「玉里町」の版間の差分
令和2年4月1日現在の人口情報を反映 |
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2020年9月14日 (月) 22:25時点における版
玉里町 | |
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北緯31度36分38.2秒 東経130度32分22.2秒 / 北緯31.610611度 東経130.539500度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 鹿児島県 |
市町村 | 鹿児島市 |
地域 | 中央地域 |
地区 | 城西地区 |
人口 (2020年(令和2年)4月1日現在) | |
• 合計 | 1,329人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
890-0012 |
玉里町(たまざとちょう Tamazato-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧鹿児島郡伊敷村大字下伊敷紙屋谷地区。郵便番号は890-0012。人口は1,329人、世帯数は639世帯(2020年4月1日現在)[1]。全域で住居表示を実施している。
町名は島津斉興の別邸であった玉里邸(現在の鹿児島市立鹿児島女子高等学校の地に所在)に由来する[2]。玉里邸はのちに島津斉興の五男であり、薩摩藩国父となった島津久光の邸宅となった。明治時代になり明治政府から久光は分家を命じられ新たに玉里島津家として玉里の名が家名に付けられた。
地理
鹿児島市の中部、甲突川中流域に位置する。町域の北方から西方にかけては下伊敷、南方には草牟田、東方には西坂元町がそれぞれ接している。全体的に台地に位置している。
町域の中央部には鹿児島市立鹿児島女子高等学校があり、敷地内には島津斉興が1835年(天保6年)に建設した別邸である玉里邸庭園がある。一部施設は1877年(明治10年)の西南戦争及び1945年(昭和20年)の鹿児島大空襲の際に焼失しており、現在は庭園、茶室、武家長屋が現存している[3]。1974年(昭和49年)に鹿児島市記念物(名勝)に指定され[4]、2007年(平成19年)に国の名勝に指定された[5]。
歴史
古くは鹿児島郡伊敷村大字下伊敷(現在の鹿児島市下伊敷)の紙屋谷地区であった。1920年(大正9年)に大字下伊敷の紙屋谷地区が伊敷村から鹿児島市に編入され、分割された部分より「玉里町」として成立した。
1976年(昭和51年)には玉里町の一部が、草牟田一丁目及び草牟田二丁目、城山一丁目・二丁目、1978年(昭和53年)に玉里団地一丁目及び玉里団地三丁目に分割された[2]。
町域の変遷
実施後 | 実施年 | 実施前 |
---|---|---|
鹿児島市玉里町 | 1920年(大正9年) | 伊敷村大字下伊敷(紙屋谷地区) |
草牟田一丁目及び草牟田二丁目の一部 | 1976年(昭和51年) | 玉里町の一部 |
城山一丁目及び城山二丁目の一部 | ||
玉里団地一丁目及び玉里団地三丁目 | 1978年(昭和53年) |
施設
- 公共施設
-
- 玉里公民館
- 教育機関
- 文化財
-
- 旧島津氏玉里邸庭園(国の名勝、鹿児島女子高等学校敷地内)
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[6]。
町丁 | 番・番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
玉里町 | 全域 | 鹿児島市立草牟田小学校 | 鹿児島市立伊敷中学校 |
脚注
関連項目
座標: 北緯31度36分38.2秒 東経130度32分22.2秒 / 北緯31.610611度 東経130.539500度