「インドラ・ヴァルマン6世」の版間の差分
25行目: | 25行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
[[羅皚|ジャヤ・シンハヴァルマン6世]]の子。[[1400年]]に父王が死去すると、後を継いで即位した。[[1402年]][[7月 (旧暦)|7月]]に[[胡朝]]大虞の侵攻を受け<ref name="sakurai75-76">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=75-76}}</ref>({{仮リンク|大虞=チャンパ戦争 (1400-1407)|label=大虞=チャンパ戦争|zh|越占戰爭 (1400年–1407年)}})、部将の制{{Lang|ko|吒}}難が戦死した。大虞軍を恐れたインドラヴァルマン6世は舅の布田を使者として白黒の[[ゾウ|象]]二頭と占洞(現在の[[クアンナム省]]南部)の地を献じて軍を退かせようとしたが、布田は[[胡季 |
[[羅皚|ジャヤ・シンハヴァルマン6世]]の子。[[1400年]]に父王が死去すると、後を継いで即位した。[[1402年]][[7月 (旧暦)|7月]]に[[胡朝]]大虞の侵攻を受け<ref name="sakurai75-76">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=75-76}}</ref>({{仮リンク|大虞=チャンパ戦争 (1400-1407)|label=大虞=チャンパ戦争|zh|越占戰爭 (1400年–1407年)}})、部将の制{{Lang|ko|吒}}難が戦死した。大虞軍を恐れたインドラヴァルマン6世は舅の布田を使者として白黒の[[ゾウ|象]]二頭と占洞(現在の[[クアンナム省]]南部)の地を献じて軍を退かせようとしたが、布田は[[胡季犛]]に脅されて古塁洞(現在の[[クアンガイ省]]北部)も加えさせられた。この結果、旧都{{仮リンク|インドラプラ (チャンパ)|label=インドラプラ|en|Indrapura (Champa)}}や[[ミーソン聖域|シュリーシャーナヴァドレシュヴァラ]]を含む{{仮リンク|アマラーヴァティー (チャンパ)|label=アマラーヴァティー|zh|阿摩羅波胝 (占婆)}}北部を大虞に割譲せざるを得なかった<ref name="Coedes238"/><ref name="sakurai75-76"/>。 |
||
[[1403年]]に王都{{仮リンク|ヴィジャヤ (チャンパ)|label=ヴィジャヤ|en|Vijaya (Champa)}}を范元瑰ら率いる大虞軍に包囲される<ref name="sakurai185">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=亜熱帯のなかの中国文明|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=185}}</ref><ref name="momoki468">{{Harvnb|桃木|p=468}}</ref>と[[8月9日]]に婆甫郎らを遣使して[[明]]に金書表を奉るとともに援助を求め、[[永楽帝]]が遣わした{{仮リンク|行人 (官職)|label=行人|zh|行人 (官职)}}の蒋賓興と王枢より絨・錦・織金文綺・紗羅を賜った。後に明の海船による救援を受けて、大虞軍を撤退させることに成功した。[[1406年]][[9月25日]]にも孫の部坡亮微郊蘭得勝那抹らを遣使して白象を献じ、大虞の脅威を訴えている<ref name="sakurai75-76"/>。[[1407年]]に永楽帝が[[トンキン|安南]]に兵を送って大虞を滅ぼし({{仮リンク|明胡戦争|en|Ming–Hồ War}}、明・大虞戦争)、安南は{{仮リンク|第四次北属期|en|Fourth Chinese domination of Vietnam}}に入った。これに乗じてチャンパも北に軍を発して<ref name="sakurai75-76"/>{{仮リンク|化州 (交阯)|label=化州|zh|化州 (交阯)}}に拠る{{仮リンク|黄晦卿|zh|黃晦卿}}と{{仮リンク|制麻奴イ難|label=制麻奴{{Lang|ko|㐌}}難|zh|制麻奴㐌難}}を攻撃し<ref name="momoki468"/>、インドラプラ周辺を奪回している<ref name="Coedes238"/><ref name="sakurai186">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=亜熱帯のなかの中国文明|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=186}}</ref>。[[1408年]]、[[鄭和]]率いる明の艦隊がチャンパに寄る<ref name="sakurai75-76"/>とこれを迎え、朝貢の使者として孫の舎楊該を明に送った。 |
[[1403年]]に王都{{仮リンク|ヴィジャヤ (チャンパ)|label=ヴィジャヤ|en|Vijaya (Champa)}}を范元瑰ら率いる大虞軍に包囲される<ref name="sakurai185">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=亜熱帯のなかの中国文明|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=185}}</ref><ref name="momoki468">{{Harvnb|桃木|p=468}}</ref>と[[8月9日]]に婆甫郎らを遣使して[[明]]に金書表を奉るとともに援助を求め、[[永楽帝]]が遣わした{{仮リンク|行人 (官職)|label=行人|zh|行人 (官职)}}の蒋賓興と王枢より絨・錦・織金文綺・紗羅を賜った。後に明の海船による救援を受けて、大虞軍を撤退させることに成功した。[[1406年]][[9月25日]]にも孫の部坡亮微郊蘭得勝那抹らを遣使して白象を献じ、大虞の脅威を訴えている<ref name="sakurai75-76"/>。[[1407年]]に永楽帝が[[トンキン|安南]]に兵を送って大虞を滅ぼし({{仮リンク|明胡戦争|en|Ming–Hồ War}}、明・大虞戦争)、安南は{{仮リンク|第四次北属期|en|Fourth Chinese domination of Vietnam}}に入った。これに乗じてチャンパも北に軍を発して<ref name="sakurai75-76"/>{{仮リンク|化州 (交阯)|label=化州|zh|化州 (交阯)}}に拠る{{仮リンク|黄晦卿|zh|黃晦卿}}と{{仮リンク|制麻奴イ難|label=制麻奴{{Lang|ko|㐌}}難|zh|制麻奴㐌難}}を攻撃し<ref name="momoki468"/>、インドラプラ周辺を奪回している<ref name="Coedes238"/><ref name="sakurai186">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=亜熱帯のなかの中国文明|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=186}}</ref>。[[1408年]]、[[鄭和]]率いる明の艦隊がチャンパに寄る<ref name="sakurai75-76"/>とこれを迎え、朝貢の使者として孫の舎楊該を明に送った。 |
2020年8月28日 (金) 05:08時点における版
インドラヴァルマン6世 इन्द्रवर्मन् ६ | |
---|---|
チャンパ王 | |
在位 | 1400年 - 1441年 |
全名 | ヴィラバドラヴァルマン |
死去 |
1441年 |
王朝 | 第14王朝 |
父親 | ジャヤ・シンハヴァルマン6世 |
インドラヴァルマン6世(サンスクリット語: इन्द्रवर्मन् ६, ラテン文字転写: Indravarman VI, 生年不詳 - 1441年)は、チャンパ王国(占城国)第14王朝の第2代国王(在位:1400年 - 1441年)。ンガウク・クラン・ヴィジャヤ(チャム語: Ngauk Klaung Vijaya)とも[1]。初名はヴィラバドラヴァルマン(サンスクリット語: विराभद्रवर्मन्, ラテン文字転写: Vīrabhadravarman)[1]。『大越史記全書』では巴的吏(ベトナム語: Ba Đích Lại)および布提(ベトナム語: Bố Đề)、『明史』では占巴的頼(ベトナム語: Chiêm Ba Đích Lại)、『明実録』では占把的頼(ベトナム語: Chiêm Bã Đích Lại)と記される。漢文史料に見られる名は「チャンパ・ディ・ラージャ(チャンパの王)」の音訳と考えられる[1]。
生涯
ジャヤ・シンハヴァルマン6世の子。1400年に父王が死去すると、後を継いで即位した。1402年7月に胡朝大虞の侵攻を受け[2](大虞=チャンパ戦争)、部将の制吒難が戦死した。大虞軍を恐れたインドラヴァルマン6世は舅の布田を使者として白黒の象二頭と占洞(現在のクアンナム省南部)の地を献じて軍を退かせようとしたが、布田は胡季犛に脅されて古塁洞(現在のクアンガイ省北部)も加えさせられた。この結果、旧都インドラプラやシュリーシャーナヴァドレシュヴァラを含むアマラーヴァティー北部を大虞に割譲せざるを得なかった[1][2]。
1403年に王都ヴィジャヤを范元瑰ら率いる大虞軍に包囲される[3][4]と8月9日に婆甫郎らを遣使して明に金書表を奉るとともに援助を求め、永楽帝が遣わした行人の蒋賓興と王枢より絨・錦・織金文綺・紗羅を賜った。後に明の海船による救援を受けて、大虞軍を撤退させることに成功した。1406年9月25日にも孫の部坡亮微郊蘭得勝那抹らを遣使して白象を献じ、大虞の脅威を訴えている[2]。1407年に永楽帝が安南に兵を送って大虞を滅ぼし(明胡戦争、明・大虞戦争)、安南は第四次北属期に入った。これに乗じてチャンパも北に軍を発して[2]化州に拠る黄晦卿と制麻奴㐌難を攻撃し[4]、インドラプラ周辺を奪回している[1][5]。1408年、鄭和率いる明の艦隊がチャンパに寄る[2]とこれを迎え、朝貢の使者として孫の舎楊該を明に送った。
1414年に明が後陳朝大越の重光帝を捕らえると、チャンパが金帛や戦象を送って大越を支援していたことやかつて大虞に割譲した升華府の管轄地に侵攻したことが発覚し、1416年11月3日に明に謝那該らを送って象犀などを献じるとともに謝罪した。北方の脅威がなくなったインドラヴァルマン6世は同年にクメールへ兵を送り、最後の王ポニャー・ヤットの軍を破った[1][2]。1418年9月3日には王孫の舎那挫を明に送り、中官の林貴と行人の倪俊による送帰を受けている。1421年にクメールへの戦勝を記念して現在のビエンホア[2]にヴィシュヌ碑文を建立している[1]。
1426年、明から黄原昌を迎えて正朔を受けた。翌1427年2月には大越に朝貢の使者を送り、黎利が遣わした員外郎の黎克諧と裴必応から青白玻璃の酒器を賜った。1433年に後黎朝の太祖黎利が死去すると、1434年4月に化州への侵攻を謀った[4]が失敗し、9月に和親を求めて大越に朝貢の使者を送った。翌1435年11月にも遣使している。1436年、明の正統帝が遣わした瓊州知府の程瑩を通じて「暹羅諸国にならって朝貢をこれまでの年一度から、三年に一度でよい」との言と彩幣を賜った。
1441年に死去[6]。孫のマハー・ヴィジャヤが王位を継承した。
出典
参考資料
- George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681
- 石井米雄、桜井由躬雄編 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504。
- 桃木至朗「十-十五世紀ベトナム國家の「南」と「西」」『東洋史研究』第51巻第3号、京都大学東洋史研究会、1992年12月31日、464-497頁。
- 『明史』巻三百二十四 列伝第二百一十二 外国五 占城
- 『大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 付胡季犛、漢蒼
- 『大越史記全書』本紀巻之九 後陳紀 簡定帝
- 『大越史記全書』本紀巻之十 黎皇朝紀 太祖高皇帝
- 『大越史記全書』本紀巻之十一 黎皇朝紀 太宗文皇帝
- 『ベトナム史略』第1巻 第3部 第11章 胡氏
- 『明実録』太宗文皇帝実録 巻二十一
- 『明実録』太宗文皇帝実録 巻五十八
- 『明実録』太宗文皇帝実録 巻一百七十
- 『明実録』太宗文皇帝実録 巻一百八十一
- 『明実録』太宗文皇帝実録 巻二百三