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2020年8月26日 (水) 08:47時点における版

香港の民家の門神
香港湾仔の民家の門神
門神像
韓国民俗村の門神(左)と対聯(右)

門神(もんしん)は、中国仏教寺院道教道観住宅などの建物の入口に立ち、門番の役目をする。検閲を司り悪鬼から門を守るとの伝えから春節に中国各地の門戸に貼られる。

概要

中国においては寺院、道観にとどまらず、民家の門にも絵画で普及している。邸宅では彩色で直接正門のに描かれるが、簡易なものでは木版画として売られ、これを旧暦の新年に際して扉に張る風習がある。

観音開きの木戸が多いため、左右の扉の外に面した側に一対の門神が貼られる、または描かれるのが普通。中国においては、民間伝説としてよく知られている秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)が対で描かれるか、一枚扉の場合は、魏徴または鍾馗が描かれることが多い。

朝鮮台湾ベトナムなどにも伝播し、塑像絵画として具象化されている。

歴史

門神の歴史は古く、前身は「桃符」または「桃板」と呼ばれる木であった。「桃符(とうふ)」とは、桃の板で製作される符で、正月に辟邪のために門に掛ける。

古来、桃の木には霊力があり、悪鬼は非常に畏れると考えられてきた。度朔山に大桃木があり、樹上に神茶・鬱塁の二神が居り、鬼門を監視し、悪鬼を葦の縄で捉えて虎に食わせたという伝説が『山海経』にあり、よく知られている。また桃は五木の精であり、邪気を伏し、鬼門に生じてよく百鬼を制するという説も行われている。桃符の原型は、古代の悪鬼払いの巫術で用いられた桃の木で作られた棍棒・帚・弓などに遡る。

戦国から後漢にかけて桃梗ないし桃人と称される桃の木の人形がさかんに用いられ、王充『論衡』訂鬼篇に、県官が役所の門に桃人を飾る制度を述べる。

六朝期には、桃板が出現する。唐宋時代には桃人は姿を消し、専ら桃板が用いられるようになった。

漢代には、魔除けとして飾ることが始まった。桃木には文字や模様を刻む場合もあり、これが対聯年画の原型となった。

南北朝時代以降、が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。神荼鬱塁を描いて貼ることが流行した。(南朝)の宗懍の『荊楚歳時記』には、元日に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた。

現在、桃符はほとんど原型を留めておらず、門神は扉に直接描かれ、または紙に印刷され、春詞は紅色の紙に黒字、ないし金字で書かれ、いわゆる紙製の春聯と化した。ただし、文語で春聯を桃符ということがある。[1]

人物

時代、地域、建物、職業によって門神とされる人物は異なり、種類は多いが、主なものとして次がある。

中国

日本

左門神
右門神

脚注

  1. ^ 道教事典. 平河出版社. (1994年3月15日 1994) 

関連項目