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軍事委員会政治部の管轄となり、朝鮮義勇隊発足前は政治部第2庁(庁長:{{仮リンク|康澤|zh|康澤}})に指導が委ねられていたが、のちに政治部第1庁に任されることになった{{Sfn|内田|2002|p=249}}。結成時は武漢防衛戦の最中であったため、しばらくは武漢衛戍司令部の指揮を受け、また政治部第3庁の間接指揮を受けることになった{{Sfn|内田|2002|p=250}}。 |
2020年9月15日 (火) 14:06時点における版
朝鮮義勇隊 | |
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画像 朝鮮義勇隊の記念写真(1938年) | |
各種表記 | |
ハングル: | 조선의용대 |
漢字: | 朝鮮義勇隊 |
発音: | チョソン ウィヨンデ |
日本語読み: | ちょうせんぎゆうたい |
ローマ字: | Joseon Uiyong-dae |
朝鮮義勇隊(ちょうせんぎゆうたい)は、朝鮮抗日義勇軍あるいは国際旅団と呼ばれ、金元鳳の主導で、1938年10月10日漢口で結成された独立軍である。朝鮮民族前衛同盟の傘下団体に分類される。
創設
1938年8月、日本の反戦運動家である青山和夫が「国際義勇軍第1隊組織計画案」を提出[1]。計画案は政治部長陳誠から蔣介石に上申されて「大体実行可能である」と認定され、9月には政治部秘書長賀衷寒が、青山の計画案に基づいて行われた朝鮮義勇軍の組織に関する調査結果とその実施手順を陳誠に上申して同意を得た[1]。青山の原定計画に基づき、国際問題研究所長王芃生の第2次の意見を参酌して組織化に着手した[1]。
軍事委員会政治部の管轄となり、朝鮮義勇隊発足前は政治部第2庁(庁長:康澤)に指導が委ねられていたが、のちに政治部第1庁に任されることになった[2]。結成時は武漢防衛戦の最中であったため、しばらくは武漢衛戍司令部の指揮を受け、また政治部第3庁の間接指揮を受けることになった[3]。
中国国民党政府に後援され、第1区隊と第2区隊とに分かれて活動していた。金元鳳、崔昌益、金星淑、柳子明などが委員会政治部員として参加した。朝鮮義勇隊は、本部は総隊長・金元鳳を含む13名、第1区隊は隊長・朴孝三、副隊長・金世日、政治指導員・王通を含む43名、第2区隊は隊長・李益星、副隊長・陣元仲、政治指導員・金学武を含む33名の、合計89名で成り立っていた[4]。隊員の9割前後は黄埔軍官学校や朝鮮革命学校で軍事知識を学んだ朝鮮人青年であった[2]。
発足した朝鮮義勇隊を実際に動かしていたのは国民政府軍事委員会政治部であった[3]。隊内には人事、編制、経費などを協議する指導委員会が置かれ、委員会主任は賀衷寒であり、賀を除いた7人の指導委員会委員のうち3人は政治部から派遣されていた[3]。そのうち周威堂と潘文治は設立前から派遣され、準備活動に奔走していた人物であった[3]。指導委員会のメンバーは、中国からは賀衷寒、周威堂、潘文治、矯漢治、朝鮮からは金元鳳、金奎光、金学武、柳子明であった[5]。
計画では隊員数を100人とし、政治部からは経常費5640元、臨時費6600元の計1万2240元が支出され、発足後も経費や武器弾薬が継続的に国民政府から支給された[3]。
活動
中国の第二次国共合作で、国民党政府の統一的かつ組織的な後援を受けられるようになった朝鮮義勇隊は、国民党政府軍の支援部隊として改組され、中国本土で日本軍と対峙した隊員たちは、国民党政府から毎月食費20ウォンと工作費10ウォンが支給された。国民党政府は、朝鮮義勇隊員は左翼活動家として判断して、最前線に配置した。
朝鮮義勇隊の主な活動は、日本軍に対する偵察と占領地区の情報収集、日本人捕虜の取り調べと思想工作、日本軍に対する政治宣伝工作、中国人に対する抗日宣伝工作であった[3]。韓国語・中国語・日本語を駆使できる隊員が多かったため、中国軍の作戦行動に協力して、日本軍に対して伝単をばら撒いたり、ポスターを張り付けたり、拡声器を利用した放送を行なった。主な宣伝内容は「抗日戦争は決して日本人民を消滅しようとするものではなくて、中国の生存と独立とを求める戦いである、戦争の責任者は日本の軍閥である」、「日本による侵略戦争は国家の利益のためではなくて、少数の特権階級、つまり野心を持つ軍閥・財閥・官僚・政客の利益のためである、戦争は民衆に巨大な損失と苦しみを与えるものである」、「戦争は、中国の必勝、反ファシズム国家の必勝、日本・ドイツ・イタリアの必敗に終わる」、「中国の政府、軍隊は捕虜に対する優待政策を取っており、覚醒して投降すれば必ず優待を受けられる」であった[6]。1938年から1940年までの間に、6個戦区13個省を転戦し、5万部の宣伝文書を印刷配布、51万枚の伝単を配布し、40万部の標語を貼った[7]。
結成された朝鮮義勇隊は武漢防衛戦に参加し、武漢から撤収する際、壁にスローガンを書いた。この時の様子を、当時政治部第3庁庁長であった郭沫若が自身の回顧録で回想している[8]。
武漢撤退後、一部は北上抗日を主張し、一部は南で国民党との共闘を主張した[9]。意見は統一することが出来ず、それぞれ自分の主張通りに、北上する人は北上し、南下する人は南下した[9]。李維民の引率で許貞淑、李根山、李達、金チョルが武漢八路軍弁事処の助けを借りて延安に行った[9]。その後、崔昌益が張志民、呉民星、コン・リャンウなど10人ほどを率いて延安に向かった[9]。
武漢三鎮が陥落した後、本部は広西省桂林に移動し、軍事委員会西南行営政治部に統括された[10]。第1区隊は第9戦区の湖南省長沙から平江一帯、第2区隊は第5戦区の湖北省北部と第1戦区の河南省洛陽で活動した[4]。
第1区隊は10月21日に漢口を後にし、列車便と行軍で湖北省北部の衡山に移動した[11]。到着すると第1区隊員のうち20人は船で北上し、12月3日に長沙に入り、4組に分かれて罹災民救護金支給事業を援助した[11]。長沙での民間救護事業と都市修復事業を終えると、1939年1月頃から第31集団軍第92軍の第21師と第82師に配属され前線で活動した[11]。区隊本部は平江県上塔市に置かれ、区隊員は第1、2陣地宣伝隊と第1、2遊撃宣伝隊に分けられ、中国軍との共同作戦で対峙、突撃、遊撃などの状況に応じた宣伝を行った[12]。
第2区隊は武漢防衛戦時の宣伝工作に参加し、10月22日の夜明けに撤収した[13]。車両で湖北省北部に移動し、第5戦区司令長官部の要員に会い、指示を受けて武勝関の広水に向かった[13]。途中避難民の列に遭遇して空襲を受けたうえ広水方面の道路が破壊されていたため、進路を西に変えて大洪山沿いに行軍して襄樊に入った[13]。
11月15日から21日まで宣伝活動した第2区隊は、上部命令によって部隊を二分し、1つは厲山で第84軍軍長と接見し、区隊長李益星の他26人の隊員が随県応城市及び信陽市一帯と棗陽市で活動した[14]。もう1つは第2分隊員8人が王子仁の引率で老河口に移動した[14]。第5戦区政治部に配属された第1分隊の崔昌益、張志民、孔明宇は延安に行き、分隊長の李世栄と隊員の魯民、文正一、呉民星、高峰起、白正は1939年夏に成始伯の引率で第1戦区司令長官部に移った[14]。文正一、呉民星は司令部要員として活動し、李世栄や高峰起などは黄河北岸に渡り、敵後方の新郷などで宣伝活動を行った[14]。
1939年3月、義勇隊本部から貴州省鎮遠の国民政府軍政部第一捕虜収容所に派遣された政治組の尹世胄らが、同所に収容されていた31人の朝鮮人捕虜に対して政治教育を行った。31人の内29人が義勇隊に入隊した[10]。
日本人捕虜に対する反戦の政治教育も行われ、その成果として日本人の伊藤進が1939年2月に自ら義勇隊に志願した[10]。また同年に文正一と呉民星が第1戦区長官公署に派遣され、日本人捕虜の政治教育を行った[6]。朝鮮人捕虜に比べて困難が大きかったが、30余人の日本人捕虜を教育し、そのうち成績が比較的良かった6人が朝鮮義勇隊に参加した[6]。日本語を話せる人が存在したとはいえ、生活文化も思考形態も異なる朝鮮義勇隊への日本人の参加は容易ではなく、日本人と朝鮮人との間に感情上の不和などをもたらしていた[6]。1942年後半に伊藤進ら3人は重慶の僑民収容所に強制収容されたが、のちに改組編入された義勇隊に復帰した[15]。
これまでの活動で義勇隊に58人(中国人11人含む)が加わり、総勢155人となった[16]。1939年10月、本部を総本部とし、2個区隊を3個支隊に拡大した[4]。第1支隊(支隊長・朴孝三、政治指導員・王通)は78人、第2支隊(支隊長・李益星、政治指導員・林平)は75人、第3支隊(支隊長・金世日、政治指導員・楊民山)は63人であった[17]。第1支隊は華北に進出し、第2支隊は第2戦区と第5戦区に分かれ、第3支隊は湖南省から江西省に移動して活動を続けた[18]。
大韓民国臨時政府の一部の者は、朝鮮義勇隊が中国国民党政府軍事委員会の管轄下にある中国部隊だと侮蔑したため、反感を買った。
1940年3月、総本部が重慶に移転[3]。同年11月、重慶で幹部会議が開かれ、朝鮮義勇隊の華北進出が決定された。これは多数の朝鮮人が移住する華北地域で抗日拠点を形成するためであった[3]。
1941年、金元鳳は義勇隊隊長名義で国民政府外交部に対して依頼状を送った[10]。それは朝鮮義勇隊通訊編訊組組長の韓志英を宣伝活動の目的で香港、シンガポール、フィリピン等に派遣したいので、外交部の駐香港代表やシンガポールなどの中国領事館に協力を要請するというものであった[10]。外交部は直接回答を避け、軍事委員会政治部が義勇隊に宛てて正式回答を同年5月に送付するという手続きを踏んだ[10]。
1941年春、各地に分散していた義勇隊は河南省洛陽に集結して訓練が行われた[18]。同年3月から5月下旬にかけて華北に移動した義勇隊は4度に分けて黄河を渡り、八路軍根拠地であった太行山に逃亡した[3]。これは隊内で密かに活動していた中国共産党の指示によるものだった[18]。国民党管内に取り残された金元鳳と義勇隊の一部は有名無実化し、国民政府軍事委員会の命令により、1942年5月に韓国光復軍第1支隊に編入された[19]。
太行山桐谷に集結した部隊は朝鮮義勇隊華北支隊に改編した[20]。支隊長は朴孝三、副支隊長は李益星、政治指導員は金学武が就任した。隷下の第1隊長は李益星が兼任し、第2隊長は金世日、第3隊長は王子仁がなった。第1隊は安陽磁県方面(太行軍区第5軍分区)、第2隊賛皇荘代臨城方面(太行軍区第1軍分区)、第3隊は順徳方面(太行軍区第6軍分区)で活動した[21]。
華北支隊は1941年12月に胡家庄で第108旅団(旅団長・洪思翊少将)と交戦した。1942年5月には日本軍の包囲作戦の際に八路軍の脱出を援護した。この戦闘で尹世胄、陣光華(本名・金昌華)、胡維伯などの幹部が戦死した。彼らの遺体は左権[要リンク修正]将軍の墓の近くに埋葬された[7]。同年7月、朝鮮義勇軍に改称。
人物
氏名 | 役職 | 出身校 | 前歴 | 備考 |
金元鳳 | 総隊部隊長 | 新興武官学校 黄埔軍校4期歩兵科 |
義烈団 | 光復軍に編入。 |
申榮三 | 機密主任 | 南京国民政府航空署軍医 | ||
李集中 | 総務組長 | 黄埔軍校4期歩兵科 | 中国軍将校 | 光復軍に編入。 |
金奎光 | 政治組長 | 広州嶺南大学 | 黄埔軍校教官 | |
韓志成 | 通訊編訊組長 | 中国中央政治学校 | 光復軍に編入、印緬戦区工作隊隊長。 | |
尹世胄 | 本部員 | 新興武官学校 | 義烈団 | 1942年6月戦死。 |
李春岩 | 人事主任 | 黄埔軍校6期歩兵科 | 中国軍憲兵上尉 朝鮮革命幹部学校教官 |
|
宋旭東 | 通訊処桂林主任 | 黄埔軍校武漢分校政治科 | 光復軍に編入 | |
于百煥 | 通訊処宜昌主任 | 中央軍校洛陽分校3期 | ||
王克強 | 通訊処洛陽主任 | 中央軍校特別班6期 | ||
韓一來 | 編輯組委員 | |||
金昌満 | 宣伝隊長 | 中央軍校特別班 | 朝鮮民族革命党 | |
朴孝三 | 支隊長 | 黄埔軍校4期歩兵科 | 中国軍歩兵少校 | 朝鮮人民軍第9師団長。 |
李益星 | 支隊長 | 中央軍校10期 | 中国軍歩兵少尉 中央軍校特別班区隊長 |
|
王子仁 | 支隊長 | 中央軍校10期 | 戦後、東北野戦軍独立第4師師長。 | |
金學武 | 政治指導員 | 中央軍校特別班 | 1943年戦死。 | |
趙烈光 | 分隊長 | 朝鮮革命幹部学校2期 中央軍校11期 |
義烈団 中央軍校特別班見習軍官 |
朝鮮人民軍第15師団長。 |
李鐵重 | 隊員 | 中央軍校11期 | 中央軍校特別班見習軍官 | 終戦後、西海水上保安隊(朝鮮人民軍海軍の前身)隊長(初代)、1946年11月殉職。 |
張志福 | 隊員 | 中央軍校特別班 | 戦後、西海水上保安隊隊長(3代)。 | |
陳國華 | 隊員 | 中央軍校特別班 | 戦後、東海水上保安隊隊長(初代)。 | |
金剛 | 隊員 | 中央軍校特別班 | 戦後、朝鮮人民軍文化副師団長、8月宗派事件で中国に亡命。 | |
金漢中 | 隊員 | 中央軍校特別班 | 戦後、朝鮮人民軍予備師団長、8月宗派事件で粛清。 | |
文正一 | 隊員 | 中央軍校特別班 | 朝鮮民族前衛同盟 | 戦後、延辺朝鮮族自治州の政治家。 |
張平山 | 隊員 | 中央軍校特別班 | 朝鮮人民軍師団参謀長、軍団長歴任。8月宗派事件で粛清。 | |
伊藤進 | 隊員 | 新隊員、日本人 | ||
松井正夫 | 隊員 | 新隊員、日本人 | ||
大竹良夫 | 隊員 | 新隊員、日本人 | ||
井村 | 隊員 | 新隊員、日本人 | ||
中村芳子 | 隊員 | 新隊員、日本人 |
出典
- ^ a b c 内田 2002, p. 271.
- ^ a b 内田 2002, p. 249.
- ^ a b c d e f g h i 内田 2002, p. 250.
- ^ a b c 姜 1997, p. 207.
- ^ 我的父亲与朝鲜义勇队 (PDF)
- ^ a b c d 内田 2002, p. 252.
- ^ a b “浴血中国战场的朝鲜义勇队:华北前线并肩抗日” (中国語). 環球網. (2008年2月18日) 2015年9月2日閲覧。
- ^ 郭沫若 岡崎俊夫訳. 抗日戦回想録. 中央公論社. pp. p. 156.
- ^ a b c d “불멸의 발자취(83)—서안과 락양 답사” (朝鮮語). 吉林新聞. (2013年2月9日) 2018年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f 内田 2002, p. 251.
- ^ a b c 김영범 2019, p. 184.
- ^ 김영범 2019, p. 185.
- ^ a b c 김영범 2019, p. 193.
- ^ a b c d 김영범 2019, p. 194.
- ^ 内田 2002, p. 253.
- ^ 김영범 2019, p. 196.
- ^ “불멸의 발자취(54)—정면전장에서의 조선의용대” (朝鮮語). 吉林新聞. (2011年11月19日) 2015年9月5日閲覧。
- ^ a b c 姜 1997, p. 208.
- ^ 内田 2002, p. 247.
- ^ 姜 1997, p. 209.
- ^ “朝鮮義勇軍との関係”. 国史編纂委員会. 2016年1月1日閲覧。
参考
- 姜在彦『金日成神話の歴史的検証 抗日パルチザンの<虚>と<実>』明石書店、1997年。ISBN 4-75-030996-6。
- 内田知行『抗日戦争と民衆運動』創土社、2002年。ISBN 478930115X。
- 최봉춘 (2005). “조선의용대의 창설과 활동 補遺”. 한국독립운동사연구 (한국독립운동사연구소) 25: 225-252 .
- 김영범 (2019). “조선의용대의 항일전투(참가) 실적과 화북진출 문제 再論”. 한국독립운동사연구 (한국독립운동사연구소) 67: 179-238 .