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[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])12月27日に死去した。享年48。法号は法性院。 |
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])12月27日に死去した。享年48。法号は法性院。 |
2020年9月11日 (金) 21:55時点における版
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文5年6月26日(1665年8月7日) |
死没 | 正徳2年12月27日(1713年1月23日) |
別名 | 頼母(通称)、直高、直能 |
戒名 | 法性院 |
官位 | 従五位下美作守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱、綱吉、家宣 |
藩 | 出雲母里藩主 |
氏族 | 越前松平家支流母里松平家 |
父母 | 松平直政、篠塚氏 |
兄弟 |
綱隆、近栄、隆政、直丘、駒姫、鶴姫、 竹姫、万姫、亀姫、喜耶姫、松姫 |
妻 | 細川利重養女、松平頼元三女長 |
子 | 男子、初、京極高通正室、松平守信正室、直員 |
松平 直丘(まつだいら なおたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出雲国母里藩2代藩主。官位は従五位下・美作守。通称は頼母(たのも)、別名は直高(読み同じ)、直能(なおよし)など様々なものが伝わっている。直政系越前松平家母里藩分家2代。
略歴
延宝元年(1673年)、兄・隆政の死後、その相続が認められて藩主となった。その後、大番頭・御側衆となっている。男子がいたが早世していたため、新庄直詮の次男・直員を養嗣子として迎えた(以降、直員とその長男・直道、次男・直行と、越前松平家出身でない当主が続いたが、その後に直良系の松平直暠・直方兄弟が養子入りしている)。
正徳2年(1712年)12月27日に死去した。享年48。法号は法性院。