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「華北分離工作」の版間の差分

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[[華北|北支]]一帯を[[国民政府]]の影響下から切り離し、[[日本]]の支配下・影響下に置くための工作であった。
[[華北|北支]]一帯を[[国民政府]]の影響下から切り離し、[[日本]]の支配下・影響下に置くための工作であった。


<!--1911年、外モンゴルが[[ロシア帝国]]の後ろ盾により[[清]]から独立し、[[ボグド・ハーン政権]]が誕生するものの、1915年の{{仮リンク|キャフタ協定|en|Treaty of Kyakhta (1915)}}によって[[中華民国]]の傘下となった。1917年、[[二月革命]]が起こり、[[ロシア臨時政府]]が誕生した。コサックで[[ブリヤート人]]の血を含む[[グリゴリー・セミョーノフ]]は、臨時政府において、ブリヤート人と[[モンゴル人]]から成る[[騎兵連隊]]を組織しようと動いていた。1917年10月にソビエト革命([[十月革命]])が起こり、次いで[[ロシア内戦]]が起こると、1917年12月より、中国内ロシア租借地である中東鉄道付属地([[ハルピン]])において、臨時政府に従っていた{{仮リンク|ホルバート将軍|ru|Дмитрий Леонидович Хорват}}と中国政府が、ソビエト勢力の取り締まりを始めた<ref>[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5090/1/KJ00002586872.pdf シベリア・極東ロシアにおける十月革命] 原暉之</ref>。[[第一次世界大戦]]により中国内ドイツ租借地の[[青島市|青島]]を講和条約締結まで[[占領|軍事占領]]していた日本は、1918年3月に中華民国北洋政府と[[日支共同防敵軍事協定]]を結び、1918年7月には[[シベリア出兵]]を行い、白軍のセミョーノフを支援し、極東への[[共産主義]]波及を防ぐための[[反共主義|防共]]にあたった。1918年11月、セミョーノフは、[[モンゴル独立運動]]を行い、モンゴルとブリヤートを含む[[大モンゴル国]]の建設を計画したが、賛意が得られずに頓挫する<ref>[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5226/1/KJ00000113375.pdf シベリア内戦とブリヤート・モンゴル問題] 生駒雅則 1994年</ref>。1919年より、親白系ロシアの北洋政府安徽派が外蒙古の統治を行った ([[:en:Occupation of Mongolia]])が、1920年の[[安直戦争]]により安徽派が直隷派に負け、日本軍も[[極東共和国]]と{{仮リンク|緩衝国建設覚書|en|Gongota Agreement of 1920}}を結んでロシア極東より撤兵したため、赤軍と極東共和国軍によって1921年に外蒙古が赤化した ([[:en:Mongolian Revolution of 1921]])。1922年に張作霖 (奉天派、東三省政府)、段祺瑞 (安徽派)、孫文 (革命政府)の三者は反直三角同盟を結び、第一次[[奉直戦争]]を行うが、直隷派に負けてしまう。1924年1月に革命政府は容共を打ち出し、ソ連の支援の下で[[国共合作]]を始めた。1924年5月、ソ連は直隷派の北洋政府とカラハン協定を結び、ソ連は中東鉄道付属地の赤化を進めようとした<ref name="kokusai">[http://books.google.co.jp/books?id=yDY2iL55cIkC&pg=frontcover 最近支那国際関係] 斎藤良衛 1931年11月4日</ref>。それに対し、東三省政府は反対しソ連と独自に交渉を続けていたが、9月18日に革命政府が[[北伐#国民党の北伐|北伐]]宣言を行い、東三省政府も関内出兵を決意し、1924年9月22日、東三省政府は大幅に譲歩して[[奉ソ協定]]を結び、第二次奉直戦争に挑んで勝利した<ref name="kokusai"/>。妥協した奉ソ協定により、中東鉄道付属地の赤化が進んでしまったものの、東支鉄道理事会及び東三省政府は、赤系露人の東支鉄道管理局長による[[第九十四号命令]]などの越権行為を拒否してソ連の動きを牽制していた<ref name="kokusai"/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=YLQ7a_f0-6oC&pg=frontcover 東支鉄道を中心とする露支勢力の消長 下巻] 南滿州鐵道株式會社哈爾濱事務所運輸課 1928年5月</ref>。その後、革命政府の孫文が死去すると北京政府は奉天派のものとなり、1926年、革命政府はソ連の支援の下で再度北伐を始めたが、1927年3月に[[南京事件 (1927年)|南京事件]]が起きると、1927年4月に革命政府は内部の共産党員の粛清を行った([[上海クーデター]])。それに合わせ、北京政府もソ連大使館の家宅捜索を行った。---><!--何かの残骸か何か どのような関係があるのか---><!--1927年、介石が[[北伐]]の途中大敗し最大の危機を迎えると松井石根はを日本に呼び、時の[[田中義一]]首相に引き合わせ会談の結果、(蒙古・満洲問題を引き換えに)日本はの[[北伐]]を援助し[[張作霖]]を満洲に引き上げさせた。1928年に北伐が完了すると、1929年に中華民国は[[中ソ紛争]]を起こすが、ソ連に敗北して[[ハバロフスク議定書]]が締結され、[[東清鉄道|中東鉄道]]及びその付属地からソ連の共産主義者を追い出す試みは失敗に終わった。しかし、1932年に[[満州国]]が誕生すると、満州国は1934年に[[白系露人事務局]]を設立し、1935年にはソ連と[[北満鉄道讓渡協定]]を結んでソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。--->
<!--1911年、外モンゴルが[[ロシア帝国]]の後ろ盾により[[清]]から独立し、[[ボグド・ハーン政権]]が誕生するものの、1915年の{{仮リンク|キャフタ協定|en|Treaty of Kyakhta (1915)}}によって[[中華民国]]の傘下となった。1917年、[[二月革命]]が起こり、[[ロシア臨時政府]]が誕生した。コサックで[[ブリヤート人]]の血を含む[[グリゴリー・セミョーノフ]]は、臨時政府において、ブリヤート人と[[モンゴル人]]から成る[[騎兵連隊]]を組織しようと動いていた。1917年10月にソビエト革命([[十月革命]])が起こり、次いで[[ロシア内戦]]が起こると、1917年12月より、中国内ロシア租借地である中東鉄道付属地([[ハルピン]])において、臨時政府に従っていた{{仮リンク|ホルバート将軍|ru|Дмитрий Леонидович Хорват}}と中国政府が、ソビエト勢力の取り締まりを始めた<ref>[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5090/1/KJ00002586872.pdf シベリア・極東ロシアにおける十月革命] 原暉之</ref>。[[第一次世界大戦]]により中国内ドイツ租借地の[[青島市|青島]]を講和条約締結まで[[占領|軍事占領]]していた日本は、1918年3月に中華民国北洋政府と[[日支共同防敵軍事協定]]を結び、1918年7月には[[シベリア出兵]]を行い、白軍のセミョーノフを支援し、極東への[[共産主義]]波及を防ぐための[[反共主義|防共]]にあたった。1918年11月、セミョーノフは、[[モンゴル独立運動]]を行い、モンゴルとブリヤートを含む[[大モンゴル国]]の建設を計画したが、賛意が得られずに頓挫する<ref>[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5226/1/KJ00000113375.pdf シベリア内戦とブリヤート・モンゴル問題] 生駒雅則 1994年</ref>。1919年より、親白系ロシアの北洋政府安徽派が外蒙古の統治を行った ([[:en:Occupation of Mongolia]])が、1920年の[[安直戦争]]により安徽派が直隷派に負け、日本軍も[[極東共和国]]と{{仮リンク|緩衝国建設覚書|en|Gongota Agreement of 1920}}を結んでロシア極東より撤兵したため、赤軍と極東共和国軍によって1921年に外蒙古が赤化した ([[:en:Mongolian Revolution of 1921]])。1922年に張作霖 (奉天派、東三省政府)、段祺瑞 (安徽派)、孫文 (革命政府)の三者は反直三角同盟を結び、第一次[[奉直戦争]]を行うが、直隷派に負けてしまう。1924年1月に革命政府は容共を打ち出し、ソ連の支援の下で[[国共合作]]を始めた。1924年5月、ソ連は直隷派の北洋政府とカラハン協定を結び、ソ連は中東鉄道付属地の赤化を進めようとした<ref name="kokusai">[http://books.google.co.jp/books?id=yDY2iL55cIkC&pg=frontcover 最近支那国際関係] 斎藤良衛 1931年11月4日</ref>。それに対し、東三省政府は反対しソ連と独自に交渉を続けていたが、9月18日に革命政府が[[北伐#国民党の北伐|北伐]]宣言を行い、東三省政府も関内出兵を決意し、1924年9月22日、東三省政府は大幅に譲歩して[[奉ソ協定]]を結び、第二次奉直戦争に挑んで勝利した<ref name="kokusai"/>。妥協した奉ソ協定により、中東鉄道付属地の赤化が進んでしまったものの、東支鉄道理事会及び東三省政府は、赤系露人の東支鉄道管理局長による[[第九十四号命令]]などの越権行為を拒否してソ連の動きを牽制していた<ref name="kokusai"/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=YLQ7a_f0-6oC&pg=frontcover 東支鉄道を中心とする露支勢力の消長 下巻] 南滿州鐵道株式會社哈爾濱事務所運輸課 1928年5月</ref>。その後、革命政府の孫文が死去すると北京政府は奉天派のものとなり、1926年、革命政府はソ連の支援の下で再度北伐を始めたが、1927年3月に[[南京事件 (1927年)|南京事件]]が起きると、1927年4月に革命政府は内部の共産党員の粛清を行った([[上海クーデター]])。それに合わせ、北京政府もソ連大使館の家宅捜索を行った。---><!--何かの残骸か何か どのような関係があるのか---><!--1927年、介石が[[北伐]]の途中大敗し最大の危機を迎えると松井石根はを日本に呼び、時の[[田中義一]]首相に引き合わせ会談の結果、(蒙古・満洲問題を引き換えに)日本はの[[北伐]]を援助し[[張作霖]]を満洲に引き上げさせた。1928年に北伐が完了すると、1929年に中華民国は[[中ソ紛争]]を起こすが、ソ連に敗北して[[ハバロフスク議定書]]が締結され、[[東清鉄道|中東鉄道]]及びその付属地からソ連の共産主義者を追い出す試みは失敗に終わった。しかし、1932年に[[満州国]]が誕生すると、満州国は1934年に[[白系露人事務局]]を設立し、1935年にはソ連と[[北満鉄道讓渡協定]]を結んでソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。--->
[[塘沽協定]]の停戦ラインでは、1934年冬から1935年1月にかけて[[中華民国国軍]]と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は北支から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で北支に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、北支における日本の経済権益の伸張、および親日的な傀儡政権の樹立、排日感情の抑制などが目標に掲げられた。また、1935年1月初旬に[[関東軍]]が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。
[[塘沽協定]]の停戦ラインでは、1934年冬から1935年1月にかけて[[中華民国国軍]]と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は北支から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で北支に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、北支における日本の経済権益の伸張、および親日的な傀儡政権の樹立、排日感情の抑制などが目標に掲げられた。また、1935年1月初旬に[[関東軍]]が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。


1935年1月、介石は『外交評論』に「日本人は我々を敵とすることはできず、一方、中国人も日本人と手を携えなければならない」とし、大日本帝国に対して領土侵略でなく経済提携などを図るべきと論じ、対日関係打開を探った<ref name="usui21to24">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、21~24頁。</ref>。1月22日に広田外相が「不侵略」を表明したことに対して介石は1月29日以降、日本政府要人と会談し、[[王寵恵]][[国際司法裁判所]]判事も訪日し、岡田首相らと会談し、双方とも平和的処理を了承した<ref name="usui21to24"/>。1935年3月1日、中国国民党宣伝部長は「排日行動を停止すべし」と表明した。
1935年1月、介石は『外交評論』に「日本人は我々を敵とすることはできず、一方、中国人も日本人と手を携えなければならない」とし、大日本帝国に対して領土侵略でなく経済提携などを図るべきと論じ、対日関係打開を探った<ref name="usui21to24">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、21~24頁。</ref>。1月22日に広田外相が「不侵略」を表明したことに対して介石は1月29日以降、日本政府要人と会談し、[[王寵恵]][[国際司法裁判所]]判事も訪日し、岡田首相らと会談し、双方とも平和的処理を了承した<ref name="usui21to24"/>。1935年3月1日、中国国民党宣伝部長は「排日行動を停止すべし」と表明した。


関東軍は1935年3月30日の対支政策で「北シナ政権を絶対服従に導く」と確認した<ref name="usu15">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、15頁。</ref>。[[土肥原賢二]]らは[[5月2日]]に起きた天津の[[梅津・何応欽協定#藍衣社のテロ事件|親日新聞社長暗殺事件]]をうけ、国民党政府機関の閉鎖、河北省からの中国軍撤退、排日の禁止などを要求し、6月10日の[[梅津・何応欽協定]]を締結した<ref name="zusetsu6">太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、6頁。</ref><ref name="usu17to20">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、17~20頁。</ref>。[[華北分離工作]]は[[土肥原賢二]]らが主導した<ref name="usu15"/>。また、6月5日に関東軍特務機関員が[[宋哲元]]の国民党29軍に拘留されたこと<ref name="usu17to20"/>に対して、6月27日、大日本帝国と中華民国は[[土肥原・秦徳純協定]]をむすび、これよって国民党機関の撤退を要求し、チャハル省を大日本帝国の勢力下に置いた<ref name="zusetsu7">太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、7頁。</ref><ref name="usu17to20"/>。
関東軍は1935年3月30日の対支政策で「北シナ政権を絶対服従に導く」と確認した<ref name="usu15">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、15頁。</ref>。[[土肥原賢二]]らは[[5月2日]]に起きた天津の[[梅津・何応欽協定#藍衣社のテロ事件|親日新聞社長暗殺事件]]をうけ、国民党政府機関の閉鎖、河北省からの中国軍撤退、排日の禁止などを要求し、6月10日の[[梅津・何応欽協定]]を締結した<ref name="zusetsu6">太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、6頁。</ref><ref name="usu17to20">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、17~20頁。</ref>。[[華北分離工作]]は[[土肥原賢二]]らが主導した<ref name="usu15"/>。また、6月5日に関東軍特務機関員が[[宋哲元]]の国民党29軍に拘留されたこと<ref name="usu17to20"/>に対して、6月27日、大日本帝国と中華民国は[[土肥原・秦徳純協定]]をむすび、これよって国民党機関の撤退を要求し、チャハル省を大日本帝国の勢力下に置いた<ref name="zusetsu7">太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、7頁。</ref><ref name="usu17to20"/>。
<!--1935年の北支は国民政府による搾取や重税から北支軍閥や市民の中で不満が高まる<ref>『東京朝日新聞』1935年10月27日付朝刊 2面</ref>---><!--と共に満州の急速な発展を目の当りにし、介石の影響力は後退、1935年6月に[[白堅武]]が[[豊台事変]]を起こし親日満政権を樹立を図ろうとクーデターを起こしたが失敗、10月に国民党の増税に反発し[[農民]]が政権に反発し<ref>『東京朝日新聞』1935年10月24日付夕刊 1面</ref><ref>[[:en:North China Daily News|North-China Daily News]], October 23 1935, p.9</ref>自治要求を求め[[冀東防共自治政府#河北自治運動|香河事件]]が発生するなど[[河北省]]・[[山東省]]・[[山西省]]などで民衆の政治・経済的不満が高まり、自治運動が高まってきていた<ref>『東京朝日新聞』1935年10月22日付朝刊 2面</ref><ref>North-China Daily News, October 22 1935, p.9.</ref>。1935年8月に、満州から天津行きの列車が反日組織に襲撃され、20人の乗客が殺害された<ref name="kawakami120to129"/>。--->
<!--1935年の北支は国民政府による搾取や重税から北支軍閥や市民の中で不満が高まる<ref>『東京朝日新聞』1935年10月27日付朝刊 2面</ref>---><!--と共に満州の急速な発展を目の当りにし、介石の影響力は後退、1935年6月に[[白堅武]]が[[豊台事変]]を起こし親日満政権を樹立を図ろうとクーデターを起こしたが失敗、10月に国民党の増税に反発し[[農民]]が政権に反発し<ref>『東京朝日新聞』1935年10月24日付夕刊 1面</ref><ref>[[:en:North China Daily News|North-China Daily News]], October 23 1935, p.9</ref>自治要求を求め[[冀東防共自治政府#河北自治運動|香河事件]]が発生するなど[[河北省]]・[[山東省]]・[[山西省]]などで民衆の政治・経済的不満が高まり、自治運動が高まってきていた<ref>『東京朝日新聞』1935年10月22日付朝刊 2面</ref><ref>North-China Daily News, October 22 1935, p.9.</ref>。1935年8月に、満州から天津行きの列車が反日組織に襲撃され、20人の乗客が殺害された<ref name="kawakami120to129"/>。--->
<!---華北工作は国民党政府から主権を切り離し第2の満洲国を作ることを目的としたものではなく<ref>大日本帝国は国民党政権への不信を招かないように[[蒙古連合自治政府]]や[[冀東防共自治政府]]などのように自治政権の成立は支援したが完全な独立は容認せず、あくまで国民党政府政権下の自治政府という位置づけだった。</ref>、(1)北支に''親日満''の地帯を作ること(2)北支の物資を確保しソ連侵略の際に日満支が協力して戦うための支援基地とすることを主眼とした政治的工作で、河北省の[[宋哲元]]<ref>宋哲元の計画では北支に親日・反ソの自治政権を打ち立てること、宗主権は国民党政府であることは認めるが外交内政経済などについては高度な自治権を保ちたいと構想していたとされ、日本に政権からの独立を約束し、政権に忠誠を誓い、大日本帝国から圧迫を受けていると報告し[[首鼠両端]]の行動をとっていた。</ref>・[[商震]]・[[万福麟]]、山東省の[[韓復ク|韓復榘]]、山西省の[[閻錫山]]などの諸軍閥と関東軍(一部の将校)の間での利害関係の一致で進められた。-->
<!---華北工作は国民党政府から主権を切り離し第2の満洲国を作ることを目的としたものではなく<ref>大日本帝国は国民党政権への不信を招かないように[[蒙古連合自治政府]]や[[冀東防共自治政府]]などのように自治政権の成立は支援したが完全な独立は容認せず、あくまで国民党政府政権下の自治政府という位置づけだった。</ref>、(1)北支に''親日満''の地帯を作ること(2)北支の物資を確保しソ連侵略の際に日満支が協力して戦うための支援基地とすることを主眼とした政治的工作で、河北省の[[宋哲元]]<ref>宋哲元の計画では北支に親日・反ソの自治政権を打ち立てること、宗主権は国民党政府であることは認めるが外交内政経済などについては高度な自治権を保ちたいと構想していたとされ、日本に政権からの独立を約束し、政権に忠誠を誓い、大日本帝国から圧迫を受けていると報告し[[首鼠両端]]の行動をとっていた。</ref>・[[商震]]・[[万福麟]]、山東省の[[韓復ク|韓復榘]]、山西省の[[閻錫山]]などの諸軍閥と関東軍(一部の将校)の間での利害関係の一致で進められた。-->
<!--1935年8月の第七回[[コミンテルン]]大会でディミトーロフは日本帝国主義と国民党政府の裏切りを非難し、中国ソビエト地区だけが中国の奴隷化を防ぎ、中国人民を解放することができると演説し、同内容の決議が採択された<ref name="kawakami57to64"> K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、57~64頁。</ref>。--->
<!--1935年8月の第七回[[コミンテルン]]大会でディミトーロフは日本帝国主義と国民党政府の裏切りを非難し、中国ソビエト地区だけが中国の奴隷化を防ぎ、中国人民を解放することができると演説し、同内容の決議が採択された<ref name="kawakami57to64"> K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、57~64頁。</ref>。--->
<!--8月1日、中国共産党がパリで中国が滅亡に瀕し、中国人民は奴隷となったと抗日救国の[[八・一宣言]]を出し、中国の若者らに影響を与え、上海、北平の学生運動によって支持勢力を拡大した<ref name="usui21to24"/>。--->
<!--8月1日、中国共産党がパリで中国が滅亡に瀕し、中国人民は奴隷となったと抗日救国の[[八・一宣言]]を出し、中国の若者らに影響を与え、上海、北平の学生運動によって支持勢力を拡大した<ref name="usui21to24"/>。--->


=== 広田三原則===
=== 広田三原則===
1935年10月4日、広田外相は、1)中国の排日言動の取締、欧米依存からの脱却、2)満州国の事実上黙認、3)赤化(共産主義)勢力排除への協力の三箇条、[[広田三原則]]を介石政府に伝えた<ref name="usui21to24"/>。11月20日の南京会談では介石はこの三原則に同意するが、華北で問題がおこれば交渉できないと答えた<ref name="usu29to33">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、29~33頁。</ref>
1935年10月4日、広田外相は、1)中国の排日言動の取締、欧米依存からの脱却、2)満州国の事実上黙認、3)赤化(共産主義)勢力排除への協力の三箇条、[[広田三原則]]を介石政府に伝えた<ref name="usui21to24"/>。11月20日の南京会談では介石はこの三原則に同意するが、華北で問題がおこれば交渉できないと答えた<ref name="usu29to33">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、29~33頁。</ref>


<!--1935年10月19日に、毛沢東が[[長征]]を終了する<ref name="usui21to24"/>。1935年[[11月9日]]、上海で中山秀雄[[一等水兵]]が通りで射殺された([[中山水兵射殺事件]])<ref name="kawakami120to129"/><ref name="kawakami152to171"> K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、152~171頁。</ref>。日本海軍と上海領事館は日本人社会の不安増幅を憂慮し、この殺人事件の報道を半年間差し控えた<ref name="kawakami152to171"/>。この事件の犯人のテロリスト組織ヤン・ウェンタオは国際租界外国警察隊によって翌1936年5月に逮捕された<ref name="kawakami152to171"/>。---><!---1935年11月、中華民国政府では[[英国]]支援で[[幣制改革]]が行われ、銀本位制・通貨管理制を導入し現金回収が行われたがこの時、北支将領は現金の南送を拒否するなど中央からの離脱傾向にあった。介石(軍事担当)と[[汪兆銘]](外交担当)率いる国民党の政策は当初、第一に共産党勢力の駆逐、第二に外国勢力との問題解決を方針に一面抵抗・一面交渉のもと行われていたが、汪が1935年11月に狙撃され負傷し、療養のため離脱。---><!--1935年1月25日、大日本帝国の支援の下[[殷汝耕]]が[[冀東防共自治政府|冀東防共自治委員会]]を非武装地帯に組織し自治宣言をし、[[支那駐屯軍]]支配下においた<ref name="zusetsu6"/>。12月9日に日本侵略反対をスローガンにした学生デモが展開した<ref name="usu29to33"/>。1935年12月17日、天津の多田陸軍中将の自宅に爆弾が投げ入れられた<ref name="kawakami120to129"> K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、120
<!--1935年10月19日に、毛沢東が[[長征]]を終了する<ref name="usui21to24"/>。1935年[[11月9日]]、上海で中山秀雄[[一等水兵]]が通りで射殺された([[中山水兵射殺事件]])<ref name="kawakami120to129"/><ref name="kawakami152to171"> K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、152~171頁。</ref>。日本海軍と上海領事館は日本人社会の不安増幅を憂慮し、この殺人事件の報道を半年間差し控えた<ref name="kawakami152to171"/>。この事件の犯人のテロリスト組織ヤン・ウェンタオは国際租界外国警察隊によって翌1936年5月に逮捕された<ref name="kawakami152to171"/>。---><!---1935年11月、中華民国政府では[[英国]]支援で[[幣制改革]]が行われ、銀本位制・通貨管理制を導入し現金回収が行われたがこの時、北支将領は現金の南送を拒否するなど中央からの離脱傾向にあった。介石(軍事担当)と[[汪兆銘]](外交担当)率いる国民党の政策は当初、第一に共産党勢力の駆逐、第二に外国勢力との問題解決を方針に一面抵抗・一面交渉のもと行われていたが、汪が1935年11月に狙撃され負傷し、療養のため離脱。---><!--1935年1月25日、大日本帝国の支援の下[[殷汝耕]]が[[冀東防共自治政府|冀東防共自治委員会]]を非武装地帯に組織し自治宣言をし、[[支那駐屯軍]]支配下においた<ref name="zusetsu6"/>。12月9日に日本侵略反対をスローガンにした学生デモが展開した<ref name="usu29to33"/>。1935年12月17日、天津の多田陸軍中将の自宅に爆弾が投げ入れられた<ref name="kawakami120to129"> K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、120
~129頁。</ref>。--->
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11月3日に中国が[[幣制改革]]を実行すると、日本軍は北支における国民政府の経済的支配力強化を恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な[[傀儡政権]]を樹立しようとしたが国民政府の激しい抵抗にあい、また諸軍閥も日本軍の誘いに応じなかったため、当座の措置として[[塘沽協定]]による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の[[冀東防共自治政府]])を[[11月25日]]に樹立した。これに対し、日本軍の圧力をかわすため、
11月3日に中国が[[幣制改革]]を実行すると、日本軍は北支における国民政府の経済的支配力強化を恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な[[傀儡政権]]を樹立しようとしたが国民政府の激しい抵抗にあい、また諸軍閥も日本軍の誘いに応じなかったため、当座の措置として[[塘沽協定]]による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の[[冀東防共自治政府]])を[[11月25日]]に樹立した。これに対し、日本軍の圧力をかわすため、
介石は1935年12月18日に宋哲元を委員長とする親日政権を装った特別機関[[冀察政務委員会]]を設立させた<ref name="zusetsu7"/><ref name="usu29to33"/>。関東軍の華北工作は、冀東防共自治政府のみにとどまり、華北の自治運動工作は失敗した<ref name="usu29to33"/>。<!--1935年12月26日、上海の日本海軍公館に爆弾が投擲された<ref name="kawakami120to129"/>。--->
介石は1935年12月18日に宋哲元を委員長とする親日政権を装った特別機関[[冀察政務委員会]]を設立させた<ref name="zusetsu7"/><ref name="usu29to33"/>。関東軍の華北工作は、冀東防共自治政府のみにとどまり、華北の自治運動工作は失敗した<ref name="usu29to33"/>。<!--1935年12月26日、上海の日本海軍公館に爆弾が投擲された<ref name="kawakami120to129"/>。--->


1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは北支分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に[[北京市|北平]]・[[天津市|天津]]・[[豊台区|豊台]]などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による北支分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。
1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは北支分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に[[北京市|北平]]・[[天津市|天津]]・[[豊台区|豊台]]などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による北支分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。
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== 国民党政権の反応と経過 ==
== 国民党政権の反応と経過 ==
1932年3月に成立した、[[介石]]([[軍事委員会]]委員長)と[[汪兆銘]]([[行政院長]]、後外交部長兼任)による国民党のトロイカ体制(汪合作)は当初、反共と抗日を同列に置き、方針に汪兆銘の提唱した八字方針と呼ばれる「一面抵抗、一面交渉」を定めて、満洲事変後、[[第一次上海事変]]停戦協定、[[塘沽協定]]、[[梅津・何応欽協定]]、[[土肥原・秦徳純協定]]等で対日譲歩を重ねてきたが、次第に一連の政策への不満が募り、汪が1935年11月に狙撃され怪我を負うと療養のために離脱した<ref name = shiron48>[[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]]、[[林道生]]、『日中戦争史論 汪精衛政権と中国占領地』、[[御茶の水書房]]、[[2005年]]、pp.45-48</ref>。
1932年3月に成立した、[[介石]]([[軍事委員会]]委員長)と[[汪兆銘]]([[行政院長]]、後外交部長兼任)による国民党のトロイカ体制(汪合作)は当初、反共と抗日を同列に置き、方針に汪兆銘の提唱した八字方針と呼ばれる「一面抵抗、一面交渉」を定めて、満洲事変後、[[第一次上海事変]]停戦協定、[[塘沽協定]]、[[梅津・何応欽協定]]、[[土肥原・秦徳純協定]]等で対日譲歩を重ねてきたが、次第に一連の政策への不満が募り、汪が1935年11月に狙撃され怪我を負うと療養のために離脱した<ref name = shiron48>[[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]]、[[林道生]]、『日中戦争史論 汪精衛政権と中国占領地』、[[御茶の水書房]]、[[2005年]]、pp.45-48</ref>。


1935年の国民党第五回全国代表大会の段階では、介石は未だ「最後の関頭がまだこないなら、犠牲を口に出すべきではない。国家主権の侵害を限度として、それまでは友邦と政治的調停に努め、和平に最大の努力を払うべきである。」として、外交的解決の窓口を閉じてはいなかった<ref name = shiron48/>。しかし、[[1936年]][[12月12日]]には介石が部下の[[張学良]]によって拘束される[[西安事件]]が発生すると[[コミンテルン]]が仲介となり、反共から抗日への明確な転換と中華民国と紅軍の間で[[国共合作]]が結ばれる。[[1937年]][[7月7日]]に[[盧溝橋事件]]が発生すると、[[トラウトマン工作]]など和平努力を続けながらも、徹底抗戦([[ゲリラ|ゲリラ戦]])を展開していくことになる。
1935年の国民党第五回全国代表大会の段階では、介石は未だ「最後の関頭がまだこないなら、犠牲を口に出すべきではない。国家主権の侵害を限度として、それまでは友邦と政治的調停に努め、和平に最大の努力を払うべきである。」として、外交的解決の窓口を閉じてはいなかった<ref name = shiron48/>。しかし、[[1936年]][[12月12日]]には介石が部下の[[張学良]]によって拘束される[[西安事件]]が発生すると[[コミンテルン]]が仲介となり、反共から抗日への明確な転換と中華民国と紅軍の間で[[国共合作]]が結ばれる。[[1937年]][[7月7日]]に[[盧溝橋事件]]が発生すると、[[トラウトマン工作]]など和平努力を続けながらも、徹底抗戦([[ゲリラ|ゲリラ戦]])を展開していくことになる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年9月15日 (火) 13:58時点における版

華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、日本北支五省(河北省察哈爾省綏遠省山西省山東省)で行った一連の政治的工作の総称である。

中国側の呼称は、華北事変で、『中華民国史大辞典』によれば、1935年5月以降の日本軍による一連の「華北自治運動」から、宋哲元をトップとする冀察政務委員会の設置までの期間が該当し、満洲事変上海事変盧溝橋事変(事件)と並ぶ「事変」として認識されている[1]

概要

北支一帯を国民政府の影響下から切り離し、日本の支配下・影響下に置くための工作であった。

塘沽協定の停戦ラインでは、1934年冬から1935年1月にかけて中華民国国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は北支から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で北支に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、北支における日本の経済権益の伸張、および親日的な傀儡政権の樹立、排日感情の抑制などが目標に掲げられた。また、1935年1月初旬に関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。

1935年1月、蔣介石は『外交評論』に「日本人は我々を敵とすることはできず、一方、中国人も日本人と手を携えなければならない」とし、大日本帝国に対して領土侵略でなく経済提携などを図るべきと論じ、対日関係打開を探った[2]。1月22日に広田外相が「不侵略」を表明したことに対して蔣介石は1月29日以降、日本政府要人と会談し、王寵恵国際司法裁判所判事も訪日し、岡田首相らと会談し、双方とも平和的処理を了承した[2]。1935年3月1日、中国国民党宣伝部長は「排日行動を停止すべし」と表明した。

関東軍は1935年3月30日の対支政策で「北シナ政権を絶対服従に導く」と確認した[3]土肥原賢二らは5月2日に起きた天津の親日新聞社長暗殺事件をうけ、国民党政府機関の閉鎖、河北省からの中国軍撤退、排日の禁止などを要求し、6月10日の梅津・何応欽協定を締結した[4][5]華北分離工作土肥原賢二らが主導した[3]。また、6月5日に関東軍特務機関員が宋哲元の国民党29軍に拘留されたこと[5]に対して、6月27日、大日本帝国と中華民国は土肥原・秦徳純協定をむすび、これよって国民党機関の撤退を要求し、チャハル省を大日本帝国の勢力下に置いた[6][5]

広田三原則

1935年10月4日、広田外相は、1)中国の排日言動の取締、欧米依存からの脱却、2)満州国の事実上黙認、3)赤化(共産主義)勢力排除への協力の三箇条、広田三原則を蔣介石政府に伝えた[2]。11月20日の南京会談では蔣介石はこの三原則に同意するが、華北で問題がおこれば交渉できないと答えた[7]


11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は北支における国民政府の経済的支配力強化を恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な傀儡政権を樹立しようとしたが国民政府の激しい抵抗にあい、また諸軍閥も日本軍の誘いに応じなかったため、当座の措置として塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。これに対し、日本軍の圧力をかわすため、 蔣介石は1935年12月18日に宋哲元を委員長とする親日政権を装った特別機関冀察政務委員会を設立させた[6][7]。関東軍の華北工作は、冀東防共自治政府のみにとどまり、華北の自治運動工作は失敗した[7]

1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは北支分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に北平天津豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による北支分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。

日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。北支五省に防共親日満地帯設定を企図したが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。

日本ではこれを受け、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、確固とした政策とはならず、盧溝橋事件を契機に日中戦争に突入していくこととなった。

国民党政権の反応と経過

1932年3月に成立した、蔣介石軍事委員会委員長)と汪兆銘行政院長、後外交部長兼任)による国民党のトロイカ体制(汪蔣合作)は当初、反共と抗日を同列に置き、方針に汪兆銘の提唱した八字方針と呼ばれる「一面抵抗、一面交渉」を定めて、満洲事変後、第一次上海事変停戦協定、塘沽協定梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定等で対日譲歩を重ねてきたが、次第に一連の政策への不満が募り、汪が1935年11月に狙撃され怪我を負うと療養のために離脱した[8]

1935年の国民党第五回全国代表大会の段階では、蔣介石は未だ「最後の関頭がまだこないなら、犠牲を口に出すべきではない。国家主権の侵害を限度として、それまでは友邦と政治的調停に努め、和平に最大の努力を払うべきである。」として、外交的解決の窓口を閉じてはいなかった[8]。しかし、1936年12月12日には蔣介石が部下の張学良によって拘束される西安事件が発生するとコミンテルンが仲介となり、反共から抗日への明確な転換と中華民国と紅軍の間で国共合作が結ばれる。1937年7月7日盧溝橋事件が発生すると、トラウトマン工作など和平努力を続けながらも、徹底抗戦(ゲリラ戦)を展開していくことになる。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 内田尚孝、『華北事変の研究 -塘沽停戦協定と華北危機下の日中関係一九三二~一九三五- 』、汲古書院、2006年、pp.5-6
  2. ^ a b c 臼井勝美『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、21~24頁。
  3. ^ a b 臼井勝美『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、15頁。
  4. ^ 太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、6頁。
  5. ^ a b c 臼井勝美『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、17~20頁。
  6. ^ a b 太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、7頁。
  7. ^ a b c 臼井勝美『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、29~33頁。
  8. ^ a b 小林英夫林道生、『日中戦争史論 汪精衛政権と中国占領地』、御茶の水書房2005年、pp.45-48

参考文献

華北分離工作を描いた作品

関連項目