金漢中
金漢中 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 김한중 / 진한중 |
漢字: | 金漢中 / 陳漢中 |
発音: | キム・ハンジュン / チン・ハンジュン |
日本語読み: | きん・かんちゅう / ちん・かんちゅう |
金漢中(キム・ハンジュン、김한중、1913年 - 没年不詳)は、朝鮮の独立運動家、朝鮮民主主義人民共和国の政治家、軍人。変名は陳漢中(チン・ハンジュン、진한중) 。延安派に属する。
生涯
[編集]1913年[1]ないし1914年生[2]。1937年12月、中国中央陸軍軍官学校星子分校に入学し、1938年5月卒業[1]。同年10月、朝鮮義勇隊に入隊した[1]。1939年春、湖南省北部の前線で抗日宣伝活動を展開、負傷した中国軍中隊長を安全地帯へ後送して抗日戦争第9戦区の表彰を受けた[1]。1941年初頭には朝鮮義勇隊第1区隊員、朝鮮民族革命党員として洛陽一帯で活動[1]。同年夏に華北の八路軍地域に移動し、朝鮮義勇隊華北支隊第1隊政治指導員として安陽、磁県一帯で活動した[1]。1942年7月、華北朝鮮独立同盟の結成に伴い中央執行委員に選出される[1]。
光復後、38度線以北に帰国して朝鮮共産党平安南道党組織部長を務める[1]。1948年3月、北朝鮮労働党第2回党大会で中央委員に選出[1][3][4]。当時、内務局党委員会委員長[4]。1948年8月25日、最高人民会議第1期代議員に選出される[5][6]。朝鮮戦争には予備師団長として参戦した[1][2]。しかし、1950年12月21日から23日にかけて江界で開催された朝鮮労働党中央委員会第3回定期会議において「自分の安全だけに汲々し、部下を捨てて卑怯に行動した」などと批判を受けて更迭され[1][7]、第3軍団突撃隊(懲罰部隊か)に配属された[2]。その後、復権して空軍副師団長[2]、航空司令部政治部長[1]。1959年3月14日、および同年8月14日時点で都市建設経営省副相[8]。1950年代末、宗派分子として粛清された[1]。
参考資料
[編集]- 徐東晩『北朝鮮における社会主義体制の成立1945-1961』東京大学、1995年。NDLJP:3127031。
- 강만길; 성대경 編「김한중」『한국사회주의운동인명사전』창작과비평사、1996年、148頁。ISBN 8936470302。
- 김중생『조선의용군의 밀입북과 6.25전쟁』명지출판사、2000年。ISBN 8931107447。
- 김선호『조선인민군 : 북한 무력의 형성과 유일체제의 기원』한양대학교 출판부、2020年。ISBN 9788972186809。