は孤立。第10師団佐々木到一中将・姫路)に救出されるも追撃は遅滞。そのため、東方に反転。
    • 7月7日 :睢県付近に集結。
    • 八月末 :漢口作戦参加のため盧州に集結。
    • 9月4日 :六安を通過。
    • 9月17日:商城を攻略。大別山系の突破作戦を開始。山上に布陣する支那軍に苦戦しながらも約1ヶ月後突破に成功。麻城を経て孝感雲夢安陸に進出。

終戦後

  • 1945年(昭和20年)年9月15日:第29師団参謀・武田英之中佐以下1,000名が米軍に正式投降(守備隊総員20,810名、19,135名散華、1,305名生還)。
  • 1972年(昭和47年)2月2日:歩兵第38連隊補給中隊所属の横井庄一軍曹が現地人に発見され、帰還。

歴代連隊長

歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐
氏名 在任期間 備考
1 波多野毅 1896.9.25 -
2 安田宗直 1897.10.11 - 1899.9.8
3 石田正珍 1899.9.8 - 1902.5.5 中佐、1901.11.大佐
4 内藤新一郎 1902.5.5 -
5 1905.3.19 -
6 岩田正吉 1906.3.1 - 1907.9.16 中佐、大佐昇進
7 若見虎治 1907.9.16 - 1909.11.30 中佐、大佐昇進
8 福田雅太郎 1909.11.30 - 1910.11.30
9 久邇宮邦彦王 1910.12.1 - 1913.8.31
10 小川賢之助 1913.8.31 - 1915.3.27
11 伊藤祐武 1915.3.27 - 10.4
12 村田信乃 1915.10.4 - 1917.8.6
13 大竹沢治 1917.8.6 -
14 安芸晋 1918.7.16 -
15 平野秋夫 1918.12.17 -
16 宇野捨二 1922.2.8 -
17 江藤源九郎 1925.5.1 -
18 稲垣孝照 1927.7.26 -
19 徳野外次郎 1928.8.10 -
20 太田義三 1930.3.6 -
21 伊東正弼 1931.10.1 -
22 篠原次郎 1933.8.1 -
23 田路朝一 1935.3.15 -
24 助川静二 1937.3.1 -
25 近藤元 1938.7.15 -
末長常太郎 1940.8.1 - 1944.9.30 戦死

注釈

  1. ^ 三井寺を仮兵舎とする。
  2. ^ 戦役中に臨時動員した第13第14第15第16師団を常設師団に改編するとともに、第17第18師団の新設、及び編合を定める。
  3. ^ 歩兵第53連隊奈良)が廃止され、代わりに奈良に転営。 補充地も奈良県に変更。
  4. ^ 其ノ一は航空軍備増強。
  5. ^ 現在欠如部隊は、第29歩兵団司令部に充当予定の歩兵第29旅団司令部(静岡)と歩兵第18連隊(豊橋)で、中支で第3師団隷下で作戦中であった。
  6. ^ 補充地も静岡県に変更。
  7. ^ トラウトは朝霜が撃沈。
  8. ^ 第31軍の司令部はサイパンパラオ視察中に米軍の来寇があり、最近の大宮島まで戻って来たが、もう戦闘中のサイパン島に帰島不可能であった。
  9. ^ 昼間の単独兵の行動、夜間の陣地補修が次第に困難になる。
  10. ^ 本職:第31軍参謀長。
  11. ^ 空母15隻による大宮島に本格的な空襲が開始。 7月21日0500:戦艦6・巡洋艦9・駆逐艦57隻による艦砲射撃。0600、艦載機による空襲の後、0700、昭和湾、明石湾の2ヶ所から米軍が上陸を指向。
  12. ^ 師団主力は明石湾に所在していたため昭和湾は歩兵第38連隊独力での防戦となる。
  13. ^ 0730:米第1臨時海兵旅団の上陸用舟艇300隻は第1大隊正面に侵攻、連隊は敵舟艇を海岸近くまで引き付け山砲速射砲機関銃を集中し、数十隻を撃破するも米軍の艦砲・空襲により火砲の大半が破壊され、第4海兵連隊が第1大隊左翼に上陸を強行、水際の第2中隊陣地が突破され大隊本部に浸透。
  14. ^ 1000:第1大隊長・大原末蔵大尉は有羽山山裾の第二線部隊である第1中隊を指揮して逆襲、敵の機関銃により右手に貫通銃創を負うも屈せず左手に軍刀を翳して突撃しますが遂に散華、第1大隊・第1・第2中隊の生存者30名は連隊本部に転進、第22海兵連隊により水際右翼の第3中隊陣地も突破され中隊長・竹村省吾大尉が散華、中隊生存者は昭和町の廃墟に拠りつつ第2大隊に転進。 第2大隊(奥城強治大尉)、第3大隊(長縄弘大尉)は火力を集中し第1大隊と連携、第5中隊(田中丹維人中尉)は機関銃の全火力を集中し昭和町北側に侵攻した米軍を撃退するなど防戦に努めるが、夕刻には昭和湾~番庄崎に敵の橋頭堡構築を許してしまい、連隊は戦力の8割を失う大損害を受ける。
  15. ^ 1730: 末長連隊長は、これ以上の継戦は不可能と判断。敵に余裕を与える事でますます陣地強化が図られる事を危惧、高品師団長に決別の電話連絡を入れ、本部洞窟内で軍旗を奉焼。 2230: 第1大隊、砲兵大隊、補給中隊を指揮、牧山(フェンナ)付近に布陣していた戦車第9聯隊第1中隊(幸積三中尉)の軽戦車5両を先頭に第4海兵連隊正面に、第3大隊は連隊主力に呼応し番庄崎東側の敵橋頭堡に、連絡の途絶していた第2大隊は連絡の付いた左翼の第6中隊が総攻撃を開始。
  16. ^ 連隊主力は敵警戒兵を駆逐し前進、照明弾により白昼化され陣頭で戦闘指揮中の末長連隊長が胸部に敵弾を受け散華するも、第3大隊は敵橋頭堡の第一線、第二線陣地を突破。 0400: 第22海兵連隊本部まで進撃するが、戦車・対戦車砲による激烈な防御放火を受け第3大隊長・長縄大尉が散華。遂に玉砕。
  17. ^ 聯隊生存者(砲兵大隊30名・第3大隊70名・戰車中隊50名・補給中隊180名・他300名)は、砲兵大隊長(青木邦男少佐)が指揮、敵の侵攻を拒止しつつ師団主力に連絡すべくマンガン山に向かい、連絡の途絶した第2大隊は海軍陸戦隊(755空司令・楠木幾登中佐)とともに第1飛行場を確保すべく表半島で戦闘を続行。 同日、須磨道で敵の侵攻を拒止し、再三に渡り撃退していた第6中隊長・田邉誠中尉が敵戦車の砲撃を受け散華。
  18. ^ 24日:第29師団長・高品彪中将は戦力の極度の低下に鑑み、明石湾において総反撃を決し「25日2400、総反撃」を下令(昭和湾地区隊は折田(オルドット)への集結を下令)しますが、敵の激烈な防御砲火、艦砲射撃に阻まれ、26日0800、総反撃は頓挫。 25日:航空機・火砲に支援され戦車を伴う米軍が本田台・マンガン山に侵攻、本田台の歩兵第38連隊第9中隊は独歩322大隊・独混10砲兵大隊の残存十榴1門とともに反射面陣地を利用し、また肉攻により米軍を拒止するが、第9中隊長・石井兼一中尉、独歩322大隊長・濱田速雄少佐が散華するなど次第に損害が増加、マンガン山東側台上の独歩320・321大隊も戦車を伴う敵の強襲をうけ兵力が半減。 26日:師団司令部との連絡が途絶え、敵中に孤立していた表半島の第2大隊は夜襲を敢行しますが、第2大隊長・奥城大尉が散華するなど甚大な損害を受ける。
  19. ^ 27日:昭和湾地区隊は牧山を経て折田に集結。表半島守備隊指揮官・755空司令楠木中佐は残存兵力を結集し総攻撃を敢行、玉砕。 28日:本田台守備の独混10連隊長・片岡一郎中佐が散華。師団長・高品中将が陣地移動中に的野高地(マカジナ)中腹で散華。軍司令官・小畑中将が代わって指揮を継承します。 生存者は本田台南側谷地、的野高地付近から逐次、折田に集結。春田山に左翼隊集成3コ中隊、平塚に右翼隊集成5コ中隊を配置(軍参謀長・田村義冨少将指揮)、米軍の拒止に努め、また重傷者の後送を指示し、軍司令官は徒歩で又木山(マタグアック・大宮島北端)に向かう。 31日:艦砲射撃と航空機に支援された米軍は北方に指向し明石市、次いで南下を開始し品川、折田西部に侵攻。
  20. ^ 8月2日:春田山に、 3日:平塚に戦車を伴う米軍が侵攻。 火砲全損、将兵も大損害を受け防御線が突破される。 軍は多久井岬の線で敵を拒止すべく部隊を右翼隊(藤井少佐指揮250名)・中央隊(佐藤少佐指揮400名)・左翼隊(大川少佐指揮250名)に再編。武器弾薬の欠乏、さらに水不足のなか敵の侵攻阻止にあたる。 6日:中央隊守備の里井、右翼隊守備の宇久井陣地も突破される。 7日:敵は高原山、又木山に浸透。 9日:米軍戦車50両が軍司令部の又木山前面に侵攻。対戦車装備を持たない軍は苦戦。小畑中将は兵力の激減に鑑み11日黎明を期して総攻撃を決意。 10日1400:敵戦車の攻撃に又木山の防御線が突破されてしまい、司令部も敵の攻撃に晒されるが、敵は夜半に一旦集結地に後退。 生存者約300名は司令部壕に集結。
  21. ^ 10日2000:小畑中将は大本営に決別電を打電。 11日0000:通信機を破壊し、重要書類を焼却。 0700:米軍戦車が再び侵攻を開始。戦闘指揮中に作戦参謀・橋田精中佐が散華。 1435:小畑軍司令官・田村義冨参謀長は司令部壕内において拳銃で自決。 12日:敵は又木山東側道路を突破、北島角方面に侵攻。 13日:白浜海岸を見下ろす台端に達し、大宮島守備隊は玉砕。 生存者はなおも密林に籠もって継戦。

汎用の脚注

  1. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
  2. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社(p.305)。
  3. ^ グランドパワー『日本軍機甲部隊の編成装備(1)』。『日本軍機甲部隊の編成装備(2)』。
  4. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社(p.316)。
  5. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
  6. ^ 山本 茂実『松本連隊の最後』 (1978年) (角川文庫)。
  7. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
  8. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
  9. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
  10. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
  11. ^ 第二十九師團陣地構築要綱
  12. ^ 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。

参考文献

  • 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』新人物往来社、1990年。
  • 原 剛『明治期国土防衛史』錦正社、2002年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 官報
  • 『陸軍軍戦備』朝雲新聞社。
  • 山本 茂実『松本連隊の最後』 (1978年) (角川文庫)。
  • グランドパワー『日本軍機甲部隊の編成装備(1)』。『日本軍機甲部隊の編成装備(2)』。

関連項目