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「インドラ・ヴァルマン6世」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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2020年8月28日 (金) 05:08時点における版

 インドラヴァルマン6世
इन्द्रवर्मन् ६
チャンパ王
在位 1400年 - 1441年

全名 ヴィラバドラヴァルマン
死去 1441年
王朝 第14王朝
父親 ジャヤ・シンハヴァルマン6世
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インドラヴァルマン6世サンスクリット語: इन्द्रवर्मन् ६, ラテン文字転写: Indravarman VI, 生年不詳 - 1441年)は、チャンパ王国占城国)第14王朝の第2代国王(在位:1400年 - 1441年)。ンガウク・クラン・ヴィジャヤチャム語: Ngauk Klaung Vijaya)とも[1]。初名はヴィラバドラヴァルマンサンスクリット語: विराभद्रवर्मन्, ラテン文字転写: Vīrabhadravarman[1]。『大越史記全書』では巴的吏ベトナム語: Ba Đích Lại)および布提ベトナム語: Bố Đề)、『明史』では占巴的頼ベトナム語: Chiêm Ba Đích Lại)、『明実録』では占把的頼ベトナム語: Chiêm Bã Đích Lại)と記される。漢文史料に見られる名は「チャンパ・ディ・ラージャ(チャンパの王)」の音訳と考えられる[1]

生涯

ジャヤ・シンハヴァルマン6世の子。1400年に父王が死去すると、後を継いで即位した。1402年7月胡朝大虞の侵攻を受け[2]大虞=チャンパ戦争中国語版)、部将の制難が戦死した。大虞軍を恐れたインドラヴァルマン6世は舅の布田を使者として白黒の二頭と占洞(現在のクアンナム省南部)の地を献じて軍を退かせようとしたが、布田は胡季犛に脅されて古塁洞(現在のクアンガイ省北部)も加えさせられた。この結果、旧都インドラプラ英語版シュリーシャーナヴァドレシュヴァラを含むアマラーヴァティー中国語版北部を大虞に割譲せざるを得なかった[1][2]

1403年に王都ヴィジャヤ英語版を范元瑰ら率いる大虞軍に包囲される[3][4]8月9日に婆甫郎らを遣使してに金書表を奉るとともに援助を求め、永楽帝が遣わした行人中国語版の蒋賓興と王枢より絨・錦・織金文綺・紗羅を賜った。後に明の海船による救援を受けて、大虞軍を撤退させることに成功した。1406年9月25日にも孫の部坡亮微郊蘭得勝那抹らを遣使して白象を献じ、大虞の脅威を訴えている[2]1407年に永楽帝が安南に兵を送って大虞を滅ぼし(明胡戦争英語版、明・大虞戦争)、安南は第四次北属期に入った。これに乗じてチャンパも北に軍を発して[2]化州中国語版に拠る黄晦卿中国語版制麻奴中国語版を攻撃し[4]、インドラプラ周辺を奪回している[1][5]1408年鄭和率いる明の艦隊がチャンパに寄る[2]とこれを迎え、朝貢の使者として孫の舎楊該を明に送った。

1414年に明が後陳朝大越重光帝を捕らえると、チャンパが金帛や戦象を送って大越を支援していたことやかつて大虞に割譲した升華府中国語版の管轄地に侵攻したことが発覚し、1416年11月3日に明に謝那該らを送って象などを献じるとともに謝罪した。北方の脅威がなくなったインドラヴァルマン6世は同年にクメールへ兵を送り、最後の王ポニャー・ヤット英語版の軍を破った[1][2]1418年9月3日には王孫の舎那挫を明に送り、中官の林貴と行人の倪俊による送帰を受けている。1421年にクメールへの戦勝を記念して現在のビエンホア[2]ヴィシュヌ碑文を建立している[1]

1426年、明から黄原昌中国語版を迎えて正朔中国語版を受けた。翌1427年2月には大越に朝貢の使者を送り、黎利が遣わした員外郎中国語版の黎克諧と裴必応から青白玻璃の酒器を賜った。1433年後黎朝の太祖黎利が死去すると、1434年4月に化州への侵攻を謀った[4]が失敗し、9月に和親を求めて大越に朝貢の使者を送った。翌1435年11月にも遣使している。1436年、明の正統帝が遣わした瓊州知府の程瑩を通じて「暹羅諸国にならって朝貢をこれまでの年一度から、三年に一度でよい」との言と彩幣を賜った。

1441年に死去[6]。孫のマハー・ヴィジャヤが王位を継承した。

出典

  1. ^ a b c d e f g Cœdès, p. 238
  2. ^ a b c d e f g 桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史 I 大陸部』、75-76頁。 
  3. ^ 桜井由躬雄「亜熱帯のなかの中国文明」『東南アジア史 I 大陸部』、185頁。 
  4. ^ a b c 桃木, p. 468
  5. ^ 桜井由躬雄「亜熱帯のなかの中国文明」『東南アジア史 I 大陸部』、186頁。 
  6. ^ Cœdès, p. 239

参考資料

  • George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681 
  • 石井米雄桜井由躬雄編 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504 
  • 桃木至朗十-十五世紀ベトナム國家の「南」と「西」」『東洋史研究』第51巻第3号、京都大学東洋史研究会、1992年12月31日、464-497頁。 
  • 明史』巻三百二十四 列伝第二百一十二 外国五 占城
  • 大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 付胡季、漢蒼
  • 『大越史記全書』本紀巻之九 後陳紀 簡定帝
  • 『大越史記全書』本紀巻之十 黎皇朝紀 太祖高皇帝
  • 『大越史記全書』本紀巻之十一 黎皇朝紀 太宗文皇帝
  • ベトナム史略』第1巻 第3部 第11章 胡氏
  • 『明実録』太宗文皇帝実録中国語版 巻二十一
  • 『明実録』太宗文皇帝実録 巻五十八
  • 『明実録』太宗文皇帝実録 巻一百七十
  • 『明実録』太宗文皇帝実録 巻一百八十一
  • 『明実録』太宗文皇帝実録 巻二百三
先代
ジャヤ・シンハヴァルマン6世
チャンパ王
第14王朝第2代:
1400年 - 1441年
次代
マハー・ヴィジャヤ