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「レオノーラ・キャリントン」の版間の差分

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レオノーラ・キャリントンは1917年4月6日、イングランド西北部[[ランカシャー州]]チョーリー・[[バラ (行政区画)|バラ]]の{{仮リンク|クレイトン=ル=ウッズ|en|Clayton-le-Woods}}<ref>正確には、ランカシャー州チョーリーバラの23の[[イングランドの行政区画|シヴィル・パリッシュ]]([[行政教区]])の一つクレイトン=ル=ウッズのクレイトン・グリーン。</ref>に生まれた。キャリントン家の建物は「クルッキー邸」という[[ゴシック建築|ゴシック]]風の大邸宅で、[[女中]]、[[庭師]]、ハンツマン([[キツネ狩り (ブラッド・スポーツ)|キツネ狩り]]の[[猟犬]]係)など多くの[[家事使用人|使用人]]を抱えていた。この館は、キャリントンの小説では「クラックウッド」という名称で登場するが、小説家・[[歴史家]]の{{仮リンク|マリーナ・ウォーナー|en|Marina Warner|label=}}によると、[[監禁]]、抑圧、[[懲罰]]などの象徴であり<ref name=":0">{{Cite book|title=Down Below|date=|year=2017|publisher=The New York Review of Books|author=Leonora Carrington|series=NYRB Classics|language=en|chapter=Marina Warner, Introduction}}</ref>、晩年に発表された代表作《'''クルッキー邸'''》([[国立女性美術館]]蔵)でも、この館から脱出する女性が描かれている(この絵は、生誕100年に再刊された自伝小説『ダウン・ビロウ』の[[表紙]]に使用された)<ref>{{Cite web|title=Crookhey Hall (1986)|url=https://nmwa.org/works/crookhey-hall|website=nmwa.org|accessdate=2019-10-06|publisher=National Museum of Women in the Arts}}</ref>。
レオノーラ・キャリントンは1917年4月6日、イングランド西北部[[ランカシャー州]]チョーリー・[[バラ (行政区画)|バラ]]の{{仮リンク|クレイトン=ル=ウッズ|en|Clayton-le-Woods}}<ref>正確には、ランカシャー州チョーリーバラの23の[[イングランドの行政区画|シヴィル・パリッシュ]]([[行政教区]])の一つクレイトン=ル=ウッズのクレイトン・グリーン。</ref>に生まれた。キャリントン家の建物は「クルッキー邸」という[[ゴシック建築|ゴシック]]風の大邸宅で、[[女中]]、[[庭師]]、ハンツマン([[キツネ狩り (ブラッド・スポーツ)|キツネ狩り]]の[[猟犬]]係)など多くの[[家事使用人|使用人]]を抱えていた。この館は、キャリントンの小説では「クラックウッド」という名称で登場するが、小説家・[[歴史家]]の{{仮リンク|マリーナ・ウォーナー|en|Marina Warner|label=}}によると、[[監禁]]、抑圧、[[懲罰]]などの象徴であり<ref name=":0">{{Cite book|title=Down Below|date=|year=2017|publisher=The New York Review of Books|author=Leonora Carrington|series=NYRB Classics|language=en|chapter=Marina Warner, Introduction}}</ref>、晩年に発表された代表作《'''クルッキー邸'''》([[国立女性美術館]]蔵)でも、この館から脱出する女性が描かれている(この絵は、生誕100年に再刊された自伝小説『ダウン・ビロウ』の[[表紙]]に使用された)<ref>{{Cite web|title=Crookhey Hall (1986)|url=https://nmwa.org/works/crookhey-hall|website=nmwa.org|accessdate=2019-10-06|publisher=National Museum of Women in the Arts}}</ref>。


父ハロルド・キャリントンは裕福な[[繊維業]]者で、家業のキャリントン・コットンズ社を、当時、英国最大の繊維会社であった{{仮リンク|コートールズ|en|Courtaulds|label=}}社<ref>{{Cite web|title=コートールズ|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA-65614|website=[[コトバンク]]|accessdate=2019-10-06|language=ja|publisher=}}</ref>に売却し、化学会社[[インペリアル・ケミカル・インダストリーズ]]の筆頭[[株主]]となった。母メイリー(旧姓ムーアヘッド)は[[アイルランド]]中部[[ウェストミーズ]]の[[医師]]の娘であった。キャリントンは、母メイリーに読み聞かせられたアイルランドの詩人・小説家{{仮リンク|ジェームズ・スティーヴンス (作家)|en|James Stephens (author)|label=ジェームズ・スティーヴンス}}の作品、父ハロルドが好んだ[[W・W・ジェイコブズ]]の『[[猿の手]]』などの[[恐怖小説]]、さらに、[[ビアトリクス・ポター]]、[[エドワード・リア]]、[[ジョージ・マクドナルド]]などイングランド、[[スコットランド]]の[[童話]]、[[ナンセンス文学]]、[[幻想文学]]などの影響を受けているが、最も大きな影響を与えたのは、12歳になるまでいつも一緒に過ごした[[乳母]]メアリー・カヴァナから聞いたアイルランドの[[民話]]や[[ケルト神話]]である<ref name=":1">{{Cite web|title=Leonora Carrington: English-Born Mexican Painter and Sculptor|url=https://www.britannica.com/biography/Leonora-Carrington|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2019-10-06|language=en|publisher=|author=Naomi Blumberg}}</ref><ref name=":2">{{Cite news|title=Leonora Carrington|url=https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/culture-obituaries/art-obituaries/8539650/Leonora-Carrington.html|date=2011-05-26|accessdate=2019-10-06|issn=0307-1235|language=en-GB|newspaper=The Telegraph}}</ref>。後に[[スペイン]]までキャリントンを連れ戻しに行ったのもメアリー・カヴァナであった(後述)。
父ハロルド・キャリントンは裕福な[[繊維業]]者で、家業のキャリントン・コットンズ社を、当時、英国最大の繊維会社であった{{仮リンク|コートールズ|en|Courtaulds|label=}}社<ref>{{Cite web|title=コートールズ|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA-65614|website=[[コトバンク]]|accessdate=2019-10-06|language=ja|publisher=}}</ref>に売却し、化学会社[[インペリアル・ケミカル・インダストリーズ]]の筆頭[[株主]]となった。母メイリー(旧姓ムーアヘッド)は[[アイルランド]]中部[[ウェストミーズ]]の[[医師]]の娘であった。キャリントンは、母メイリーに読み聞かせられたアイルランドの詩人・小説家{{仮リンク|ジェームズ・スティーヴンス (作家)|en|James Stephens (author)|label=ジェームズ・スティーヴンス}}の作品、父ハロルドが好んだ[[W・W・ジェイコブズ]]の『[[猿の手]]』などの[[恐怖小説]]、さらに、[[ビアトリクス・ポター]]、[[エドワード・リア]]、[[ジョージ・マクドナルド]]などイングランド、[[スコットランド]]の[[童話]]、[[ナンセンス文学]]、[[幻想文学]]などの影響を受けているが、最も大きな影響を与えたのは、12歳になるまでいつも一緒に過ごした[[乳母]]メアリー・カヴァナから聞いたアイルランドの[[民話]]や[[ケルト神話]]である<ref name=":1">{{Cite web|title=Leonora Carrington: English-Born Mexican Painter and Sculptor|url=https://www.britannica.com/biography/Leonora-Carrington|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2019-10-06|language=en|publisher=|author=Naomi Blumberg}}</ref><ref name=":2">{{Cite news|title=Leonora Carrington|url=https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/culture-obituaries/art-obituaries/8539650/Leonora-Carrington.html|date=2011-05-26|accessdate=2019-10-06|issn=0307-1235|language=en-GB|newspaper=The Telegraph}}</ref>。後に[[スペイン]]までキャリントンを連れ戻しに行ったのもメアリー・カヴァナであった(後述)。


== 教育 ==
== 教育 ==

2020年8月30日 (日) 22:23時点における版

レオノーラ・キャリントン
Leonora Carrington
ファイル:Leonora Carrington MET (3470458844).jpg
《自画像(あけぼの馬の宿)》1937年-1938年(メトロポリタン美術館蔵)
生誕 1917年4月6日
イングランドの旗 イングランドクレイトン=ル=ウッズ英語版 (ランカシャー州チョーリーバラ)
死没 (2011-05-25) 2011年5月25日(94歳没)
メキシコの旗 メキシコメキシコシティ
国籍 イギリスの旗 イギリスメキシコの旗 メキシコ
著名な実績 絵画彫刻
代表作 《自画像(あけぼの馬の宿)》
《マックス・エルンストの肖像》
《グリーンティー(卵型の貴婦人)》
《ジャグラー(奇術師)》
《マヤ族の魔術的世界》
《クルッキー邸》
運動・動向 シュルレアリスム
配偶者 レナト・ルデュクスペイン語版
エメリコ・ヴァイススペイン語版
受賞 女性芸術コーカス生涯功労賞
1986年
大英帝国勲章
2000年 オフィサー
国家科学芸術賞スペイン語版
2005年
(メキシコ)
公式サイト www.leocarrington.com
後援者 エドワード・ジェームズ

レオノーラ・キャリントン(Leonora Carrington、1917年4月6日 - 2011年5月25日)は、イングランドに生まれ、主にフランスメキシコで活躍した画家彫刻家小説家マックス・エルンストとの出会いを機に、生涯にわたってシュルレアリスム絵画を制作。メキシコ亡命後、特に1990年代には先住民文化の影響を受けた彫刻作品を発表した。自伝的かつ超自然的な題材を扱った代表作「恐怖の館」「ダウン・ビロウ」「卵型の貴婦人」「耳ラッパ」はいずれも邦訳されている。

背景

レオノーラ・キャリントンは1917年4月6日、イングランド西北部ランカシャー州チョーリー・バラクレイトン=ル=ウッズ英語版[1]に生まれた。キャリントン家の建物は「クルッキー邸」というゴシック風の大邸宅で、女中庭師、ハンツマン(キツネ狩り猟犬係)など多くの使用人を抱えていた。この館は、キャリントンの小説では「クラックウッド」という名称で登場するが、小説家・歴史家マリーナ・ウォーナー英語版によると、監禁、抑圧、懲罰などの象徴であり[2]、晩年に発表された代表作《クルッキー邸》(国立女性美術館蔵)でも、この館から脱出する女性が描かれている(この絵は、生誕100年に再刊された自伝小説『ダウン・ビロウ』の表紙に使用された)[3]

父ハロルド・キャリントンは裕福な繊維業者で、家業のキャリントン・コットンズ社を、当時、英国最大の繊維会社であったコートールズ英語版[4]に売却し、化学会社インペリアル・ケミカル・インダストリーズの筆頭株主となった。母メイリー(旧姓ムーアヘッド)はアイルランド中部ウェストミーズ県医師の娘であった。キャリントンは、母メイリーに読み聞かせられたアイルランドの詩人・小説家ジェームズ・スティーヴンス英語版の作品、父ハロルドが好んだW・W・ジェイコブズの『猿の手』などの恐怖小説、さらに、ビアトリクス・ポターエドワード・リアジョージ・マクドナルドなどイングランド、スコットランド童話ナンセンス文学幻想文学などの影響を受けているが、最も大きな影響を与えたのは、12歳になるまでいつも一緒に過ごした乳母メアリー・カヴァナから聞いたアイルランドの民話ケルト神話である[5][6]。後にスペインまでキャリントンを連れ戻しに行ったのもメアリー・カヴァナであった(後述)。

教育

カトリック教徒の両親は、キャリントンをイングランド東部エセックスチェルムスフォードにある聖墳墓修道会の寄宿学校ニューホール・スクール英語版に入れたが、反抗的で勉強を一切しなかったために退学処分を受けた[7]。ランカシャー司教の取り計らいでバークシャー州アスコット英語版セント・メリーズ・スクール英語版転校したが、ここでも修道女らの手に負えない子どもであったため、両親は彼女を連れ戻さざるを得なくなった[2]

両親は次に彼女をパリ(フランス)とフィレンツェイタリア)の美術学校に入れた。両親としては良家の子女に必要な教養を身に付けさせ、社交界に出すための「フィニッシングスクール」のつもりであったが、いずれも長続きしなかった。だが、キャリントンは、フィレンツェのドナテッロ広場にあるミス・ペンローズの美術学校に通っていたときに、サセッタフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニジョヴァンニ・ディ・パオロフラ・アンジェリコなどの画家の作品に出会い、作品に描かれる超自然神秘に惹かれ、テンペラの技法や、シナバー辰砂)、ヴァーミリオン(銀朱)、アンバー(暗褐色・赤褐色)、土色、金色など後に彼女が好んで使う顔料の使い方を学んだ[2]

イングランドに戻った彼女は、画家になる決意をしていたが、両親は真っ向から反対した。社交界にデビューする年齢になった彼女は、1935年にリッツ・ロンドン舞踏会に出席し、バッキンガム宮殿ジョージ5世に紹介された[6][8]。この経験に基づいて数年後に書かれた短編小説「ラ・デビュタント(社交界にデビューした女性)」(短編集『卵型の貴婦人』所収)は、動物園で出会った雌のハイエナを連れて舞踏会に行くという設定である。1937年から翌38年に描かれた《自画像(あけぼの馬[9]の宿)》(メトロポリタン美術館蔵)にも雌のハイエナと野生の白馬、木馬が描かれており、いずれも彼女の絵や小説に繰り返し登場する題材である。

シュルレアリスム - エルンストとの出会い

それでもどうにか両親を説得したキャリントンは、1936年にチェルシー美術学校(現チェルシー・カレッジ・オブ・アーツ)、次いで同年にフランス・ピュリスムの画家アメデエ・オザンファンロンドンに設立したオザンファン学院に学んだ。同じ年にロンドンのニューバーリントン・ギャラリーで開催された国際シュルレアリスム展英語版で、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリジョルジョ・デ・キリコルネ・マグリットらの作品に出会い、さらにこの展覧会の英国側の主催者の一人ハーバート・リードが編纂した『シュルレアリスム』に掲載されたエルンストの作品《ナイチンゲールに脅かされる二人の子供》に深い共鳴を覚え、衝撃を受けた[8][10]。同年、オザンファン学院の同窓生で、ハンガリー出身の建築家エルノ・ゴールドフィンガー英語版の妻ウルスラが自宅で開いたディナーパーティーに招かれ、ここで展覧会のためにロンドンを訪れていたエルンストに出会った[6]。キャリントンは19歳、エルンストは46歳で、脚本家ジャン・オーランシュフランス語版の妹で2度目の妻マリー=ベルト・オーランシュフランス語版とは前年から別居していた(オーランシュは1940年に画家シャイム・スーティンと出会い、エルンストとは1942年に離婚。エルンストは同年、ペギー・グッゲンハイム英語版と再婚)[11](後述)。

翌1937年、キャリントンは両親の反対を押し切って渡仏し、パリ6区ジャコブ通りフランス語版のエルンストのアパートアトリエに身を寄せ、前年にロンドンで描き始めた《自画像(あけぼの馬の宿)》を完成させた。エルンストとは互いに刺激し合いながら作品世界を深め、翌38年にはキャリントンの最初の短編小説『恐怖の館』がエルンストの挿絵入りで発表された。著者紹介のための序文を寄せたのもエルンストで、彼はここでキャリントンを「風の花嫁」と呼んでいる[12]。エルンストはキャリントンを友人のポール・エリュアールアンドレ・ブルトンバンジャマン・ペレジャン・アルプマン・レイ、サルバドール・ダリ、マルセル・デュシャンジョアン・ミロパブロ・ピカソルイス・ブニュエルイヴ・タンギーらのシュルレアリスムの作家や画家に紹介した。ブルトンは彼女の小説と絵画を絶賛し、彼の勧めで1938年にパリ、次いでアムステルダムで開催された国際シュルレアリスム展フランス語版に出品するほか、1940年にブルトンが編纂したシュルレアリスムの傑作集『黒いユーモア選集』にも彼女の作品が掲載された(本書は当初、ヴィシー政権により発禁処分を受けた)[13][14]

キャリントンはまた、ドラ・マールリー・ミラーヴァランティーヌ・ユーゴーフランス語版ヌーシュ・エリュアールフランス語版らと並んで、シュルレアリストにとってのミューズである「ファム・アンファン(子どものように純真で、魅惑的な存在)」[15]と称されたが、後に、「私は誰かのミューズになっている暇なんかなかった・・・家族に反抗し、芸術家になるのに精いっぱいだったから」と語っている[16]

サン=マルタン・ダルデシュのキャリントンとエルンストの家 - 外壁にエルンストのレリーフ

1938年の夏、キャリントンは南仏のサン=マルタン・ダルデシュフランス語版オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏アルデシュ県)で古い農家を買い取り、エルンストとともにここに移り住んだ[17]。パリの喧騒を逃れて二人だけで暮らし、制作に専念するためであり、親友のエリュアールと妻ヌーシュのほか、ローランド・ペンローズフランス語版、リー・ミラー、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグレオノール・フィニら、ごく親しい画家や作家だけをこの家に招いた[18]。パリのマン・レイには、「エリュアールとヌーシュ以外の誰にも私たちの居場所を知らせないで」と書き送っている[17]。現在もこの家の外壁にエルンストのレリーフが残っている。

第二次大戦 - 別離

だが、1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻したことを受けて、フランスはドイツに宣戦布告ドイツ人のエルンストは敵性外国人としてフランス当局に逮捕され、ラルジャンティエールの刑務所に収監された。エリュアールはアルベール・サローフランス語版内相に「マックス・エルンストは20年前に二度と祖国の土を踏むことはないと決意し、フランスに移住しました。彼はサロンに出品した最初のドイツ人です」と、エルンストの釈放を求める手紙を書き、この結果、エルンストは数週間で保釈された[19]。だが、ナチス・ドイツがフランスに侵攻すると、再び今度はゲシュタポに逮捕され、ブーシュ=デュ=ローヌ県エクス=アン=プロヴァンスレ・ミル収容所に送られた[8][18]。彼は今やドイツにとっても「国家の敵」であった。彼の作品《美しき女庭師の帰還》が、ドイツ各地を巡回した退廃芸術展に出品されたのである。同じドイツ人のハンス・ベルメールフェルディナント・シュプリンガーフランス語版フランツ・ヘッセルドイツ語版も一緒であった[20]。ベルメールはこのとき、代表作《マックス・エルンストの肖像》を描いている。エルンストが救出されたのは、米国のジャーナリストヴァリアン・フライフランス語版の尽力によるものであった。彼は、フランスのユダヤ人反ナチ運動家らを米国に疎開させるために、エレノア・ルーズベルトの支援によって結成された緊急救助委員会 (ERC) によりマルセイユに派遣され、ブルトン、デュシャン、ペレ、マルク・シャガールら2,000人以上を主に米国に亡命させた[21]。エルンストはこのとき、ペギー・グッゲンハイムから経済的支援を受け、渡米後1942年に彼女と再婚する[22]

一方、愛するエルンストを失ったキャリントンは深い絶望に陥り、しかも、彼女もまた外国人であったために、英国人の友人の助力によりスペインに亡命した。だが、マドリードに着いたとき、強い不安被害妄想に襲われ、カンタブリア州サンタンデールの精神病院に収容された。彼女は後にこのときの症状や治療について『ダウン・ビロウ』を著し、「マックスが収容所に連れて行かれたとき、苦しみのあまり緊張病(カタトニー)のような状態になって、もう、尋常な世界ではなく別の場所にいて苦しんでいるような感じであった」と回想している。乳母メアリー・カヴァナが彼女を英国に連れ帰るために渡西したのはこのときのことだが、キャリントンは退院すると、スペインからモロッコ、さらにリスボンに逃亡し、同地のメキシコ大使館に向かった。かつてパリでピカソを介して知り合ったメキシコ人外交官レナト・ルデュクスペイン語版に会うためであった。1941年にルデュクは彼女を「外交官の妻として」米国に亡命させるために結婚した[23]

メキシコ

メキシコ国立人類博物館の壁画《マヤ族の魔術的世界》1963年

ニューヨークに到着したキャリントンはすでに亡命していたブルトン、デュシャン、タンギー、フェルナン・レジェアンドレ・マッソンらに再会した。翌42年にメキシコに移住した。メキシコには、スペイン内戦を逃れて亡命したシュルレアリスムの画家が多く住んでいた。キャリントンは、ルイス・ブニュエル、バンジャマン・ペレとスペイン出身の画家レメディオス・ヴァロの夫妻、オーストリア出身の画家ヴォルフガング・パーレンアリス・ラオンフランス語版の夫妻、ハンガリー出身の写真家カティ・オルナフランス語版らと知り合い、または再会し、とりわけ、キャリントンが「これまでに出会ったことのない強烈な想像力の持ち主」[24]と称賛したヴァロとは生涯にわたって交友を重ねることになる。二人はこの頃、共に降霊術錬金術ユダヤ教の神秘思想カバラチベット死者の書キチェ族の神話・歴史の書『ポポル・ヴフ』などに関心を寄せ、画題に取り入れている。また、女性の表象においても、様々な民族神話のモチーフにキリスト教的でかつ異教的な図像を組み合わせ、人間とも動物ともつかない神秘的な生き物として表現している[24]

メキシコ移住後まもなく、ロバート・キャパと同じハンガリー出身で、一時期彼と活動を共にした写真家エメリコ・ヴァイススペイン語版(またはイムル・ヴァイス、通称「チキ」)と出会って結婚。ガブリエルとパブロの二子をもうけた。

1947年、スペイン出身のシュルリアリスムの画家エステバン・フランセスフランス語版の紹介で英国の詩人美術品蒐集家で、特にシュルレアリストの支援者であったエドワード・ジェームズに出会った。キャリントンの絵に感銘を受けたジェームズは、サン・ルイス・ポトシ州にある彼のシュルレアリスムの館「ラス・ポサススペイン語版」(「プール」の意)に飾るフレスコ画の制作を依頼するほか[7][24]、特に彼女の初期の絵を多く購入し、ニューヨークのピエール・マティス(画家アンリ・マティスの息子)の画廊でキャリントンの個展を開催した[23]。1956年にメキシコ美術画廊英語版 (GAM)[25] で、最初の大規模な個展が行われた。同年、オクタビオ・パスとともに「朗読する前衛詩」劇場の活動に参加。彼はキャリントンを「魔法にかけられた魔女」、「イェイツの詩からうっかり出てきた夢遊病者」と表現した[12][24]

《クロコダイル》(2000年、メキシコシティ、レフォルマ通り

1960年に近代美術館スペイン語版で最初の大規模な回顧展が行われた。1964年には国立人類学博物館から依頼を受けて、壁画マヤ族の魔術的世界》(2.1 x 4.6 m)を制作した。キャリントンは生涯にわたってシュルレアリスムの絵を描き続けたが、特にチアパス州の先住民の文化に深い関心を抱き、1990年代にこの影響を受けたブロンズ彫刻を多く残している[26][27]

レオノーラ・キャリントン美術館(サン・ルイス・ポトシ)《サギの小舟》(提供写真:同美術館)

2000年に大英帝国勲章(オフィサー)を授与された[6]。2005年、メキシコの国家科学芸術賞スペイン語版を受賞。同年、クリスティーズ競売にかけられた絵画《ジャグラー》が71万3000ドルを付け、生存するシュルレアリスムの画家の作品としては最高額を記録した[5][28]

1997年から98年にかけて日本でレオノーラ・キャリントン展が開催され、東京ステーションギャラリー、大丸ミュージアム梅田、飛騨高山美術館を巡回した[29]

2011年5月25日、メキシコシティにて死去。享年94歳。

2018年3月22日、サン・ルイス・ポトシヒリトゥラ(いずれもサン・ルイス・ポトシ州)にレオノーラ・キャリントン美術館スペイン語版が開館した。

主な芸術作品

邦題(仮訳) 原題 制作年 画材(基底材)・寸法(cm)
《自画像(あけぼの馬の宿)》 Self-Portrait (Inn of the Dawn Horse) 1937-38 油彩キャンバス)65 x 81.2
(メトロポリタン美術館蔵)
《キャンドルスティック卿の食事》 The Meal of Lord Candlestick 1938 油彩(キャンバス)35.5 x 46
《キャンドルスティック卿の馬》 The Horses of Lord Candlestick 1938 油彩(キャンバス)35.5 x 46
《マックス・エルンストの肖像》 Portrait of Max Ernst 1939 油彩(キャンバス)65 x 81.2
《グリーンティー(卵型の貴婦人)》 Green Tea (La Dame Ovale) 1942 油彩(キャンバス)61 x 76.2
(ニューヨーク近代美術館蔵)
《チキ、あなたの国》 Chiki, ton pays 1944 テンペラ、インク(キャンバス)89.5 x 90.2
聖アントニウスの誘惑》 The Temptation of St. Anthony 1945 油彩(キャンバス)122 x 91
《太陽と他の星を動かす愛》 Amor che move il sole et l'altre stelle 1946
《大女(卵の守護神》 The Giantess (The Guardian of the Egg) 1947 テンペラ(板)120 x 69.2
《親切な助言》 Neighbourly Advice 1947 テンペラ(メゾナイト)25.4 x 38.1
《単旋聖歌》 Plain Chant 1947 油彩(キャンバス)90.2 x 68.6
《お忍びで旅をする芸術家》 La artista viaja de incognito 1949 油彩(キャンバス)45.1 x 35.3
《奇術師》 El Nigromante (The Conjurer) 1950 油彩(キャンバス)73.7 x 54.6
《サマイン》 Samain 1951
オコジョの競走(イタチの競走)》 Stoat Race (Ferret Race) 1950-51 油彩(キャンバス)101.5 x 56
《空飛ぶウルの壺》 The flying ur jar 1953 油彩(キャンバス)64.8 x 46.4
《ジャグラー(奇術師)》 Juggler (The Magician) 1954 油彩(キャンバス)95.2 x 95.2
《秘儀司祭(王太子妃のために)》 Hierophante, Pour Dauphine 1958 油彩(キャンバス) 99.1 x 48.3
《森の夢(19番目の穴)》 Un sueño en el bosque (The 19th hole) 1958 油彩(キャンバス)114.4 x 162.5
《さようなら、アメンホテプ Adieu Ammenotep 1960
《昆虫になりたい》 I Want to Be an Insect 1960 キネティック・アート 119.4 x 91.4
《鳥になりたかった》 Quería ser pájaro 1960 油彩(キャンバス)213 x 457
マヤ族の魔術的世界》 El mundo mágico de los mayas 1963 カゼインテンペラ(木)
(メキシコ国立人類学博物館蔵)
セイレーンの夢》(三連祭壇画 Sueño de Sirenas (triptych) 1963 油彩(キャンバス・板)100 x 126
ジョルダーノ・ブルーノ火刑 The Burning of Giordano Bruno 1964 油彩(キャンバス)
《ユダヤの女マリアの錬金術》 The Chrysopeia of Mary the Jewess 1964 油彩(キャンバス)150 x 90
《蜘蛛》 Spider 1967 水彩・グワッシュ(紙)61.6 x 75.6
《水曜の手術》 Operation Wednesday 1969 テンペラ(メゾナイト)60.3 x 44.8
《はしっこいジャック、すばしっこいジャック》 Jack be Nimble, Jack be Quick 1970
《チェンの孔雀 Peacocks of Chen 1971 油彩(キャンバス)
義肢装具を付けた自画像》 Self-portrait with orthopedic brace 1973 油彩(キャンバス)66 x 38.1
《邪悪な業》 Sinister Work 1973 水彩、インク、ペン(紙)55 x 74
ウォール街界隈またはNYのパブロの肖像》 Around Wall Street or portrait of Pablo in NY 1973
イチジクの母》 The Fig Mother 1974 カラー・モノプリント、淡彩 63.2 x 47.9
《最後の魚》 The Last Fish 1974 油彩(キャンバス)50.8 x 46.7
《鳥の水浴》 Bird Bath 1974 セリグラフ 88.9 x 69.9
《人物》 Personaje 1974 鉛筆・グワッシュ(板)50.8 x 9.4
ニジェールの太陽》 Sol Niger 1975 油彩(キャンバス)60.5 x 100.2
影遊び Play Shadow 1977 水彩、インク、鉛筆(厚紙)
騎手 Jinetes 1977 石版画 58.4 x 73.6
《牡牛》 Mula's ox (Cow) 1977 石版画 51.5 x 65
《論争》 Argument 1978 石版画(紙)49.5 x 63.5
《日曜日》 Domingo 1978 石版画 57.5 x 77.5
鐘楼 The Belfry 1980 油彩(メゾナイト)36.5 x 75
《クルッキー邸》 Crookhey Hall 1986 石版画(紙)43.5 x 76.5
(国立女性美術館蔵)
《恋人たち》 The Lovers 1987
《3月の日曜日》 March Sunday 1990 油彩(キャンバス)91.4 x 61
《記憶の塔》 The Memory Tower 1995 エッチングアクアチント繻子・紙)85 x 65.5
優美な屍骸 Cadavre Exquis 1997 アクリル絵具(キャンバス)(息子パブロとの共作)
クロコダイル Cocodrilo 2000 ブロンズ彫刻 26 x 83 x 14
《晩年のヤマウズラ夫人の肖像》 Portrait of the Late Mrs Partridge 2011 石版画(手製の紙)100 x 70

著書

邦題 原題 出版社・備考
『恐怖の館』 La Maison de la Peur 1938 H. Parisot、マックス・エルンスト挿絵、邦訳『恐怖の館』所収。
『ダウン・ビロウ』 Down Below 1944 ニューヨークに亡命したシュルレアリストの雑誌『VVVフランス語版』掲載。
Black Swan Press, 1983; New York Review of Books, 2017、邦訳『恐怖の館』所収。
『フランネルの寝巻』 Une chemise de nuit de flanelle 1951 Librairie Les Pas Perdus
『卵型の貴婦人』 The Oval Lady 1975 Capra Press、邦訳『恐怖の館』所収。
『耳ラッパ』 The Hearing Trumpet 1976 Routledge; Penguin Books, 2005、フランス語版序文:アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、邦訳『耳ラッパ』所収。
『石の扉』 The Stone Door 1977 St. Martin's Press
『7番目の馬ほか短編集』 The Seventh Horse and Other Tales 1988 Dutton
『エオノーラ・キャリントン全短編集』 The Complete Stories of Leonora Carrington 2017 Dorothy, a publishing project

邦訳

書名 翻訳者・出版社・出版年・所収作品
「レオノーラ・カリントン」 有田忠郎訳、アンドレ・ブルトン編著『黒いユーモア選集』(下巻、山中散生窪田般彌小海永二編、国文社、1969年; 河出書房新社 / 河出文庫、2007年)所収
『恐怖の館 ― 世にも不思議な物語』 野中雅代訳、工作舎、1997年(解説・書評
卵型の貴婦人、デビュタント、女王陛下の召喚状、恋する男、サム・キャリントン叔父さん、リトル・フランシス、ダウン・ビロウ
『耳ラッパ ― 幻の聖杯物語』 野中雅代訳、工作舎、2003年(解説・書評
素敵なプレゼント、光の家、調理場での奇妙な光景、サンタ・バルバラ修道院尼僧院長の生東京新聞殺人事件、反乱計画、闇夜の集会、天変地異・世界の子宮にて、聖杯の奪回
『レオノーラ・キャリントン展』(図録) 東京新聞社、1997年

脚注

  1. ^ 正確には、ランカシャー州チョーリーバラの23のシヴィル・パリッシュ行政教区)の一つクレイトン=ル=ウッズのクレイトン・グリーン。
  2. ^ a b c Leonora Carrington (2017). “Marina Warner, Introduction” (英語). Down Below. NYRB Classics. The New York Review of Books 
  3. ^ Crookhey Hall (1986)”. nmwa.org. National Museum of Women in the Arts. 2019年10月6日閲覧。
  4. ^ コートールズ”. コトバンク. 2019年10月6日閲覧。
  5. ^ a b Naomi Blumberg. “Leonora Carrington: English-Born Mexican Painter and Sculptor” (英語). Encyclopedia Britannica. 2019年10月6日閲覧。
  6. ^ a b c d “Leonora Carrington” (英語). The Telegraph. (2011年5月26日). ISSN 0307-1235. https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/culture-obituaries/art-obituaries/8539650/Leonora-Carrington.html 2019年10月6日閲覧。 
  7. ^ a b Silvano Levy (2011年5月28日). “Leonora Carrington: Surrealist painter and sculptor who found her” (英語). The Independent. 2019年10月6日閲覧。
  8. ^ a b c LEONORA CARRINGTON” (フランス語). Encyclopædia Universalis. 2019年10月6日閲覧。
  9. ^ ヒラコテリウム、エオヒップスとして知られる「あけぼの馬」は、ウマ科動物の最古の祖先とされる。
  10. ^ M. E. Warlick (2001) (英語). Max Ernst and Alchemy: A Magician in Search of Myth. Surrealist Revolution Series. University of Texas Press 
  11. ^ DOSSIER DE PRESSE « Soutine, Champigny-sur-Veude, 1943 »” (フランス語). La Maison Max Ernst (2017年). 2019年10月6日閲覧。
  12. ^ a b Leonora Carrington. La mariée du vent” (フランス語). www.gallimard.fr. Éditions Gallimard. 2019年10月6日閲覧。
  13. ^ 書籍紹介 - 黒いユーモア選集 下巻”. 国文社. 2019年10月6日閲覧。
  14. ^ 「レオノーラ・カリントン」有田忠郎訳、アンドレ・ブルトン編著『黒いユーモア選集』(下巻、山中散生窪田般彌小海永二編、国文社、1969年; 河出書房新社 / 河出文庫、2007年)所収。
  15. ^ シュルレアリスムと女たち”. www.kousakusha.co.jp. 工作舎. 2019年10月6日閲覧。
  16. ^ Quotes/Citas” (英語). Leonora Carrington. 2019年10月6日閲覧。
  17. ^ a b Alain Paire (2014年3月14日). “1937 / 1940 : Max Ernst, à Saint-Martin d'Ardèche et au camp des Milles” (フランス語). Galerie d'art Alain Paire - Aix en provence. 2019年10月6日閲覧。
  18. ^ a b Georgiana Colvile (2012-09-01). “Biographie et psychanalyse des femmes surréalistes” (フランス語). Itinéraires. Littérature, textes, cultures (2012-1): 123–135. doi:10.4000/itineraires.1290. ISSN 2100-1340. http://journals.openedition.org/itineraires/1290. 
  19. ^ “Une lettre d'Eluard” (フランス語). Le Monde. (1997年5月14日). https://www.lemonde.fr/archives/article/1997/05/14/une-lettre-d-eluard_3762793_1819218.html 2019年10月6日閲覧。 
  20. ^ CAMP DES MILLES / L'ANCIENNE TUILLERIE 1939-1942” (フランス語). Mémorial de la Shoah. 2019年10月6日閲覧。
  21. ^ La villa d’Air Bel à La Pomme à Marseille” (フランス語). museedelaresistanceenligne.org. Fondation de la Résistance (Département AERI). 2019年10月6日閲覧。
  22. ^ Max Ernst” (英語). Solomon R. Guggenheim Foundation. 2019年10月6日閲覧。
  23. ^ a b Amanda Prahl (2019年7月3日). “How Artist Leonora Carrington Transformed Art into Activism” (英語). ThoughtCo. 2019年10月6日閲覧。
  24. ^ a b c d Leonora Carrington”. www.moreeuw.com. Francis Moreeuw. 2019年10月6日閲覧。
  25. ^ Galería de Arte Mexicano” (スペイン語). 2019年10月6日閲覧。
  26. ^ Ixchel Delaporte (2008年7月12日). “La peinture fantastique et passionnée de Leonora Carrington, artiste mexicaine” (フランス語). L'Humanité. 2019年10月6日閲覧。
  27. ^ Sculptures/Esculturas” (英語). Leonora Carrington. 2019年10月6日閲覧。
  28. ^ Leonora Carrington (English/Mexican b. 1917) , Juggler (El Juglar)” (英語). www.christies.com. Christie's. 2019年10月6日閲覧。
  29. ^ 『レオノーラ・キャリントン展(図録)』東京新聞社、1997年。 

参考資料

関連書籍

  • Elena Poniatowska. Leonora. Barcelona: Seix Barral/México: Planeta Mexicana, 2011 --- キャリントンの50年来の友人である作家・ジャーナリストのエレナ・ポニアトウスカがキャリントンの著書や研究書、取材などに基づいて書いた小説(書誌情報・解説)。
  • 野中雅代『レオノーラ・キャリントン ― シュルレアリスムを生き続ける画家』彩樹社(シリーズ:フェミニズム・アート)1997年。

関連項目

外部リンク