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張維璽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張維璽
プロフィール
出生: 1889年光緒15年)[1]
死去: 1944年民国33年)
中華民国
出身地: 清の旗 山東省東昌府館陶県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 張維璽
簡体字 张维玺
拼音 Zhāng Wéixǐ
ラテン字 Chang Wei-hsi
和名表記: ちょう いじ
発音転記: ジャン・ウェイシー
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張 維璽(ちょう いじ)は中華民国の軍人。北京政府国民軍に属し、馮玉祥配下の「十三太保[2]の1人と称される。後に汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加したとも言われるが、異説も存在する。楚玉[1]

事績

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東三省武備学堂で学ぶ。1911年宣統3年)の灤州起義では、馮玉祥配下で排長をつとめた。中華民国成立後も、馮玉祥率いる第16混成旅、第11師で順調に昇進している。1924年民国13年)には旅長となった[1]

1926年(民国15年)7月、張維璽は西北軍第13師師長となる。同年12月には第13軍軍長、1927年(民国16年)には第13路総司令、1928年(民国17年)には第6方面軍総指揮と歴任した。1930年(民国19年)の中原大戦では、馮玉祥配下で第7路軍総指揮兼第8軍軍長、南路総司令などを務めた。敗北後、張維璽は陸軍大学特別班で学習するなどしたが、総じて不遇を託つこととなる[1]

1943年(民国32年)、国民軍以来の僚友孫良誠とともに、南京国民政府(汪兆銘政権)に投降した。張維璽は開封綏靖公署副主任、第2方面軍副総司令として孫良誠を補佐する。しかし、後にある友人から叱責を受けたために、張維璽は羞恥を覚え、わずか3カ月で辞任したという[1]。ただし、張維璽は父・妻を日本側に拘束され、脅迫を受けながらも、これら職位への就任はあくまで拒んだとの説もある[3]

1944年(民国33年)[4]、病没。享年56。なお、死亡地点と死因も説が分かれており、汪兆銘政権に投降したとの説では「天津で病死」[1]、拒否したとの説では「江蘇省泰州で病死(日本側による毒殺説あり)」となっている[3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 徐主編(2007)、1876頁。
  2. ^ 張維璽に加え、孫良誠韓復榘石友三過之綱劉汝明聞承烈佟麟閣孫連仲韓多峰程希賢葛金章趙席聘の13人を指す。ただし趙席聘の代わりに韓占元が列せられる場合もある。
  3. ^ a b 李・薛(2014)。
  4. ^ 徐主編(2007)、1876頁は没年のみの記載。李・薛(2014)は同年10月と記載。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 李恵蘭・薛鳳「張維璽熱心事前」『今晩報』2014年3月1日、13頁。