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「藤堂高聴」の版間の差分

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| 藩 = [[伊勢国]][[津藩#久居藩|久居藩]]主
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
文化7年(1810年)11月23日、第13代藩主・[[藤堂高邁|高邁]]の五男として生まれる。[[文政]]元年([[1818年]])に父が[[隠居]]したときには幼少のために[[家督]]を継げず、叔父の[[藤堂高やつ|高秭]]が継いだ。高聴は高秭の養子となって、文政10年12月16日([[1828年]])に従五位下・主水正に叙位・任官し、[[天保]]3年([[1832年]])3月9日の高秭の隠居で家督を継ぎ、3月23日に佐渡守に遷任する。
文化7年(1810年)11月23日、第13代藩主・[[藤堂高邁|高邁]]の五男として生まれる。[[文政]]元年([[1818年]])に父が[[隠居]]したときには幼少のために[[家督]]を継げず、叔父の[[藤堂高|高秭]]が継いだ。高聴は高秭の養子となって、文政10年12月16日([[1828年]])に従五位下・主水正に叙位・任官し、[[天保]]3年([[1832年]])3月9日の高秭の隠居で家督を継ぎ、3月23日に佐渡守に遷任する。


天保7年([[1836年]])の天候不順で凶作となり、藩財政が悪化する。このため、倹約や諸費節減を行なう一方で、天保14年([[1843年]])には[[吉武五郎大夫]]らによる荒地開墾を行ない、[[弘化]]元年([[1844年]])には領内南部の戸木地内下河原の開墾を行ない、[[雲出川]]の堤普請も行った。この開墾には武士、町民、農民などが総出で行い、豊かな田畑が開墾されることとなった。
天保7年([[1836年]])の天候不順で凶作となり、藩財政が悪化する。このため、倹約や諸費節減を行なう一方で、天保14年([[1843年]])には[[吉武五郎大夫]]らによる荒地開墾を行ない、[[弘化]]元年([[1844年]])には領内南部の戸木地内下河原の開墾を行ない、[[雲出川]]の堤普請も行った。この開墾には武士、町民、農民などが総出で行い、豊かな田畑が開墾されることとなった。

2020年9月3日 (木) 11:04時点における版

 
藤堂高聴
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 文化7年11月23日1810年12月19日
死没 文久3年8月9日1863年9月21日
改名 直太郎(幼名)、高聴、直斎(法号)
別名 介甫(字)
戒名 浄巌院殿慈海廣源大居士
墓所 三重県津市寿町の寒松院
官位 従五位下、主水正、佐渡
幕府 江戸幕府
伊勢国久居藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高邁、養父:高秭
兄弟 本(藤堂信復室)、広三郎、西川信三郎
隣、内田当之丞、高聴、重八郎
周(西村五斤室)、花(服部竹助室)
品(箕浦少内室)、清(町井秀太郎室)
室:山内豊策の五女・(照耀院)
増銘子(佐竹義堯継室)、高茂高行
所刀禰、兎万子、錦子、花都子、
澤子(藤堂高邦正室)、石子、高義
養子:高邦
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藤堂 高聴(とうどう たかより)は、伊勢久居藩の第15代藩主。久居藩藤堂家15代。久居陣屋の主。

生涯

文化7年(1810年)11月23日、第13代藩主・高邁の五男として生まれる。文政元年(1818年)に父が隠居したときには幼少のために家督を継げず、叔父の高秭が継いだ。高聴は高秭の養子となって、文政10年12月16日(1828年)に従五位下・主水正に叙位・任官し、天保3年(1832年)3月9日の高秭の隠居で家督を継ぎ、3月23日に佐渡守に遷任する。

天保7年(1836年)の天候不順で凶作となり、藩財政が悪化する。このため、倹約や諸費節減を行なう一方で、天保14年(1843年)には吉武五郎大夫らによる荒地開墾を行ない、弘化元年(1844年)には領内南部の戸木地内下河原の開墾を行ない、雲出川の堤普請も行った。この開墾には武士、町民、農民などが総出で行い、豊かな田畑が開墾されることとなった。

しかし弘化4年(1847年)7月に久居城が全焼し、安政元年(1854年)の大地震、万延元年(1860年)の物価高騰などにより、財政は完全には好転しなかった。嘉永4年(1851年)には文武を奨励し、また外国船の到来に備えて安政3年(1856年)に壮士組を編成し、オランダ式の軍備拡張を行なっている。

文久3年(1863年)、本家の津藩の代理として第14代将軍・徳川家茂に従って上京するが、まもなく病に倒れ、8月9日に久居で死去した。享年54。

久居市史』によると、高聴には嫡子として次男・高行がおり、高聴の死後に跡を継ぐはずだったが、高聴の後を追うように10月18日に死去したため、(高聴か高行の)養子である高邦が跡を継いだ。