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: 5月14日 中華民国([[台湾]])の[[総統]]、[[蔣介石]]と会談。[[ローマ教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]と会談。 |
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: 全国124カ所で「救国の予言」と題して講演。 |
: 全国124カ所で「救国の予言」と題して講演。 |
2020年9月15日 (火) 13:39時点における版
久保木 修己(くぼき おさみ、1931年2月3日 - 1998年12月13日)は、日本の宗教家。世界基督教統一神霊協会(統一教会)の日本の初代会長。国際勝共連合の日本の初代会長でもある。国際文化財団理事長、アジアサファリクラブ会長、国際友好釣連盟会長、北米極真空手会長、世界日報社会長、世界平和連合会長等を歴任。中華民国中華学術院名誉哲学博士。「久保木亮光(りょうこう)」と名乗っていたこともある[1]。
来歴
- 2月3日 中華民国(翌1932年から1945年までは満州国)安東県(現:中華人民共和国遼寧省丹東市)で父仙蔵と母よしの長男として誕生。銀行員であった父の転勤とともに満州各地や北京で幼少時代、少年時代を過ごす。
- 1945年(13歳)
- ??年
- 1962年(31歳)
- 立正佼成会を去り、「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)に入教(立正佼成会の庭野日敬会長(当時)の指示で統一教会の教えを学んでいた青年部50名ほどが統一教会(統一協会)に転じた)[3]。
- 1964年(34歳)
- 統一教会の初代会長就任。
- 1968年(37歳)
- 1970年(40歳)
- 1971年(40歳)
- 1973年(43歳)
- 1998年(67歳)
- 2004年 7回忌にあたって遺稿集『美しい国 日本の使命』が出版される。
著書
- 『久保木修己講演・論文集』(救国連盟事務総局 1976年12月)
- 『愛こそすべて』( 光言社 1986年5月)光言社) ISBN 978-4-87656-016-5
- 『愛天 愛国 愛人 - 母性国家日本のゆくえ 久保木修己回顧録』(世界日報社 1996年2月)ISBN 978-4882010609
- 『美しい国 日本の使命 - 久保木修己遺稿集』(久保木修己遺稿集刊行委員会 (編) 、世界日報社 2004年12月) ISBN 978-4882010814
(以下は監修した著書)
- 『文鮮明師とダンベリーの真実―裁判問題の背景をさぐる』(光言社 1989年) ISBN 978-4876560059
- 『文鮮明師と新ソ連革命』(光言社 1990年1月)ISBN 978-4876560196
エピソード
- 統一教会の内部では旧約聖書に出てくるユダヤ選民を率いた指導者モーセになぞらえて「日本のモーセ」と呼ばれた[5]
- 遺稿集『美しい国 日本の使命』は安倍晋三の著書『美しい国へ』のネタ本だとインターネットなどで噂になったが、推測の域を出ていない[6]。
脚注
- ^ a b 夫の昇華7周年を迎えて 久保木哲子(430家庭)(統一教会機関紙『ファミリー』 2005年12月号)
- ^ 新宗教研究会 『図解 新宗教ガイド』(九天社 2006年1月31日) ISBN 978-4861670817
- ^ 村上重良 『世界宗教事典』(講談社 2000年7月10日) ISBN 978-4061594364
- ^ ここでいう”祝福"とは統一教会の教義において、メシアとして原罪を清算する権能を持つとされる文鮮明により、神の前に認められた夫婦とされるということ。”既成祝福”は入信前に既に結婚していた夫婦を祝福するもの
- ^ 『美しい国日本の使命』を読む(『世界日報』公式ウェブサイト)
- ^ 「統一教会」と「国際勝共連合」 なぜ、かくも日本保守基盤に浸透したか?(せと弘幸Blog『日本よ何処へ』)