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2020年8月27日 (木) 22:26時点における版
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天慶2年(939年)6月 |
官位 | 従五位上・上総介、鎮守府将軍[1] |
氏族 | 桓武平氏高望王流(坂東平氏) |
父母 | 父:平高望、母:藤原良方娘 |
兄弟 | 国香、良兼、良将、良繇、良広、良文、良茂、良正、藤原維幾室ら |
妻 | 継室:源護娘 |
子 | 公雅、公連、公元、平将門室 |
平 良兼(たいら の よしかね)は、平安時代中期の武将。平高望の次男。
略歴
父・高望は、寛平元年5月13日(889年6月14日)、宇多天皇の勅により平姓を賜与され臣籍降下し、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ上総国に下向、武射郡の屋形を本拠とした。高望と共に下向した良兼は、高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず父に次いで上総介を勤めるなどし、上総や下総国に勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた[2]。
甥であり聟でもある将門とはかねてから不仲であり[3]、兄・国香が、将門と舅の源護の息子らの抗争に巻き込まれ死亡した際には不介入であったものの、将門にとっては伯父にあたる良正[4]をも打ち破るに至って武力介入し、将門との対立の中心に立つようになる。父・国香を死に追い込んだ将門との和平路線を取る甥の貞盛を批判・説得して味方に引き入れ、下野国を目指し出陣した。承平6年(936年)6月、良正・貞盛と共に下野国境にて将門と合戦になり数では圧倒的に勝るも敗れ、下野国府に退却。国府は包囲されるも、将門は包囲の一角を解きあえて良兼を逃した。
その後源護の告状によって、将門は京に召喚され裁きを受ける事となるが、承平7年(937年)4月、朱雀天皇元服の大赦で罪を許され5月に帰国。すると同年8月6日、良兼は将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした[5]。すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも再びそれを退け、その際、密告のもと将門の妻子(つまり良兼の娘と孫)を捕らえ当時の婚姻形態は通い婚でもあり、上総に連れ帰る。だが、息子の公雅や公連が手助けして9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまう[6]。
その後も将門との争いが続くなか、11月5日将門の訴えに応えた朝廷により武蔵・安房・上総・常陸・下野などの国々に良兼ら追捕の官符が下ってしまう。これにより将門と良兼は公的に立場が逆転し将門は力を得て勢い付いたものの、各地の国司は官符を受けても平一族と争うことを躊躇して動くこともなく、また官符が出された国々の実質統治者は平一族当人らである為に、何の効果もなかったのではないかといわれている。良兼は12月14日(938年1月17日)将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走、これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死した。
系譜
脚注
- ^ 『将門略記』や『尊卑分脈』等では良兼を「下総介」としているが、『桓武平氏系図』(「続群書類従」所収)では「上総介」、『系図纂要』 では「上総介、鎮守府将軍」としている。
- ^ 上総国武射郡の屋形の他、常陸国真壁郡の羽鳥にも良兼の居館が在ったとされている。
- ^ 『将門記』の原本は失われ残っている二つの写本のいずれも冒頭部分が欠落しているが、抄本のひとつ蓬左文庫蔵の『将門略記』の冒頭には「夫レ聞ク彼ノ将門ハ、…… (将門の父良持の)舎弟下総介平良兼朝臣ハ将門ガ伯父ナリ。而ルニ良兼ハ去ヌル延長九年ヲ以テ、聊カ女論ニ依リテ、舅甥ノ中既ニ相違フ。」(=女性に関する些細なことで、舅と聟、伯父と甥の2人の関係が、すっかり険悪になってしまった)とある。また「下総介平良兼朝臣」とあることから良兼を下総介とする説も多いが、舎弟ならば叔父であり、『将門記』の本文では上総に居て武射郡から良正の水守の営所に向かっているので、いずれにしろ誤記である。
- ^ 『将門記』は良正を将門の伯父としており、良兼にとっては弟になる。『尊卑分脈』は良正を良茂の子とし、公雅・公義・致成・致頼らの父とするなど混乱が見られる。
- ^ その際、朝廷の所有する栗楢院常羽御厩を焼き討ちにしてしまい、これが後に追捕の官符が下った原因の一つといわれている。
- ^ 『将門記』には「夫ハ即チ漢王ノ励ミヲ成シテ、将ニ楊家ヲ尋ネムト欲フ」と将門の心境を楊貴妃を想う玄宗になぞらえ、また「妾ガ舎弟等謀ヲ成シテ」(=将門の妻の弟たちが一計をめぐらせ)、「既ニ同気ノ中ヲ背キテ、本夫ノ家ニ属ク」(=肉親の仲をそむいて夫の家にその身を寄せることができた)とある。さらに「譬エバ遼東ノ女ノ夫ニ随イテ父ガ国ヲ討タシメルガ若シ」としていることから、将門の妻は良兼の娘であり、将門と良兼の娘である妻の仲がきわめて綿密だったと推測され、『将門略記』の冒頭の「聊カ女論ニ依リテ……」と整合し、筆致も一致する。
参考文献
- 梶原正昭 訳注 『将門記 1』 東洋文庫、昭和50年(1975年)、ISBN 458280280X