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北伐終了後の[[1929年]](民国18年)、馮玉祥と[[蔣介石]]の対立が激化し、ついに衝突が不可避となる。しかし5月22日、韓復榘は馮への追随を放棄し、第20師の旧部下たちと謀り蔣に帰順した。[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]では、韓は第1軍団総指揮として、閻錫山率いる山西軍と戦った。この時の功績により、同年9月、韓は[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府主席に任命された。<ref>沈(1978)、244-245頁。</ref><ref name=Xu/><ref name=Liu/> |
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以後7年強の間、韓復榘は山東省を統治することになる。韓は密かに日本と一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東の支配者だった[[張宗昌]]を暗殺した。さらに、[[国民革命軍]]の一員である第17軍軍長[[劉珍年]]を駆逐し、国民党の山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓は、山東省を強力な自治圏として確立し、国民政府中央の統制を弱体化させたのである。なお、韓はこの間に、思想家の[[梁漱溟]]を招聘して[[郷村建設運動]]を大規模に展開したり、産業を振興したりするなど、省政面でも一定の功績を残した。<ref>沈(1978)、245頁。</ref> |
以後7年強の間、韓復榘は山東省を統治することになる。韓は密かに日本と一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東の支配者だった[[張宗昌]]を暗殺した。さらに、[[国民革命軍]]の一員である第17軍軍長[[劉珍年]]を駆逐し、国民党の山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓は、山東省を強力な自治圏として確立し、国民政府中央の統制を弱体化させたのである。なお、韓はこの間に、思想家の[[梁漱溟]]を招聘して[[郷村建設運動]]を大規模に展開したり、産業を振興したりするなど、省政面でも一定の功績を残した。<ref>沈(1978)、245頁。</ref> |
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=== 粛清に斃れる === |
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[[1936年]](民国25年)12月に[[西安事件]]が起きると、韓復榘は電文を発して[[張学良]]・[[楊虎城]]を支持している。翌[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が勃発すると、10月に韓は第3集団軍総司令兼第5戦区副司令長官に任命された。しかし韓は、自分が |
[[1936年]](民国25年)12月に[[西安事件]]が起きると、韓復榘は電文を発して[[張学良]]・[[楊虎城]]を支持している。翌[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が勃発すると、10月に韓は第3集団軍総司令兼第5戦区副司令長官に任命された。しかし韓は、自分が蔣介石の捨て駒として扱われていると感じていた。そのため、日本軍との本格的な戦闘は行わずに、[[済南市|済南]]などを放棄して、山東省西南部に撤退した。その一方で、[[四川省 (中華民国)|四川省]]政府主席[[劉湘]]と密かに連携し、反蔣運動も企んでいる。結局これらの行為は、蔣に韓の粛清を決断させることとなってしまった。<ref>沈(1978)、245-247頁。</ref> |
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[[1938年]](民国27年)1月11日、韓復榘は[[開封市|開封]]で開かれた軍事会議に出席したところを逮捕され、[[漢口]]に収監された。同月24日、韓は命令違反により独断の撤退を犯したとして、 |
[[1938年]](民国27年)1月11日、韓復榘は[[開封市|開封]]で開かれた軍事会議に出席したところを逮捕され、[[漢口]]に収監された。同月24日、韓は命令違反により独断の撤退を犯したとして、蔣介石の命令により処刑された。享年49。<ref name=Shen247>沈(1978)、247頁。</ref><ref>徐主編(2007)、2660頁。</ref><ref name=Liu/> |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年9月15日 (火) 13:56時点における版
韓復榘 | |
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Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933) | |
プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒16年) |
死去: |
1938年(民国27年)1月24日 中華民国湖北省漢口 |
出身地: | 清直隷省順天府覇州 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 韓復榘 |
簡体字: | 韩复榘 |
拼音: | Hán Fùjǔ |
ラテン字: | Han Fu-chü |
和名表記: | かん ふくく |
発音転記: | ハン フージュ |
韓 復榘(かん ふくく)は中華民国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府(国民革命軍)の軍人。国民軍では、馮玉祥配下の「十三太保」[1]の1人と称された。字は向方。
事跡
国民軍での活躍
私塾教師の子に生まれる。初めは学問を志したが、貧困のため1910年(宣統2年)から軍に加わり、馮玉祥の営に配属された。清末に馮が灤州起義を起こした際には、韓復榘も参加した。失敗後に韓は帰郷したが、民国成立直後に馮の下に帰参し、以後第16混成旅や第11師などで順調に軍歴を重ねている。[2][3][4]
1924年(民国13年)10月の北京政変後に、国民軍が結成されると、韓復榘は国民軍第1軍第1師第1旅旅長に任命された。翌年春、第1師師長に昇進した。1926年(民国15年)の南口の戦いでは、山西省の閻錫山が国民軍の後背を脅かしてきたため、僚友の石友三とともに山西軍を迎撃、善戦した。しかし国民軍は同年8月に、ついに南口を放棄する。張之江らの本隊は綏遠省へ撤退したが、韓と石はそれに従わず、閻に降伏した。[2][3][4]
同年9月、馮玉祥が帰国して五原誓師を行うと、韓復榘は馮の下に復帰し、国民聯軍援陝第6路総指揮に任命された。1927年(民国16年)6月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、韓は第2集団軍第6軍軍長に任命され、中国国民党の北伐に参戦して軍功をあげた。10月、第2集団軍の縮小を経て、韓は第20師師長に任命され、鄭州に駐屯した。12月、韓は馮玉祥の推薦により河南省政府主席に就任した。しかし韓は第20師への指揮権を喪失し、しかも第20師は韓と不仲の石敬亭に委ねられてしまう。これは、韓の馮に対する反感を掻き立てることになった。[5][3][4]
山東省統治
北伐終了後の1929年(民国18年)、馮玉祥と蔣介石の対立が激化し、ついに衝突が不可避となる。しかし5月22日、韓復榘は馮への追随を放棄し、第20師の旧部下たちと謀り蔣に帰順した。1930年(民国19年)の中原大戦では、韓は第1軍団総指揮として、閻錫山率いる山西軍と戦った。この時の功績により、同年9月、韓は山東省政府主席に任命された。[6][3][4]
以後7年強の間、韓復榘は山東省を統治することになる。韓は密かに日本と一定の連携関係を結ぶ一方で、かつての山東の支配者だった張宗昌を暗殺した。さらに、国民革命軍の一員である第17軍軍長劉珍年を駆逐し、国民党の山東省党部にまで圧力をかけた。こうして韓は、山東省を強力な自治圏として確立し、国民政府中央の統制を弱体化させたのである。なお、韓はこの間に、思想家の梁漱溟を招聘して郷村建設運動を大規模に展開したり、産業を振興したりするなど、省政面でも一定の功績を残した。[7]
粛清に斃れる
1936年(民国25年)12月に西安事件が起きると、韓復榘は電文を発して張学良・楊虎城を支持している。翌1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、10月に韓は第3集団軍総司令兼第5戦区副司令長官に任命された。しかし韓は、自分が蔣介石の捨て駒として扱われていると感じていた。そのため、日本軍との本格的な戦闘は行わずに、済南などを放棄して、山東省西南部に撤退した。その一方で、四川省政府主席劉湘と密かに連携し、反蔣運動も企んでいる。結局これらの行為は、蔣に韓の粛清を決断させることとなってしまった。[8]
1938年(民国27年)1月11日、韓復榘は開封で開かれた軍事会議に出席したところを逮捕され、漢口に収監された。同月24日、韓は命令違反により独断の撤退を犯したとして、蔣介石の命令により処刑された。享年49。[9][10][4]
脚注
参考文献
- 沈慶生「韓復榘」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第1巻』中華書局、1978年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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