コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「韓復榘」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
30行目: 30行目:


=== 山東省統治 ===
=== 山東省統治 ===
北伐終了後の[[1929年]](民国18年)、馮玉祥と[[介石]]の対立が激化し、ついに衝突が不可避となる。しかし5月22日、韓復&#x6998;は馮への追随を放棄し、第20師の旧部下たちと謀りに帰順した。[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]では、韓は第1軍団総指揮として、閻錫山率いる山西軍と戦った。この時の功績により、同年9月、韓は[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府主席に任命された。<ref>沈(1978)、244-245頁。</ref><ref name=Xu/><ref name=Liu/>
北伐終了後の[[1929年]](民国18年)、馮玉祥と[[介石]]の対立が激化し、ついに衝突が不可避となる。しかし5月22日、韓復&#x6998;は馮への追随を放棄し、第20師の旧部下たちと謀りに帰順した。[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]では、韓は第1軍団総指揮として、閻錫山率いる山西軍と戦った。この時の功績により、同年9月、韓は[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府主席に任命された。<ref>沈(1978)、244-245頁。</ref><ref name=Xu/><ref name=Liu/>


以後7年強の間、韓復&#x6998;は山東省を統治することになる。韓は密かに日本と一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東の支配者だった[[張宗昌]]を暗殺した。さらに、[[国民革命軍]]の一員である第17軍軍長[[劉珍年]]を駆逐し、国民党の山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓は、山東省を強力な自治圏として確立し、国民政府中央の統制を弱体化させたのである。なお、韓はこの間に、思想家の[[梁漱溟]]を招聘して[[郷村建設運動]]を大規模に展開したり、産業を振興したりするなど、省政面でも一定の功績を残した。<ref>沈(1978)、245頁。</ref>
以後7年強の間、韓復&#x6998;は山東省を統治することになる。韓は密かに日本と一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東の支配者だった[[張宗昌]]を暗殺した。さらに、[[国民革命軍]]の一員である第17軍軍長[[劉珍年]]を駆逐し、国民党の山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓は、山東省を強力な自治圏として確立し、国民政府中央の統制を弱体化させたのである。なお、韓はこの間に、思想家の[[梁漱溟]]を招聘して[[郷村建設運動]]を大規模に展開したり、産業を振興したりするなど、省政面でも一定の功績を残した。<ref>沈(1978)、245頁。</ref>
36行目: 36行目:
=== 粛清に斃れる ===
=== 粛清に斃れる ===
[[File:Han Fuju.JPG|thumb|韓復&#x6998;別影<br/>『支那事変写真帖』(1938年)|180px]]
[[File:Han Fuju.JPG|thumb|韓復&#x6998;別影<br/>『支那事変写真帖』(1938年)|180px]]
[[1936年]](民国25年)12月に[[西安事件]]が起きると、韓復&#x6998;は電文を発して[[張学良]]・[[楊虎城]]を支持している。翌[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が勃発すると、10月に韓は第3集団軍総司令兼第5戦区副司令長官に任命された。しかし韓は、自分が介石の捨て駒として扱われていると感じていた。そのため、日本軍との本格的な戦闘は行わずに、[[済南市|済南]]などを放棄して、山東省西南部に撤退した。その一方で、[[四川省 (中華民国)|四川省]]政府主席[[劉湘]]と密かに連携し、反運動も企んでいる。結局これらの行為は、に韓の粛清を決断させることとなってしまった。<ref>沈(1978)、245-247頁。</ref>
[[1936年]](民国25年)12月に[[西安事件]]が起きると、韓復&#x6998;は電文を発して[[張学良]]・[[楊虎城]]を支持している。翌[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が勃発すると、10月に韓は第3集団軍総司令兼第5戦区副司令長官に任命された。しかし韓は、自分が介石の捨て駒として扱われていると感じていた。そのため、日本軍との本格的な戦闘は行わずに、[[済南市|済南]]などを放棄して、山東省西南部に撤退した。その一方で、[[四川省 (中華民国)|四川省]]政府主席[[劉湘]]と密かに連携し、反運動も企んでいる。結局これらの行為は、に韓の粛清を決断させることとなってしまった。<ref>沈(1978)、245-247頁。</ref>


[[1938年]](民国27年)1月11日、韓復&#x6998;は[[開封市|開封]]で開かれた軍事会議に出席したところを逮捕され、[[漢口]]に収監された。同月24日、韓は命令違反により独断の撤退を犯したとして、介石の命令により処刑された。享年49。<ref name=Shen247>沈(1978)、247頁。</ref><ref>徐主編(2007)、2660頁。</ref><ref name=Liu/>
[[1938年]](民国27年)1月11日、韓復&#x6998;は[[開封市|開封]]で開かれた軍事会議に出席したところを逮捕され、[[漢口]]に収監された。同月24日、韓は命令違反により独断の撤退を犯したとして、介石の命令により処刑された。享年49。<ref name=Shen247>沈(1978)、247頁。</ref><ref>徐主編(2007)、2660頁。</ref><ref name=Liu/>


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年9月15日 (火) 13:56時点における版

韓復榘
Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933)
プロフィール
出生: 1890年光緒16年)
死去: 1938年民国27年)1月24日
中華民国の旗 中華民国湖北省漢口
出身地: 清の旗 直隷省順天府覇州
職業: 軍人
各種表記
繁体字 韓復榘
簡体字 韩复榘
拼音 Hán Fùjǔ
ラテン字 Han Fu-chü
和名表記: かん ふくく
発音転記: ハン フージュ
テンプレートを表示

韓 復榘(かん ふくく)は中華民国の軍人。北京政府国民軍国民政府国民革命軍)の軍人。国民軍では、馮玉祥配下の「十三太保[1]の1人と称された。向方

事跡

国民軍での活躍

私塾教師の子に生まれる。初めは学問を志したが、貧困のため1910年宣統2年)から軍に加わり、馮玉祥の営に配属された。清末に馮が灤州起義を起こした際には、韓復榘も参加した。失敗後に韓は帰郷したが、民国成立直後に馮の下に帰参し、以後第16混成旅や第11師などで順調に軍歴を重ねている。[2][3][4]

1924年民国13年)10月の北京政変後に、国民軍が結成されると、韓復榘は国民軍第1軍第1師第1旅旅長に任命された。翌年春、第1師師長に昇進した。1926年(民国15年)の南口の戦いでは、山西省閻錫山が国民軍の後背を脅かしてきたため、僚友の石友三とともに山西軍を迎撃、善戦した。しかし国民軍は同年8月に、ついに南口を放棄する。張之江らの本隊は綏遠省へ撤退したが、韓と石はそれに従わず、閻に降伏した。[2][3][4]

同年9月、馮玉祥が帰国して五原誓師を行うと、韓復榘は馮の下に復帰し、国民聯軍援陝第6路総指揮に任命された。1927年(民国16年)6月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、韓は第2集団軍第6軍軍長に任命され、中国国民党北伐に参戦して軍功をあげた。10月、第2集団軍の縮小を経て、韓は第20師師長に任命され、鄭州に駐屯した。12月、韓は馮玉祥の推薦により河南省政府主席に就任した。しかし韓は第20師への指揮権を喪失し、しかも第20師は韓と不仲の石敬亭に委ねられてしまう。これは、韓の馮に対する反感を掻き立てることになった。[5][3][4]

山東省統治

北伐終了後の1929年(民国18年)、馮玉祥と蔣介石の対立が激化し、ついに衝突が不可避となる。しかし5月22日、韓復榘は馮への追随を放棄し、第20師の旧部下たちと謀り蔣に帰順した。1930年(民国19年)の中原大戦では、韓は第1軍団総指揮として、閻錫山率いる山西軍と戦った。この時の功績により、同年9月、韓は山東省政府主席に任命された。[6][3][4]

以後7年強の間、韓復榘は山東省を統治することになる。韓は密かに日本と一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東の支配者だった張宗昌を暗殺した。さらに、国民革命軍の一員である第17軍軍長劉珍年を駆逐し、国民党の山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓は、山東省を強力な自治圏として確立し、国民政府中央の統制を弱体化させたのである。なお、韓はこの間に、思想家の梁漱溟を招聘して郷村建設運動を大規模に展開したり、産業を振興したりするなど、省政面でも一定の功績を残した。[7]

粛清に斃れる

韓復榘別影
『支那事変写真帖』(1938年)

1936年(民国25年)12月に西安事件が起きると、韓復榘は電文を発して張学良楊虎城を支持している。翌1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、10月に韓は第3集団軍総司令兼第5戦区副司令長官に任命された。しかし韓は、自分が蔣介石の捨て駒として扱われていると感じていた。そのため、日本軍との本格的な戦闘は行わずに、済南などを放棄して、山東省西南部に撤退した。その一方で、四川省政府主席劉湘と密かに連携し、反蔣運動も企んでいる。結局これらの行為は、蔣に韓の粛清を決断させることとなってしまった。[8]

1938年(民国27年)1月11日、韓復榘は開封で開かれた軍事会議に出席したところを逮捕され、漢口に収監された。同月24日、韓は命令違反により独断の撤退を犯したとして、蔣介石の命令により処刑された。享年49。[9][10][4]

脚注

  1. ^ 韓復榘に加え、孫良誠石友三張維璽過之綱劉汝明聞承烈佟麟閣孫連仲韓多峰程希賢葛金章趙席聘の13人を指す。
  2. ^ a b 沈(1978)、243頁。
  3. ^ a b c d 徐主編(2007)、2659頁。
  4. ^ a b c d e 劉国銘主編(2005)、2269頁。
  5. ^ 沈(1978)、頁。
  6. ^ 沈(1978)、244-245頁。
  7. ^ 沈(1978)、245頁。
  8. ^ 沈(1978)、245-247頁。
  9. ^ 沈(1978)、247頁。
  10. ^ 徐主編(2007)、2660頁。

参考文献

  • 沈慶生「韓復榘」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第1巻』中華書局、1978年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
馮玉祥
河南省政府主席
1928年12月 - 1930年10月
次代
劉峙
先代
陳調元
山東省政府主席
1930年9月 - 1938年1月
次代
沈鴻烈