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'''エンヤ'''({{lang-ga|Eithne Pádraigín Ní Bhraonáin}}、{{lang-en|Enya Patricia Brennan}}、[[1961年]][[5月17日]]{{efn2|公表されている生年月日は1961年5月17日であるが、アルバムの日本語版ライナーノートやインタビュー記事では、1962年生まれとするものもある<ref>松山晋也、ライナーノート、''Memory of Trees''、Warner Music UK Ltd.、1995年11月6日。</ref><ref>伊藤なつみ、ライナーノート、''Paint the Sky with Stars-The Best of Enya''、Warner Music UK Ltd.、1997年。</ref><ref>服部のり子「Featured Artists/Special Interview」『CD Journal』2005年12月号、音楽出版社、pp. 6-8。</ref>。}} -)は、[[アイルランド]]の[[歌手]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]]、[[音楽家]]。音楽一家に生まれ、[[アイルランド語]]圏の[[ドニゴール |
'''エンヤ'''({{lang-ga|Eithne Pádraigín Ní Bhraonáin}}、{{lang-en|Enya Patricia Brennan}}、[[1961年]][[5月17日]]{{efn2|公表されている生年月日は1961年5月17日であるが、アルバムの日本語版ライナーノートやインタビュー記事では、1962年生まれとするものもある<ref>松山晋也、ライナーノート、''Memory of Trees''、Warner Music UK Ltd.、1995年11月6日。</ref><ref>伊藤なつみ、ライナーノート、''Paint the Sky with Stars-The Best of Enya''、Warner Music UK Ltd.、1997年。</ref><ref>服部のり子「Featured Artists/Special Interview」『CD Journal』2005年12月号、音楽出版社、pp. 6-8。</ref>。}} -)は、[[アイルランド]]の[[歌手]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]]、[[音楽家]]。音楽一家に生まれ、[[アイルランド語]]圏の[[ドニゴール県]][[グウィドー]]で育つ。1980年、エンヤの兄姉ほか家族が結成した[[ケルト音楽]]グループ「[[クラナド]]」に加わり、キーボードおよびコーラス<!-- backing vocals -->を担当し、音楽家としてのキャリアを歩み始める。1982年、ソロ活動を追求するため、クラナドのマネージャーおよびプロデューサーを務めていた{{仮リンク|ニッキー・ライアン|en|Nicky Ryan}}と、後にエンヤの楽曲の作詞を手がけることになる{{仮リンク|ローマ・ライアン|en|Roma Ryan}}夫妻とともにクラナドを脱退。それから4年の歳月をかけて、[[マルチトラック・レコーダー|デジタル・マルチトラック・レコーダー]]を駆使したボーカルとキーボードの多重録音や、[[ニューエイジ・ミュージック|ニューエイジ]]、ケルト音楽、クラシック音楽、教会音楽、民俗音楽の要素を取り入れた、エンヤ独自のサウンドを作り上げていく。アイルランドの伝統的な文脈の上で、テクノロジーを活かした作曲を行う。[[録音|レコーディング]]では、さまざまな楽器を自身で演奏する[[マルチプレイヤー (音楽)|マルチプレイヤー]]でもある。これまでに10の言語で歌っている。 |
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エンヤがソロアーティストとして最初に取り組んだ企画は、映画『ザ・フロッグ・プリンス』(1984年)のサウンドトラック作品と1987年の[[英国放送協会|BBC]]のドキュメンタリーシリーズ『The Celts』で、同番組の主題曲「ケルツ」はデビューアルバム『エンヤ』(1987年)に収録され、リリースされた。[[ワーナー・ミュージック・グループ|ワーナーミュージックUK]]と契約を交わすと、エンヤは芸術の自由を与えられ、レーベルからの最小限の干渉を認められた。『ウォーターマーク』(1988年)が商業的に成功し、シングル「オリノコ・フロウ」が各国のチャートでトップ10入りしたことで、エンヤは世界的な名声を得るまでになった。それに続いて、『シェパード・ムーン』(1991年)、『メモリー・オブ・トゥリーズ』(1995年)、『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』(2000年)の各アルバムが数百万枚を売り上げた。アルバム『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』および、そのリードシングル「オンリー・タイム」の売上高は、2001年に[[アメリカ同時多発テロ事件]]のマスコミ報道で同曲が使用されたことを受けて、アメリカ合衆国で急上昇した。『アマランタイン』(2005年)と『[[雪と氷の旋律]]』(2008年)の発売後、しばらく音楽活動を休止したが、2012年に復帰し、『ダーク・スカイ・アイランド』(2015年)を発売した。 |
エンヤがソロアーティストとして最初に取り組んだ企画は、映画『ザ・フロッグ・プリンス』(1984年)のサウンドトラック作品と1987年の[[英国放送協会|BBC]]のドキュメンタリーシリーズ『The Celts』で、同番組の主題曲「ケルツ」はデビューアルバム『エンヤ』(1987年)に収録され、リリースされた。[[ワーナー・ミュージック・グループ|ワーナーミュージックUK]]と契約を交わすと、エンヤは芸術の自由を与えられ、レーベルからの最小限の干渉を認められた。『ウォーターマーク』(1988年)が商業的に成功し、シングル「オリノコ・フロウ」が各国のチャートでトップ10入りしたことで、エンヤは世界的な名声を得るまでになった。それに続いて、『シェパード・ムーン』(1991年)、『メモリー・オブ・トゥリーズ』(1995年)、『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』(2000年)の各アルバムが数百万枚を売り上げた。アルバム『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』および、そのリードシングル「オンリー・タイム」の売上高は、2001年に[[アメリカ同時多発テロ事件]]のマスコミ報道で同曲が使用されたことを受けて、アメリカ合衆国で急上昇した。『アマランタイン』(2005年)と『[[雪と氷の旋律]]』(2008年)の発売後、しばらく音楽活動を休止したが、2012年に復帰し、『ダーク・スカイ・アイランド』(2015年)を発売した。 |
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== 来歴 == |
== 来歴 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[File:Hotel, beach, and shipwreck south of R257 at Bunbeg - geograph.org.uk - 1159653.jpg|thumb|right|エンヤの故郷[[ドニゴール |
[[File:Hotel, beach, and shipwreck south of R257 at Bunbeg - geograph.org.uk - 1159653.jpg|thumb|right|エンヤの故郷[[ドニゴール県]][[グウィドー]]の上空からの眺め]] |
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1961年5月17日、アイルランド北西部の[[ドニゴール |
1961年5月17日、アイルランド北西部の[[ドニゴール県]][[グウィドー]]に生まれる<ref name="Larkin2011">{{cite book|last=Larkin|first=Colin|title=The Encyclopedia of Popular Music|url=https://books.google.com/books?id=_NNmFiUnSmUC&pg=PA972|accessdate=15 May 2018|date=27 May 2011|publisher=Omnibus Press|isbn=9780857125958|page=972}}</ref>。グウィドーは[[アイルランド語]]を第一言語とする[[ゲールタハト]]地域にある。出生名である Eithne Pádraigín Ní Bhraonáin は英国風に書くと Enya Patricia Brennan となり<ref name="Abjorensen2017">{{cite book|last=Abjorensen|first=Norman|title=Historical Dictionary of Popular Music|url=https://books.google.com/books?id=6ZyrDgAAQBAJ&pg=PA163|accessdate=15 May 2018|date=25 May 2017|publisher=Rowman & Littlefield Publishers|isbn=9781538102152|page=163}}</ref>、エンヤの母語である{{仮リンク|アルスター・アイルランド語|en|Ulster Irish|label=アイルランド語アルスター方言}}における Eithne の発音を表音式綴り字で表すと Enya となる。"Ní Bhraonáin" は「ブレナン家の娘」と翻訳される<ref name=smashhits1988>{{Cite journal|journal=Smash Hits |volume=21 |date=19 October 1988 |title=Personal File: Enya |url=http://enya.sk/2015/11/do-parsnips-scream-when-you-chop-them/ |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160331122355/http://enya.sk/2015/11/do-parsnips-scream-when-you-chop-them/ |archivedate=31 March 2016 }}</ref>。ローマカトリック教徒の音楽家一家に9人兄弟の三女(5番目の子)として生まれた<ref>{{cite web|url=http://www.musicandmeaning.com/site/enya_ksca_2.html|title=Enya interview on KSCA-FM (Transcript) – Part 2|publisher=Musicandmeaning|year=1996|accessdate=28 September 2019}}</ref>。父のレオ・ブレナンはアイルランドのショウバンド「スリーヴ・フォイ・バンド」のリーダーで、メナレックで居酒屋「Tábhairne Leo」を経営していた。遠縁にスペイン系の親類がおり、{{仮リンク|トーリー島|en|Tory Island}}に入植した先祖をもつ<ref name=billboard25Nov95>{{Cite journal|url=https://books.google.com/books?id=Pw0EAAAAMBAJ&pg=PA5|title=Enya: 'Memory,' Myth & Mythology|first=Timothy|last=White|date=25 November 1995|magazine=Billboard|page=5|accessdate=24 June 2016}}</ref>、母のバーバ・ブレナン(旧姓ドゥガン)はレオのバンドで演奏したアマチュア音楽家で<ref name=wsj2016/><ref name=allmusicbio>{{cite web|url=http://www.allmusic.com/artist/enya-mn0000988471/biography|title=Enya – Artist biography|website=AllMusic|first=Stephen Thomas|last=Erlewine|accessdate=3 January 2016}}</ref>、地元の学校で音楽を教えていた<ref>{{Cite news|title=Gaoth Dobhair teacher hopes for Euro vote on Friday|first=Michelle Nic|last=Phaidin|date=12 February 2012|accessdate=25 March 2016|work=Donegal Democrat|url=http://www.donegaldemocrat.ie/news/arts-culture-entertainment/37099/Gaoth-Dobhair-teacher-hopes-for-Euro.html}}</ref>。エンヤの母方の祖父のエーは地元の小学校の校長を務め、祖母はそこの教師だった。エーはグウィドー劇場の劇団の創設者でもあった<ref name=irishroots>{{Cite journal|url=http://enya-sailaway.blogspot.co.uk/2010/09/enya-su-irish-roots.html |title=Enya recalls a special day that would change her life forever |first=Enya |last=Brennan |date=September 2010 |volume=75 |journal=Irish Roots |accessdate=8 August 2016 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160820123307/http://enya-sailaway.blogspot.co.uk/2010/09/enya-su-irish-roots.html |archivedate=20 August 2016 }}</ref>。 |
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エンヤは自身の幼少期の家庭環境について、「とても平穏で幸せ」だったと述べている<ref name=tracks1989>{{Cite journal|title=The Country Girl|journal=Tracks|first=Max|last=Bell|date=January 1989|url=http://www.enyabookofdays.com/articles/wm-16.htm|accessdate=3 January 2016}}</ref>。3歳のとき、毎年開かれていたフェシ・キョール音楽祭で歌のコンテストに初めて出場した<ref name=irishroots/>。グウィドー劇場でパントマイムを演じたり、デリーベグの聖メアリー教会で兄弟と一緒に母の聖歌隊に参加して歌ったりもしている。小学校で英語を習い、4歳のときにピアノを習い始めた。「学校の勉強をした後、隣町にピアノのレッスンを受けに行って、その後また学校の勉強をしなくてはいけませんでした。...兄弟姉妹が外で遊んでいたのを憶えています...そして私は中にいてピアノを弾いていました。この1冊の大きな[[音階]]の本を何回も何回も練習しました。<ref name=smashhits1988/><ref name=telegraph2008>{{Cite web|url=https://www.telegraph.co.uk/culture/music/3562058/Enya-talks-about-her-new-album-And-Winter-Came.html|first=Jacques|last=Peretti|title=Enya talks about her new album And Winter Came|date=12 October 2008|accessdate=25 November 2012|work=The Daily Telegraph}}</ref>」11歳のとき、祖父が教育費を支払ってくれたおかげで、ミルフォードにある<ref name=wsj2016>{{cite news|url=https://www.wsj.com/articles/irelands-enya-on-how-life-by-the-sea-influenced-her-music-1458056146|title=Ireland's Enya on How Life by the Sea Influenced Her Music|date=15 March 2016|first=Enya|last=Brennan|newspaper=Wall Street Journal|accessdate=18 March 2016}}</ref>ロレット女子修道会が運営する<ref name=billboard25Nov95/>厳格な修道院の寄宿制学校で学び<ref name=irishroots/><ref name="verybestofenya-nicky">{{Cite AV media notes|first=Nicky|last=Ryan|title=The Very Best of Enya (Collector's Edition)|year=2009|type=CD booklet notes ("It's Been a Long Time"|publisher=Warner Music|id=825646850051}}</ref>、そこでクラシック音楽、美術、[[ラテン語]]、[[水彩|水彩画]]が趣味になっていった<ref name=billboard25Nov95/>。「あれほどの大家族から引き離されたことに衝撃を受けましたが、私の音楽にとっては良いことでした。<ref name=smashhits1988/>」17歳のときに学校を退学し、「ピアノの先生のような人」になるために<ref name=hotpress1987>{{Cite journal|title=Enya: The Latest Score|first=Bill|last=Graham|date=1987|journal=Hot Press|url=http://www.enyabookofdays.com/articles/wm-1.htm}}</ref>、カレッジで1年間クラシック音楽を学んだ<ref name=smashhits1988/>。それでも「まさか自分が作曲をしたりステージに立ったりするとは思っていませんでした」という<ref name=hotpress1987/>。 |
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2020年8月30日 (日) 23:42時点における版
エンヤ (Enya) | |
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出生名 | Eithne Pádraigín Ní Bhraonáin |
生誕 | 1961年5月17日(63歳) |
出身地 |
アイルランド ドニゴール県グウィドー[1] |
ジャンル | ニューエイジ |
職業 | 歌手、作曲家、音楽家 |
担当楽器 | ピアノほか |
活動期間 | 1980年 - |
共同作業者 |
ニッキー・ライアン ローマ・ライアン |
公式サイト |
enya |
エンヤ(アイルランド語: Eithne Pádraigín Ní Bhraonáin、英語: Enya Patricia Brennan、1961年5月17日[注 1] -)は、アイルランドの歌手、作曲家、音楽プロデューサー、音楽家。音楽一家に生まれ、アイルランド語圏のドニゴール県グウィドーで育つ。1980年、エンヤの兄姉ほか家族が結成したケルト音楽グループ「クラナド」に加わり、キーボードおよびコーラスを担当し、音楽家としてのキャリアを歩み始める。1982年、ソロ活動を追求するため、クラナドのマネージャーおよびプロデューサーを務めていたニッキー・ライアンと、後にエンヤの楽曲の作詞を手がけることになるローマ・ライアン夫妻とともにクラナドを脱退。それから4年の歳月をかけて、デジタル・マルチトラック・レコーダーを駆使したボーカルとキーボードの多重録音や、ニューエイジ、ケルト音楽、クラシック音楽、教会音楽、民俗音楽の要素を取り入れた、エンヤ独自のサウンドを作り上げていく。アイルランドの伝統的な文脈の上で、テクノロジーを活かした作曲を行う。レコーディングでは、さまざまな楽器を自身で演奏するマルチプレイヤーでもある。これまでに10の言語で歌っている。
エンヤがソロアーティストとして最初に取り組んだ企画は、映画『ザ・フロッグ・プリンス』(1984年)のサウンドトラック作品と1987年のBBCのドキュメンタリーシリーズ『The Celts』で、同番組の主題曲「ケルツ」はデビューアルバム『エンヤ』(1987年)に収録され、リリースされた。ワーナーミュージックUKと契約を交わすと、エンヤは芸術の自由を与えられ、レーベルからの最小限の干渉を認められた。『ウォーターマーク』(1988年)が商業的に成功し、シングル「オリノコ・フロウ」が各国のチャートでトップ10入りしたことで、エンヤは世界的な名声を得るまでになった。それに続いて、『シェパード・ムーン』(1991年)、『メモリー・オブ・トゥリーズ』(1995年)、『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』(2000年)の各アルバムが数百万枚を売り上げた。アルバム『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』および、そのリードシングル「オンリー・タイム」の売上高は、2001年にアメリカ同時多発テロ事件のマスコミ報道で同曲が使用されたことを受けて、アメリカ合衆国で急上昇した。『アマランタイン』(2005年)と『雪と氷の旋律』(2008年)の発売後、しばらく音楽活動を休止したが、2012年に復帰し、『ダーク・スカイ・アイランド』(2015年)を発売した。
プライバシーを守るために決してコンサートツアーを行わないことでも知られる。アメリカ合衆国においてRIAA認定アルバムが2650万枚を売り上げ、全世界で推計7500万枚を売り上げている、アイルランドで最も売れたソロアーティストであり[5]、U2に次いでアイルランドで2番目に売れたアーティストである[6]。全時代を通じて最も売れた音楽アーティストのうちの1人として名を連ねている[7]。『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』(2000年)は全世界で推計1600万枚の売り上げを記録し、最も売れたニューエイジ・アルバムであり続けている[8]。ワールド・ミュージック・アワードを7度、グラミー賞の最優秀ニューエイジ・アルバム賞を4度[9]、アイヴァー・ノヴェロ賞を1度受賞している。映画『ロード・オブ・ザ・リング』(2001年)のために書いた「メイ・イット・ビー」は、アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。
エンヤ (Enya) は、ケルト音楽に影響を受けて独自の音楽を展開する女性ミュージシャン個人であり、音楽プロデューサーを務めるニッキー・ライアンと、その妻で歌詞を手がけるローマ・ライアンとの共同プロジェクト名でもある。生まれ故郷であるアイルランドを中心に活動を続けている。
作風
曲調は曲の断片を少し聞いただけでも彼女のものと判るほど特徴がある。クラシックと教会音楽を基礎に、故国アイルランドの音楽など、さまざまな要素を含有しており、ワルツ調の3拍子やその他変拍子の曲も見受けられる。メインボーカルやバックコーラスを彼女自身の声で幾度も(多いときはミステイク分も含めて一曲あたり200回ほど)録音し、重ねることでダイナミックかつ荘厳なサウンドを生み出すのが一番の特徴。そのエンヤ自身の声のコーラスと彼女自身が好む深いエコーが、終始一貫して広がりのある音を生む。テクノロジーを全面的に使用しているが、表現内容はアコースティック感を強く志向している。
初期の作品はアナログ/デジタル双方のシンセサイザーを駆使し、神話の世界をモチーフにした歌詞と共に、他の何とも似ていない力強く重厚な世界観を特徴としていたが、アルバム「メモリー・オブ・トゥリーズ」を発表したあたりから、神話の世界にとらわれることなく作曲をするようになり、曲自体もシンセサイザーを使いながらも主役はアコースティック楽器(またはそれに近い音声)やピアノとなり、明るく柔らかな曲調のものが増えてきた。その上で、アルバムに収録される曲の中には、必ず落ち着いた曲調のピアノ独奏曲が入る。また、彼女の曲は「ビジブル」(情景が良く思い浮かばれる)と言われる。
歌詞は基本的に英語であるが、曲により、ゲール語、ラテン語で書かれている場合がある。5thアルバム『アマランタイン』では、さらに日本語、ローマ・ライアンとともに作った架空の言語、“Loxian”で書かれた曲が収録されている。
彼女のアルバムリリース間隔は、4 - 6年である。独特の製作手法から1曲に費やす手間が多く(録音に3か月程度)、エンヤ自身が完璧主義者であるがゆえに、アルバム1枚を完成させるのに時間がかかる上、全精力を使ってアルバムをリリースした後は1年ほど休暇をとるためでもある。また、コンサート/ライブなどのスタジオ外部での活動の構想が、ファーストアルバムを発表した初期の頃からあるにもかかわらず、ここでも独自の制作方法が実現を難しくしてしまっている。このように活動内容は外部から見る限りそれほど活発とは思えないが、耳なじみの良い音に加え、何年か続く「癒し」ブーム、過去のナンバーがTVCMやドラマ、映画のテーマとして使用されるために、リスナーの印象が薄れにくく、それも人気を維持している。
来歴
生い立ち
1961年5月17日、アイルランド北西部のドニゴール県グウィドーに生まれる[10]。グウィドーはアイルランド語を第一言語とするゲールタハト地域にある。出生名である Eithne Pádraigín Ní Bhraonáin は英国風に書くと Enya Patricia Brennan となり[11]、エンヤの母語であるアイルランド語アルスター方言における Eithne の発音を表音式綴り字で表すと Enya となる。"Ní Bhraonáin" は「ブレナン家の娘」と翻訳される[12]。ローマカトリック教徒の音楽家一家に9人兄弟の三女(5番目の子)として生まれた[13]。父のレオ・ブレナンはアイルランドのショウバンド「スリーヴ・フォイ・バンド」のリーダーで、メナレックで居酒屋「Tábhairne Leo」を経営していた。遠縁にスペイン系の親類がおり、トーリー島に入植した先祖をもつ[14]、母のバーバ・ブレナン(旧姓ドゥガン)はレオのバンドで演奏したアマチュア音楽家で[15][16]、地元の学校で音楽を教えていた[17]。エンヤの母方の祖父のエーは地元の小学校の校長を務め、祖母はそこの教師だった。エーはグウィドー劇場の劇団の創設者でもあった[18]。
エンヤは自身の幼少期の家庭環境について、「とても平穏で幸せ」だったと述べている[19]。3歳のとき、毎年開かれていたフェシ・キョール音楽祭で歌のコンテストに初めて出場した[18]。グウィドー劇場でパントマイムを演じたり、デリーベグの聖メアリー教会で兄弟と一緒に母の聖歌隊に参加して歌ったりもしている。小学校で英語を習い、4歳のときにピアノを習い始めた。「学校の勉強をした後、隣町にピアノのレッスンを受けに行って、その後また学校の勉強をしなくてはいけませんでした。...兄弟姉妹が外で遊んでいたのを憶えています...そして私は中にいてピアノを弾いていました。この1冊の大きな音階の本を何回も何回も練習しました。[12][20]」11歳のとき、祖父が教育費を支払ってくれたおかげで、ミルフォードにある[15]ロレット女子修道会が運営する[14]厳格な修道院の寄宿制学校で学び[18][21]、そこでクラシック音楽、美術、ラテン語、水彩画が趣味になっていった[14]。「あれほどの大家族から引き離されたことに衝撃を受けましたが、私の音楽にとっては良いことでした。[12]」17歳のときに学校を退学し、「ピアノの先生のような人」になるために[22]、カレッジで1年間クラシック音楽を学んだ[12]。それでも「まさか自分が作曲をしたりステージに立ったりするとは思っていませんでした」という[22]。
デビュー以前
大学在学中(18歳のとき)、彼女の姉や兄ら兄弟3人と叔父2人が1970年代に結成したクラナド(CLANNAD)[注 2]に2年ほどの間加わり、ツアーの他、2枚のアルバム製作にも参加した。担当のパートはコーラス、ウーリッツァーのエレクトリックピアノやプロフェット5等の電子鍵盤楽器[注 3]。高校の卒業とともにカレッジでさらにクラシック音楽を学ぼうとしていた彼女を、当時クラナドのマネージャーでアルバム『フアム』からはプロデューサーを務めたニッキー・ライアン(Nicky Ryan)が、バンドにとって初めてのピアノとキーボードを入れるために誘ったのがきっかけ。
クラナドから脱退した彼女は、ニッキー・ライアンと彼の妻 ローマ・ライアン(Roma Ryan)らと共に曲作りを始める。まだ進むべき方向性を決める事が出来なかったエンヤに対し、彼らは自宅をスタジオとして提供。そこで製作された曲を聴いたローマ・ライアンは「音楽から様々な情景が見えるから、映画音楽をやってみては?」とアドバイスした。そこで、実際に映画監督デイビット・パットナムに7、8曲の楽曲を送ったところ気に入られ、それがきっかけで映画「The Frog Prince」(1985年)への楽曲提供が決まった。この楽曲提供に関し、後にエンヤは「まだ方向が決まっていなかったから、オーケストラ編曲にしてしまった。」と語っている。
この頃、エンヤは144チャンネルもの音声トラックを高品質に同時録音/再生できるデジタル・マルチトラック・レコーダー(144チャンネルは、デジタル録音黎明期の当時としては異常なほどに多いチャンネル数である)の存在と多重録音コーラスによる楽曲制作のアイデアをニッキー・ライアンから伝えられる。このレコーダーは、後に彼女の音楽の特徴となる、彼女自身の声を多重録音した重厚なコーラスを実現する上で不可欠な道具となった。以後の音楽製作では2台の144チャンネルデジタル・マルチトラック・レコーダーを常に使っており、その重要性は、エンヤ自身が「知らなかったら、その辺でピアノの教師でもしてたでしょうね。」と語るほどである。
映画音楽の次に決まった仕事がイギリスのBBCのプロデューサーであるトニー・マッコーリーの依頼であり、1986年に放映されたテレビドキュメンタリー番組『The Celts』(日本ではNHKで『幻の民ケルト』として放送)のためのサウンドトラックである。この番組は当初アイルランド出身の複数のアーティストの楽曲が使われる予定であったが、番組スタッフが提供された「March of the Celts」等の楽曲を非常に気に入り、番組中すべてのトラック製作をエンヤに依頼することに決定した。
CDデビュー以後
- 1986年、BBCエンタープライゼスが『The Celts』のサウンドトラックをアルバムとしてまとめ、『ENYA』(日本では「アイルランドの風」というタイトルでジムコより発売)として発表。アイルランドのアルバムヒットチャートでは1位のU2『ヨシュア・トゥリー』に次ぐヒットとなる(事実上のデビュー作)。
- 1987年、当時のワーナーミュージックUK(W.E.A/UK)の社長ロブ・ディケンズが『The Celts』のサウンドトラックを気に入り、自らエンヤのスタジオを訪ね「制作費は全て出すし、何年かかっても良いから、一枚のアルバムを作って欲しい。シングルヒットを考えなくて良いから、一枚の作品として評価されるアルバムを作ってください」と申し出たのをきっかけに、アルバム『ウォーターマーク』の製作が始まる。
- 1988年(日本デビュー作)「オリノコ・フロウ」(Orinoco Flow)が、記録的なヒットとなる。アルバム『ウォーターマーク』(Watermark)発表。
- 1991年セカンドアルバム『シェパード・ムーン』が発売された。イギリスではアルバムチャート1位入り、アメリカではビルボード・チャートに計199週(約4年)チャート・イン。
- 1992年龍村仁監督ドキュメンタリー映画『地球交響曲第一番』出演(楽曲は第二番、第三番にも使用)
- 1995年サードアルバム『メモリー・オブ・トゥリーズ』が発売された。
- 1997年に発売されたベストアルバム『ペイント・ザ・スカイ〜ザ・ベスト・オブ・エンヤ』は日本だけで200万枚を売る大ヒットになった[23]。日本初回限定盤では、ボーナストラックとして、ゲール語版『きよしこの夜』が収録されている。
- 2000年代の活動
- 2000年、4thアルバム、『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』が発売され、全世界で1000万枚近いヒットとなった[24]。この頃になると日本での人気も完全に定着し、しばしばTV番組で歌声を披露するようになる。
- 2001年、ファンタジー大作として有名な『指輪物語』(J・R・R・トールキン原作)のファンであるという彼女は、映画『ロード・オブ・ザ・リング』に「メイ・イット・ビー」という曲を提供した。
- 2004年、初めて日本語で歌った曲「菫草〜SUMIREGUSA〜」をPanasonic「ビエラ」のCMソングとして発表した。この曲は松尾芭蕉の『野ざらし紀行』をモチーフにしている。
- 2005年11月には、5thアルバム『アマランタイン』が発売され、上記CMで注目された「菫草〜SUMIREGUSA〜」も収録された。
- 2006年11月には、5thアルバム『アマランタイン』に新録音の新曲4曲を加えたアルバム『アマランタイン〜プレミアム・ウィンター・エディション』が発売された。2005年発売の『アマランタイン』のディスクと、新曲が収録されたディスクの計2枚で構成されている。
- 2008年、6thアルバム『And Winter Came』が発売された。この年の12月31日、『第59回NHK紅白歌合戦』にて特別企画として「オリノコ・フロウ〜ありふれた奇跡」を歌唱し、日本では話題になった。
- 2009年、11月『The Very Best of Enya』を発売。
- 2015年、11月『Dark Sky Island』を発売。12月に来日し、日本テレビ系情報番組『ZIP!』や『スッキリ!!』へ出演。また、ユニバーサルスタジオジャパンへサプライズゲストとして登場する。
日本との関わり
日本でもCMや番組のエンディングなどに彼女の曲が多用されている。日本で爆発的に売れたのは、1992年にトム・クルーズが主演した映画『遥かなる大地へ』のサウンドトラックとして使われた「Book Of Days」からである。日本では一般層を中心に、癒し系音楽の第一人者として認知されている。
2005年5月9日、アイルランドを訪問されていた当時の天皇皇后両陛下は、ダブリン市長公邸にてアイルランド文芸関係者と歓談の場を持った。そこには皇后陛下の希望で特別にエンヤも招待された。彼女は天皇皇后両陛下が日本で自身の音楽を聴くことを知り、彼女は感激したという。
また、日本の着物が好きで、来日すると買ってしまうという。
作品
シングル
- Orinoco Flow(1988年)
- c/w Hope Has A Place
- c/w Pax Deorum
- The Celts(1992年)
- c/w Oíche Chiún (Silent Night, Holy Night) /きよしこの夜(イーハ・ヒューイン)
- c/w Storms In Africa Part2
- c/w Eclipse
- Only time(2001年1月24日)
- c/w The First Of Autumn
- c/w The Promise
- Wild Child(2001年3月22日)
- c/w Midnight Blue
- c/w Song Of The Sandman
- May it be(2002年3月19日)
- c/w Isobella
- c/w First of Autumn
- Amarantine(2005年11月16日、WPCR-12186)
- c/w The Comb Of The Winds
- c/w The Spaghetti Western Theme From The Celts
アルバム
- 『エンヤ』(ENYA)(1986年)
- 1986年に発表されたドキュメンタリー番組『The Celts』のためのサウンドトラックをまとめたもの。日本では『ケルツ』として再編集されたものが発表されているのみで、アルバムとしては国内盤未発売。1998年にJIMCOレコードから邦題『アイルランドの風』としてリリースされている(JIM 0001)。アーティ・マクグリン(Arty McGlynn 、アーティ・マグリン) や、リアム・オフリン(Liam O'Flynn ) らが参加しており、ライナーノーツには参加アーティストの他に、YAMAHA DX7やmoogなど、使われたシンセサイザーの名前がすべて書き記されている。また、2曲目の「アルデバラン」には、「リドリー・スコットに捧げる」と添え書きされている。
- 「ケルツ」(The Celts)
- 1992年にシングルカットされる。
- 「アルデバラン」(Aldebaran )
- 「アイ・ウォント・トゥモロー」(I Want Tomorrow)
- イギリスでは翌年の1987年にシングル発売されたが、日本デビューを果たしておらず日本では未発売
- 「マーチ・オブ・ザ・ケルツ」(March of the Celts)
- 「ジェル・アン・トゥア」(Deireadh an Tuath 、ヂェルー・アン・トゥアハ)
- 「ザ・サン・イン・ザ・ストリーム」(The Sun in the Stream)
- 「トゥー・ゴー・ビヨンド(1)」(To go Beyond (I))
- 「フェアリーテール」(Fairytale)
- 大丸心斎橋店旧本館で閉店放送のBGMとして使用された。
- 「エポナ」(Epona)
- 「三題詩:セント・パトリック、クーホリン、オシーン」(Triad: St. Patrick, Cú Chullain, Oisin)
- 「ポートレイト」(Portrait)
- 「ボーディセア」(Boadicea)
- 「バード・ダンス」(Bard Dance)
- 「ダナドゥール」(Dan y Dŵr)
- 「トゥー・ゴー・ビヨンド(2)」(To go Beyond (II))
- 「ケルツ」(The Celts)
- 1986年に発表されたドキュメンタリー番組『The Celts』のためのサウンドトラックをまとめたもの。日本では『ケルツ』として再編集されたものが発表されているのみで、アルバムとしては国内盤未発売。1998年にJIMCOレコードから邦題『アイルランドの風』としてリリースされている(JIM 0001)。アーティ・マクグリン(Arty McGlynn 、アーティ・マグリン) や、リアム・オフリン(Liam O'Flynn ) らが参加しており、ライナーノーツには参加アーティストの他に、YAMAHA DX7やmoogなど、使われたシンセサイザーの名前がすべて書き記されている。また、2曲目の「アルデバラン」には、「リドリー・スコットに捧げる」と添え書きされている。
- 『ウォーターマーク』(Watermark)(1989年2月23日)
- 当時のW.E.A/UKの社長であるロブ・ディケンズがエグゼクティブプロデューサー。
- 「ウォーターマーク」
- 「Exile」のカップリングとして3曲目に収録。
- 「カッスム・パフィスィオ」(Cursum Perficio)
- 呪文めいたこの曲は、ラテン語で歌われる。
- 「オン・ユア・ショア」(On Your Shore)
- 「Exile」のカップリングとして2曲目に収録。
- 「ストームス・イン・アフリカ」(Storms in Africa)
- 「エクサイル(流浪)」(Exile)
- シングルとして発売
- 「ミス・クレア・リメンバーズ」(Miss Clare Remembers)
- 「オリノコ・フロウ」(Orinoco Flow)
- 「イヴニング・フォールズ」(Evening Falls)
- 「リヴァー」(River)
- 「Exile」のカップリングとして4曲目に収録。
- 「ザ・ロングシップス」(The Longships)
- 「ナ・ラハ・ギィアル・モイゲ」(Na Laetha Geal M'óige)
- 題はゲール語で「輝ける我が青春の日々」といった意味である。
- 「ウォーターマーク」
- 当時のW.E.A/UKの社長であるロブ・ディケンズがエグゼクティブプロデューサー。
- 『シェパード・ムーン』(Shepherd Moons)(1991年11月19日)
- Shepherd Moons
- Caribbean Blue
- シングルはアルバムよりも19秒短い。
- How Can I Keep From Singing?
- Ebudae
- Angeles
- No Holly For Miss Quinn
- Book Of Days
- 日本ではシングルとしてではなく6曲入りのミニアルバム形式で発売されている。シングルCDは輸入盤で入手可能。
- Evacuse
- Lothlorien
- Marble Halls
- Afer Ventus
- Smaointe...
- 『ケルツ』(The Celts)(1992年12月10日)
- 『ENYA』を再編集したもので、11曲目の「ポートレイト」のみ、曲の後半部分が伸ばされた別の版(Portrait (Out of the Blue) )に差し替えられている。
- 『メモリー・オブ・トゥリーズ』(The Memory of Trees)(1995年12月5日)
- 「メモリー・オブ・トゥリーズ」(The Memory of Trees)
- 「エニウェア・イズ」(Anywhere is)
- 「パクス・デオルム」(Pax Deorum)
- 「エヘ・レ・ナム」(Athair Ar Neamh)
- 「フロム・ホエア・アイ・アム」(From Where I am)
- 「チャイナ・ローゼズ」(China Roses)
- 「ホープ・ハズ・ア・プレイス」(Hope Has a Place)
- 「ティー・ハウス・ムーン」(Tea-House Moon)
- 「ワンス・ユー・ハド・ゴールド」(Once You had Gold)
- プロボクサー長谷川穂積の入場曲に使用された。
- 「ラ・ソニャドラ」(La Soñadora)
- 「オン・マイ・ウェイ・ホーム」(On My Way Home)
- 「オリエル・ウィンドウ」(Oriel Window)
- 日本版ボーナストラック
- 『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』(a day without rain)(2000年11月17日)
- 『アマランタイン』(Amarantine)(2005年11月23日)
- Less than a pearl
- Amarantine
- シングルとは違うバージョン。
- It's in the rain
- If I could be where you are
- The river sings
- 日本テレビのFIFAクラブワールドカップ公式テーマソングに使用された。
- Long long journey
- Sumiregusa(「菫草」)
- エンヤが初めて日本語で書いた曲
- Someone said goodbye
- A moment lost
- Drifting
- Amid the falling snow
- Water shows the hidden heart
- 『雪と氷の旋律』(And winter came)(2008年11月11日)
- And winter came(雪と氷の旋律)
- Journey Of The Angels(ジャーニー・オブ・ジ・エンジェルズ )
- White Is in the Winter Night(ウィンター・ナイト)
- O Come, O Come, Emmanuel(オー・カム・オー・カム・エマニュエル)
- Trains and Winter Rains(ウィンター・レイン )
- Dreams Are More Precious(ありふれた奇跡)
- 日本ではドラマ『ありふれた奇跡』の主題歌に起用された。
- Last Time by Moonlight(ラスト・タイム・バイ・ムーンライト)
- One Toy Soldier(おもちゃの兵隊 )
- Stars and Midnight Blue(スターズ・アンド・ミッドナイト・ブルー)
- The Spirit of Christmas Past(ザ・スピリット・オブ・クリスマス・パスト)
- My! My! Time Flies!(マイ!マイ!タイム・フライズ!)
- Oíche Chiúin (Chorale)(イーハ・ヒューイン)(「きよしこの夜」)
- 『ダーク・スカイ・アイランド』(Dark Sky Island)(2015年11月20日)
- The Humming(ザ・ハミング)
- So I Could Find My Way(ソー・アイ・クッド・ファインド・マイ・ウェイ)
- Even In The Shadows(イーヴン・イン・ザ・シャドウズ)
- The Forge Of The Angels(ザ・フォージ・オブ・ジ・エンジェルズ)
- Echoes In Rain(エコーズ・イン・レイン)
- I Could Never Say Goodbye(アイ・クッド・ネヴァー・セイ・グッバイ)
- Dark Sky Island(ダーク・スカイ・アイランド)
- Sancta Maria(サンクタ・マリア)
- Astra et Luna(アストラ・エ・ルナ)
- The Loxian Gates(ザ・ロクシャン・ゲイツ)
- Diamonds On The Water(ダイアモンズ・オン・ザ・ウォーター)
- Solace(サラス)
- Pale Grass Blue(ペイル・グラス・ブルー)
- Remember Your Smile(リメンバー・ユア・スマイル)
脚注
注釈
- ^ 公表されている生年月日は1961年5月17日であるが、アルバムの日本語版ライナーノートやインタビュー記事では、1962年生まれとするものもある[2][3][4]。
- ^ このグループには、今ではソロ活動も行っている長姉のモイア・ブレナンがおり、また、アルバム『フアム』(Fuaim)を最後にエンヤが抜けて後、1982年に「ハリーズ・ゲームのテーマ」(Theme From Harry's Game)がヒットし、一躍有名になった。
- ^ エンヤは後に、この頃に当時のアナログシンセサイザー音声を使ったハイテクサウンドとトラディショナルサウンドをブレンドさせたスタイルを見つけ出し発展させたと語っている。
出典
- ^ “エンヤ プロフィール”. ワーナーミュージック・ジャパン. 2016年3月17日閲覧。
- ^ 松山晋也、ライナーノート、Memory of Trees、Warner Music UK Ltd.、1995年11月6日。
- ^ 伊藤なつみ、ライナーノート、Paint the Sky with Stars-The Best of Enya、Warner Music UK Ltd.、1997年。
- ^ 服部のり子「Featured Artists/Special Interview」『CD Journal』2005年12月号、音楽出版社、pp. 6-8。
- ^ “Enya's New Alrates Winter”. NPR. 14 August 2009閲覧。
- ^ “RIAA: Top Selling Artists”. RIAA. 13 June 2012閲覧。
- ^ Savage, Mark (October 23, 2015). “Enya says tour would be 'very possible'”. BBC News October 27, 2016閲覧。
- ^ “New Age Albums”. Billboard. 17 January 2012閲覧。
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- ^ a b c d “Personal File: Enya”. Smash Hits 21. (19 October 1988). オリジナルの31 March 2016時点におけるアーカイブ。 .
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- ^ Erlewine, Stephen Thomas. “Enya – Artist biography”. AllMusic. 3 January 2016閲覧。
- ^ Phaidin, Michelle Nic (12 February 2012). “Gaoth Dobhair teacher hopes for Euro vote on Friday”. Donegal Democrat 25 March 2016閲覧。
- ^ a b c Brennan, Enya (September 2010). “Enya recalls a special day that would change her life forever”. Irish Roots 75. オリジナルの20 August 2016時点におけるアーカイブ。 8 August 2016閲覧。.
- ^ Bell, Max (January 1989). “The Country Girl”. Tracks 3 January 2016閲覧。.
- ^ Peretti, Jacques (12 October 2008). “Enya talks about her new album And Winter Came”. The Daily Telegraph. 25 November 2012閲覧。
- ^ Ryan, Nicky (2009). The Very Best of Enya (Collector's Edition) (CD booklet notes ("It's Been a Long Time"). Warner Music. 825646850051。
- ^ a b Graham, Bill (1987). “Enya: The Latest Score”. Hot Press .
- ^ international news、ワーナーミュージック・ジャパン、2000年10月2日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ a b アマランタイン〜プレミアム・ウィンター・エディション〜[Limited Edition]、Amazon.co.jp(2009/2/10閲覧)
関連項目
外部リンク
- 公式サイト
- Enya / エンヤ(ワーナーミュージック・ジャパン)
- Enya(英語版公式サイト)
- ファンサイト等の非公式サイト
- Willows On The Water - Unofficial Enya's Website(リンク切れ)
- The Enya Discography(英語)
- デビューから2002年まで発売されたシングル等のエンヤのメディア出版物情報を日本独自で発売したシングル等イギリス以外で発売された物についても網羅するなど細かな情報が記載されている。