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李益星

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李益星
各種表記
ハングル 리익성
漢字 李益星、李益成
発音: リ・イクソン
日本語読み: り えきせい
ローマ字 Lee Ik-son
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李 益星(リ・イクソン、1911年 - 没年不詳)は朝鮮民主主義人民共和国軍人延安派に所属。李益成李益宣李翼星とも表記される。別名は、李義興

経歴

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1911年、咸鏡北道鏡城郡に生まれる。龍井の恩真中学校を卒業。

1936年、朝鮮民族革命党朝鮮語版に入党。

1933年7月、中央陸軍軍官学校入学。第1総隊歩兵大隊第3隊配属[1]

1936年6月、中央陸軍軍官学校第10期歩兵科卒業[2]

1937年4月9日、陸軍歩兵少尉[3]

1938年3月、中央陸軍軍官学校特別訓練班区隊長。

1938年10月、朝鮮義勇隊第2区隊長[2]。第2区隊は第5戦区湖北省北部と第1戦区河南省洛陽で活動した[2]。1939年10月に朝鮮義勇隊が3個支隊に拡大されると第2支隊長[4]。1941年、朝鮮義勇隊華北支隊に改編されると副支隊長兼第1隊長[5]

1942年7月、朝鮮独立同盟朝鮮語版執行委員[6]および朝鮮義勇軍華北支隊副支隊長兼第2隊長に就任。同年8月に冀魯豫軍区に行き、1945年まで遊撃活動。

1945年、朝鮮革命軍政学校に赴任し、学生隊第1中隊長。同年11月、朝鮮義勇隊第5支隊長に就任。延辺到着後、吉東軍区参謀長[7]

1946年5月、38度線以北に帰国[7]。羅南保安訓練所(第2師団)参謀長に就任し、朝鮮人民軍の建軍に参加した。1948年、内務省警備局(局長:朴勲一)参謀長[8]。1949年1月、38度線警備第7旅団長[8]

朝鮮戦争勃発時は第7警備旅団長[9][10]。第7警備旅団は第7師団に改編され、同師団長に就任[11]。1950年9月、第13師団長。釜山橋頭堡の戦いで負傷[7]総参謀部隊列補充局長[12]羅津軍官講習所長を歴任[7]

1960年頃、軍事クーデターを計画した疑いで粛清される。

脚注

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  1. ^ 中国黄埔軍校網. “南京本校第十期歩兵大隊第三隊学員姓名籍貫表” (中国語). 2016年3月26日閲覧。
  2. ^ a b c 姜 1997, p. 207.
  3. ^ 国民政府広報 第2324号(民国26年4月10日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月3日閲覧。
  4. ^ 姜 1997, p. 208.
  5. ^ 姜 1997, p. 209.
  6. ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、1985年4月20日、635頁。NDLJP:12173181/332 
  7. ^ a b c d 김중생 2000, p. 127.
  8. ^ a b 韓国国防部 2004, p. 261.
  9. ^ 朱 1992, p. 38.
  10. ^ 韓国国防部 2005, p. 16.
  11. ^ 韓国国防部 2005, p. 274.
  12. ^ 金景一 (2014年11月27日). “揭秘:四野三个师归属朝鲜政府后官兵们的最终命运” (中国語). 鳳凰網. http://news.ifeng.com/a/20141127/42583669_0.shtml 2015年11月12日閲覧。 

参考

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  • 姜在彦『金日成神話の歴史的検証 抗日パルチザンの<虚>と<実>』明石書店、1997年。ISBN 4-75-030996-6 
  • 朱栄福『朝鮮戦争の真実 元人民軍工兵将校の手記』悠思社、1992年。ISBN 4-94-642435-0 
  • [이익성(李益星, 1911~?) 李翼星 李義興]”. 노동자의 책. 2014年12月23日閲覧。
  • 6·25戦争史 第1巻-戦争の背景と原因” (PDF) (韓国語). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2019年7月4日閲覧。
  • 6·25戦争史 第2巻-北韓の全面南侵と初期防御戦闘” (PDF) (韓国語). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2018年8月8日閲覧。
  • 김중생 (2000). 조선의용군의 밀입북과 6.25전쟁. 명지출판사. ISBN 89-311-0744-7 

外部リンク

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